大和特攻―沖縄を救うために集った者たちの覚悟

2019.4.25 特攻 戦艦大和
 戦艦大和が沈んだのは、昭和20年(1945)4月7日のことです。すでに日本の連合艦隊は壊滅的な打撃を受け、燃料も十分に確保できない状況になっていました。

 そのようななか、同年3月末には沖縄に米軍が殺到していました。なぜ戦艦大和は「水上特攻」を行うことになったのか。なんとしても沖縄を救おうという意気に燃えた兵士たちの想いは、どのようなものであったか。そして、数千名の乗組員に「特攻」を命じざるをえなかった司令官の苦渋の決断とは―。

◆命令を受け、騒然となった長官室


 「第二艦隊(大和及び第二水雷戦隊)ハ海上特攻トシテ六日午後豊後水道ヲ出撃、八日黎明沖縄西方海上ニ突入、敵水上艦艇並ビニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ」

 昭和20年(1945)4月5日の午後、山口県徳山沖に停泊中の戦艦大和に、連合艦隊司令部より上記の伝令が入った。燃料は片道、航空機の掩護(えんご)はないという。天一号作戦(菊水作戦)、いわゆる「大和水上特攻」の指令である。

 当時、第二艦隊司令長官を務めていたのは伊藤整一中将である。少佐時代にはアメリカに派遣されており、エール大学に学んでアメリカの国力を知悉(ちしつ)していた。また、人格者としても知られていた人物だ。

 伊藤は、伝令を受けると艦隊所属の各艦長と幕僚を長官室に集めて命令を伝えた。いわずもがな、長官室は騒然となり、異様な空気に包まれる。

 特攻に関しては、零戦パイロットで「撃墜王」として知られる岩本徹三が「戦闘機乗りはどこまでも戦い抜いて敵を1機でも多く落とすのが任務じゃないか。1回きりの命中で死んでたまるか!」として拒否した逸話が有名だが、同じような想いと覚悟は、海の男たちも抱いていたはずだ。

 しかも、水上特攻は作戦そのものが無謀であった。飛行機の掩護がない戦艦は無力である。それは、レイテ沖海戦で大和の姉妹艦・武蔵が撃沈されたことで実証済みであった。直掩機なしでは、沖縄に辿りつくことすらできないだろう。そのことは、各艦長や幕僚のみならず、他ならぬ伊藤もよく分かっていた。伊藤は、3300名を超える大和の乗組員を「無意味」に海底に沈めてはならないとの想いを抱いていたはずだ。

 しかし――。時は昭和20年4月。軍人が軍令に背くことは許されない。呉に残留させて本土決戦の浮き砲台にするのが「大和の使い道」の上策だと考えていたとしても、伊藤たちが採りうる道は、大和にいかに「栄光ある最期」を迎えさせることのみであった。

 それでも、伊藤はなかなか作戦に納得しなかった。少尉候補生の将来を奪うのは忍びないと「退艦用意」の命令を下すと、大和を訪れた草鹿龍之介連合艦隊参謀長に対して不満の意を示した。息詰まる応酬の後、草鹿が「一億総特攻の魁(さきがけ)として立派に死んでもらいたいのだ」と語ると、伊藤はようやく「それなら分かった」と応えたという。草鹿自身も、もともとは海上特攻に反対していたのだ。このときの伊藤、そして草鹿の心中はいかばかりであったろうか。

◆「われわれが沖縄を救う」という気概を胸に


 4月6日15時20分、第二艦隊は徳山沖を出撃した。16時10分には、伊藤座乗の大和より、第二艦隊の各艦に「神機将二動カントス 皇国ノ隆替繋リテ此ノ一挙二存ス 各員奮戦敢闘 会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」との信号が送られた。

 同日夕刻には、大和において現配置以外の者が前甲板に集められた。能村次郎副長から豊田副武連合艦隊司令長官の出撃に対する訓示が伝達されると、続いて皇居遙拝(ようはい)、君が代斉唱、万歳三唱。それが終わると、各人がそれぞれの故郷に向けて別れの無言の挨拶をした。当時、副砲長を務めていた清水芳人氏は、当時を次のように述懐している。

 「副長は淡々とした口調で語りました。『われわれの行く手には如何なる運命が待ち構えているかも知れない。しかし日頃鍛錬した腕を十二分に発揮して、この大和を神風大和たらしめたい』。眼前の巨砲、そそり立つ前檣楼(ぜんしょうろう)、後部マストにはためく軍艦旗。祖国危急の時、一身を投じ、この大和を神風たらしめ、沖縄を救うためにアメリカ軍を撃滅するという決意で、悲壮感はありませんでした」

 恐らく、大和の乗組員のほとんどは、同じような覚悟と決意、そして気概を胸に抱いて沖縄へと向かったのではないか。

◆予め覚悟されていた「作戦中止」命令


 その後、大和は翌7日に大隅海峡を通過した後、運命の瞬間を迎えることとなる。

 12時30分、アメリカ軍の爆撃機、雷撃機、戦闘機の機影を発見すると、大和は「対空戦闘配備」に就いた。しかし、敵編隊は瞬く間に厚い雲を突き破り攻撃してくる。直掩機のない大和に対して、米軍機は波状攻撃を仕掛ける。高角砲と機銃で応戦する大和。雷撃機や爆撃機を撃墜するものの、副舵が故障して左に15度傾斜し、次第に敵機の格好の標的となってしまう。

 死闘1時間半余。いまや断末魔の大和に、最期のときが近づいた。傾斜は20度を超えて復元不可能となり、砲も発射不能、浸水で連絡系統も破壊された。もはや沈没は時間の問題である。

 すると伊藤は、作戦中止の命令を有賀幸作艦長に下し、長官室に消えて大和と運命を共にしたという。

 実は伊藤は、出撃前に草鹿と話していたときに、「作戦がいよいよ遂行できなくなったときは、その後の判断は任せてほしい」と注文をつけていた。もしもこのとき、伊藤が作戦中止を命令していなければ、生き残りの艦は沖縄へと向かわなければならない。しかし、伊藤の決断によって残存艦は海上に投げ出された将兵の救助活動にあたることもできた。

 大和水上特攻に関しては、その悲劇性ばかりに目が向けられる。もちろん、無謀な作戦を遂行した連合艦隊司令部の責任がきわめて重いことは間違いない。だが同時に、「神風大和たらしめたい」「なんとしても沖縄を救いたい」と奮戦した将兵の想いや、最期まで部下の身を案じた伊藤整一の姿を忘れてはならないはずだ。

 なお、伊藤は出撃前に、ちとせ夫人に次のような遺書を認めている。

 「私は武人として重大なる覚悟を為さんとする時、親愛なる御前様に後事を託して何等憂いなきは、此上もなき仕合と衷心より感謝致居候」

(池島友就)