【日本海軍艦艇列伝2】戦艦武蔵

2019.6.6 戦艦 戦艦大和
 戦艦大和と戦艦武蔵。この2隻の戦艦の存在は、いまもなお、私たち日本人に特別な感慨を抱かせる。先の大戦において、「もてる国」アメリカに対して、「もたざる国」日本が活路を見出す乾坤一擲(けんこんいってき)の策が、世界最大・最強の「大和型戦艦」の建造であった。

 両艦とも、活躍の機会に恵まれなかったといわれる。たしかに、あまりにも素晴らしい戦艦だったために、海軍上層部が使い惜しみをして、結果、機を逸してしまった側面は否めない。加えて、大和型戦艦の1番艦であった「大和」に比べると、その姉妹艦である「武蔵」が脚光を浴びる機会はどうしても少ない。

 だが、武蔵もまた、「不沈艦」の名に恥じない生涯を送り、現代にまで大きな影響を及ぼしているのである。戦艦武蔵とは、いかなる艦であったのか?

◆連合艦隊旗艦となったのは「長崎の船」だから


 日本が大和型戦艦の1番艦である大和の建造を始めたのは、昭和12年(1937)のことであった。呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)で大和が竣工(しゅんこう)したのは、世界を驚愕させた真珠湾攻撃から8日後の昭和16年(1941)12月16日。一方の武蔵は、三菱重工長崎造船所で翌昭和17年(1942)8月に誕生した。

 昭和18年(1943)1月、武蔵は呉を出航してトラック島に進出。同地にはすでに大和が碇泊(ていはく)しており、姉妹艦が初めてそろい踏みした瞬間であった。すると、大和から山本五十六連合艦隊司令長官率いる司令部が移り、武蔵が連合艦隊旗艦となる。

 なぜ武蔵が連合艦隊の旗艦となったのか。当時、連合艦隊参謀を務めていた土肥一夫は、後年、その理由を「それは長崎の船だから」と述懐する。大和と武蔵は同型艦だが、呉海軍工廠のいわば「官給品」である大和に比べて、多くの豪華客船を手がけてきた民間の三菱重工長崎造船所で造られた武蔵のほうが仕上げがいいという意味だ。

 実際、内部の調度品なども、武蔵のほうがやや丁寧であったといわれている。そのため、大和がその艦内の快適さから「大和ホテル」と称されたのに対して、武蔵は「武蔵御殿」と呼ばれた(実際は大和建造の実績を踏まえて、武蔵で手直しをした影響もあるともいう)。

 武蔵を建造できたのは、海軍の「グランドデザイン」によるところも大きい。海軍は民間の三菱重工と川崎重工に戦艦を建造できる能力を要求し、大正時代から次々と発注していた。海軍工廠の呉と横須賀に、さらに2つの民間造船所を加えることで、戦艦を造れる造船所を常に4カ所確保するためだ。

 しかし、その態勢を効果あらしめるためには、技術力の保持が不可欠である。ここで問題となったのが、ワシントンやロンドンなどで開かれた海軍軍縮条約であった。この条約締結で各国は軍艦建造に上限を設けるようになったが、これにより海軍としては、軍縮条約締結以前と比べて、技術力を維持し発展させるために諸々の工夫が必要となったのである。技術力は工場とセットであり、加えて絶えず作業をしていないと水準を維持できないものだからである。

 そこで海軍は民間会社にも均等に仕事を割り振り、軍縮条約で軍艦の建造が抑制された時期も、頻繁(ひんぱん)に改装工事を行なうことで技術の断絶を食い止めたのである。現在の日本政府は、これに匹敵するようなグランドデザインを描けているだろうか。三菱で武蔵が建造できたのも、実は「ものづくりの核心」を知る海軍の、技術維持への不断の努力の結果でもあったともいえるのだ。

◆敵の猛攻を一手に引き受けて――不沈艦の名に恥じぬ壮烈な最期


 その後、武蔵の目立った「活躍」は、ラバウルで指揮中に命を落とした山本五十六の遺骨を日本に運んだことくらいにとどまる。大和とともに出撃の機会を与えられず、両艦はトラック島で並ぶ日々を過ごしていた(「大和ホテル」「武蔵御殿」との呼び名は、出撃に動かない両艦の姿を表わしたものでもある)。

 しかし昭和19年(1944)に入ると、トラック島も状況が一変する。各地で反攻を加速させるアメリカ軍が空襲を仕掛けてきたのだ(2月)。幸い大和と武蔵は退避していたために無事であったが、いよいよ戦局は追い詰められた。

 加えて同年6月のマリアナ沖海戦で連合艦隊は大敗し、主力である空母機動部隊を失う。このとき、日本海軍は空母部隊の前衛として戦艦部隊を置いていたが、米航空部隊は戦艦部隊を素通りするかたちで日本空母部隊を攻撃。主力空母3隻を失う一方的な敗北を喫してしまったのである。

 これにより、空母機動部隊は致命的な打撃を受け、もはや正面からの航空決戦は望めなくなった。そこで海軍が考案したのが、「捷一号作戦」である。これは、残存の空母部隊を囮(おとり)にして敵機動部隊をひきつけて、その隙(すき)に大和、武蔵を中心とした艦隊をレイテ湾に突入させ、フィリピン上陸中の輸送船団と米軍を撃滅して講和の糸口をつかむという、まさしく「捨て身」の作戦だった。

 昭和19年(1944)10月22日、戦艦大和と武蔵は、栗田艦隊の中核としてブルネイを出航。翌日には早くも会敵し、そして翌々日の24日、シブヤン海で5次にわたる敵航空機の波状攻撃が襲う。

 敵機の攻撃のほとんどは武蔵に集中した。武蔵はこのとき、世界最大を誇る46cm主砲を発射。しかし9時間に及ぶ壮絶な戦闘のなか、米軍はなおも武蔵に雷爆撃を浴びせつづける。武蔵が被雷した魚雷はおよそ20本、直撃した爆弾は20発以上と伝わる。

 1発の魚雷で轟沈(ごうちん)する重巡もあるなか、武蔵はそれでも沈まなかった。まさしく、日本の技術が生んだ「不沈艦」の名に恥じぬ武蔵の勇姿である。しかし――。ついには武蔵も最期のときを迎える。

 激戦の最中、武蔵の改善すべき課題を手帳に書きとめて退艦する副官に託し、後の教訓にすることを願ったのは猪口敏平(いのぐち・としひら)艦長であった。

 猪口は総員退去用意の直前の午後7時5分、「いま機械室より、総員、士気旺盛を報告し来れり」と手帳に記している。武蔵の乗組員は、最期の瞬間まで不沈艦の誇りとともに戦い抜いたのである。

 さらに猪口はこの手帳にこうも書き記している。

「ついに不徳のため、海軍はもとより、全国民に絶大の期待をかけられたる本艦を失うこと、まことに申し訳なし。ただ本海戦において、他の諸艦に被害ほとんどなかりしことは、まことにうれしく、なんとなく被害担任艦となりえたる感ありて、この点、いくぶん慰めとなる」

 敵の猛攻を耐えつづけた不沈艦・武蔵、そして乗組員への、心からの愛惜の言葉であろう。

 そして、大和と武蔵をつくりあげた日本の「モノづくり」の精神は、戦後の日本に受け継がれていく。たとえば、大和型戦艦の建造責任者である西島亮二は、石川島重工業(現IHI)の土光敏夫をはじめ多くの人物に経験を伝えて、多大な影響を与えている。三菱重工長崎造船所でも、数多くの素晴らしい船が造られていった。そうして成し遂げられたのが高度経済成長であったのである。

 戦後、日本が「モノづくり大国」として栄光をつかんだ背景には、たしかに大和と武蔵のDNAがあったのだ。(池島友就)