「朝廷」は本当に「本能寺の変の黒幕」か?

 天正10年(1582)6月2日未明、京都本能寺において、織田信長が家臣・明智光秀の襲撃を受け、命を落とした。有名な「本能寺の変」である。

 だが、本能寺の変については、いまだ解明できていない謎がいくつも残っている。それゆえ、実は明智光秀の背後には「黒幕」がいたのだ、という「黒幕説」も盛んに唱えられた。だが、その黒幕説はどこまで「ありうる」話なのだろうか?

 ここでは、本能寺の変の真相をめぐってささやかれる「朝廷黒幕説」を検証しよう。

◆注目された「朝廷黒幕説」


 明智光秀が率いる軍勢が上京に位置する本能寺を襲撃、ここを京都滞在時の宿舎としていた織田信長を亡き者にした。この事実は、さまざまな史料、記録によって疑いようのない史実だろう。

 ところが、天下人の横死(おうし)というのが、あまりに衝撃的だったためか、はたまた、あまりに見事に襲撃事件が成功してしまったためか、事件の背後には何か不可知な事情があるのではないか、という「説」が古くからささやかれてきた。もっとも多く語られてきたのは、光秀が蜂起にいたった要因について語る、野望説、怨恨(えんこん)説、黒幕説などだ。

 明智光秀が、なぜ、信長を殺害したのかという原因は、確かに明確にはなってしない。当の光秀本人がそれをはっきりとは書き残したり、誰かに語ったりすることなく、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れて命を落としてしまったからだ。

 なかでも、「信長ほどの英雄が、簡単に光秀に打ち取られたのはおかしい。なにか裏事情があるに違いない」という思いから、光秀の背後には強力な味方がいた、あるいは光秀を手足として使った「黒幕」がいたに違いないとする「黒幕説」は、20世紀末ごろから歴史論壇をにぎわすようになってきた。

 これまで「黒幕」の候補(?)として名前が挙がったのは、朝廷(天皇)、足利義昭、徳川家康、羽柴秀吉、本願寺教如といった面々だ。

 それ以前にも、本能寺の変をめぐる「黒幕説」は存在したが、提唱者の多くは作家や評論家といった人たちが多く、専門の研究者、歴史学者が論陣を張るということはほとんどなかった。しかし、このころから本職の歴史学者も自説を提唱するようになり、にわかに本能寺の変が注目され、その真相をめぐる論議も「学術的」は色彩を帯びるようになってきた。

 とりわけ注目されたのは、「朝廷黒幕説」と「足利義昭黒幕説」だった。

◆信長が天皇を譲位させようとしたから?


 「朝廷黒幕説」といっても、実は一つではない。明智光秀が信長暗殺の実行犯であるという点は同じだが、その光秀を陰で操り、指嗾(しそう)した人間が誰であったかによって異同がある。正親町天皇(おうぎまちてんのう)、皇太子・誠仁親王(さねひとしんのう)、あるいは近衛前久(このえ・さきひさ)、勧修寺晴豊(かじゅうじ・はるとよ)、吉田兼見(よしだ・かねみ)などの高位の公家衆の名前が挙がっている。

 なぜ彼らは信長を殺したのか。殺す必要があったのか。

 もっとも重要なのは動機を特定することだ。朝廷黒幕説の大前提となるのは、当時、朝廷あるいは天皇と、信長が対立関係にあったということだ。これについては諸説あり、厳しい緊張関係にあったとする論者もいれば、むしろ両者は協調関係にあったとして、朝廷黒幕説を否定する人もいる。

 朝廷と信長が対立関係にあったと主張する論者が、具体的な傍証(ぼうしょう)として挙げるのは以下の点だ。

 一つは、天皇の譲位問題だ。信長は、自らと友好的な関係にあり、いわば「いいなり」になる誠仁親王の皇位継承を望んでいた。しかし、正親町天皇は譲位を拒んでいた。その結果、信長の正親町天皇の間に対立が生じていたとする考えだ。

 しかし、当時は天皇が生前譲位をして「院」=「治天の君(ちてんのきみ)」(天皇家の家長)となるのが常態となっていた。中世においては、皇位にあり続けるのではなく、「治天」となることこそが天皇のあるべき姿だと認識されていた。当然、正親町天皇は信長からの譲位の申し入れを好意的に受け止めていたことが立証されている。

 また、誠仁親王も、けっして信長の「いいなり」ではなく、それなりに自立した存在であることもわかってきた。そうなると、この「天皇の譲位問題」は朝廷黒幕説の証拠としては採用できない。

◆信長が「太政大臣か関白か将軍か」と要求したから?


 二つめとして、朝廷黒幕説の論者が注目したのが、天正9年(1581)の馬揃(うまぞろえ)である。この年、信長は京都において盛大な軍事パレードとでもいうべき馬揃を催した。これが、朝廷を威嚇(いかく)する行為だったというのだ。強大な軍事力を誇示し、自らの意思に従わない者は武力をもって討ち果たすという姿勢を、天皇をはじめとする朝廷の目の前で示したのだという。

 しかし実際には、正親町天皇や朝廷の公家衆は、この大イベントを心待ちにし、その華やかな様子を楽しんでいたらしい。これも朝廷黒幕説の証拠としては却下だろう。

 三つめは、三職推任(さんしょくすいにん)問題である。この問題も、朝廷黒幕説の証拠として大きく喧伝(けんでん)された。天正10年5月、武田攻めを負えて帰国する信長の元に、天皇の意を受けた勧修寺晴豊が来訪し、太政大臣(だじょうだいじん)・関白(かんぱく)・征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の三職のいずれかに推任するので、どれが望みかを聞き出そうとしたとされる出来事だ。

 従来、三職への推任を申し出たのは朝廷からとされていたが、むしろ推任を言い出したのは信長の側だとする新たな解釈が提唱されたのだ。つまり、信長が三職いずれかへの就任を朝廷に強要した。そこで、これに反発した朝廷が、光秀を使って信長を暗殺させた、というストーリーだ。

 しかし、これは史料の解釈が分かれていて、本当に信長の強要だったかどうかは、まだ明らかにはなっていない。しかも、のちに豊臣秀吉が関白太政大臣になっていることから、たとえ信長が三職への推任を望んだとしても、朝廷がそこまで拒否反応を示したかどうかも疑問視されている。

◆よく見ていくと、殺害動機が見当たらない……


 その他、天正10年5月に信長が「暦の改変」を要求したことが、朝廷との確執(かくしつ)を生んだ原因だと見る考えもある。改暦は天皇の権限である、それに介入しようとした信長は、朝廷にとっては許しがたいというわけだ。

 しかし当時、朝廷が管轄する京暦の権威は低下し、各地で民間の手になる暦がバラバラに流通していた。信長の改暦要請は、むしろそれを整理することで京暦の権威を確保しようという動きであり、信長が改暦の権利を天皇から奪おうとしたものではないとの指摘もある。

 総じて、朝廷あるいは天皇・皇族と、信長が対立関係にあったとする見方は、根拠が薄弱であるといえるだろう。おそらく江戸時代末期、すなわち幕末における公武(朝廷と幕府)の対立関係が頭にあって想定されたのだと思われるが、朝廷に信長を密かに殺害する動機はほとんど見当たらない。

 朝廷黒幕説は、現段階ではかなり「無理筋」だといえる。(安田清人)