織田信長は「元号」をどう考えていたか?

 元号を定める手続きは、鎌倉幕府が成立する以前から、近臣による勘申(かんじん=朝廷の儀式などについて、先例・典故・吉凶・日時などを調べて上申すること)を受けての発議、文章博士ら有識者による撰定を受けての承認という手続きにより定められていました。天災や戦乱、疫病などが起きた場合に「不吉」なことを遠ざけるためなど、色々な理由で改元が行われました。

 しかし、改元における天皇の役割が形式化したのは、比較的早い時期のことで、形式的には時の帝による発議と勅裁という形式を維持しながらも、帝の関与は儀礼化していきます。

 政権のあり方に翻弄された事例として、ここでは、織田信長と足利義昭の抗争が大きく影響した「元亀」「天正」の改元を見ていきましょう。

◆元亀改元を進めた義昭、無関心だった信長


 戦国武将の中でも、ダントツ一位の人気を誇る織田信長。「うつけ」と呼ばれた若い頃の茶筅頭(ちゃせんあたま。『信長公記』の記述では「ちやせん(茶筅)に、くれなゐ糸、もゑぎ糸にて巻き立て、ゆわせられ」)も、長じてからのマント姿も、ドラマや漫画、ゲームなどのイメージもあって、とてもカッコよく映ります。公式文書に使用した印章の「天下布武」も、信長の思い入れがあったといわれる「天正」の元号も、字面がいちいちカッコいいのは、信長独特の感性のゆえでしょうか。

 天正の改元は、元亀4年(1573)7月28日に行われました。その前の元亀の元号は、室町幕府第15代将軍、足利義昭の発議で永禄から改められたものです。元亀3年(1572)、新元号の候補が挙げられ、そのうちのひとつが「天正」でした。この改元は、信長と義昭との対立が顕在化する要因のひとつとなったといわれます。結局、元号案が撰定されてから実際に改元が実施されるまで半年以上かかりました。

 天正の改元の経緯は、義昭の行った元亀の改元と深い関わりがあります。

 足利義昭は、第13代将軍、足利義輝の末弟にあたります。室町幕府末期の将軍は、何かというと政変で京都を出たり入ったりします。畿内周辺の大名が足利家の後継をめぐって政争を繰り広げるからです。義輝の場合、将軍在職中に2回も京都から追われ、その都度武将の援助を受けて京都に戻り、最後は永禄8年(1565)5月、松永久秀らの襲撃を受けて壮絶な闘死をしました。

 義輝が襲撃された時、奈良にいた末弟の義昭も一時幽閉されますが、何とか京都を脱出。近江国、若狭国、越前国を転々とした末、織田信長の支援を得て京に還ります。永禄11年(1589)9月のことです。

 東京大学史料編纂所の金子拓准教授によれば、義昭は入京直後から朝廷に対して改元実施を申し入れていたといいます(金子拓『織田信長<天下人>の実像』講談社新書、2014年)。

 義昭を奉じて上洛した信長は、この当時、改元には無関心でした。

 義昭を京に帰還させるため、信長が率いた軍勢はおよそ六万。当時信長が治めていた尾張・美濃の国力で動員できる兵力の3倍です。憲政史家の倉山満氏は、信長にとってこの上洛は、全財産をはたいての賭けだったといいます。

 対抗勢力の依る城を落として制圧しながら上洛し、義昭が無事に征夷大将軍となっても、周辺の平定と信長自身の領国経営のため、財源捻出に走り回らねばなりません。財源捻出とは、他国を支配下に入れ、利権を確保することです。

 信長は、時の正親町天皇と義昭からの副将軍就任の誘いも断り、永禄11年(1568)10月末には美濃へ引き上げ、間髪を入れずに伊勢へ侵攻しています。しかも信長は、常に自身が先頭に立って、兵を率いるタイプの武将です。この頃の信長は、何かと金のかかる儀礼的地位を重視しなかったのです(倉山満『大間違いの織田信長』KKベストセラーズ、2017年)。

◆天正改元を迫った信長、止めていた義昭


 新将軍となった義昭は、朝廷への根回しも進め、改元を行います。かくして元亀改元は、永禄13年(1570)4月23日に行われることになりました。

 では、義昭が「元亀」にこだわりがあったかといえば、そうでもないようです。元号が元亀と改められたわずか半年後の11月9日、朝廷に対して「天下兵革」を理由に改元を申し入れています。兵革とは合戦のことです。しかも、改元同年に再度改元された先例の有無を、併せて朝廷に問い合せています。関白二条晴良は、「奈良時代に一例のみ」で異例として難色を示す返答をしました(所功、久禮旦雄、吉野健一『元号 年号から読み解く日本史』文春新書、2018年)。

 いったん沙汰止みとなった改元が具体化するのは、元亀3年(1572)の春です。信長からの催促により候補の撰定まで進みます。「天正」が候補に挙がったのは、この時です。

 この2年間、信長は姉川の戦いや伊勢長島の一向一揆、比叡山延暦寺との抗争など、対処しなければならない事柄が多くありました。正親町天皇としても、王城鎮護の比叡山が兵を引き入れ戦乱の中心となるなど、不吉極まりないことです。

 ところがこの間、改元を止めていたのは他ならぬ将軍義昭でした。改元にまつわる各種経費を出さなかったのです。

 信長と義昭の対立を決定づけたといわれる「十七箇条の異見書」に見える「元亀の年号は不吉」というのは、正親町天皇の意を受けたものだといいます。そもそも兵革による改元は義昭が言い出したことなのですが、義昭にしてみれば信長との関係の変化もあり、状況が変わったということなのでしょう。

 義昭は、有力武将たちに働きかけて「信長包囲網」を形成すると、自らも元亀4(1573)年7月1日に、山城国槇島城で挙兵します。その結果、信長の手で京から追われることとなりました。信長は矢継ぎ早に畿内統治の善後策を講じ、槇島城落城から3日後には改元を内奏しています(今谷明『信長と天皇』講談社学術文庫、2002年)。

 従来は天才、最強、超人といったイメージで語られていた信長も、最近の研究では、より等身大の人物像が明らかにされてきています。元亀から天正への改元は、信長が名実ともに天下人となったことを示すものとされますが、足利義昭との関係に苦慮する信長の姿も伝えているのです。(細野千春)