【幕末史のキーワード1】光格天皇は「立憲君主制」のさきがけ!?

 幕末といえば、「尊王攘夷」という言葉が思い浮かびます。尊王は文字通り天皇を尊ぶこと、攘夷は夷狄(いてき=元々の意味は、礼儀をわきまえない野蛮人。幕末のこの時期には、アジア侵略に拍車をかけていた欧米列強の人々を指します)を打ち払うという意味です。

 尊王や攘夷は、古代中国の儒教の古典にある言葉です。学問や思想上の用語というだけでなく、幕末には政治を左右するスローガンとなりました。

 明治維新に至る「尊王」や「攘夷」の背景には、近代の基礎となるような出来事があります。そのひとつが、「幕末」と呼ばれる時期の直前に天皇・上皇でいらっしゃった光格天皇(こうかくてんのう)の御事績です。光格天皇の御事績に、どのような意味があったのでしょうか。

◆飢饉への対応で、朝廷と幕府の関係を変えた!


 光格天皇(こうかくてんのう)は、安永8(1779)年11月25日から文化14年(1817)に在位された、江戸時代後期の天皇です。39年の在位の後に仁孝天皇(にんこうてんのう)に譲位され、以降の23年間は上皇として過ごされました。現在の天皇陛下は、光格天皇の直系子孫にあたります。

 光格天皇が践祚(せんそ)されたときには、徳川幕府が開かれてから176年が経ち、江戸時代初期に定められた「武家諸法度」「禁中並公家中諸法度」「寺院諸法度」など、徳川幕府の基本法にもとづく運用も確立していました。つまり、天皇や朝廷と、朝廷の運用を担う公家衆は、徳川幕府の定めた法の下に置かれていたのです。皇室と朝廷の運営費となる財源も、幕府によって一種の予算制度のような管理がされ、朝廷に勝手なことをさせない仕組みです。

 ときの幕府は、第10代将軍・徳川家治(とくがわ・いえはる)と老中・田沼意次(たぬま・おきつぐ)から、第11代将軍・徳川家斉(とくがわ・いえなり)と老中・松平定信(まつだいら・さだのぶ)に政権が交代する頃です。世の中は、気象異変や災害による深刻な凶作と大飢饉(だいききん)に見舞われ、庶民生活は悪化の一途をたどりました。

 凶作により米の価格が暴騰(ぼうとう)し、飢饉による死者や病気が広がるなか、都市部では打ちこわしが多発、地方では関所破りの暴動も起こります。

 幕府と役所の無為無策に、庶民は光格天皇の住まう御所へ困窮を訴えに行くようになりました。最初は数人から始まり、半月ほどのあいだに3万人、最終的には5万人とも7万人ともいわれる大勢の人々が御所の周囲をぐるぐるとまわりながら、賽銭(さいせん)を投げて救済を祈ります。お寺や神社に繰り返し祈願する千度参りになぞらえて「御所千度参り」と呼ばれます。

 光格天皇は、困窮した人々を救う賑給(しんごう)の例を挙げて、具体的な救済策の実施を幕府に提案しました。賑給とは、律令制度の下で古代から行なわれてきた福祉施策で、窮民に救援米や塩、布などを支給するものでした。

 天皇が幕府に施策を申し入れるのは、徳川幕府の基本法では想定されていない事態です。天皇が政治的な権限を持たず、文化的な存在だというのは江戸時代も現代も同じでした。さらに江戸時代の場合は、天皇が幕府の施策に口を出すことは明確な禁止事項です。朝廷に対する幕府の方針が強硬だった場合、「法度違反」として天皇の退位もありえた時代なのです。

 ところが、幕府は強い態度に出ることができません。現実に都市部から地方まで、大飢饉で統治の秩序が崩壊しかねない混乱の最中です。かといって、幕府としては自ら法度(はっと)を覆すこともできず、京都所司代に対応させます。救い米の放出など具体的な施策が決定し、米価も下がり始めて庶民は一息つきます。天皇と朝廷が庶民の支持を得た出来事です。

◆光格天皇の御事績とバジョットの憲法論


 光格天皇は、政治的にも文化的にも、重要な御事績を積み重ねます。政治的には、将軍・徳川家斉との良好な関係を背景に、莫大な臨時予算を幕府から引き出します。文化的には、廷臣を中心に学問を奨励しさそのれ識をもとに朝廷の儀式を整えられました。途絶していた儀式を再興するとともに、儀式に必要な御所の設備も整備・復興したのです。財源となったのは幕府から引き出した臨時予算や、将軍や大名の位階昇進にともなう金品の献進(けんしん)です。

 「禁中並公家中諸法度」では、朝廷と武家の位階を別のものと定め、武家の位階昇進の決定権は将軍や幕府が掌握し、天皇による位階付与は形式です。徳川家に対抗する大名が朝廷と勝手に結びつかないようにする規定でしたが、光格天皇が将軍・家斉を厚遇したので、これを見た大名たちのあいだでも位階昇進がステータス化します。天皇と朝廷による位階付与に実質的な意義が取り戻され、影響力が増大しました。

 皇室史学者の倉山満氏は、光格天皇の言動はイギリス憲法の理論とも相通じているといいます。「近代憲法の下にある立憲君主は直接的な権力を持たない一方、政治に対する影響力は行使しうる」という、イギリス憲政史家のウォルター・バジョットの理論です。バジョットは、立憲君主も「警告する権利」「激励する権利」「相談を受ける権利」という3つの権利を行使して、政治の実権を持つ大臣に政治・外交といった事柄に関する示唆を与え、また報告を求めることができると説きました。

 光格天皇の御事績をこの3つの権利で見てみると、そこに興味深い共通点があることがわかります。光格天皇が「御所千度参り」を受けて、徳川幕府に具体的な救済策を求めたのは「警告権」の行使だといえます。これが先例となり、天明の大飢饉から約50年後、天保4年(1833)の大飢饉のときにも、朝廷から幕府へ対応策の申し入れを行ないました。

 光格天皇が「被諮問権(相談を受ける権利)」を行使した例もあります。文化4年(1807)に蝦夷地(えぞち=現在の北海道)でロシアとの軍事紛争が起こったときです。江戸から京都に情勢不安の噂が伝わり、民心の動揺を憂慮した京都所司代を通じて朝廷に情勢報告が行なわれました。

 このときの報告が先例となり、幕末期、光格天皇の孫にあたる孝明天皇の時代になると、幕府から対外情勢と外交施策の報告を受ける「奏聞(そうもん)」が慣例となりました。また、天皇から幕府に対しても、異国船への対応方針を表明する根拠となって、明治維新につながる重要な背景となります。

 明治維新を経て、明治時代には近代憲法の大日本帝国憲法が制定されます。以来、日本は近代立憲君主制の考え方のもとで現代に至りますが、江戸時代にも、その基盤となるような出来事があったのです。(細野千春)

参考文献:
『国民が知らない 上皇の日本史』倉山満(祥伝社新書、2018年)