【世界の君主列伝1】ヴィクトリア女王と大英帝国の黄金期

2019.6.4 イギリス
 世界に冠たる大英帝国の黄金期が築かれたのは、ヴィクトリア女王の治世下だったといわれます。

 ヴィクトリア女王は1819年5月24日に生まれ、1837年6月20日に18歳で即位し、1901年1月22日に81歳で亡くなりました。日本の時代でいえば、江戸時代後期の文政2年に生まれ、天保8年に即位し、明治34年に亡くなったことになります。

 ヴィクトリア女王の在位期間63年7カ月は長らくイギリス史上最長で、日本史上最長の昭和天皇の在位期間を辛うじて上回っています。ちなみに、2015年9月9日、現在のエリザベス2世によってイギリス歴代君主の最長在位期間の記録は塗り替えられました。

 イギリスで初めてダイヤモンド・ジュビリー(在位60周年記念)を迎えたヴィクトリア女王とその時代に迫ってみましょう。

◆孫40人、曾孫37人の「ヨーロッパの祖母」
 イギリスの王位継承の基本は長子相続、男子優先ですが、女子にも王位継承権は認められています。16世紀以降、王子がいない場合には王女が年齢順に王位を継承するのが慣習となっていました。ヴィクトリア女王もこの例の一つです。

 ヴィクトリアの父は、国王ジョージ3世の四男ケント公エドワード、母はドイツの貴族Viktoria(ヴィクトリア)です。

 女王になるヴィクトリアは正式名をアレクサンドリーナ・ヴィクトリアといいました。アレクサンドリーナは名付け親のロシア皇帝アレクサンドルから、ヴィクトリアはドイツ人の母の名Viktoriaを英語風にVictoriaとして付けられました。のちに、女王としての正式名称となるヴィクトリアは、当時のイギリスでは馴染み(なじみ)のない「外国人の名前」でした。

 王位継承順位という点から見ても、ヴィクトリアは生後8カ月で王位継承者第3位に浮上したにすぎない存在でした。しかし、めぐりめぐって、11歳で王位継承者第1位になり、18歳で即位します。

 若きヴィクトリア女王が即位してからのイギリスは景気の悪化に飢饉(ききん)が重なるなど、お世辞にも良い時代といえないどころか、絶望的とも思える時期が続いていました。

 ヴィクトリア女王も当初は政治に介入するなど、晩年のヴィクトリア女王がそれを若気の至りと反省するような出来事もありました。

 ヴィクトリア女王が母方の従兄アルベルト(英語名はアルバート)と結婚したのは1840年。折しもイギリスが清国に仕掛けたアヘン戦争の真っ最中でした。

 2人は仲むつまじく、4男5女の子供に恵まれます。子供だけでなく、のちに孫40人、曾孫37人にも恵まれています。それゆえ、ヴィクトリア女王は「ヨーロッパの祖母」と呼ばれるようになり、世界中の大国が近しい親戚関係でした。

 子孫の顔ぶれも多彩です。2人だけ紹介しておきましょう。

 初孫のドイツ帝国皇帝「カイザー」ことヴィルヘルム2世(ヴィクトリア女王の長女の息子)は、日本も含め世界に多大な迷惑を振りまいた人です。祖母のヴィクトリア女王から一時期、訪英拒否されてもいます。

 ヴィクトリア女王がかわいがった孫娘の1人、ヴィクトリア・アリックス(ヴィクトリア女王の次女の娘)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世に嫁いだものの、ロシア革命で1918年にボルシェビキによって一家全員が惨殺された悲劇の人です。もっとも、ヴィクトリア女王は孫娘の悲劇の前に世を去っています。


◆イギリス史上初の「皇帝」即位
 ヴィクトリア女王は結婚後、夫君アルバート公の支えも得ながら、君主としても磨かれていき、「イギリス憲法の大原則、『国王は統治すれども支配せず』」(倉山満『帝国憲法物語』、PHP研究所、2015年)という、立憲君主像に近づいていきました。

 しかし、1861年に最愛の夫アルバート公を腸チフスで亡くしてからというもの、ヴィクトリア女王は服喪をきっかけに引きこもりがちになります。即位後、一度も出席を欠かさなかった議会の開会式に、連続して3年も欠席してしまいます。

 最初は夫君を亡くした女王に同情的だったメディアや国民も、次第にヴィクトリア女王の態度に業を煮やし、こんなことなら王室は不要だといわんばかりに、王制から共和制へ移行したほうがいいのではないかとの意見が公然となされるようにまでになります。ヴィクトリア女王自身が原因不明の病に倒れたときでさえ、「仮病だ」と非難される始末です。「共和制危機」と呼ばれる時代でした。

 1871年、皇太子アルバート・エドワード(のちのエドワード7世、ヴィクトリア女王の崩御をうけ1901年に59歳で即位)が、夫君アルバート公を死にやったのと同じ病気、腸チフスにかかって生死の境をさまよいます。自ら付き添った、母ヴィクトリア女王の看護と祈りが届いたのか、皇太子は危機を脱しました。

 皇太子が死の淵から生還したことに国民は歓喜し、「共和制危機」は去りました。

 そして、ヴィクトリア女王も復活します。

 1875年にイギリス政府がスエズ運河会社の株を買収し、最大の株主になったかと思うと、1877年にヴィクトリア女王は、成立したインド帝国の女帝に即きました。イギリス史上初の皇帝号の誕生です。

 ヴィクトリア女王が祖父ジョージ3世の持つ、それまでのイギリス史上最長の在位期間の記録を更新したのは1896年、77歳のときでした。

 拡大に拡大を重ねたイギリスは、植民地の管理ができないくらいに広がっていました。

 1901年のヴィクトリア女王の崩御に前後して、6つの英領植民地に次々と自治権が認められ、自治領になっていきました(1867年・カナダの主要4地方、1901年・オーストラリア、1907年・ニュージーランド、1907年・ニューファンドランド、1910年・南アフリカ、1921年・アイルランド)。

 イギリスの20世紀は、ヴィクトリア女王の崩御とともに、黄金期にも陰りが見えはじめたところからのスタートだったのです。(雨宮美佐)

【参考文献】
『明治天皇の世界史 六人の皇帝たちの十九世紀』倉山満 (PHP新書 2018年)
『ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”』君塚直隆 (中公新書 2007年)
『図説イギリスの王室』石井美樹子 (河出書房新社 2007年)