初代内閣総理大臣や初代枢密院議長など明治政府の要職を歴任した伊藤博文ですが、幕末には尊王攘夷の志士として活動していました。伊藤博文の人生を追うことで、幕末から明治時代の流れがぼんやり見えてきます。本稿では、主に伊藤の幕末の足取りを追うことで、後の活躍のきっかけを探っていきたいと思います。
伊藤博文は天保12年(1841)、周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市大和町)に父・林十蔵(はやし・じゅうぞう)、母・琴子(ことこ)の子として生まれます。幼名は利助(りすけ)。後に出稼ぎをしていた父を追い、萩へ移住。父の主人、伊藤直右衛門(いとう・なおえもん)の跡継ぎがいなかったので、家族ぐるみで養子となり「伊藤利助」になります。身分は足軽でしたが、常に自分は武士だと自称し、木切れや竹切れを拾って腰に差す子供でした。
安政4年(1857)、江戸湾警護のため、相模に派遣されます。上司として赴任したのは木戸孝允(きど・たかよし。当時は桂小五郎)の義弟である来原良三(くるはら・りょうぞう)。来原は「処世の術は木戸或は来原に勝るものあらん、然れども其学問、見識、人格に至りては来原遥に木戸の上」と伊藤がのちに語るほどの人物でした。約半年後、来原より、吉田松陰への紹介状を渡されて帰藩します。これが後に松下村塾に入るきっかけとなります。
吉田松陰の伊藤に対する評価は、「才劣り学幼きも、質直にして華なし、僕頗(すこぶ)るこれを愛す」「利助亦進む、中々周旋家になりそうな」というもの。評価は決して高くありませんが、周旋家というのは、交渉人・仲立人のような役柄ですから、それに向いていそうというのは、明るく質朴で、どちらかというと「おっちょこちょい」なイメージが浮かんできます。この頃より、伊藤は少年期以来の「利助」に代え、「俊輔」の名を使うようになります。
安政5年(1858)、安政の大獄で吉田は刑死。たまたま関東にいた伊藤は松陰の遺体を引き取り埋葬することになります。師の死がきっかけとなったのか、この後、尊王攘夷の志士としての行動が具現化していきます。
文久2年(1862)には伊藤は開国と公武合体を献策した長井雅楽(ながい・うた)暗殺計画に参与。しかし未遂に終わり、この責任を取る意味もあって上司であった来原は自決してしまいます。松陰、来原の死が、伊藤が尊王攘夷の過激派となるきっかけとなりました。
同年、品川御殿山のイギリス公使館を高杉晋作・井上聞太(いのうえ・もんた、のちの馨〈かおる〉)らと共に焼き討ちにします。余談ですが、このとき井上は愛人宅へ炸裂弾を忘れるという失態を犯します。
それからわずか数日後、国学者である塙忠宝(はなわ・ただとみ)が廃帝の故事を調査し、天皇を陥れようしているとのデマを信じて、山尾庸三(やまお・ようぞう)と共に塙を殺害します。
その後、伊藤は、文久3年(1863)よりイギリスへ留学しようとします。伊藤、井上らはイギリス商人に「渡英して1年滞在するのに、いくら掛かるのか?」と聞いたところ、1人1000両が必要であるとの答えが返ってきます。どうにもお金が足りなかったので、なんと藩金を横領することにしました。
一行は途中で二手に分かれ、伊藤は井上と同船します。乗ったのはペガサス号。井上が海軍(navy)と航海術(navigation)を言い間違えたことにより、水夫としてこきつかわれる羽目になります。
伊藤は日本人が書いた間違いだらけの英語辞書一冊と、大好きな頼山陽の『日本政記』を持参し、道中、下痢に悩まされながらも伊藤らはロンドンに到着します。このとき、ロンドンに降り立った5名が後に「長州ファイブ」と呼ばれ、今でもロンドン大学の中庭には一行(井上馨、山尾庸三、遠藤謹助(えんどう・きんすけ)、井上勝(いのうえ・まさる)、伊藤博文)の銅像があります。
伊藤はここで拙いながら英語を身につけます。しかし、伊藤の滞在はわずか半年でした。翌元治元年(1864)3月に米英仏蘭4国連合艦隊が長州藩攻撃に踏み切るという報道を見て故郷の危機を知り、帰国の途についたからです。4国連合艦隊の長州藩攻撃は、長州藩が文久3年(1863)5月10日にアメリカ、フランス、オランダの船を砲撃していたことへの報復でした。
伊藤博文は帰藩し、留学という箔をつけ、藩主の説得を許されて試みますが、あえなく失敗。しかし、元治元年(1864)8月の4国連合艦隊下関砲台占拠事件の敗戦により、皮肉にも伊藤らの藩内での説得力は増すことになります。連合艦隊側との講和交渉、通訳は伊藤と井上、講和使は高杉晋作(たかすぎ・しんさく)で行なわれました。
この時期の長州藩は、それまでの華々しい尊皇攘夷活動の反動で、大きな危機に直面していました。長州藩は、京都の攘夷派の公家を抱き込み、盛んに幕府を追い詰める行動を重ねていました。そもそも、文久3年5月に長州藩が外国船を砲撃したのも、同年3月に将軍・徳川家茂が上洛した折に、朝廷からの圧力で、「5月10日をもって攘夷を決行する」と約束させられたからでした。しかし文久3年8月18日に長州派の公家は失脚し、京都から追放されます。長州藩は、これに抗議すべく元治元年6月から数次にわけて率兵上洛しますが、同年7月19日に京都の御所近くで幕府方との戦いになり、敗北を喫します(禁門の変)。しかも御所に向けて発砲したことから、朝敵の汚名を着ることになるのです。4国連合艦隊が下関を攻撃したのは、まさにその半月ほど後のことでした。まさに弱り目に祟り目です。
このような情勢を受けて、長州藩内では、幕府に従おうとする「俗論派」が大勢を占めるようになります。その現状を打破すべく動いたのが高杉晋作です。
「正義派として決起する者は下関の功山寺へ来い――」
との言葉を残し、高杉はその場を去ります。誰もが高杉は無謀だと思うなか、伊藤は真っ先に「高杉さんひとりを死なせてなるものか」と自らが率いる40名ほどの力士隊を引き連れて、高杉の下に駆けつけます。結果的にこの戦いに高杉晋作らは勝利を収め、これが後の明治維新の発端となりました。
伊藤はこの後、戊辰戦争には本格的に参戦はせず、長崎で長州藩の武器調達を行なうなどした後、新政府において神戸港を管轄する重要な役回りである初代兵庫県知事となります。伊藤の明治初期の役職を見ると、英語ができることを新政府に評価されたことが、いちばんのポイントになっているようにも思われます。
幕末から明治初頭の伊藤を見ると、特別に何か大きな功績があったとはいえませんが、ただ、真っ先に高杉晋作支持に動くなどの思い切った行動力と、松陰も認めた「周旋力」で道を切り開いていったことがわかります。(八尋 滋)
●イギリス公使館を焼き討ちした翌年にイギリス留学
伊藤博文は天保12年(1841)、周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市大和町)に父・林十蔵(はやし・じゅうぞう)、母・琴子(ことこ)の子として生まれます。幼名は利助(りすけ)。後に出稼ぎをしていた父を追い、萩へ移住。父の主人、伊藤直右衛門(いとう・なおえもん)の跡継ぎがいなかったので、家族ぐるみで養子となり「伊藤利助」になります。身分は足軽でしたが、常に自分は武士だと自称し、木切れや竹切れを拾って腰に差す子供でした。
安政4年(1857)、江戸湾警護のため、相模に派遣されます。上司として赴任したのは木戸孝允(きど・たかよし。当時は桂小五郎)の義弟である来原良三(くるはら・りょうぞう)。来原は「処世の術は木戸或は来原に勝るものあらん、然れども其学問、見識、人格に至りては来原遥に木戸の上」と伊藤がのちに語るほどの人物でした。約半年後、来原より、吉田松陰への紹介状を渡されて帰藩します。これが後に松下村塾に入るきっかけとなります。
吉田松陰の伊藤に対する評価は、「才劣り学幼きも、質直にして華なし、僕頗(すこぶ)るこれを愛す」「利助亦進む、中々周旋家になりそうな」というもの。評価は決して高くありませんが、周旋家というのは、交渉人・仲立人のような役柄ですから、それに向いていそうというのは、明るく質朴で、どちらかというと「おっちょこちょい」なイメージが浮かんできます。この頃より、伊藤は少年期以来の「利助」に代え、「俊輔」の名を使うようになります。
安政5年(1858)、安政の大獄で吉田は刑死。たまたま関東にいた伊藤は松陰の遺体を引き取り埋葬することになります。師の死がきっかけとなったのか、この後、尊王攘夷の志士としての行動が具現化していきます。
文久2年(1862)には伊藤は開国と公武合体を献策した長井雅楽(ながい・うた)暗殺計画に参与。しかし未遂に終わり、この責任を取る意味もあって上司であった来原は自決してしまいます。松陰、来原の死が、伊藤が尊王攘夷の過激派となるきっかけとなりました。
同年、品川御殿山のイギリス公使館を高杉晋作・井上聞太(いのうえ・もんた、のちの馨〈かおる〉)らと共に焼き討ちにします。余談ですが、このとき井上は愛人宅へ炸裂弾を忘れるという失態を犯します。
それからわずか数日後、国学者である塙忠宝(はなわ・ただとみ)が廃帝の故事を調査し、天皇を陥れようしているとのデマを信じて、山尾庸三(やまお・ようぞう)と共に塙を殺害します。
その後、伊藤は、文久3年(1863)よりイギリスへ留学しようとします。伊藤、井上らはイギリス商人に「渡英して1年滞在するのに、いくら掛かるのか?」と聞いたところ、1人1000両が必要であるとの答えが返ってきます。どうにもお金が足りなかったので、なんと藩金を横領することにしました。
一行は途中で二手に分かれ、伊藤は井上と同船します。乗ったのはペガサス号。井上が海軍(navy)と航海術(navigation)を言い間違えたことにより、水夫としてこきつかわれる羽目になります。
伊藤は日本人が書いた間違いだらけの英語辞書一冊と、大好きな頼山陽の『日本政記』を持参し、道中、下痢に悩まされながらも伊藤らはロンドンに到着します。このとき、ロンドンに降り立った5名が後に「長州ファイブ」と呼ばれ、今でもロンドン大学の中庭には一行(井上馨、山尾庸三、遠藤謹助(えんどう・きんすけ)、井上勝(いのうえ・まさる)、伊藤博文)の銅像があります。
伊藤はここで拙いながら英語を身につけます。しかし、伊藤の滞在はわずか半年でした。翌元治元年(1864)3月に米英仏蘭4国連合艦隊が長州藩攻撃に踏み切るという報道を見て故郷の危機を知り、帰国の途についたからです。4国連合艦隊の長州藩攻撃は、長州藩が文久3年(1863)5月10日にアメリカ、フランス、オランダの船を砲撃していたことへの報復でした。
伊藤博文は帰藩し、留学という箔をつけ、藩主の説得を許されて試みますが、あえなく失敗。しかし、元治元年(1864)8月の4国連合艦隊下関砲台占拠事件の敗戦により、皮肉にも伊藤らの藩内での説得力は増すことになります。連合艦隊側との講和交渉、通訳は伊藤と井上、講和使は高杉晋作(たかすぎ・しんさく)で行なわれました。
●力士隊を率いて真っ先に高杉晋作の下に駆けつける
この時期の長州藩は、それまでの華々しい尊皇攘夷活動の反動で、大きな危機に直面していました。長州藩は、京都の攘夷派の公家を抱き込み、盛んに幕府を追い詰める行動を重ねていました。そもそも、文久3年5月に長州藩が外国船を砲撃したのも、同年3月に将軍・徳川家茂が上洛した折に、朝廷からの圧力で、「5月10日をもって攘夷を決行する」と約束させられたからでした。しかし文久3年8月18日に長州派の公家は失脚し、京都から追放されます。長州藩は、これに抗議すべく元治元年6月から数次にわけて率兵上洛しますが、同年7月19日に京都の御所近くで幕府方との戦いになり、敗北を喫します(禁門の変)。しかも御所に向けて発砲したことから、朝敵の汚名を着ることになるのです。4国連合艦隊が下関を攻撃したのは、まさにその半月ほど後のことでした。まさに弱り目に祟り目です。
このような情勢を受けて、長州藩内では、幕府に従おうとする「俗論派」が大勢を占めるようになります。その現状を打破すべく動いたのが高杉晋作です。
「正義派として決起する者は下関の功山寺へ来い――」
との言葉を残し、高杉はその場を去ります。誰もが高杉は無謀だと思うなか、伊藤は真っ先に「高杉さんひとりを死なせてなるものか」と自らが率いる40名ほどの力士隊を引き連れて、高杉の下に駆けつけます。結果的にこの戦いに高杉晋作らは勝利を収め、これが後の明治維新の発端となりました。
伊藤はこの後、戊辰戦争には本格的に参戦はせず、長崎で長州藩の武器調達を行なうなどした後、新政府において神戸港を管轄する重要な役回りである初代兵庫県知事となります。伊藤の明治初期の役職を見ると、英語ができることを新政府に評価されたことが、いちばんのポイントになっているようにも思われます。
幕末から明治初頭の伊藤を見ると、特別に何か大きな功績があったとはいえませんが、ただ、真っ先に高杉晋作支持に動くなどの思い切った行動力と、松陰も認めた「周旋力」で道を切り開いていったことがわかります。(八尋 滋)