日本屈指の名外務大臣・陸奥宗光の「渾身の恫喝」

 何かを成し遂げる傑物と呼ばれるような人というのは、時に一般的な感覚では計れないような視点で物事を判断し、行動することがあるように思います。日本外交の金字塔とも呼ばれた陸奥宗光(むつ・むねみつ)にも、そのようなエピソードが山ほどあります。

◆大津事件での陸奥の奇策?


 明治24年(1891)年5月11日、滋賀県大津で警備の任に当たっていた巡査・津田三蔵(つだ・さんぞう)がロシア皇太子に斬りかかり、負傷を負わせるという「大津事件」がありました。

 超大国、ロシアとの関係悪化を懸念した明治天皇は、すぐさま見舞いのために京都に行幸し、ロシア軍艦にまで足を運んで謝罪をされています。軍艦は大使館と同じ扱いのため、国際法的にみればロシアに出向いて謝罪したことと同じです。そのまま明治天皇が拉致(らち)され、殺されてもおかしくなかったことを考えると、この事件がどれだけ重大であったかがわかるでしょう。

 時の松方正義(まつかた・まさよし)内閣は、この事件を外交問題として捉えます。

 最大の問題点は、犯行を行った津田の刑をどうするべきかでした。

 津田の犯行は突発的な単独犯で、結果としては未遂で終わり、そしてロシア皇太子を乗せていた人力車の車夫に斬りつけられた津田の傷のほうがはるかに重傷でした。法に従えば、津田の刑は無期徒刑(無期懲役)です。

 当時の大審院長(現在の最高裁判所長官に相当)であった児島惟謙(こじま・これかた)は、罪刑法定主義の原則を守らねばならないと考えていました。罪刑法定主義とは「法が定める犯罪に対して、法が定める刑を科す」ことです。

 外国の皇族に対する殺人未遂に対し、法律もなしに死刑を下すことはできません。児島は、罪刑法定主義は文明国の通義であり、それを破って津田を死刑にすることのほうが、はるかに野蛮であり、日本の国際的地位を低下させると考えていたのです。

 しかし、ロシア側の反発を恐れた松方内閣は、全閣僚を動員し、無理筋の法の拡大解釈をして津田を死刑にしようと考えていました。皇室罪などを適用し、天皇・皇族に対する犯罪と同視して死刑にしようというものです。この時、伊藤博文も「罪は重きを以て罰すべし」といっていました。

 そんななか、農商務大臣であった陸奥宗光(むつ・むねみつ)と、逓信大臣(ていしんだいじん)であった後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)が伊藤のもとにやってきてこういったといいます。

 「今朝、裁判官を招いて諮問(しもん)したが、皇室罪の適用は難しいという者が多い。裁判は困難になるだろう。そこで、われわれに一策がある」

 伊藤博文としてはこの状況を打開できる策があるのであれば、即採用でしょう。では、そこで提案した陸奥たちの策とは何か。

 「金員を投じて刺客を雇い、犯人を殺し、病死と佯り(いつわり)、以て後患を除くべし。ロシアに於ては往々これらの事あり」

 つまり、暗殺はロシアではよくあることだから、津田も暗殺しよう、といっているのです。

 確認します。陸奥の役職は農商務大臣という日本の閣僚です……。

 伊藤は、陸奥の提案に対し「いやしくも国家主権の存する、豈(あに)斯く(かく)の如き無法の処置を許さんや、人に語るも愧づべし(はづべし)」と斥けた(しりぞけた)といいます。

 伊藤の対応は、当然といえば当然ですが、陸奥ならいいそうなことです……。

 結果的には、児島惟謙の働きによって津田三蔵に無期徒刑の判決が下ることになります。児島は、内閣が皇室罪を適用しての死刑とする案を野蛮と捉えましたが、その想像の斜め上を行く陸奥の”奇策”です。

 しかし、陸奥にとっては大真面目な提案だったようにも思います。

 これまで薩長土肥の藩閥政府のなかで、後ろ盾のなかった陸奥は思うような出世をすることができませんでした。そのような状況下においても、「その状況を変えるためにはどうすれば良いのか」、その場その場の最善手をとってきたように思います。時には辞表を叩きつけ、時には政府からの出府をサボタージュし、時に上司に人材登用に関して長文の意見書を出す(コラム「陸奥宗光の辞表人生」)。政府転覆計画にまで加担して逮捕されてしまうなど、「一世一代の失敗」もありましたが(コラム「陸奥宗光の『禁獄5年の刑』」)、常に「どうするか」を考えてきたのが陸奥ですから、大津事件での犯人暗殺の提案はそうした陸奥の姿勢から出てきたものだったのかもしれません。

◆大英帝国を恫喝し、不平等条約改正を認めさせる


 そして、その姿勢は外交でも同様だったと思います。

 日清戦争開戦直前の明治27年7月16日、外務大臣であった陸奥はイギリスと日英通商航海条約の調印に成功します。しかし、当時のイギリスは世界最大の覇権国であり、条約改正にもっとも反対してきた国でもあります。簡単に条約改正に応じたはずはありません。

 陸奥は駐英公使であった青木周蔵(あおき・しゅうぞう)を条約改正交渉に当たらせていましたが、実はその際、青木にイギリスを恫喝(どうかつ)させています。

 「他ならず帝国において維新以降百般の改革を決行し遂に憲法を立てて政治をなすまで進歩したけれども、各外国はこれを認可せず、即条約改正に関しても我より提出する事項は尚ほ(なお)悉く(ことごとく)納れられず我冀望(きぼう)未だ充たさるにより、頗る(すこぶる)不満足を抱き、内外に控して国権挽回若しくは拡張を公言し之が為め壮年輩は「エキサイトメント」を起し一歩を踏誤れば(ふみあやまれば)どうしても不穏の挙動を示すに至れり故に、今や本件落着するにいらば物情も亦(また)少々静謐(せいひつ)に歸す(かえす)べし」。

 つまり、「われわれは皆さんに文明国だとわかってもらえるように努力をしてきました、でもイギリスさんずっと冷たかったですね。でも、日本を文明国として認めず、条約改正してくれないのであれば、うちには興奮する血の気の多い若いモンもいますんで、日本に住む英国居留民の生命や権益が危なくなることもあるかもしれませんね。条約改正してくれるのならば少しは落ち着くとは思うのですが」。

 完全にヤクザの恫喝と一緒です。

 イギリスはこれを認め、条約改正に応じていきました。イギリスからすれば、これまでの不平等条約で不当に得てきた暴利を放棄しただけですし、それにより日清戦争において清だけでなく日本にも保険をかけておこうというものでした。

 そしてイギリスが条約改正に応じたことにより、他の不平等条約を結んでいた列強も改正に応じることになっていったのです。

 こうして聞くと痛快かもしれませんが、誰でもできることではないでしょう。しかし、そうした難しい状況を打開するために、「どうするか」を考えつづけてきた陸奥だからこそ誰もが成しえなかった悲願を達成することができたのではないでしょうか。

 一般的な感覚では、一見、常識では計れないように思える判断や行動も、陸奥のように日々、「その状況をどう打開するか」を考え、行動しつづけてきた結果であれば、やがて実を結ぶこともある。そして、そのような姿勢が、誰もが成しえない傑物へと変えていくのかもしれません。政治、外交のみならず、ビジネス、人生においても、この陸奥の姿勢から大いに学ぶべきことがあるのではないでしょうか。(佐々木大輔)

参考文献:
『明治天皇の世界史 六人の皇帝たちの十九世紀 』(倉山満、PHP研究所、2018年) 
『検証 検察庁の近現代史』(倉山満、光文社新書、2018年)
『明治天皇紀 第7』(宮内庁編、吉川弘文館、1972年)
『日本外交文書 第二十七巻第一冊一文書 条約改正二関スル件 対英交渉』