『万葉集』は日本最古にして世界最大規模の詩歌集です。研究解釈によってその歌数はさまざまですが4500首強の歌が収録されています。ちなみに古今和歌集(10世紀初頭)は万葉集の巻数をリスペクトして同じく20巻ですが歌数は1111首です。
現代万葉研究の第一人者・中西進さんは万葉集を「大きな山脈」にたとえました。「大きな山脈」にふさわしく、万葉集は、いつどうやってできあがったものか、実は正確にはよくわかってもいません。
万葉集の成立には、7世紀から8世紀後半の1世紀またはそれ以上の時間がかかっています。飛鳥・藤原京から奈良・平城京の時代にかけて朝廷によって収集・整理されてきた大量の歌を、大伴家持(おおとものやかもち。785年没)という高級官僚貴族かつ歌人が中心になって最終的に20巻にまとめあげたもの、というのが一般的な説です。
7~8世紀は激動の時代でした。明治維新と並べて語られることもある時代です。ここでは、家族や友人に明日すぐ話せる、でもちょっと大事な歴史的な豆知識を紹介していきましょう。
今回は、万葉集にはなぜ作者未詳の歌が多いのか、といったお話です。
万葉集は一般的に、新元号発表のときの安倍首相の発言に代表されるように「天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ」ているから素晴らしい、といわれてきました。
確かに万葉集には、防人が詠んだ歌、貧しい農民と問答した歌、大道芸人だろうといわれている乞食者(ほかひひと)が詠んだ歌などが収録されています。ただし、もちろんこれらの歌は、防人や農民や乞食者が「私のも入れてくださぁい」などと申し出て収録されたものではありません。
庶民が詠んだ歌を庶民が提出し、それを宮中が受け入れて公的に記録し始めるのは明治7年(1874)の歌会始(うたかいはじめ)における「詠進(えいしん)」が最初です。詠進とは、歌を詠んで納めること。明治天皇の御代に始まったこの「詠進は一般人もOK」の伝統が受け継がれて、今、私たちは誰でも歌会始の詠進に参加することができます。応募者の国籍も関係なく、毎年2万首前後の歌が詠進されるそうです。
そして実は明治期のこの流れが、万葉集に新しい見方を加えることになります。明治23年(1890)に刊行された『日本文学史』上巻第二編第四章「奈良朝の和歌―万葉集」はこんな文章で始まります。
《奈良の朝は、和歌の時代なり。上には万乗の貴きより、下、匹夫に至るまで、皆、歌を詠まざるなし。而して(しかして)その精神は万葉集に載れるもの即これなり》
万乗とは天子・君主を意味します。兵車1万台を瞬時に集合させる力を持った人という意味です。匹夫とは、身分の低い男、という意味です。
万葉集がこの視点で語られたことはかつてありませんでした。つまり万葉集が、「天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められている」ということで評価され始めるのは明治時代中頃からだということです。
さて、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められている、とはどういうことでしょうか。その秘密は、万葉集に収録されている4500首強の内の半数近くをしめる「作者未詳」の歌にあります。
個人として特定できないものも未詳にあたるなど、作者未詳の定義は研究者によってさまざまですが、万葉集には、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものだけで約2000首あります。この大量の作者未詳歌が「幅広い階層の人々が詠んだ歌」とされていて、時に、特に万葉集の素晴らしいところだ、といわれています。
ただし、この「幅広い階層の人々」には注意も必要です。万葉集編纂(へんさん)続行当時、平城京の人口は5~10万人。冠位五位以上のいわゆる「貴族」が150人程度、六位以下で役人ポストに就いている中流・下流貴族が600人程度、貴族とはいいにくい下働きの下級官人が1万人程度いました。そして、万葉集の作者未詳歌のほとんどは、この、平城京に暮らす中流・下流の貴族、下級官人たちの歌です。確かに、幅広い階層の人々、ではあります。
素朴で力強いありのままの生活歌、とよくいわれる、地方で集められた歌・東歌(あずまうた)は230首あります。これは、東国の首長あるいはその一族のもとに集められた歌を、中央から派遣された役人がまとめ、短歌の形式に整えて中央に提出したものだと研究されています。
防人歌は、防人の家人の歌を含めて98首あります。そのほとんど、特に第20巻に載る93首は大伴家持が難波(なにわ=今の大阪)に赴任したときに収集したものだといわれています。難波は、東国から陸路でやってきた防人が九州に向かって船出する中継地でした。
万葉集は、平城京に暮らす皇室と貴族の歌、そして各地に派遣された貴族官僚が中央の作法にのっとって整理した地方産の歌によってできあがっている歌集です。作者未詳歌は、貴族の歌作の手引きにするために収集したものそのままか、またはそれを土台に歌作の手本とすべく整えたものだという研究もあります。
701年の大宝律令制定に代表されるように、7~8世紀は日本が律令制の整備に尽力した時代です。地方行政の実権は現地豪族の手から、中央から派遣される官僚へと移りました。この国家体制の変化があってこそ成立した歌集が万葉集です。
万葉集は中央の文化にのっとった中央の文化のための歌集です。そして、その背景には律令制に基づく国家整備の努力があります。「天皇から庶民まで」ということだけで万葉集をほめるのは、やはり、現代的な価値観から計算して出した考え方すぎる、といえるかもしれません。
万葉集が初めて印刷出版されたのは慶長年間(1596~1615)です。伏見版と呼ばれる古活字が使われました。伏見版古活字は徳川家康の管理下にあった木活字です。
つまり日本で最初に万葉集を出版したのは天下人・家康です。通説では和歌が嫌い、あるいは苦手とされている家康が万葉集のどこに価値を見出していたのか、想像するのも興味深いことです。(尾崎克之)
参考文献:
『新訂新訓万葉集上・下』佐佐木信綱・編、岩波書店、1927年
『日本史の中の世界一』田中英道・編、扶桑社、2009年
『万葉の心』中西進、毎日新聞社、1972年
『古代和歌の基層 万葉集作者未詳歌論序説』遠藤宏、笠間叢書、2015年
『万葉集と日本人』小川靖彦、KADOKAWA、2014年
『万葉集の発明』品田悦一、新曜社、2001年
『日本文学史』三上参次・高津鍬三郎、金港堂、1890年
現代万葉研究の第一人者・中西進さんは万葉集を「大きな山脈」にたとえました。「大きな山脈」にふさわしく、万葉集は、いつどうやってできあがったものか、実は正確にはよくわかってもいません。
万葉集の成立には、7世紀から8世紀後半の1世紀またはそれ以上の時間がかかっています。飛鳥・藤原京から奈良・平城京の時代にかけて朝廷によって収集・整理されてきた大量の歌を、大伴家持(おおとものやかもち。785年没)という高級官僚貴族かつ歌人が中心になって最終的に20巻にまとめあげたもの、というのが一般的な説です。
7~8世紀は激動の時代でした。明治維新と並べて語られることもある時代です。ここでは、家族や友人に明日すぐ話せる、でもちょっと大事な歴史的な豆知識を紹介していきましょう。
今回は、万葉集にはなぜ作者未詳の歌が多いのか、といったお話です。
◆「幅広い階層の人々が詠んだ」ことへの評価は明治時代中頃から
万葉集は一般的に、新元号発表のときの安倍首相の発言に代表されるように「天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ」ているから素晴らしい、といわれてきました。
確かに万葉集には、防人が詠んだ歌、貧しい農民と問答した歌、大道芸人だろうといわれている乞食者(ほかひひと)が詠んだ歌などが収録されています。ただし、もちろんこれらの歌は、防人や農民や乞食者が「私のも入れてくださぁい」などと申し出て収録されたものではありません。
庶民が詠んだ歌を庶民が提出し、それを宮中が受け入れて公的に記録し始めるのは明治7年(1874)の歌会始(うたかいはじめ)における「詠進(えいしん)」が最初です。詠進とは、歌を詠んで納めること。明治天皇の御代に始まったこの「詠進は一般人もOK」の伝統が受け継がれて、今、私たちは誰でも歌会始の詠進に参加することができます。応募者の国籍も関係なく、毎年2万首前後の歌が詠進されるそうです。
そして実は明治期のこの流れが、万葉集に新しい見方を加えることになります。明治23年(1890)に刊行された『日本文学史』上巻第二編第四章「奈良朝の和歌―万葉集」はこんな文章で始まります。
《奈良の朝は、和歌の時代なり。上には万乗の貴きより、下、匹夫に至るまで、皆、歌を詠まざるなし。而して(しかして)その精神は万葉集に載れるもの即これなり》
万乗とは天子・君主を意味します。兵車1万台を瞬時に集合させる力を持った人という意味です。匹夫とは、身分の低い男、という意味です。
万葉集がこの視点で語られたことはかつてありませんでした。つまり万葉集が、「天皇や皇族、貴族だけでなく、防人や農民まで幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められている」ということで評価され始めるのは明治時代中頃からだということです。
さて、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められている、とはどういうことでしょうか。その秘密は、万葉集に収録されている4500首強の内の半数近くをしめる「作者未詳」の歌にあります。
個人として特定できないものも未詳にあたるなど、作者未詳の定義は研究者によってさまざまですが、万葉集には、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものだけで約2000首あります。この大量の作者未詳歌が「幅広い階層の人々が詠んだ歌」とされていて、時に、特に万葉集の素晴らしいところだ、といわれています。
ただし、この「幅広い階層の人々」には注意も必要です。万葉集編纂(へんさん)続行当時、平城京の人口は5~10万人。冠位五位以上のいわゆる「貴族」が150人程度、六位以下で役人ポストに就いている中流・下流貴族が600人程度、貴族とはいいにくい下働きの下級官人が1万人程度いました。そして、万葉集の作者未詳歌のほとんどは、この、平城京に暮らす中流・下流の貴族、下級官人たちの歌です。確かに、幅広い階層の人々、ではあります。
◆『万葉集』を最初に「出版」したのは誰か?
素朴で力強いありのままの生活歌、とよくいわれる、地方で集められた歌・東歌(あずまうた)は230首あります。これは、東国の首長あるいはその一族のもとに集められた歌を、中央から派遣された役人がまとめ、短歌の形式に整えて中央に提出したものだと研究されています。
防人歌は、防人の家人の歌を含めて98首あります。そのほとんど、特に第20巻に載る93首は大伴家持が難波(なにわ=今の大阪)に赴任したときに収集したものだといわれています。難波は、東国から陸路でやってきた防人が九州に向かって船出する中継地でした。
万葉集は、平城京に暮らす皇室と貴族の歌、そして各地に派遣された貴族官僚が中央の作法にのっとって整理した地方産の歌によってできあがっている歌集です。作者未詳歌は、貴族の歌作の手引きにするために収集したものそのままか、またはそれを土台に歌作の手本とすべく整えたものだという研究もあります。
701年の大宝律令制定に代表されるように、7~8世紀は日本が律令制の整備に尽力した時代です。地方行政の実権は現地豪族の手から、中央から派遣される官僚へと移りました。この国家体制の変化があってこそ成立した歌集が万葉集です。
万葉集は中央の文化にのっとった中央の文化のための歌集です。そして、その背景には律令制に基づく国家整備の努力があります。「天皇から庶民まで」ということだけで万葉集をほめるのは、やはり、現代的な価値観から計算して出した考え方すぎる、といえるかもしれません。
万葉集が初めて印刷出版されたのは慶長年間(1596~1615)です。伏見版と呼ばれる古活字が使われました。伏見版古活字は徳川家康の管理下にあった木活字です。
つまり日本で最初に万葉集を出版したのは天下人・家康です。通説では和歌が嫌い、あるいは苦手とされている家康が万葉集のどこに価値を見出していたのか、想像するのも興味深いことです。(尾崎克之)
参考文献:
『新訂新訓万葉集上・下』佐佐木信綱・編、岩波書店、1927年
『日本史の中の世界一』田中英道・編、扶桑社、2009年
『万葉の心』中西進、毎日新聞社、1972年
『古代和歌の基層 万葉集作者未詳歌論序説』遠藤宏、笠間叢書、2015年
『万葉集と日本人』小川靖彦、KADOKAWA、2014年
『万葉集の発明』品田悦一、新曜社、2001年
『日本文学史』三上参次・高津鍬三郎、金港堂、1890年