2019.6.24 陸奥宗光
陸奥宗光を「日本史上で最高の外交官」として推す人も多いのではないでしょうか。控えめな評価でも、「陸奥外交」は日本近代史上の金字塔とされます。そもそも、最近は外務大臣の名前を冠して「〇〇外交」と呼ばれることすらなくなりました。不平等条約を撤廃させ日清戦争を勝った陸奥は、日露戦争を勝ち抜いた小村寿太郎とともに、やはり間違いなく名外相です。
さて、そんな立派な外務大臣の陸奥が、内政では何をしていたかを知っている人は、どれくらいいるでしょうか。歴史ファンの方は、幕末に陸奥が「坂本龍馬の弟分」だったことは知っているかもしれませんが、案外、知られていない明治以降の陸奥の「魅力」を紹介しましょう。
陸奥宗光は、天保15年(1844)、紀州藩士で国学者でもあった伊達宗広(だて・むねひろ)の六男として生まれます。勝海舟が開いた神戸海軍操練所に文久3年(1863)に入り、慶応3年(1867)に坂本龍馬の海援隊に入ったのち、慶応4年(1868)年1月、25歳の時に明治政府に出仕します。しかし明治政府に出仕した約3カ月後にはもう「辞表」を出しました。しかも、ただの辞表ではありません。「辞表兼”意見書”」です。
理由は、陸奥と同期であった長州の伊藤博文・井上馨、薩摩の寺島宗則・五代友厚らが2月に外国事務局判事となっていたにもかかわらず、紀州出身の陸奥が3月17日に受けた辞令が外国事務局権判事にすぎなかったからでした。「権判事(ごんのはんじ)」の「権」とは「副・仮・準じる」の意味ですから格下です。ちなみに、同日に肥前の大隈重信が受けた辞令は外国事務局判事です。
陸奥は5人に比べれば若く、維新で大きな役割を果たしたわけでも、ヨーロッパに渡航した経験があるわけでも、西洋の知識が豊富であったわけでもないので、相応の地位が与えられていたとは言えます。しかし、陸奥にはわずかな差が許せませんでした。
陸奥曰く、「能力のない者が政治で重任を担ったり、あるいは家柄や藩によって人材登用が決まるなどということがあったら、新政の一大事です。まさか現在そんなことがある訳がないですが、自分のような不才の人間が選ばれてしまうこともあるので辞職したい」といった内容です(佐々木雄一『陸奥宗光「日本外交の祖」の生涯』、中央新書、2018年)。まさに、嫌み以外の何ものでもありません。
初期の明治政府は「薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前)」の藩閥政府ですが、陸奥の兄貴分だった土佐の坂本龍馬は暗殺されていますから、後ろ盾はありません。陸奥は己の才覚でのし上がるしかなかったので、「辞表」を武器としたのです。
しかし結局、陸奥は辞職しませんでした。その後、会計事務局を兼任し、5月には会計官専任となりますが、すぐに大阪府権判事兼勤となります。しかし、6月には会計官を免ぜられることになります。会計官を免ぜられた理由は、「上司との意見が異なり激論すること3回に及んだ結果」と陸奥自身は説明しています。
明治2年(1869)1月、摂津県知事(のち同県改称で豊崎県知事)、6月には兵庫県知事となります。しかし、明治2年7月、陸奥は兵庫県知事を免じられることになります。陸奥自身は、政治家の派閥対立があり、どちらに属するかによって免職にされた者もおり、自分もその1人だったと言っています(『伯爵陸奥宗光遺稿』、岩波書店、1929-陸奥宗光『小傳』)。
ただ、陸奥は免職が通知される前に、もう辞表を書いていました。伊藤博文からは「大蔵省で迎え入れるので短気は起こさないように」と説かれていましたが、陸奥は無視します。
陸奥はその後、大阪に移ります。政府から上京するように命じられるのですが、肺病を理由に出府を引き延ばしています。たしかに肺病が悪化していたのは事実ではありました。しかし、明治政府内での展望が開けなかった陸奥は、肺病をサボタージュの口実に使っていたのです(前掲『小傳』)。
では、出府をサボタージュして何をしていたのか。明治2年10月、陸奥は和歌山藩の改革に関わり、徴兵制を中心とした軍制改革を行っています。数年後に全国で施行される徴兵令の先駆けであり、各国の公使や政府関係者など多くの視察者が和歌山にやってきていました。
そんななか、明治3年3月、陸奥は政府から刑部省の少判事に任命されます。しかし、陸奥の依願により即日免官となります。それまでずっと政府の上京の命を引き延ばしてきた陸奥が、なぜ少判事を拝命し、そしてすぐに辞めたのか。
ちょうどその頃、陸奥は和歌山藩の要務のために欧米に出張しなければなりませんでした。いつまでも政府の出府の命を「病気療養」を理由に引き延ばしていては、今後の進退の身動きがとりづらかったので、「一応上京の命に応じました」、という形をとって、すぐ辞めたのです(前掲『小傳』)。
まさか、就職の世話をした側は1日で辞めるとは思っていなかったでしょうが、陸奥は最初からそのつもりなのです。
明治6年(1873)、陸奥は大蔵少輔心得となっていました。この時の上司は大隈重信でした。陸奥は大隈の下で働くことに不満でした。この時期、親交のあった木戸孝允に、幾度か財政について訴えています。長文の意見書を木戸に送り、財政上の問題のみならず、「国家目今の大患は大臣経済に通ぜず吏せず」と大隈を非難してもいます。「上司が無知で無能だ」と上司の上司に訴えているのです。そして、「適した人材がいれば、制度改革も期待できる」と述べていますが、暗に自薦しています。しかし、木戸はその当時には体調が優れず、陸奥の思惑通りにはいきませんでした(『大隈重信関係文書』第2巻所収「明治六年九月二日木戸孝允宛陸奥宗光建言書」)。
ちなみに、のちの明治21年(1888)、第一伊藤内閣で大隈が外務大臣に任命された際、陸奥は特命全権大使でしたが、大隈の管下に外交官として立つことを不快として、すぐさま青木周蔵外務次官に辞表を手渡しています。驚いた大隈は懇々と説諭して、陸奥に辞表を撤回させています。どれだけ嫌いだったのでしょうか(前掲『小傳』)。
気に入らないことがあると辞表を叩きつけるのが、陸奥の人生です。明治7年(1874)1月、陸奥はまたまた官職を辞職します。
この時、陸奥は「日本人」と題した5500字ほどの長文の論説を木戸孝允に送っています。その内容は一言で言えば、薩長藩閥への非難と政府への不満です。「薩長は政治を公私混同している状態で嘆かわしい」「薩長は政治の進歩を妨げている」と説きつつ、最後には「義務と権利を持つ全国の日本人が、政府すなわち薩長などの人に委せず自ら国の危難を分任し、忠勇と志操を磨き、気力を更張し、国の不幸を救済し、将来の幸福を招くことに意を注げば、これこそ日本人である」と結んでいます(『伯爵陸奥宗光遺稿』-陸奥宗光『日本人』)。陸奥はこの時、政府のなかにいるよりも、野に下り、運動する方が得策と考えていたようです。
たくましすぎる人生です。これでも、陸奥の「辞表人生」のサワリなのですが……。その後、明治10年(1877)の西南戦争の折には、政府転覆計画に加担して、5年間投獄されてもいます。
陸奥は自分の人生に展望が開けずにいました。しかし、頼りにするものがないなかで道を切り拓こうとする陸奥の姿は、名外相としての姿だけでは見えない、違った「魅力」ではないでしょうか。(佐々木大輔)
さて、そんな立派な外務大臣の陸奥が、内政では何をしていたかを知っている人は、どれくらいいるでしょうか。歴史ファンの方は、幕末に陸奥が「坂本龍馬の弟分」だったことは知っているかもしれませんが、案外、知られていない明治以降の陸奥の「魅力」を紹介しましょう。
◆明治政府に出仕して3カ月で「辞表提出」
陸奥宗光は、天保15年(1844)、紀州藩士で国学者でもあった伊達宗広(だて・むねひろ)の六男として生まれます。勝海舟が開いた神戸海軍操練所に文久3年(1863)に入り、慶応3年(1867)に坂本龍馬の海援隊に入ったのち、慶応4年(1868)年1月、25歳の時に明治政府に出仕します。しかし明治政府に出仕した約3カ月後にはもう「辞表」を出しました。しかも、ただの辞表ではありません。「辞表兼”意見書”」です。
理由は、陸奥と同期であった長州の伊藤博文・井上馨、薩摩の寺島宗則・五代友厚らが2月に外国事務局判事となっていたにもかかわらず、紀州出身の陸奥が3月17日に受けた辞令が外国事務局権判事にすぎなかったからでした。「権判事(ごんのはんじ)」の「権」とは「副・仮・準じる」の意味ですから格下です。ちなみに、同日に肥前の大隈重信が受けた辞令は外国事務局判事です。
陸奥は5人に比べれば若く、維新で大きな役割を果たしたわけでも、ヨーロッパに渡航した経験があるわけでも、西洋の知識が豊富であったわけでもないので、相応の地位が与えられていたとは言えます。しかし、陸奥にはわずかな差が許せませんでした。
陸奥曰く、「能力のない者が政治で重任を担ったり、あるいは家柄や藩によって人材登用が決まるなどということがあったら、新政の一大事です。まさか現在そんなことがある訳がないですが、自分のような不才の人間が選ばれてしまうこともあるので辞職したい」といった内容です(佐々木雄一『陸奥宗光「日本外交の祖」の生涯』、中央新書、2018年)。まさに、嫌み以外の何ものでもありません。
初期の明治政府は「薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前)」の藩閥政府ですが、陸奥の兄貴分だった土佐の坂本龍馬は暗殺されていますから、後ろ盾はありません。陸奥は己の才覚でのし上がるしかなかったので、「辞表」を武器としたのです。
◆出府をサボタージュして何をしていたか
しかし結局、陸奥は辞職しませんでした。その後、会計事務局を兼任し、5月には会計官専任となりますが、すぐに大阪府権判事兼勤となります。しかし、6月には会計官を免ぜられることになります。会計官を免ぜられた理由は、「上司との意見が異なり激論すること3回に及んだ結果」と陸奥自身は説明しています。
明治2年(1869)1月、摂津県知事(のち同県改称で豊崎県知事)、6月には兵庫県知事となります。しかし、明治2年7月、陸奥は兵庫県知事を免じられることになります。陸奥自身は、政治家の派閥対立があり、どちらに属するかによって免職にされた者もおり、自分もその1人だったと言っています(『伯爵陸奥宗光遺稿』、岩波書店、1929-陸奥宗光『小傳』)。
ただ、陸奥は免職が通知される前に、もう辞表を書いていました。伊藤博文からは「大蔵省で迎え入れるので短気は起こさないように」と説かれていましたが、陸奥は無視します。
陸奥はその後、大阪に移ります。政府から上京するように命じられるのですが、肺病を理由に出府を引き延ばしています。たしかに肺病が悪化していたのは事実ではありました。しかし、明治政府内での展望が開けなかった陸奥は、肺病をサボタージュの口実に使っていたのです(前掲『小傳』)。
では、出府をサボタージュして何をしていたのか。明治2年10月、陸奥は和歌山藩の改革に関わり、徴兵制を中心とした軍制改革を行っています。数年後に全国で施行される徴兵令の先駆けであり、各国の公使や政府関係者など多くの視察者が和歌山にやってきていました。
そんななか、明治3年3月、陸奥は政府から刑部省の少判事に任命されます。しかし、陸奥の依願により即日免官となります。それまでずっと政府の上京の命を引き延ばしてきた陸奥が、なぜ少判事を拝命し、そしてすぐに辞めたのか。
ちょうどその頃、陸奥は和歌山藩の要務のために欧米に出張しなければなりませんでした。いつまでも政府の出府の命を「病気療養」を理由に引き延ばしていては、今後の進退の身動きがとりづらかったので、「一応上京の命に応じました」、という形をとって、すぐ辞めたのです(前掲『小傳』)。
まさか、就職の世話をした側は1日で辞めるとは思っていなかったでしょうが、陸奥は最初からそのつもりなのです。
◆「無知で無能だ」……大隈重信が大嫌い?
明治6年(1873)、陸奥は大蔵少輔心得となっていました。この時の上司は大隈重信でした。陸奥は大隈の下で働くことに不満でした。この時期、親交のあった木戸孝允に、幾度か財政について訴えています。長文の意見書を木戸に送り、財政上の問題のみならず、「国家目今の大患は大臣経済に通ぜず吏せず」と大隈を非難してもいます。「上司が無知で無能だ」と上司の上司に訴えているのです。そして、「適した人材がいれば、制度改革も期待できる」と述べていますが、暗に自薦しています。しかし、木戸はその当時には体調が優れず、陸奥の思惑通りにはいきませんでした(『大隈重信関係文書』第2巻所収「明治六年九月二日木戸孝允宛陸奥宗光建言書」)。
ちなみに、のちの明治21年(1888)、第一伊藤内閣で大隈が外務大臣に任命された際、陸奥は特命全権大使でしたが、大隈の管下に外交官として立つことを不快として、すぐさま青木周蔵外務次官に辞表を手渡しています。驚いた大隈は懇々と説諭して、陸奥に辞表を撤回させています。どれだけ嫌いだったのでしょうか(前掲『小傳』)。
◆論説「日本人」
気に入らないことがあると辞表を叩きつけるのが、陸奥の人生です。明治7年(1874)1月、陸奥はまたまた官職を辞職します。
この時、陸奥は「日本人」と題した5500字ほどの長文の論説を木戸孝允に送っています。その内容は一言で言えば、薩長藩閥への非難と政府への不満です。「薩長は政治を公私混同している状態で嘆かわしい」「薩長は政治の進歩を妨げている」と説きつつ、最後には「義務と権利を持つ全国の日本人が、政府すなわち薩長などの人に委せず自ら国の危難を分任し、忠勇と志操を磨き、気力を更張し、国の不幸を救済し、将来の幸福を招くことに意を注げば、これこそ日本人である」と結んでいます(『伯爵陸奥宗光遺稿』-陸奥宗光『日本人』)。陸奥はこの時、政府のなかにいるよりも、野に下り、運動する方が得策と考えていたようです。
たくましすぎる人生です。これでも、陸奥の「辞表人生」のサワリなのですが……。その後、明治10年(1877)の西南戦争の折には、政府転覆計画に加担して、5年間投獄されてもいます。
陸奥は自分の人生に展望が開けずにいました。しかし、頼りにするものがないなかで道を切り拓こうとする陸奥の姿は、名外相としての姿だけでは見えない、違った「魅力」ではないでしょうか。(佐々木大輔)