陸奥宗光は、舌鋒(ぜっぽう)鋭い弁で「カミソリ大臣」と呼ばれました。不平等条約を改正し、日清戦争を勝利に導いた偉大な外務大臣です。外務省には今も陸奥宗光の銅像が建てられています。
では、そんな彼を明治天皇はどう評価されていたかご存じでしょうか。
明治23年、山縣有朋首相が内閣改造を断行し、陸奥宗光を農商務大臣として入閣させようと奏上した際、明治天皇はこのようにおっしゃったそうです。
「宗光(むねみつ)嘗て(かつて)十年の事あり、その人と為り(人となり)俄かに(にわかに)信じ難し」(『明治天皇紀』第七、宮内庁)
現在では名外交官として知られる陸奥を、明治天皇は「“こんな人間”を内閣に入れるとは正気か?」とおっしゃっているのです。
明治天皇にそこまで言わしめた陸奥宗光の「人となり」とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。
明治天皇の言葉にあった「宗光嘗て十年の事あり」とは何かというと、明治10年に土佐立志社系の人物たちが企てた政府転覆計画に陸奥が関与し、禁獄5年の刑を受けたことを言っています。
天皇には「警告する権利、激励する権利、相談する権利」があります(倉山満『明治天皇の世界史 六人の皇帝たちの十九世紀』、PHP新書、2018)。この明治天皇の御言葉は、間違いなく「警告権の行使」でしょう。
陸奥宗光が禁獄5年の刑で投獄された経緯は、次のようなものです。
明治10年2月、西郷隆盛が鹿児島で挙兵し、明治政府軍と戦った日本最大、最後の士族反乱である西南戦争が起こりました。自由民権運動の中心となった政治団体である土佐立志社の林有造・大江卓らはその混乱に乗じ、要人の暗殺や挙兵を企てていたのです。
陸奥は、坂本龍馬がつくった海援隊の隊士であったこともあって土佐系人脈とは関係が深く、そのつながりで、密謀を漏らされていました。
しかし、陸奥はその計画を政府には報告せず、むしろ彼らにこう言ったのでした。
「この機を逸すべからず。この好機を逸すれば大事成る可からず」(『西南記伝』下巻1、黒竜会編)
つまり、「やるなら早くやれ」。
このときの陸奥の役職は、元老院幹事です……。
政府の中枢にいる人物が政府転覆に加担していたとあっては、当然ですが大問題です。しかも、大江卓とは元老院の暗号を使って電報を送り、計画の現状を聞いていたというのです。
疑われたときのことを想定していなかったのでしょうか……。
陸奥は、西南戦争が起こった当初、陸軍中将の鳥尾小弥太(とりお・こやた)に、西郷軍に対して「国家に背いた以上はいかなることがあっても討ってしまわなければならない」と言っていましたが(『風雲回顧録』)、それと同時に、土佐系人脈の板垣退助、後藤象二郎、大江卓、林有造などといった人々と協議を重ねていました。
かと思えば、木戸孝允への書簡では「何卒一日も早く御平定を奏し」と早期平定を願うようなことを述べていました。(佐々木雄一『陸奥宗光「日本外交の祖」の生涯』中公新書、2018年)
陸奥は、なぜ、このような行動に出たのでしょうか?
このときの陸奥を、西園寺公望は後に、「才子で敏感すぎるから、一時失脚したのだね。西南役の折、もしかすると西郷が勝つかもしれんから、幾分その場合に処する用意をして置こうとした」と述べています。(『西園寺公望自傳』講談社、1949年)。
西郷軍が優勢なときにはそれに合流し、政府軍が優勢ならば反乱鎮圧に協力する。陸奥はどちらに転んでも政府内での地位が飛躍的に高まるのではないかと期待したのです。
先のコラム(コラム:陸奥宗光の辞表人生)でも、陸奥が、薩長土肥の藩閥政府のなかで、生まれや藩によって人材登用を決めていることに不満をもっていたことは挙げました。とりわけ自分より能力の低い人間が自分より高い地位を得ていることが何より許せませんでした。約10年間、展望が開けなかった陸奥にとっては、西南戦争は千載一遇のチャンスと見えたのでしょう。
しかし、武器の調達が遅れ、挙兵に至らないうちに、薩摩の敗戦は濃厚となっていき、9月には西南戦争が終結します。その年の8月には林有造が逮捕され、さらには翌11年5月には大江が勾引(こういん)されます。
そして6月、ついに陸奥も勾引されることになります。
勾引されるまでの陸奥の心境はと言えば、「同志の面々が縛に就くようになってきたので、3度の食事も喉に通らず、夜も不安に眠られず、知らぬ人が尋ねて来れば探偵かと疑い、何時も刑事が尾行しているような心持がして薄気味悪く、『がたん』と音がしても『びくっ』とする状態」だったといいます。(関直彦『七十七年の回顧』)。
これまでたくましすぎると言って良いほど、どんな相手にも媚びず(こびず)に生き抜いてきた陸奥がこのような一面を見せていたというのは意外です。
陸奥は、逮捕をされて観念はしたものの、「どう言い抜けようか」、「同志は何と白状したか」、「罪はどうなるだろうか」と千思万考。果ては徹頭徹尾事件について否認し、詭弁(きべん)に任せて切り抜けようと考えます。
そして、公判。裁判長は「今大岡」とも呼ばれた名判事の玉乃世覆(たまの・よふみ。大審院長代理)でした。陸奥は「もうこうなっては死物狂い」と、誰であろうと切り抜けようと勇気を鼓舞し、訊問(じんもん)に臨みます。
長時間の訊問が終わり、ひとまず休憩となりますが、裁判官休憩所の窓際を通った際、裁判官たちが大声で笑うのを聞いて、陸奥は「愕然(がくぜん)として落胆の淵に沈んだ」ようです。自分の弁が判事らを動かせず、かえってその笑いを招いたのかと感じ、勇気も挫けたと述懐しています(前掲『七十七年の回顧』)。
陸奥は、自分一代の大失策と悔やみ、のちのちまでこの事件に触れたがらなかったようです。
「カミソリ大臣」と呼ばれた陸奥も、このような失敗をしていたのを知ると、なんとも人間臭さを感じます。
やっていることはとんでもないですが……。
政府転覆計画に加担した前科がある陸奥を入閣させるのに、明治天皇が難色を示したのは当然です。それでも陸奥の人となりを見込み、入閣させた山縣有朋は慧眼(けいがん)です。ここでの入閣がなければ、後の偉大な陸奥外交はありえませんでした。
人を見る目が大事だと思わされます。(佐々木大輔)
では、そんな彼を明治天皇はどう評価されていたかご存じでしょうか。
明治23年、山縣有朋首相が内閣改造を断行し、陸奥宗光を農商務大臣として入閣させようと奏上した際、明治天皇はこのようにおっしゃったそうです。
「宗光(むねみつ)嘗て(かつて)十年の事あり、その人と為り(人となり)俄かに(にわかに)信じ難し」(『明治天皇紀』第七、宮内庁)
現在では名外交官として知られる陸奥を、明治天皇は「“こんな人間”を内閣に入れるとは正気か?」とおっしゃっているのです。
明治天皇にそこまで言わしめた陸奥宗光の「人となり」とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。
◆元老院幹事なのに、政府転覆計画をそそのかし
明治天皇の言葉にあった「宗光嘗て十年の事あり」とは何かというと、明治10年に土佐立志社系の人物たちが企てた政府転覆計画に陸奥が関与し、禁獄5年の刑を受けたことを言っています。
天皇には「警告する権利、激励する権利、相談する権利」があります(倉山満『明治天皇の世界史 六人の皇帝たちの十九世紀』、PHP新書、2018)。この明治天皇の御言葉は、間違いなく「警告権の行使」でしょう。
陸奥宗光が禁獄5年の刑で投獄された経緯は、次のようなものです。
明治10年2月、西郷隆盛が鹿児島で挙兵し、明治政府軍と戦った日本最大、最後の士族反乱である西南戦争が起こりました。自由民権運動の中心となった政治団体である土佐立志社の林有造・大江卓らはその混乱に乗じ、要人の暗殺や挙兵を企てていたのです。
陸奥は、坂本龍馬がつくった海援隊の隊士であったこともあって土佐系人脈とは関係が深く、そのつながりで、密謀を漏らされていました。
しかし、陸奥はその計画を政府には報告せず、むしろ彼らにこう言ったのでした。
「この機を逸すべからず。この好機を逸すれば大事成る可からず」(『西南記伝』下巻1、黒竜会編)
つまり、「やるなら早くやれ」。
このときの陸奥の役職は、元老院幹事です……。
政府の中枢にいる人物が政府転覆に加担していたとあっては、当然ですが大問題です。しかも、大江卓とは元老院の暗号を使って電報を送り、計画の現状を聞いていたというのです。
疑われたときのことを想定していなかったのでしょうか……。
陸奥は、西南戦争が起こった当初、陸軍中将の鳥尾小弥太(とりお・こやた)に、西郷軍に対して「国家に背いた以上はいかなることがあっても討ってしまわなければならない」と言っていましたが(『風雲回顧録』)、それと同時に、土佐系人脈の板垣退助、後藤象二郎、大江卓、林有造などといった人々と協議を重ねていました。
かと思えば、木戸孝允への書簡では「何卒一日も早く御平定を奏し」と早期平定を願うようなことを述べていました。(佐々木雄一『陸奥宗光「日本外交の祖」の生涯』中公新書、2018年)
陸奥は、なぜ、このような行動に出たのでしょうか?
このときの陸奥を、西園寺公望は後に、「才子で敏感すぎるから、一時失脚したのだね。西南役の折、もしかすると西郷が勝つかもしれんから、幾分その場合に処する用意をして置こうとした」と述べています。(『西園寺公望自傳』講談社、1949年)。
西郷軍が優勢なときにはそれに合流し、政府軍が優勢ならば反乱鎮圧に協力する。陸奥はどちらに転んでも政府内での地位が飛躍的に高まるのではないかと期待したのです。
◆「がたん」と音がしても「びくっ」とする状態
先のコラム(コラム:陸奥宗光の辞表人生)でも、陸奥が、薩長土肥の藩閥政府のなかで、生まれや藩によって人材登用を決めていることに不満をもっていたことは挙げました。とりわけ自分より能力の低い人間が自分より高い地位を得ていることが何より許せませんでした。約10年間、展望が開けなかった陸奥にとっては、西南戦争は千載一遇のチャンスと見えたのでしょう。
しかし、武器の調達が遅れ、挙兵に至らないうちに、薩摩の敗戦は濃厚となっていき、9月には西南戦争が終結します。その年の8月には林有造が逮捕され、さらには翌11年5月には大江が勾引(こういん)されます。
そして6月、ついに陸奥も勾引されることになります。
勾引されるまでの陸奥の心境はと言えば、「同志の面々が縛に就くようになってきたので、3度の食事も喉に通らず、夜も不安に眠られず、知らぬ人が尋ねて来れば探偵かと疑い、何時も刑事が尾行しているような心持がして薄気味悪く、『がたん』と音がしても『びくっ』とする状態」だったといいます。(関直彦『七十七年の回顧』)。
これまでたくましすぎると言って良いほど、どんな相手にも媚びず(こびず)に生き抜いてきた陸奥がこのような一面を見せていたというのは意外です。
◆詭弁に任せて「死物狂い」で訊問に臨んだものの……
陸奥は、逮捕をされて観念はしたものの、「どう言い抜けようか」、「同志は何と白状したか」、「罪はどうなるだろうか」と千思万考。果ては徹頭徹尾事件について否認し、詭弁(きべん)に任せて切り抜けようと考えます。
そして、公判。裁判長は「今大岡」とも呼ばれた名判事の玉乃世覆(たまの・よふみ。大審院長代理)でした。陸奥は「もうこうなっては死物狂い」と、誰であろうと切り抜けようと勇気を鼓舞し、訊問(じんもん)に臨みます。
長時間の訊問が終わり、ひとまず休憩となりますが、裁判官休憩所の窓際を通った際、裁判官たちが大声で笑うのを聞いて、陸奥は「愕然(がくぜん)として落胆の淵に沈んだ」ようです。自分の弁が判事らを動かせず、かえってその笑いを招いたのかと感じ、勇気も挫けたと述懐しています(前掲『七十七年の回顧』)。
陸奥は、自分一代の大失策と悔やみ、のちのちまでこの事件に触れたがらなかったようです。
「カミソリ大臣」と呼ばれた陸奥も、このような失敗をしていたのを知ると、なんとも人間臭さを感じます。
やっていることはとんでもないですが……。
政府転覆計画に加担した前科がある陸奥を入閣させるのに、明治天皇が難色を示したのは当然です。それでも陸奥の人となりを見込み、入閣させた山縣有朋は慧眼(けいがん)です。ここでの入閣がなければ、後の偉大な陸奥外交はありえませんでした。
人を見る目が大事だと思わされます。(佐々木大輔)