2019.6.26 皇室
令和の御代が始まって以降、「女性天皇・女系天皇を将来導入すべきだ」という報道を目にする機会がにわかに増えたように思われます。ここでは、それとも関わるキーワードとして「桂宮家(かつらのみやけ)」を取り上げたいと思います。
本題に入る前にまず押さえておいていただきたいのは、「皇室では先例を何より重んじている」ということです。今までになかった新しいことは「新儀(しんぎ)」と呼ばれ、皇室において新儀は不吉とされます。その時々の人が自分の頭の中で考えて「これが正しい」と主張するのではなく、今までの歴史の中で「何が正しいのか」を探し求めるのが基本姿勢なのです。言い換えれば、皇室において何かをする際には先例があるのかないのか、あった場合それは良い先例(佳例)なのか悪い先例(凶例)なのかが判断基準となります。
その大前提で、「桂宮家」について見ていきましょう。
「桂宮家(かつらのみやけ)」といわれてもピンとこない方が多いでしょう。あるいは、2014年に薨去(こうきょ=皇族が亡くなること)された桂宮宜仁親王(かつらのみやよしひとしんのう。三笠宮崇仁親王〈みかさのみやたかひとしんのう〉の第2男子)を思い浮かべた方もいるかもしれません。今回取りあげるのは桂宮宜仁親王ではなく、江戸時代初期から明治中期に存在した世襲親王家(注1)の一つである桂宮家です。
桂宮家の起こりは、後陽成天皇の御代にさかのぼります。初代は後陽成天皇の弟である智仁親王(としひとしんのう)です。
智仁親王は豊臣秀吉の猶子(ゆうし=兄弟・親類または他人の子を自分の子としたもの)となり将来は関白職を譲るという約束があったものの、秀吉に実子(鶴松)が生まれたことで猶子関係を解消されました。その後は秀吉の要請によって天正17(1589)年に八条宮家を創設したことによって宮家が始まります。
秀吉の死後に後陽成天皇は自分の子供ではなく、智仁親王に譲位しようと試みましたが、徳川家康の反対により断念したとされています。智仁親王が晩年に京都の桂という地域に別荘を造営したことが桂宮と呼ばれる由来です。この別荘は現在では桂離宮として知られています。
宮号の変遷についても触れておきます。この八条宮家を霊元天皇の皇子・作宮(さくのみや)が第6代当主として継承する際に常磐井宮(ときわいのみや)の宮号を与えられました。その作宮が2年半ほどで夭折(ようせつ)してしまったので、同じく霊元天皇の皇子で作宮の兄・文人親王が第7代当主として継承する際に、京極宮(きょうごくのみや)の宮号を与えられました。第9代当主の公仁親王(きんひとしんのう)が薨ずる(こうずる)とその妃・寿子が当主を務めるものの、彼女が寛政元年(1789年)に亡くなると、その後20年ほど当主不在(空主)になりました。
次に宮家の継承を試みたのは200年ぶり譲位で話題になった光格天皇です。文化7年(1810年)に光格天皇の皇子である盛仁親王(たけひとしんのう)が京極宮家を継承し桂宮号を与えられました。しかしながら盛仁親王は2歳で薨去し、24年間の空白の後は天保6年(1835年)に仁孝天皇の皇子・節仁親王(みさひとしんのう)が当主になります。ですが、この節仁親王も宮家を継承した翌年に4歳で薨去してしまいます。
それからさらに26年間の空主の後、文久2年(1863年)に桂宮家を継承したのが節仁親王の姉であり、徳川家茂の正室・和宮の異母姉である淑子内親王(すみこないしんのう)です。彼女は若い頃に閑院宮愛仁親王(かんいんのみや なるひとしんのう)と婚約していたものの、婚儀の前に親王が薨去してしまい独身のまま皇族に留まっていました。桂宮家を継承した後も独身のまま、明治14年(1881)にその生涯を終え、ここに桂宮家は断絶しました。
ここまで見てきたように、当主が夭折することが度々あり、空主の時期も何年もあるなど、幸運であったとはいい難い桂宮家ですが、昨今注目を集めています。桂宮淑子内親王が日本史上で唯一宮家の当主となった先例だからです。
先述した第9代の京極宮公仁親王妃や、現在の高円宮憲仁親王妃の久子妃殿下のように女性が宮家の当主になることは例がありますが、内親王が宮家の当主になったのは桂宮の他に例がありません。
現在の皇室の構成としては内親王・女王が多く、結婚されると公務の担い手が減少してしまいます。そこで、政府内で内親王らによる女性宮家が検討されたことがありました。
しかし、冒頭でも述べたように、皇室のことは先例が大事です。それでは女性宮家は佳例といえるでしょうか? 桂宮家は彼女の代で断絶したので佳例とはいい難く(倉山満『世界一わかりやすい天皇の講座』扶桑社新書)、仮に制度化するとしても積極的に導入すべきものとはいえません。
皇室のこれからを考える際に先例の一つとして桂宮家のことはぜひ覚えておいてください。(八洲加美世)
注:古代より皇族は代を重ねるといずれ臣籍降下しなければならない慣習が存在していたが、その一方で皇統を維持するため当主が時の天皇と猶子の関係を結び親王宣下を受け代々皇室に留まることを例外的に許された宮家のこと。近世以降では伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の4つがあり桂宮家以外からは天皇が誕生している。
参考文献:
倉山満『世界一わかりやすい天皇の講座』扶桑社新書2018
若松 正志『日本史上の親王・宮家に関する基礎的研究 : 近世の桂宮家を中心に』
京都産業大学総合学術研究所所報 (9), 163-170, 2014-07
本題に入る前にまず押さえておいていただきたいのは、「皇室では先例を何より重んじている」ということです。今までになかった新しいことは「新儀(しんぎ)」と呼ばれ、皇室において新儀は不吉とされます。その時々の人が自分の頭の中で考えて「これが正しい」と主張するのではなく、今までの歴史の中で「何が正しいのか」を探し求めるのが基本姿勢なのです。言い換えれば、皇室において何かをする際には先例があるのかないのか、あった場合それは良い先例(佳例)なのか悪い先例(凶例)なのかが判断基準となります。
その大前提で、「桂宮家」について見ていきましょう。
●「桂宮家」とはどういう宮家か?
「桂宮家(かつらのみやけ)」といわれてもピンとこない方が多いでしょう。あるいは、2014年に薨去(こうきょ=皇族が亡くなること)された桂宮宜仁親王(かつらのみやよしひとしんのう。三笠宮崇仁親王〈みかさのみやたかひとしんのう〉の第2男子)を思い浮かべた方もいるかもしれません。今回取りあげるのは桂宮宜仁親王ではなく、江戸時代初期から明治中期に存在した世襲親王家(注1)の一つである桂宮家です。
桂宮家の起こりは、後陽成天皇の御代にさかのぼります。初代は後陽成天皇の弟である智仁親王(としひとしんのう)です。
智仁親王は豊臣秀吉の猶子(ゆうし=兄弟・親類または他人の子を自分の子としたもの)となり将来は関白職を譲るという約束があったものの、秀吉に実子(鶴松)が生まれたことで猶子関係を解消されました。その後は秀吉の要請によって天正17(1589)年に八条宮家を創設したことによって宮家が始まります。
秀吉の死後に後陽成天皇は自分の子供ではなく、智仁親王に譲位しようと試みましたが、徳川家康の反対により断念したとされています。智仁親王が晩年に京都の桂という地域に別荘を造営したことが桂宮と呼ばれる由来です。この別荘は現在では桂離宮として知られています。
宮号の変遷についても触れておきます。この八条宮家を霊元天皇の皇子・作宮(さくのみや)が第6代当主として継承する際に常磐井宮(ときわいのみや)の宮号を与えられました。その作宮が2年半ほどで夭折(ようせつ)してしまったので、同じく霊元天皇の皇子で作宮の兄・文人親王が第7代当主として継承する際に、京極宮(きょうごくのみや)の宮号を与えられました。第9代当主の公仁親王(きんひとしんのう)が薨ずる(こうずる)とその妃・寿子が当主を務めるものの、彼女が寛政元年(1789年)に亡くなると、その後20年ほど当主不在(空主)になりました。
次に宮家の継承を試みたのは200年ぶり譲位で話題になった光格天皇です。文化7年(1810年)に光格天皇の皇子である盛仁親王(たけひとしんのう)が京極宮家を継承し桂宮号を与えられました。しかしながら盛仁親王は2歳で薨去し、24年間の空白の後は天保6年(1835年)に仁孝天皇の皇子・節仁親王(みさひとしんのう)が当主になります。ですが、この節仁親王も宮家を継承した翌年に4歳で薨去してしまいます。
それからさらに26年間の空主の後、文久2年(1863年)に桂宮家を継承したのが節仁親王の姉であり、徳川家茂の正室・和宮の異母姉である淑子内親王(すみこないしんのう)です。彼女は若い頃に閑院宮愛仁親王(かんいんのみや なるひとしんのう)と婚約していたものの、婚儀の前に親王が薨去してしまい独身のまま皇族に留まっていました。桂宮家を継承した後も独身のまま、明治14年(1881)にその生涯を終え、ここに桂宮家は断絶しました。
●「女性宮家」は積極的に導入すべきものか否か?
ここまで見てきたように、当主が夭折することが度々あり、空主の時期も何年もあるなど、幸運であったとはいい難い桂宮家ですが、昨今注目を集めています。桂宮淑子内親王が日本史上で唯一宮家の当主となった先例だからです。
先述した第9代の京極宮公仁親王妃や、現在の高円宮憲仁親王妃の久子妃殿下のように女性が宮家の当主になることは例がありますが、内親王が宮家の当主になったのは桂宮の他に例がありません。
現在の皇室の構成としては内親王・女王が多く、結婚されると公務の担い手が減少してしまいます。そこで、政府内で内親王らによる女性宮家が検討されたことがありました。
しかし、冒頭でも述べたように、皇室のことは先例が大事です。それでは女性宮家は佳例といえるでしょうか? 桂宮家は彼女の代で断絶したので佳例とはいい難く(倉山満『世界一わかりやすい天皇の講座』扶桑社新書)、仮に制度化するとしても積極的に導入すべきものとはいえません。
皇室のこれからを考える際に先例の一つとして桂宮家のことはぜひ覚えておいてください。(八洲加美世)
注:古代より皇族は代を重ねるといずれ臣籍降下しなければならない慣習が存在していたが、その一方で皇統を維持するため当主が時の天皇と猶子の関係を結び親王宣下を受け代々皇室に留まることを例外的に許された宮家のこと。近世以降では伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の4つがあり桂宮家以外からは天皇が誕生している。
参考文献:
倉山満『世界一わかりやすい天皇の講座』扶桑社新書2018
若松 正志『日本史上の親王・宮家に関する基礎的研究 : 近世の桂宮家を中心に』
京都産業大学総合学術研究所所報 (9), 163-170, 2014-07