【平井基之の東大入試でわかる歴史のツボ4】皇位の安定継承のために

「平成」から「令和」への移り変わりを日本人は大いに祝しましたが、その背景には上皇陛下の大御心がありました。平成28年8月8日のビデオメッセージがそれです。「これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました」とおっしゃる陛下のお気持ちが多くの日本人にまっすぐに伝わり、それからわずか3年たらずで200年ぶりの譲位が実現したのです。では、皇室の継続はどのような歴史を辿ったのでしょうか?

◆皇位の継承のルールは、先例、男系、直系である。


 ご存じの通り、誰でも天皇になれるわけではありません。まずは、簡単に皇位の継承のルールをおさらいしましょう。

(1)男系が絶対である
(2)直系を優先させる

 男系とは「お父さんの、そのまたお父さんの、そのまたお父さんの……」と辿ると天皇に行きつくという意味です。

 男系ということを説明するために、あえてわかりやすい例を出すならば(皇室の話をするときに適切かどうかわかりませんが)、サザエさんでおなじみの磯野家でいうと、サザエ、カツオ、ワカメは波平の男系であるといえますが、タラちゃんはサザエさん(母)から波平(父)へと辿らなければならないので、男系ではありません。




 皇室の方々も当然ながら、結婚もすれば出産もしますから、系図を見れば男系の方も女系の方もいらっしゃいます。だから誰でも皇位継承権があるとは限りません。

 特に、女性天皇というのは積極的に誕生するわけではありません。サザエさんまでは男系であっても、サザエさんの子供のタラちゃんが女系になってしまうように、女性天皇の子は男系ではなくなり、これまでと同じルールでは皇位継承ができなくなってしまう。つまり皇室の安定継承につながらないからです。

 また、「五世の孫(そん)」というルールがあり、5親等離れると皇位継承権はなくなります。つまりあまりに血が離れてしまったら天皇にはなれません。これらを踏まえると、一度女性天皇が誕生すると、離れた家系図から次期天皇を決めなければならなくなり、皇室の安定が保たれない可能性があるのです。

 5親等以内で、かつ男系の人物が複数いた場合、直系が優先されます。しかしこれは絶対ではありません。男系は絶対のルールですが、直系のルールは男子の子供がいないなどの理由で守れないことがありますから、絶対ではないのです。

 ちなみに、これらは「先例」を尊ぶ皇室の文化によります。過去の皇室の歴史で「男系は絶対」「五世の孫」「直系優先」などの文化が育まれたため、現在もそれに基づいて考えます。

◆東大入試は「皇位継承」で何を問うたか?


 以上を踏まえ、この東大入試をご覧ください。今回は2019年の東大日本史第2問です。(一部改変)

《次の(1)~(3)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい》

(1) 1235年、隠岐に流されていた後鳥羽上皇の帰京を望む声が朝廷で高まったことをうけ、当時の朝廷を主導していた九条道家は鎌倉幕府に後鳥羽上皇の帰京を提案したが、幕府は拒否した。

(2) 後嵯峨上皇は、後深草上皇と亀山天皇のどちらが次に院政を行うか決めなかった。そのため、後嵯峨上皇の没後、天皇家は持明院統と大覚寺統に分かれた。

(3) 持明院統と大覚寺統からはしばしば鎌倉に使者が派遣され、その様子は「競馬のごとし」と言われた。

[設問]
A:後鳥羽上皇が隠岐に流される原因となった事件について、その事件がその後の朝廷と幕府の関係に与えた影響にもふれつつ、60字以内で説明しなさい。

B:持明院統と大覚寺統の双方から鎌倉に使者が派遣されたのはなぜか。次の系図を参考に、朝廷の側の事情、およびAの事件以後の朝廷と幕府の関係に留意して、90字以内で述べなさい。



◆150年以上も皇位の継承を巡る争いが……


 問題文に書かれているように、後嵯峨天皇が次の院政を行う者を決めなかったため、その子であった後深草天皇と亀山天皇のあいだで対立が起きます。これが持明院統と大覚寺統です。与えられた系図を見れば、持明院統と大覚寺統で皇位を交互に継いでいるのがわかるでしょう。

 これは、両統が仲良く「順番に交代しようね」などと約束したわけではありません。両統が対立して仕方ないので、第三者である幕府が「両統迭立(てつりつ)」を提案し、仲裁に入ったのです。

 皇室の問題なのに、幕府が介入した理由はもう1つあります。1221年の承久の乱で、幕府が朝廷側に勝ち、幕府権力が強まっていたからです。

 その後、幕府が皇位継承に介入しない代わりに「文保の和談」という10年ごとの両統迭立を決定します。これで一件落着かと思われましたが、両統ともに十分な合意に達しません。「競馬のごとく」幕府に使いを出し、贔屓(ひいき)してもらえるように計らったのです。

 そのまましばらくたつと、大覚寺統から後醍醐天皇が誕生し、あの有名な南北朝の争乱に発展します。南北朝の争乱が終わるのは1392年ですから、かれこれ150年以上も皇位の継承を巡って争っていたのです。

◆悠仁親王殿下と愛子内親王殿下


 このように皇位の継承とは、大変な問題なのです。誰が皇位を継ぐかで、その子、その孫、いや100年単位で日本の未来が決まる可能性があります。そして、そこに政治権力が絡みます。鎌倉時代でいえば主に鎌倉幕府、現代でいえば日本国政府です。時の政権の意向を無視して皇位は語れません。

 鎌倉時代にも、男系が絶対、直系が優先というルールはありました。それでも、後嵯峨天皇が次の院政を行う者を決めなかったばかりに、争いは起こってしまいました。

 悠仁親王殿下は男系で男性です。悠仁親王殿下に男の子が生まれたら、その世代まで皇室が続くことが決まります。

 一方、現在、「愛子内親王殿下を未来の天皇に」と声を上げている人もいます。しかし、どうでしょう。愛子内親王殿下は確かに男系ですが、愛子内親王殿下のお子様は男系にならず、皇位継承ができません。

 つまり皇室の歴史を辿ると、悠仁親王殿下に天皇になっていただくことが安定継続であることは一目瞭然です。愛子内親王殿下が天皇になるように主張することは、不用意に対立を生んでしまう可能性さえあるのです。(平井基之)

参考・引用文献:
『日本一やさしい天皇の講座』倉山満、扶桑社新書、2017年