【源氏物語で見る平安時代1】謎の女「夕顔」の隣人、賤の男たち

2019.4.17 源氏物語
 『源氏物語』は、いわずと知れた日本の古典の傑作の一つであり、紫式部によって西暦1000年頃に書かれたものです。「紫式部日記」の寛弘5年(1008)11月1日の記述には、『源氏物語』がすでに書かれていて、当時の貴族社会でその内容が知られていたことをうかがわせる内容が出てきます(そのため、11月1日は「古典の日」とされます)。

 この『源氏物語』をひもとくと、平安時代の人々の生き方、暮らし方、考え方などが、よく伝わってききます。平安時代の人々は、どのような日々を送っていたのか。何を感じ、何を考えていたのか。1000年以上の時を超えて、それらを読み解いていきましょう。

◆庶民の家に囲まれていた夕顔の屋敷


 『源氏物語』女性キャラ人気投票をすると必ずベスト3に入ってくるのが「夕顔」です。物語の序盤に有名な「雨夜の品定め」という女性論があり、「上流でないところにも上の女性はいる」という話になります。そこで早速、「色好み」たる光源氏が発掘した女性が夕顔です。実は夕顔は、光君の義兄にして親友・頭中将がかつて愛した人だったりします。

 夕顔は、顔を隠して逢いに来ていた光君がいよいよ覆面を解いたとき、「たいしたことないわねフン」などといってみせるような女性です。添い寝をしたまま物の怪(もののけ)にとりつかれて死んでしまいますから、なおさら謎めき、昔から性別問わず多くの人に人気があります。『源氏物語』から半世紀ほど後に書かれた『更科日記(さらしなにっき)』で菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は、私も夕顔みたいになりたい、などといっています。

 光君が夕顔を訪ねた8月の十五夜の翌日、暁近くといいますから曙(あけぼの)の前のまだ暗い時間に、外から男の声が聞こえてきます。「今年はまったく商売もさっぱりで、田舎行商も期待できそうもないし、心細い。北のお隣りさん、聞こえるかい」。そんなことをいいあっているのは「あやしき賤の男(しづのを)」、身分の賤(いや)しい男たちです。『源氏物語』に平安庶民が登場する数少ない場面の一つでもあります。

 夕顔は、三位中将まで出世した近衛府(このえふ)官僚の娘です。家柄は悪くはありません。事情があって外の声が丸聞こえするような隙間だらけの仮住まいですが、女房も、雑用係の女童(めのわらわ)も何人かいるお屋敷です。とはいえ貴族ではない庶民の小家にしっかり囲まれていたということになるわけです。

◆「賤の男」の正体は東市で働く商人たち


 さて、では夕顔の仮住まいは、平安京のどこにあったのでしょうか。

 光君は六条御息所(元東宮の妻)の屋敷に通う途上で夕顔を見つけました。仮住まいの住所は五条としてあります。平安京は、天皇の住まいと朝廷機能のある区画・大内裏を中央北に配置して、大内裏から南に延びる朱雀大路を中心に左京(東京)・右京(西京)を左右対称に建設した都市です。北の端から大内裏の南端までをまず一条として、その後、区画4つずつで南へ下がり、二条から九条まで大路で区切って整理してあります。つまり、条の数字が増えるほど大内裏から離れていきます。

 六条御息所の屋敷は左京の六条の東端にありました。夕顔の仮住まいは五条ですから、一つ上の条です。そして、条をふたつ下がった七条大路に面して、左京の市場「東市」がありました。夕顔の隣人である賤の男たちは、この市場で働く商人たちです。

 東市に対して右京には西市がありました。朝廷は「市司」という役職を置き、価格の適正管理まで行っていたといいます。東西各市場の取扱品目も定められ、布・麦・木綿・木器・馬などは東市、土器・牛・綿・絹・麻・味噌などは西市の専売でした。

 光君は賤の男たちの声とともに「しろたへの衣うつ砧(きぬた)の音」を聞いています。「しろたへ」は梶の木の繊維で織った布。砧で打つとツヤが出ます。夕顔の隣人は東市の布商で、市のないときには田舎行商に出ました。月前半は東、後半は西と、市の営業期間も市司が管理していました。

 田舎行商とは、平安京の外で商いすることを指します。源氏物語の作者にとっては、平安京の外はすべて「ゐなか(田舎)」です。その反義語が「みやび(雅)」です。雅は平安京に生まれて暮らした宮廷人のみにまつわる、平安京という場所に厳しく支配される言葉です。『伊勢物語』(平安初期成立)がそう定義しているので仕方ありません。

◆六条御息所はなぜ六条に住んでいたか――平安京の住宅難


 東西の市の様相は、実際、源氏物語が書かれる頃にはずいぶん違っていたようです。西の市、というより、右京つまり平安京の西半分は荒廃し続けていました。これは、六条御息所の屋敷がなぜ六条の東端などという辺鄙(へんぴ)な、つまり大内裏から遠く離れたところにあったのかということにも大きく関係します。

 問題は平安京の地形でした。水はけです。東北から南西にかけて傾斜しており、遷都後100年ほどを経て西側の右京は湿地帯と化したようです。

 これにより、東側にある左京の地価が高騰しました。逆手をとって右京の湿地を安値で買い取り、葦(あし)を大量に敷いて宅地を造成・売却して大儲けした役人の話が『今昔物語集』(平安末期成立)の巻第二十六に出てきます。

 10世紀の文人・慶滋保胤の『池亭記』には、左京の四条から北に貴賤かかわらず宅地が密集し、かつ上流貴族の邸宅が門を競っている様子が残されています。四条から南を除いては、屋敷が新規に入手できる状況ではなくなっていました。

 六条御息所は、元東宮の妻ですが、そのレベルでも六条に屋敷を構えるのが精いっぱい、ということです。

『源氏物語』では、六条御息所の屋敷は後に光君のものとなり大邸宅「六条院」になるわけですが、フィクションとして光源氏の六条院があった場所に後白河法皇が整備したのが、院政の拠点となった「六条殿」です。(尾崎克之)


参考文献:
『源氏物語評釈』玉上琢彌、角川書店、1964年
『潤一郎訳源氏物語』谷崎潤一郎、中央公論社、1973年
『平安京提要』角田文衛・総監修、角川書店、1994年
『なぜ、地形と地理がわかると古代史がこんなに面白くなるのか』千田稔・監修、洋泉社、2015年