2019.7.22 源氏物語
およそ500人を数える人物が登場する、日本の古典の傑作の一つ『源氏物語』(西暦1000年頃より成立)。そのなかで女性キャラはといえば、明らかに光源氏との男女の関係が描かれている女性が13名、その他、光君が思いを寄せている、または思いを寄せられていると思われる女性は数限りなく、といった調子で登場します。
なかでも、別格と思われるサブ女性キャラの1人が「五節君(ごせちのきみ)」です。もしかすると光君が一時期、最も夢中になり、また光君を心情レベルで最も愛していたのはこの人、「五節君」ではなかったかと思われるくらい、登場時にはピカリと光ります。
「五節君」は別の呼び名を「筑紫五節(つくしのごせち)」。父親が九州太宰府の官僚だからです。そういうわけで「五節君」は、九州と都を行き来するのですが、その様子から、平安時代の水上交通がどんなものだったか、当時の船がどんなものだったかということもまた、見えてきます。
光源氏が「五節君」と出会ったのは25歳頃。大嘗祭あるいは新嘗祭で催される4~5人の女性の舞いを五節舞というのですが、その舞姫の1人が「五節君」でした。
《あの筑紫の五節の舞姫こそ、なかなか可愛らしかったがと、まず第一にお思い出しになる》光君を、源氏の作者は《どんな相手の場合でも、お心の休まる暇がなくて御苦労なことです》と皮肉をかまします。《一度でもお逢いになった女の情けは、年月を経てもお忘れにならない》とほめておいて、《それがかえって多くの人々の物思いの種になります》とくさします。
こういう複数の視点からの記述が、源氏物語の特徴の一つです。1つのことをいろいろに書くので源氏物語は、くどくどとあんなに長く、読んでいるほうは嫌になって投げ出すか、または逆にそこが魅力になってハマってしまうのです。
2人に男女関係があったかどうかはわかりません。物語のなかで時に光君は「五節君」のことを鮮やかに思い出し、光君最晩年の帖「幻」にも登場します。「五節君」はというと、こんな調子です。《絶えずお慕い申していますのを、親たちがさまざまに言い聞かしなどすることもあるのですが、他の人に添おうとは考えてもいないのでした》。泣けてきます。政略優先の存在であった平安の姫様も、恋心は、いまとまったく変わりません。
この「五節君」が、光君の屋敷のある須磨(いまの兵庫県神戸市須磨区)の浜辺の沖合を船で通りかかります。光君は、政敵「古稀殿女御(こきでんのにょうご)」の妹「朧月夜(おぼろづきよ)」に手を出して危険な立場に立たされ、自ら政界から身を退いて須磨に蟄居(ちっきょ)していました。
「五節君」はそのとき、《琴の音に引きとめらるる綱手縄 たゆたふこころ君知るらめや》という歌を光君に寄こします。光君の屋敷の管弦の音が、船まで聞こえてきたのでした。
ちなみにこの歌は、鎌倉源家3代目、和歌将軍・実朝の《わが恋は籠の渡りの綱手縄 たゆたふ心やむ時もなし》、さらにいうと百人一首収録の《世の中は常にもがもな渚漕ぐ あまの小舟の綱手かなしも》の元歌です。実朝の教育係だった鎌倉和歌奉行・源親行は父・光行とともに源氏物語研究家でしたから、当然、実朝も源氏物語の教養がありました。
さて、「五節君」はなぜ船に乗っていたのでしょうか。それは、父親が九州太宰府赴任を終えて平安京に帰る旅に「五節君」は同行していたからでした。その様子は《一族の人数もおびただしく多く、娘たちが何人もいまして陸路は厄介なところから、北の方は船で上ります。浦伝いに遊山気分でやって来ますと、須磨はほかより面白い海辺ですから》とあります。
面倒だし、賊に襲われる危険もありますから、当時、女人の長旅は船と相場が決まっていました。航海は、《浦伝い》つまり海岸線沿いを行きます。なぜ海岸線沿いを行くのかというと、船の構造に理由があります。
平安時代当時の船は、どんなものだったでしょうか。それを考えるのにいちばん参考になるのは894年を最後に派遣が廃止された遣唐使船です。
遣唐使船は中国系ジャンク構造だったことが、海事史学者・石井謙治氏らの調査研究でわかっています。ジャンク構造とは、外板を張って多数の隔壁をつくり、水密性を確保するとともに荷物も積載できるようにした造船構造です。竜骨を持たずに船底は平たく、喫水線の浅い、つまり水深を必要としない河川や内海航海に向く船です。
江戸時代初期の朱印船まで、日本の船は基本的にこの構造が踏襲されていました。「五節君」の乗る船もまた、大きさは別として、すでに室町から江戸時代あたりの船と同等の性能を持っていたと考えられるでしょう。
とはいえ、遣唐使船がかなり性能の高い大型外洋航行船だったことも石井氏らの研究でわかっています。船底が平たいのがジャンク構造の特徴のはずなのですが、9世紀の僧・円仁の著作「入唐求法巡礼行記」にこんな一節が出てきます。遣唐使船が浅瀬に乗り上げて難破したときの様子です。
「船はついに傾き覆りて……久しからざる頃、船また覆り」
船が傾いた、というのは船底がV字型だった証拠です。V字型は、外洋の波の抵抗をやわらげる外洋航行用の船底設計です。
従来、遣唐使船は遭難する確率が高かったといわれてきました。たしかに後半8回のうち、4隻すべての船が無事に往復したのは1回だけです。しかし、それは全隻が往復に成功した記録であって、全遣唐使船の約7割は帰国していたという最近の調査研究もあります。
遣唐使船については、その造船技術も航海技術も、再評価されつつあります。船は木造物ですから遺跡として残りにくい遺物の筆頭ですが、縄文時代の航海術も含め、海洋国家・日本を船の歴史で見る試みは、今後ますます興味深いものになるはずです。(尾崎克之)
参考・引用文献:
『源氏物語評釈』玉上琢彌、角川書店、1964年
『潤一郎訳源氏物語』谷崎潤一郎、中央公論社、1973年
『和船2 ものと人間の文化史』石井謙治、法政大学出版局、1995年
『日本の船を復元する』石井謙治、学研、2002年
『図説 船の歴史』庄司邦昭、河出書房新社、2010年
なかでも、別格と思われるサブ女性キャラの1人が「五節君(ごせちのきみ)」です。もしかすると光君が一時期、最も夢中になり、また光君を心情レベルで最も愛していたのはこの人、「五節君」ではなかったかと思われるくらい、登場時にはピカリと光ります。
「五節君」は別の呼び名を「筑紫五節(つくしのごせち)」。父親が九州太宰府の官僚だからです。そういうわけで「五節君」は、九州と都を行き来するのですが、その様子から、平安時代の水上交通がどんなものだったか、当時の船がどんなものだったかということもまた、見えてきます。
◆光君の屋敷の管弦の音が、船まで聞こえてきて……
光源氏が「五節君」と出会ったのは25歳頃。大嘗祭あるいは新嘗祭で催される4~5人の女性の舞いを五節舞というのですが、その舞姫の1人が「五節君」でした。
《あの筑紫の五節の舞姫こそ、なかなか可愛らしかったがと、まず第一にお思い出しになる》光君を、源氏の作者は《どんな相手の場合でも、お心の休まる暇がなくて御苦労なことです》と皮肉をかまします。《一度でもお逢いになった女の情けは、年月を経てもお忘れにならない》とほめておいて、《それがかえって多くの人々の物思いの種になります》とくさします。
こういう複数の視点からの記述が、源氏物語の特徴の一つです。1つのことをいろいろに書くので源氏物語は、くどくどとあんなに長く、読んでいるほうは嫌になって投げ出すか、または逆にそこが魅力になってハマってしまうのです。
2人に男女関係があったかどうかはわかりません。物語のなかで時に光君は「五節君」のことを鮮やかに思い出し、光君最晩年の帖「幻」にも登場します。「五節君」はというと、こんな調子です。《絶えずお慕い申していますのを、親たちがさまざまに言い聞かしなどすることもあるのですが、他の人に添おうとは考えてもいないのでした》。泣けてきます。政略優先の存在であった平安の姫様も、恋心は、いまとまったく変わりません。
この「五節君」が、光君の屋敷のある須磨(いまの兵庫県神戸市須磨区)の浜辺の沖合を船で通りかかります。光君は、政敵「古稀殿女御(こきでんのにょうご)」の妹「朧月夜(おぼろづきよ)」に手を出して危険な立場に立たされ、自ら政界から身を退いて須磨に蟄居(ちっきょ)していました。
「五節君」はそのとき、《琴の音に引きとめらるる綱手縄 たゆたふこころ君知るらめや》という歌を光君に寄こします。光君の屋敷の管弦の音が、船まで聞こえてきたのでした。
ちなみにこの歌は、鎌倉源家3代目、和歌将軍・実朝の《わが恋は籠の渡りの綱手縄 たゆたふ心やむ時もなし》、さらにいうと百人一首収録の《世の中は常にもがもな渚漕ぐ あまの小舟の綱手かなしも》の元歌です。実朝の教育係だった鎌倉和歌奉行・源親行は父・光行とともに源氏物語研究家でしたから、当然、実朝も源氏物語の教養がありました。
さて、「五節君」はなぜ船に乗っていたのでしょうか。それは、父親が九州太宰府赴任を終えて平安京に帰る旅に「五節君」は同行していたからでした。その様子は《一族の人数もおびただしく多く、娘たちが何人もいまして陸路は厄介なところから、北の方は船で上ります。浦伝いに遊山気分でやって来ますと、須磨はほかより面白い海辺ですから》とあります。
面倒だし、賊に襲われる危険もありますから、当時、女人の長旅は船と相場が決まっていました。航海は、《浦伝い》つまり海岸線沿いを行きます。なぜ海岸線沿いを行くのかというと、船の構造に理由があります。
◆実は、遣唐使船もかなり性能が高かった
平安時代当時の船は、どんなものだったでしょうか。それを考えるのにいちばん参考になるのは894年を最後に派遣が廃止された遣唐使船です。
遣唐使船は中国系ジャンク構造だったことが、海事史学者・石井謙治氏らの調査研究でわかっています。ジャンク構造とは、外板を張って多数の隔壁をつくり、水密性を確保するとともに荷物も積載できるようにした造船構造です。竜骨を持たずに船底は平たく、喫水線の浅い、つまり水深を必要としない河川や内海航海に向く船です。
江戸時代初期の朱印船まで、日本の船は基本的にこの構造が踏襲されていました。「五節君」の乗る船もまた、大きさは別として、すでに室町から江戸時代あたりの船と同等の性能を持っていたと考えられるでしょう。
とはいえ、遣唐使船がかなり性能の高い大型外洋航行船だったことも石井氏らの研究でわかっています。船底が平たいのがジャンク構造の特徴のはずなのですが、9世紀の僧・円仁の著作「入唐求法巡礼行記」にこんな一節が出てきます。遣唐使船が浅瀬に乗り上げて難破したときの様子です。
「船はついに傾き覆りて……久しからざる頃、船また覆り」
船が傾いた、というのは船底がV字型だった証拠です。V字型は、外洋の波の抵抗をやわらげる外洋航行用の船底設計です。
従来、遣唐使船は遭難する確率が高かったといわれてきました。たしかに後半8回のうち、4隻すべての船が無事に往復したのは1回だけです。しかし、それは全隻が往復に成功した記録であって、全遣唐使船の約7割は帰国していたという最近の調査研究もあります。
遣唐使船については、その造船技術も航海技術も、再評価されつつあります。船は木造物ですから遺跡として残りにくい遺物の筆頭ですが、縄文時代の航海術も含め、海洋国家・日本を船の歴史で見る試みは、今後ますます興味深いものになるはずです。(尾崎克之)
参考・引用文献:
『源氏物語評釈』玉上琢彌、角川書店、1964年
『潤一郎訳源氏物語』谷崎潤一郎、中央公論社、1973年
『和船2 ものと人間の文化史』石井謙治、法政大学出版局、1995年
『日本の船を復元する』石井謙治、学研、2002年
『図説 船の歴史』庄司邦昭、河出書房新社、2010年