【幕末史のキーワード2】化政文化が花開いた大御所時代

 幕末に尊王思想が学問上の概念ではなく、政治上の実体となった大元には、江戸時代後期の光格天皇の存在がありました。徳川の定めた法の下に置かれながら、皇室と朝廷の権威を高めた天皇で、現在の皇室の直系のご先祖様です。

 光格天皇(こうかくてんのう)は旧儀の復興や、有職故実(ゆうそくこじつ)の研究、学問の振興に大きな御事績のある天皇ですが、これを財政面で支えたのは、実は徳川幕府でした。どのような背景があったのか、見てみましょう。

●「この日本は天皇陛下からお預かりしたもの」


 皇室・朝廷と武家政権との関係は、江戸時代にかぎらず、時に対立し、時に互いに利用し合うといったものですが、江戸時代後期の光格天皇(こうかくてんのう)の御世に、とても良好な関係が築かれた時期があります。第11代将軍、徳川家斉(いえなり)の時代です。

 家斉は一橋家(ひとつばしけ)出身です。安永2年(1773)10月5日、江戸城一橋邸で誕生しました。光格天皇とは2歳違いの同年代です。

 一橋家は、田安家(たやすけ)、清水家(しみずけ)とならぶ御三卿(ごさんきょう)です。御三卿は第8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の子らによって創設され、徳川将軍家や徳川御三家に跡継ぎがない場合には、後継者を出す役割を担っていました。ちょうど皇室と宮家の関係のような仕組みです。

 第十代将軍・徳川家治(いえはる)の世子、家基(いえもと)が18歳で急死すると、一橋家2代目当主の徳川治済(はるさだ)は四男の豊千代(家斉)を家治の養子に入れます。6年後の天明7年(1787)に、家治の死去により、弱冠15歳(数え年)で将軍となりました。

 将軍の代替わりにともなって、幕府内でも政変となります。先々代の第九代将軍・家重(いえしげ)の頃から頭角を現わし、将軍・家治時代に権勢を振るった田沼意次(たぬま・おきつぐ)は、家治の死とともに失脚します。田沼に代わり、白河藩主・松平定信(まつだいら・さだのぶ)が老中に進みました。定信は御三卿の田安家出身で、譜代白河藩(福島県)の養嗣子となります。老中への登用は、将軍の実父である徳川治済の推薦です。

 松平定信は、若年の将軍・家斉の教育のため、「将軍家御心得十五箇条」を書いています。この日本は天皇陛下からお預かりしたもので、将軍として治めることは陛下への忠勤だという内容です。幕末の「大政委任論」として知られますが、江戸時代初期から熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん)ら儒学者によって説かれていた考え方です。泰平の世になってなお、武家が執政を行う根拠とされました。定信が家斉に示した「十五箇条」も、「私心で好き勝手してはいけませんよ」という趣意です。

●尊号事件と松平定信の失脚


 家斉が将軍職に就いて3年ほど経ち、朝廷から光格天皇の叡慮が提示されます。父の閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)に太上天皇の尊号を贈りたいという意向です。

 閑院宮家は、江戸時代中期に儒者の新井白石の建言で、東山天皇の第6皇子・直仁親王(なおひとしんのう)により創設された宮家です。後桃園天皇が皇子なく崩御した際、光格天皇は御年8歳で閑院宮家から皇位を継ぎました。後桜町上皇が後見のもと、父の典仁親王が教育を担い、朝廷で重きをなします。そこで、光格天皇は不登極帝(天皇にならずに上皇となった方)の先例に倣い(ならい)、典仁親王への尊号宣下を希望したのです。

 幕府側は老中筆頭の松平定信が強硬に反対します。幕閣を反対意見で取りまとめ、朝廷と幕府の間で交渉の役に就く武家伝奏や議奏の処罰という事態に至ります。

 複雑な心境だったのは将軍・家斉です。一橋家から将軍となった家斉は、父の徳川治済を前将軍の「大御所」として遇する意向を持っていたといいます。朝廷と幕府の足掛け4年の交渉の末、典仁親王への尊号宣下も、徳川治済の大御所待遇も、両方とも沙汰止み(さたやみ)となりましたが、松平定信はこれを機に将軍補佐役・老中ともに解任されました。

●積極財政のもとで文化と学問が興隆した時代


 家斉は50年もの長きにわたって将軍に在職します。徳川将軍の中で最長記録です。松平定信の失脚後、光格天皇により位階が引き上げられ、在職40年の節目には、現職将軍としては異例の太政大臣に昇りました。光格天皇は、尊号事件・大御所事件を忘れず、家斉の父、治済も歴代将軍と同じ従一位に引き上げています。

 中世以来、位階昇進に伴う天皇・朝廷への財物の献進は、朝廷の重要な財源となってきました。このほか、天明の大火で御所が罹災した時には、松平定信が財政難を理由に御所再建の意思を示しつつ、経費抑制を考えたのに対して、家斉は「どんどんやって下さい」という意向です。定信の失脚とともに、寛政の改革による緊縮財政も転換し、光格天皇や朝廷との良好な関係を基礎に、幕府の財政が拡大します。

 天保8年(1837)年、家斉は次男の家慶(いえよし)に将軍職を譲り、大御所となりました。江戸城本丸から西の丸に移りますが、政治の実権は握ったままで、「院政」を布きます。

 家斉の大御所時代は、松平定信の寛政の改革や、水野忠邦の天保の改革に挟まれた時期で、批判的に見られることも多いのですが、積極財政のもとで化政文化が華やかに花開いた時期です。茶道や華道、香・和歌・俳諧・音曲・絵画が庶民にも広がり、家元制度が発展したのもこの頃で、古式を伝える公家の権威も上がります。

 人や物の往来が全国で活発になり、光格天皇のもとで京都が学問の都として栄えました。学問を通じた身分を問わない人的交流は、広く情報の共有をもたらします。

 大御所時代は、国内的には経済活況期ですが、対外的にはロシア船の来航など、幕末期の情勢不安が具体化していく時期です。学問に接する人々の認識が、来る幕末動乱に向けた基礎となっていったのです。(細野千春)

参考文献:
倉山満『国民が知らない 上皇の日本史』(祥伝社新書、2018年)
三上参次『尊皇論発達史』(富山房、1941年)