【中国二十四史略】三国時代――あらすじ「三国志」

2019.7.8
 三国時代は、西暦184年の反乱から始まり、晋が中国大陸を統一した西暦280年までの約100年間です。この時代を描いた「三国志」は、江戸時代に日本に伝わりました。現代でも本・映画・ゲーム等を通じて幅広い層に人気が高く、多くの人に親しまれています。

 日本でよく知られているのは、14世紀の明代に時代小説として羅漢中(らかんちゅう)が書いたといわれる「三国志演義」をベースとした話です。「演義」とは、史実を脚色して面白くするという意味です。このため、現在では数えきれない程のエピソードが広まっています。

 多くの物語のもととなった三国時代の略史を追ってみましょう。

●後漢の黄昏(たそがれ)と英雄たちの割拠


 西暦25年から200年続いた王朝・後漢の末期、宮廷に仕える宦官(かんがん)が中央政府を牛耳ります。官職から排除された地方豪族の強い不満がたまる一方、悪政と疫病により民衆の生活は困窮を極めていました。民衆がすがったのは、太平道を唱える宗教家の張角(ちょうかく)です。

 張角は病の治癒と民の救済を説いて数十万の信徒を集め、184年には「蒼天(そうてん)すでに死す、黄天まさに立つべし」というスローガンを掲げて蜂起、「黄巾(こうきん)の乱」を起こします。

 中央政府の宦官たちは、地方豪族の力を利用して乱の鎮圧に成功します。三国時代の雄として登場する劉備(りゅうび)や曹操(そうそう)は、この鎮圧で武勲を立てた人たちです。

 しかし、地方豪族や民衆の不満は解消されないまま、189年に皇帝(霊帝)崩御による代替わりを迎えると、武官らは、宮廷に巣食う宦官の一掃を図ります。強大な兵力を持つ幷州(へいしゅう)の董卓(とうたく)が首都・洛陽(らくよう)に呼ばれますが、これが災いの元でした。

 洛陽を制圧した董卓は暴政を布き、新帝(少帝)を廃して勝手に陳留王(献帝)を即位させます。結果として献帝は、後漢王朝最後の皇帝となります。

 この横暴に、翌年には太守(地方長官)や軍閥が、反董卓の兵を挙げました。反董卓連合軍の盟主は、黄河北域を治める袁紹(えんしょう)です。

 董卓は洛陽に火を放って逃げ、献帝を伴って長安に勝手に遷都し、暴政を続けますが、最後には部下の呂布(りょふ)に裏切られ、殺害されます。

 一方の反董卓連合軍も、洛陽から董卓を追い出した後は、内輪揉めで完全に崩壊します。兵を率いる各々が野心を胸に各地で勢力争いを繰り広げ、群雄割拠の時代が始まります。

●魏・呉・蜀の三国鼎立(さんごくていりつ)


 のちに魏(ぎ)の建国の祖となる曹操は、反董卓連合軍のリーダーの袁紹とは友人です。そのつながりから191年に太守になりましたが、曹操が徐々に勢力を拡大し、袁紹と黄河を挟んで睨み(にらみ)あいます。

 曹操は、自身の本拠地に献帝を迎え、200年に「官渡(かんと)の戦い」で勢力差の上回る袁紹を倒すと、河北を手中に収めます。この勝利で曹操は天下に名を轟かせ、208年6月には丞相(じょうしょう=君主を補佐する最高位の大臣高官)になるなど、中国大陸の北部で巨大な勢力を築きます。

 蜀(しょく)を建国する劉備は武勇で知られながらも、当初は有力な根拠地を持たなかったといいます(岡崎文夫『魏晋南北朝通史<内編>』東洋文庫、1989年)。各地の有力豪族を転々とし、官渡の戦いのときには袁紹の下にいました。袁紹が敗北すると荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を頼ります。

 ここで、有名な軍師、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)を陣営に迎え入れます。孔明は劉備に「曹操は皇帝を擁し、すでに100万の兵を持つ力があるので正面からは戦えない。孫権(そんけん)は3代かけて江東を支配し安定しているので、孫権を味方にすべきである」と、草蘆対(そうろたい)という策を授けます。「天下三分の計」とも呼ばれます(孫権は、のちに「呉(ご)」を建国します)。

 208年7月、曹操が中国大陸制覇に向け満を持して南下を開始、劉備が身を寄せる荊州が攻められます。劉備は曹操軍を何とか振り払い、揚子江中流域の要衝(ようしょう)、夏口(かこう)に辿り着きました。ここで孫権の重臣・魯粛(ろしゅく)と出会い、孫権と組んで迫りくる曹操軍と対峙することになります。有名な「赤壁(せきへき)の戦い」です。

 この戦いで勝利を収めた劉備・孫権連合軍は、曹操の南下を押し返しました。劉備は荊州5郡を治め、214年5月には、かねて狙っていた益州を手に入れます。

 ところが、この動きが孫権を警戒させ、荊州を巡って、曹操も巻き込んだ争いとなるのです。

●蜀の滅亡、魏の政変


 孫権との争いで、劉備は黄巾の乱以前からの仲間、関羽(かんう)を失います。219年「樊城(はんじょう)の戦い」で敗北し、処刑されたのです。報復として221年、呉に侵攻しますが(夷陵〈いりょう〉の戦い)、呉の知将・陸遜(りくそん)によって敗走を余儀なくされ、白帝城に籠ります。孫権の和睦(わぼく)の申し入れを受け入れたものの、劉備は223年6月、孔明に遺言を遺し、63歳で病死しました。後を継いだ長男の劉禅が全く帝の器になかったため、実質的に国を治めたのは丞相の孔明でした。

 孔明は最終目的を魏への北伐と定めました。225年の南征と平定により足場を固めると、いよいよ227年に軍を率いて北伐に向かいます。出陣するときに劉禅に奉った「出師(すいし)の表」は、劉禅に対して劉備の遺徳を切々と説いた名文として知られています。

 孔明は234年、道半ばにして病に倒れます。孔明の遺志を継いだ将軍・姜維(きょうい)らは北伐を続けますが戦果は上がらず、国許も悪政により乱れ、263年に劉禅が魏に降伏し蜀は滅亡しました。

 一方、曹操は、赤壁の戦いで敗れた後、西方の平定に注力し華北を掌握しました。216年には献帝から魏王に任ぜられます。献帝から皇帝位を譲られる直前の220年、66歳でこの世を去り、後継の魏王となった曹操の子、曹丕(そうひ)が皇帝位に就きます(文帝)。

 ところが、曹操の一族による統治は、長くは続きません。支配領域の拡大は東方止まりになるなか、249年に重臣の司馬懿(しばい)が、クーデターにより曹爽(そうそう)一派を排除し、曹芳(そうほう)を傀儡(かいらい)にして、実権を掌握します。司馬懿の死後も息子の司馬師(しばし)・司馬昭(しばしょう)兄弟が引き継ぎます。蜀の劉禅が降伏したのは、司馬昭が実権を握っていたときです。

 司馬昭は、蜀を下した同年には交州を攻めて広大な領地を獲得し、勢力を拡大します。司馬昭の死後、後を継いだ息子の司馬炎は、曹一族に対し禅譲を強要し、魏は滅び、西晋が建国されました。280年にはついに呉を滅ぼし三国統一を果たします。

●「演義」と「正史」の大きな違いは「史観」


 三国時代の正史は、西晋による中国大陸統一後の280年以降に成立したといわれています。元々は蜀に仕えていた歴史家の陳寿(ちんじゅ)による編集で、信頼性の乏しい情報を極力排除し、各登場人物の履歴書が羅列されたような内容です。

 150年ほど後の南北朝時代になると、宋の官僚、裴松之(はいしょうし)によって異説や信憑性(しんぴょうせい)に欠ける逸話も多く収められました。

 明代に書かれた羅貫中(らかんちゅう)の「三国志演義」と「正史」の大きな違いは「史観」です。後漢の後継国家として、「正史」では魏を正統とし、「演義」では蜀を正統としています。

 このため、人物像も描かれ方が大きく異なります。

「演義」の曹操は蜀の劉備の憎き敵、極悪非道な独裁者で、後漢を簒奪(さんだつ)した悪人として描かれますが、「正史」では政治・人材登用・戦略・戦術に長け、時代を超えた英傑といっても過言ではないと評されています。

 対する劉備は、「演義」「正史」ともに義を重んじる仁義の人として描かれますが、「演義」の劉備は漢王朝の血筋で、戦乱の世の中でも清廉潔白、民衆からも慕われる人望を持ち、そしてよく泣きます。正史では、勉強はあまりしませんが、自分のことよりも人のことを一番に考え、不良のような若者によく慕われる親分肌の人柄として描かれています。

 視点が変わると、人物像や出来事の評価も一変するのが、歴史の面白いところです。(佐武 宏)