【皇帝たちの中国史2】漢の武帝~最大版図で人口半減

目次

◆「面倒だ、直轄にしろ」~豊かな国に生まれてやりたい放題


 始皇帝の秦の次は「漢」の時代となります。「漢」は前漢・後漢に分かれますが、前漢・後漢を通じた漢王朝の皇帝で最も有名なのは武帝(前156年~前87年、在位:前141年~前87年)でしょう。16歳で即位し、在位54年、71歳で没しています。当時としては長命です。

 武帝が即位したときにすでに、前漢の中盤で、財政が豊かになっていました。豊かな国に皇子として生まれ、やりたい放題の一生を送りました。

 ここまで、皇帝は最大の資本家であり、ネットワークの中心で、社長であると説明してきました。地方には支社を置き、その上がりが中央本社に集まってくるのです。しかし、周辺には辺境の異民族が各方面での利権を抑えています。漢の武帝は「面倒だ、直轄にしろ!」と、拡大方針をとり、それらを漢の領土にしてしまいます。

 北方のモンゴル高原には匈奴(きょうど)という騎馬遊牧民がいます。それまでは、匈奴のほうが強く、朝貢させるどころか、漢のほうから貢ぎ物を送って平和を買っていたのが、武帝は「けしからん」と戦争をしかけ、討伐します。

 東は朝鮮半島の南端まで支配下におさめます。

 南方の海岸地帯にもいくつか別の国があったのですが、現在の福建省からベトナムあたりまで直轄地にします。

 西方の中央アジアにも遠征します。目的は大宛(だいえん=いまのフェルガナ盆地)の汗血馬(かんけつば)です。モンゴル馬は、頑丈ですが、小柄で脚も短い。中央アジアの馬は大型なのです。大型馬のほうが走るのが速い。武帝は「匈奴に勝る馬がほしい、偉大な皇帝にふさわしい大型の馬に乗りたい」と多大な犠牲を払って大宛に攻め込みます。

 結局、送り出した兵士のうち6分の1しか帰ってこなかったのに、「西のはてより馬が来た。遠征は成功だ」と馬が手に入ったことを喜ぶ歌を歌っています。

 武帝は、最大版図を現出したという意味でシナの偉人の1人かもしれませんが、率直にいって、ただの暴君です。効率を重視してうまく経営したから成功したという話なら、現代人も参考にできるのですが、武帝の所業には効率も経営もありません。秦の始皇帝のほうが、はるかに偉大な業績を残した人だと思います。

◆なぜ始皇帝の評判が悪いのか~始皇帝と武帝を比べてみると?


 始皇帝の評判が悪いのは司馬遷のせいです。しかも、始皇帝については、それ以前の記録が残っていないので、司馬遷は、事実上、初めて秦の始皇帝のことを書いた人です。それが悪口だった。「秦王は人となり、鼻が高く目が長く、摯鳥(くまたか)のように胸が突き出て、豺(さい)のような声をし、残忍で虎狼のような心をもっている。困窮した時には人に卑下するが、得意な時には平気で人を喰ったようなことをする」(司馬遷『史記I本紀』ちくま学芸文庫、140頁)と、始皇帝のネガティブな面を強調します。いまでいう人格攻撃です。秦の非道をあげつらい、だから天命を失って滅びたのだと語ります。それで、後世、秦の始皇帝は文明破壊者として汚名を残すこととなってしまいました。しかし、先に話したように画期的な業績がいくつもあり、この人がいなかったら、統一国家シナはなかったのです。

 もっとも、漢の武帝を諸手を挙げて称賛する人は、現代においてはほとんどいません。功罪相半ばするという評価です。しかし、私にいわせれば、ほとんど「罪」しか語られない始皇帝より、漢の武帝のほうが、はるかにひどいと思います。本当に暴君です。

 武帝のことは班固による『漢書』など、その後の歴史書にも残っているので、良いことも悪いことも詳しい記録が伝わっています。

 司馬遷にしても、武帝にはひどい目にあっています。匈奴遠征において敵方に投降した李陵を弁護して投獄されます。判決は死罪でしたが、漢代には宮刑(去勢)で死刑をまぬがれることができる制度がありました(貝塚茂樹『史記』中公新書、1963年、32頁)。司馬遷は悩みますが、父の遺言である『史記』が完成していなかったので、屈辱を受けても生きる道を選びます。釈放後は宦官(かんがん)として宮中の役職につきました。

 そのような個人的なことを乗り越えて司馬遷がシナ最初の歴史書である『史記』を書いたわけは、彼が仕えた君主である漢の武帝が、天命を受けた正統の皇帝である、と証明するためでした。

 『史記』は「五帝本紀」から始まります(「三皇本紀」は、唐代に司馬貞という史官が、さらに歴史をさかのぼって頭にくっつけたものです)。5人の神話上の君主の最初に置かれた黄帝は、天下のいたるところに行幸して、東方では泰山に登って天地を祭り、北方では遊牧民を追い払ったと書かれています。それらはすべて武帝の行なったことと同じです。言い替えれば、司馬遷は、武帝に統治された天下をそのまま時間の初めに持っていって、そこに投影した武帝の像を、神話の黄帝と呼んだわけです(岡田英弘『だれが中国をつくったか』PHP新書、2005年、21頁)。

◆後継者にまつわる悲惨な話~長生きも考えもの


 長命で元気な武帝ですが、後継者にまつわる話は悲惨です。

 武帝には妻がたくさんいましたが、なかなか子どもができませんでした。長江下流に住む姉を訪れたとき、家の女中の娘で、歌い手であった衛子夫(えいしふ)を見初め、宮中に入れます。衛子夫はまもなく妊娠し、これを恨んだ陳皇后は自殺未遂を何度も起こします。それで、気分を害した皇帝は、ますます陳皇后に冷たくなるという悪循環。陳皇后はさらに呪詛をかけ、それが発覚したため、関係者約300人が死刑に処せられました。陳皇后本人は処刑をまぬがれましたが、「皇后」位を剥奪されて離宮に追放されます。

 一方、衛子夫は待望の皇子(拠)を生み、皇后に立てられます。皇子は7歳で皇太子に建てられるのですが、武帝が長生きしますので、その後、30年ほど皇太子のままです。現代の先進国のような立憲君主制なら問題ありませんが、独裁国では君主の治世が長すぎると、世代間の緊張関係が生まれてきます。

 皇太子が皇帝位についたときに出世できるよう早々と皇太子に付き従う取り巻きが現れました。皇帝にはもちろん皇帝配下の臣下がついています。武帝がいつ死ぬのかはわかりませんから、どちらにつくかは賭けのようなものでもあります。そうして、現君主派と皇太子派の派閥対立が激化していくのです。

 皇帝在位が長くなれば、皇太子派はイライラしてくるし、それを見ながら皇帝は「俺のことを早く死ねと思っているな」と疑いの目で見るようになります。そして、ついに「皇太子が皇帝を呪詛(じゅそ)しました」と皇帝に讒言(ざんげん)する者が出てきました。

 皇太子は釈明しようとしますが、果たせずに追い詰められ、とうとう本当にクーデターを起こしてしまします。5日間にわたる市街戦を繰り広げ、死者は何万人にものぼったということです。

 結局、衛皇后と皇太子は自殺しました。皇太子が死んだ時、武帝には弗陵(ふつりょう)という男の子がいました。すでに4歳。体が大きく、頭も良かったので、皇太子に立てようと思いました。しかし、その前に武帝が何をしたと思いますか。この話をあらかじめ知らない読者の方々にはとても想像が及ばないと思います。弗陵の母(鉤弋〈こうよく〉夫人)を呼びつけて、何も悪いことをしていないのに、罵り、投獄します。夫人は獄中で自害させられたのです。

 「なぜ皇太子になる人の母を殺すのか」という疑問に対し、皇帝の答えは「俺が死んだときに、君主が小さいと、まだ若い母親が権力を握って、何をするかわからない。だから、先に殺しておくのだ」です。

 憂いの元を取り除かないと心配で子どもを皇太子に立てられないというのですから、ぞっとします。

◆国力は消耗、人口は半減~そして「新」でまた人口半分に


 武帝は病が重くなり、8歳の弗陵を皇太子に立てるとすぐに亡くなりました。母を殺された皇太子・弗陵は皇帝(昭帝)になりますが、国庫潤う国を引き継いだはずの武帝が亡くなったころ、国力は消耗し、人口は半分に減っていました。

 最大版図を得て領土が大きくなったにも関わらず、人口は半分です。というより、最大版図を得るためにいかに無理をしたか。国が発展して大きくなったわけではないのです。ですから、それがずっと漢だと思ったら大間違いで、拡大しては縮小する。その繰り返しです。

 それが証拠に、武帝が死んだとたんに、朝鮮半島は直轄でなくなります。いわば、リストラです。南方からも引き上げます。西方の朝貢国も「友好関係」どまりにし、直轄の郡県をやめます。国境が定まらないのは大陸国家の常ですが、シナではその拡大縮小が頻繁に起こります。

 繰り返しますが、シナには都市とそれをつなぐルートしかありません。その都市も直轄にしたり、リストラしたりするのです。リストラといっても、それで困るのは皇帝直属の役人ぐらいで、地方の都市のほうは中央の力がなくなると、独立します。

 武帝時代は最大版図を実現した前漢の最盛期のようにいわれます。しかし、いまお話してきたように、その実は、とんでもない国の疲弊を招きました。せっかく豊かになっていた国を滅亡へ導いたともいえるわけです。その後の前漢は下り坂で、外戚の王莽(前45年~後23年、在位:8年~23年)に国を乗っ取られてしまいます。

 王莽は西暦8年、国名を改め、新とします。彼は狂信的な儒教信者で、イデオロギーに凝り固まっていました。教条的に儒教にのっとった政治を行なおうとしたのです。「夷狄(いてき)は野蛮なやつらなのだ」とあからさまに邪険に扱います。以前は、たとえ周辺諸族を格下に見ていても、実利は与えるなど、双方が満足するような形でおさめていました。しかし、王莽は、朝貢にやってきた遠方の客に対する返礼を減らしたり、「『高句麗』いう名前は立派すぎる。夷狄らしく『下句麗』にせよ」などと高圧的な態度に出たりしたのです。当然、周辺諸族は怒ります。

 また、新では、形式や格式ばかりが優先され、不満が高まりました。反乱につぐ反乱によって、人口が半分になります。前漢の武帝時代に人口が半減したと述べました。しかし、後の皇帝たちが無理をしなかったので、西暦2年には約6000万人弱に増えていました。それが、王莽の新が滅ぶ西暦23年には、また半分に減ってしまうのです。

 「なぜ人口が半減したことがわかるのか」とよく質問を受けますが、戸籍があるのです。『漢書』や『後漢書』に、各州の人口統計が端数まで載っています。漢人になるということは、税金を払う、徴兵される(または、一定の金額を納めて免除してもらう)という政府との契約なので細かく調査されているのです。

 これまでの復習になりますが、都市と都市のネットワークから、やがて領域国家になり、秦の始皇帝が統一国家をつくりました。始皇帝はさらに拡大し、異民族の領域にも町を建設していき、万里の長城を築きました。つまり、国境のようなものができあがったのです。国の中には州という政治の統治単位ができ、それぞれの州の人口が、はっきりと数値で上がっているのです。最近の中華人民共和国より古い時代の数字のほうが信用できるかもしれません。

 新が滅びるまでに人口が半減している上に、それで混乱がすぐに収まったわけではないので、その後、さらに人口が減ります。

◆なぜシナでは急激に人口が増減するのか~広範囲の旱魃、蝗、大飢饉


 次に統一を回復し、安定させたのが光武帝(前6年~後57年、在位:25年~57年)で、武帝の異母兄を先祖とする前漢皇族の傍系筋の人です。この光武帝が37年に後漢を興しますが、その時点で、なんと、1500万人ほどしか残っていませんでした。紀元前後が6000万人ですから、そこから4分の1になってしまいました。ジェットコースターのような人口増減です。

 歴史は繰り返すと申しましょうか、そんなことはこれで終わりではありません。その後、人口は回復し、2紀半ばには、また5000万人弱に達するのですが、後漢末から三国時代にかけて、再び大幅に人口が減ってしまうのです。

 なぜ、シナでは、こうも急激に人口が減るのでしょうか。

 シナ大陸の、特に華北の平原地帯は、どこまでも平野が広がっていて、地形に変化がありません。天候の良いときはどこも良い。悪いときはどこも悪い。雨が降らないとなると、どこもかしこも同じように雨が降らないのです。

 だから、シナ大陸は、いったん飢餓状態になると、その規模が全然違うのです。灌漑地(かんがいち)が一様に広がり、旱魃(かんばつ)が来ると、どこも旱魃。作物が実らないときは、どこまで行っても何もない。大平原では飢饉(ききん)は広大な範囲に及ぶのです。

 旱魃とほとんどセットになっているのが蝗(いなご)です。作物を食い尽くし、餓死者が大量に生まれます。シナ史上、再三再四、蝗の被害が報告されています。流民が発生し、どこまでも歩いていくのですが、何もなくて、人肉を食う話などが残っているわけです。自分の子どもを殺して食べるのは忍びないとして、子どもを交換して食べたなどという悲惨な話が、伝わっています。

◆三国時代の大争乱~またしても漢民族が10分の1に


 そんなシナで後漢末、大規模な農民反乱が起こります。太平道という新興宗教が起こり、その中でも張角は貧窮農民の心をとらえます。信徒を組織して184年に蜂起し、反乱は全国に広がっていきました。衆徒は目印として黄巾(こうきん)を着用したため、「黄巾の乱」といいます。それ以後は三国時代にかけて、天候不順に加え戦乱が長く続きました。

 戦争が起こると兵隊が必要なので、軍隊が人々を徴兵します。農民が徴兵されれば、田畑を耕す人が減ることになります。徴兵されなくても、戦争で村や田畑が焼かれたりするので、農民は逃げます。平和で守られた状態であってこそ、作物を植え、収穫し、それが流通して人々の食物となるわけです。それが、戦乱の真っただ中では、命を守るのが精いっぱいで、作物を植えるどころではありません。土地があっても作物を植えない。植えなければ、季節がめぐっても実りません。実らなければ、当然、次に植える種もない。

 人がいなくなり、田畑は荒れ、収穫物はない、食べるものがない。翌年はもっとない。翌々年はさらにひどくなる……と毎年、状態が悪化していきます。これが何十年も続いたらどうなるでしょうか。連年の戦乱で農業は壊滅的な打撃を受けます。多くの人が飢えてバタバタと死んでいきました。死にたくなければ、奪い合い、共食いなどするしかありません。人心は荒れ、各地で地獄絵図さながらの光景が広がります。

 そのため、後漢の156年に5000万人弱であった人口が、三国に分裂した230年代には、魏が約250万人、呉が約150万人、蜀が約90万人、三国を合計しても500万人になってしまいました。なんと10分の1です。

 『三国志』には、町を出たら誰もいないなどの情景描写があります。フィクションだから誇張されているわけではなく、本当にそうだったのです。(宮脇淳子)