【皇帝たちの中国史5】宋からチンギス・ハーンまで~強さの秘密

目次

◆五代十国から宋へ~建国の祖・趙匡胤が北京出身ということは?


 唐の末期、870年代の初めには連年の水害や旱魃(かんばつ)、そしてイナゴの被害によって流民が発生していました。社会不安を背景に875年、黄巣の乱が起こります。黄巣は指導者の名前です。唐全土を巻き込んで、10年におよぶ大乱になります。唐は盗賊や異民族の首領などを節度使に任じて、なんとか反乱軍を鎮圧することができましたが、彼らが軍閥化して唐朝の滅亡(907年)を招きます。

 唐の滅亡から北宋の成立までの間、黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)をまとめて五代十国時代と言います。五代は後梁・後唐・後晋・後漢・後周です。このうち後唐・後晋・後漢は西突厥(にしとっけつ)の沙陀族(さだぞく)の王朝です。(『岡田英弘著作集IV シナ(チャイナ)とは何か』藤原書店、2014年、259頁)

 そして後周の武将であった趙匡胤(ちょうきょういん/太祖、927~976、在位:960~976)が960年、宋(~1276)を建国します。そして、979年に趙匡胤の弟である2代目太宗が統一をなしとげます。

 東洋史学者の大家である内藤湖南(1866~1934)が「宋代は近世の發端となり」と言って以来、宋が最も中国らしい王朝であるとする向きがあります。漢学者なども宋好きの人が多いです。いわく「庶民の生活が向上し、飲食店なども栄えた。紙が普及し、書籍の出版・販売が進んだ。絵画や音楽などの芸術が発達した」と。

 この宋、漢人の王朝ということになっていますが、建国の祖・趙匡胤は、いまの北京の出身です(まだ北京という名前はありません)。北京と言えば、安史の乱を起こした安禄山の本拠地ですから、血統としては、鮮卑(せんぴ)か突厥(とっけつ)かソグドかと疑いたくなる背景ではあります。それでも、宋は漢人王朝を自称していますし、歴史学の世界でも、いちおう漢人王朝ということになっています。

◆中華思想の誕生~宋こそ正統? 遼と金は強くても野蛮人?


 宋とほぼ同時代に、北部では契丹人(きったんじん)が遼(916~1125)を、ついで女真人(じょしんじん)が金(1115~1234)を建国しています。この2国を、漢人は「我々は文明人、あいつらは野蛮人」というスタンスでバカにしています。

 しかし、少しおかしくないですか? 三国時代から五胡十六国・南北朝時代を経て漢人が入れ替わったという話をしました。隋・唐時代の漢人は秦・漢時代の漢人ではなく、もともとは北方アジア系の遊牧民や狩猟民、いわば、漢字を使う五胡です。古い漢人は華北では絶滅しました。江南に逃れて生き残った人もいますが、彼らが華北に戻ったわけではありません。開封(黄河沿いの都市)を首都とする宋を担った人びとは、明らかに新漢人です。鮮卑族や突厥の居残り組が新しい漢人になって、契丹や女真など新興の田舎者を野蛮人としてバカにしたのです。とはいえ、空っぽの都会を占拠して居座った五胡の国々を統一した北魏も、続く隋・唐も、そして、宋にしても、よく考えれば、もともとは、みんな田舎者です。

 宋と並立した新興の「野蛮人」契丹と女真は強く、宋は負けっぱなしでした。

 遼は燕雲十六州と呼ばれる北京から大同にかけての一帯を支配していました。宋は統一をなしとげると、この地域をも取り戻そうと北京を攻めますが、大敗し、命からがら逃げ出します。

 そして、1004年には、逆に遼が攻めてきます。軍が宋の首都開封に迫り、澶州(河南省)に達したとき、宋は和議を申し入れ、澶淵の盟を結びます。宋が遼に毎年絹20万匹、銀10万両を支払うという条件で国境が保たれることとなりました。お金を払って許してもらうという情けなさに、漢人の自尊心が傷つきました。

 この時期に「中華思想」が生まれます。「文明人である中華とその周辺の野蛮人(東夷・西戎・南蛮・北狄)は違うのだ」と、中華の文化的な優位性を誇り、軍事力では強くても文化程度が低い野蛮人を蔑む思想です。

 しかし、中華思想は、弱いからこそ出てきた負け惜しみの思想です。強かったら、わざわざ言う必要がないことです。唐の時代にはありませんでした。元朝も言いません。清朝の満洲人も中華思想など持ちませんでした。だから、日清戦争で日本に負けた中国もまた言うのです。

◆金に押されて南宋に~遼と金の違い


 100年後、狩猟民の女真人が勢力を伸ばします。女真人は遼の支配下にありましたが反乱を起こし、1115年、金を建てます。宋はこれ幸いと「遼を挟み撃ちしよう」と金に呼びかけ、1119年に両者の間に密約が成立します。しかし、宋は進軍に遅れたうえ、燕京(現北京)攻めでは、追い詰めながらも敗退するという失態を演じます。金は、ほぼ独力で、1125年に遼を滅ぼしました。宋は何も貢献していないのに、燕京をくれと要求したので、両者は対立します。このときは交渉が成り立ち、宋が金に莫大な金品を貢ぐという条件で、金は引き上げますが、度重なる宋の違約に、とうとう金は怒って、宋に侵入します。翌年、宋の徽宗(きそう)・欽宗(きんそう)父子をはじめ3000人が金に拉致されてしまいました。この事件を靖康の変と言います。金は淮河に至るまでの華北地方を領土に加えました。

 欽宗の弟である高宗は逃れ、1127年、南京で即位します。靖康の変までの宋を北宋、それ以後を南宋と言います。宋は遼には年貢を取られ、金には領土を奪われました。やられっぱなしです。

 学校の世界史では宋が(弱いけれども)大国で、(強いけれども)遼や金は周辺国扱いですが、この時代の宋は東アジアに数ある国々の一国にすぎません。領土的には遼や金と同じぐらいですし、西から南にかけて西夏(せいか)や吐蕃(とばん)、大理などに囲まれています。

 また、「中国史」だけ追っていると、遼より深く宋に食い込んだ金のほうが強そうに感じられるかもしれませんが、一概にそうは言えません。遼は横に広がり、金は縦に広がったのです。

 契丹人の故郷は、モンゴル高原東部、大興安嶺山脈の東斜面の地方でした。自らが遊牧民であるため、馬を駆ってモンゴル高原を西へと進み、現モンゴル国の首都ウランバートルを越えた西方まで、契丹が直接に支配しました。

 ちなみに「中国」のことをロシア語では「キタイ」、モンゴル語では「ヒャタッド」と言いますが、その語源は契丹です。遼を建国した契丹が北方でいかに強大であったかを物語る証拠ではないでしょうか。チャイナの語源である秦に次いで、世界に名を残した王朝です。

 遼は遊牧型の政治組織とシナ型の都市文明を結合した制度を持ち、この2本建てシステムがのちのモンゴル帝国に引き継がれます。(岡田英弘『世界史の誕生』筑摩書房、1992年、171~174頁)

 一方、金を建てた女真人は、満洲平野の狩猟民です。粗放農業を行ない、豚などの家畜も飼う、狩猟・農業・牧畜生活を行なう人びとでした。遊牧民ではないので、草原地帯にあまり興味がありません。西のモンゴル高原は家来筋に任せます。それぞれの土地で支配者としての称号を与えて、同盟を結んだのです。そして、自らは南下し、淮河以北の農業地帯を獲得しました。

 その結果、それまで遼の支配下にあったモンゴル高原のタタルや、チンギス・ハーンの祖先などが、金時代には間接支配になりました。遼直属の役人や将軍が引き上げて、遊牧民たちは万々歳かと思いきや、内部の権力闘争が始まり、遊牧民同士の部族抗争時代に突入していきます。

◆チンギス・ハーンの登場~最初は金を後ろ盾にして勢力を増した


 連載第4回で、唐の太宗の時代に初めてモンゴルについての記録が漢文に現れると述べました。その時代のモンゴルはモンゴル高原の東の端、黒龍江の源流アルグン河の南、大興安嶺山脈の近くにいた小さな部族でした。

 チンギス・ハーンの本名はテムジンと言います。今のモンゴル国東部、当時のモンゴル部族の西の端の家で生まれました。さらに西にはケレイトやナイマンといった有力部族がありました。父と早く死に別れたテムジンは、苦労に苦労を重ねて、ようやく出世の糸口をつかみます。1195年、ケレイトのオン・ハーンとともにタタル部族を攻撃し、戦果を上げました。テムジンが記録に残った最初の出来事です。このとき、テムジンは金帝国に動員された同盟部族という位置づけにあります。平たく言うと、強大な金帝国の使い走りです。

 大帝国の後ろ盾を得て、他の部族を下し、勢力を増してきたところで、反旗を翻します。利用するだけ利用して「もう用済み」と金を切り捨てて攻撃する。よくあることですが、あまり褒められた歴史ではないので、モンゴルの歴史書『元朝秘史』には詳しい記述がありません。しかし、元代に編纂(へんさん)された漢文の『遼史』『金史』には、チンギス・ハーンが最初は金に臣従していたとあります。

 そして1206年、全遊牧部族長を召集して大会議を開き、チンギス・ハーンという称号を得ます。チンギス・ハーンには天命が降りたことになっています。このときテムジンの義弟の巫(シャマン)が神がかりになって天の託宣を伝えました。

 その場にいた人びとは、それを信じました。世界は1つになったほうがいいのだと。現代のグローバリゼーションとそっくりだと思いませんか。

 それによって誰が得をするか、考えてみましょう。細かく分かれた国々がなく、1つの組織が広域にあったら、大陸を渡り歩く商人にとっては都合がいいことです。東西貿易のためには国境がないほうがいいですから。そのためイスラム商人は、チンギス・ハーン率いるモンゴル人に各地の情報を伝えたり、経済的支援をしたりしています。チンギス・ハーンは彼らに祭り上げられたという一面もあるのです。

 天命が降りたと人びとが信じることで勢いを増したというのも事実かもしれませんが、体制を支える実利がないと国は長続きしません。後世に伝わる文献にはドラマチックな神話が書かれていますが、近代歴史学では、その背景を考えます。

 チンギス・ハーンは読み書きができなかったと言われています。その頃のモンゴル族には文字の知識がなく、ケレイトとの接触以前の若いチンギスの事績は後世に書かれた信憑性の疑わしい物語だけです。生まれた年もわかりません。後に、チンギス・ハーンは部下から年齢を尋ねられたときに「知らん」と答えています。3通りの説があり、1154年、1155年、1162年で、最早と最遅で差が8年もあります。

 もちろん、出世して偉くなり、官僚機構などを持つようになると、文字を扱える臣下が記録を残しますから、チンギスの息子で2代目のオゴデイからは生年月日が正確にわかります。

◆遊牧民の選挙と結婚~大帝国はどうしてできた?


 ユーラシア大陸には多くの部族がいて、遊牧民大会議を開き、選挙で支配者を選びます。かなり民主的です。しかし、なぜモンゴル帝国はあれだけ広大な地域を支配できたのでしょうか。

 個々の部族がバラバラに戦う中に戦争が上手なリーダーが現れると注目されます。戦略の立て方や戦術の用い方がうまい、戦利品の分配が公平である、人格的に信用できる、公平な裁判を行なうなどの評判が伝わると、人が集まってきます。

 各々の部族長は、当然自分たちの利益を考えます。強い集団についていれば自分たちも安全です。寄らば大樹の陰とばかりに、同盟を求めます。こうして、優秀なリーダーのいる強い部族は戦うごとに同盟相手を増やし、投降した者をも加えて急速に集団が巨大化するのです。

 1206年、モンゴル高原の全遊牧部族代表者を集めた大会議でテムジンがハーンに選挙され、チンギス・ハーンとなりました。選ばれたハーンには、部族長たちが一族の娘を嫁がせます。婚姻関係でつながることによって同盟を結びます。生まれた子どもは両方の部族の血を引いていますから、それで運命共同体になります。

 有力部族の子弟を、チンギス・ハーンの近衛兵として集めて、寝ずの番をさせました。彼らはそこで親しくなり、互いの姉妹と結婚して義兄弟になります。共に過ごしたので顔見知りですし、遠く離れていても親戚です。女子は姓の違う相手に嫁ぎます(族外婚)。結婚は同盟なので、自分の部族の中で結婚するような、もったいないことはしないのです。

 部族長の娘が嫁入りするときには、大勢の家来や家畜を婚資として連れていきます。不動産がありませんから全部動産です。家来たちは、行った先で、同格の家の相手と結婚しました。そのようにして、各層で親戚関係が結ばれます。モンゴル高原からロシアまで、ユーラシアを股にかけて血縁の網ができあがります。

 遊牧民は、有力部族に君主の息子が婿入りする場合も多くあります。部族長の娘と結婚したら、部族長の財産はその息子のものになって統合されます。

 戦争で人を殺してばかりの印象があるかもしれませんが、戦は実は効率の悪い方法です。恨みを買いますし、戦となれば命がけですから、勝ち戦であっても大変な労力がいります。平和的に統合できるなら、それに越したことはないわけです。

 ペルシア語で書かれたチンギス・ハーンの同時代史料に、500人奥さんがいたという記録がありますが、それは信憑性が疑われます。なぜならチンギス・ハーンが君主になったとき、もう40代後半か、50代初頭なのです。しかも、チンギス・ハーンの子を生んだ女性は2人しかいません。糟糠(そうこう)の妻ボルテが4男5女を、フラン妃がコルゲン皇子を生んでいますが、他は知られていません。戦争に忙しくて、後宮で遊んでいる暇はなかったでしょう。しかし、500人が嫁いできたと書いてある。これは、いったいどういうことでしょうか。

 チンギス・ハーンの息子たちは、大勢の妻を持っています。家来の将軍たちも多妻です。つまり、チンギス・ハーン個人ではなくチンギス一族が、帝国全土の有力な諸侯・部族長・諸都市から娘たちを受け入れたのではないかと私は考えています。

 逆にチンギスの娘は側近や将軍に嫁ぎ、その息子が大将軍になっていきます。そうやって幹部階級の家では父方か母方のどちらかでチンギス・ハーンの血を引くことになりました。

◆妻が資産家~後継者は母の財力と政治力で決まる


 遊牧民は移動しながら生活します。妻たちは、テントの中で暮らしています。四つ大きな后妃のオルド(宿営地)があり、チンギス・ハーンは家来を連れて、そこを泊まり歩いていました。

 婚資として親に持たせてもらった財産は妻個人のものであって、夫のものにはなりません。夫は、分けてほしければ、妻にお願いしなければなりません。妻は自分の財産を自分で管理します。当然、財産運用も自分でマネージメントします。投資して増やしたり、戦争に家来を参加させたりした場合には、戦利品の分け前をもらいます。

 チンギス・ハーンはそれほど子だくさんではありませんでしたが(それでも10人)、息子や孫の代には、生まれながらの皇子さまですから、同盟のために諸部族から娘たちが嫁いできて、それぞれが子どもを生みます。そして、次の君主はその中から選ばれるので、全員がライバルです。しかも、前述のように長幼の序はありません。全員、同等に権利があります。

 ハーンは選挙で選ばれますが、そのときに母親の財産がものを言うのです。日本の藤原家は外戚として父や兄が権勢をふるいましたが、遊牧世界では母が直接、政治的にも動きます。大集会で我が子を次のハーンに選出させるべく、客をもてなし振る舞います。もちろん候補者本人が頭脳明晰、人格的に優れているなどの条件は必要ですが、最後の決め手はやはり金! 同母兄弟もライバルですが、その中で選ばれるためには、財産持ちの母の意向が重要な鍵となりました。

◆2代目オゴデイのヨーロッパ遠征~その死が半年遅かったら…


 チンギス・ハーンの時代にウラル山脈から日本海沿岸までユーラシア北部を手中に収めましたが、支配者である遊牧民、当時の「モンゴル人」の人口は100万人程度と言われています。

 1227年、チンギス・ハーンが亡くなります。2代目ハーンにはチンギスの第3子オゴデイが選ばれました。2年後の1229年のことです。

 オゴデイの治世中、帝国はさらに広がります。1234年には金を滅ぼします。帝国の首都カラコルムを建設したのもオゴデイです。建設直後の1235年に大会議が開かれ、世界征服計画が討議されました。もっとも、一度に世界中に進軍するのは無理です。どこから攻めるのか。まずはヨーロッパと決まりました。

 1236年より、オゴデイの甥バトゥを総司令官とするヨーロッパ遠征が開始されました。ちなみに南宋、高麗への遠征も会議で決議されていますが、まずヨーロッパにしたということは、最も弱くて早く片付くという計算でしょうか。実際に、あの少ない人口で連戦連勝です。

 開始直後は10万人程度の兵しかいなかったのですが、途中で、キプチャク人などを吸収してだんだん増えてヨーロッパに着いたときには倍くらいになっていました。

 バトゥのモンゴル軍はヴォルガ中流のブルガル人、キプチャク人、ルーシの諸都市を征服し、1241年にはポーランドに入り、レグニツァでポーランド軍とドイツ騎士団の連合軍を叩きのめします。ハンガリー王国を蹂躙(じゅうりん)し、オーストリアやクロアチアにまで達しています。

 勢いに乗るモンゴル軍ですが、1241年末にオゴデイ・ハーンが死去し、翌年春に訃報が伝わると司令官バトゥは引き上げます。オゴデイの死が半年遅かったら、ドーバー海峡まで征服が完了していたでしょう。遮るものがありませんから。

 当時のヨーロッパはモンゴルの敵ではありません。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が対立していて、ヨーロッパが一丸となって軍を整えることができませんでした。ハンガリー王が救援を求めても、ローマ教皇からは「あなたがたの信心が足りないのです」などと、すげなく断られる。ヨーロッパは、こんな大脅威にもまとまることができない、情けない田舎国家の集まりでした。

 モンゴル軍は再度ヨーロッパに攻め入るつもりだったようですが、オゴデイの死後、継承争いが始まり、これがネックとなります。部族連合ですから、抜きんでた人がいないと会議が荒れます。しかも、戦勝を重ねたモンゴル諸部族は豊かになっているので、言ってみれば現ナマが飛び交う世界です。

 チンギス・ハーンの4人の息子は同母ですが、それぞれの家が2派に分かれました。ジョチ(長男)家とトルイ(末っ子)家が組み、チャガタイ(次男)家とオゴデイ(三男)家が組みます。オゴデイ亡き後、兄弟のうち生き残っていたのはチャガタイだけですが、彼も翌年亡くなり、その後は、従兄弟同士が争います。

 2派に割れての継承争いが収まらず、後継者がなかなか決まらなかったので、結局、モンゴル軍によるヨーロッパ遠征は2度とありませんでした。ロシアは支配されましたが、西ヨーロッパは温存されました。

◆モンゴル軍はなぜ強い?~各個進軍と全力包囲


 モンゴルの戦争の進め方について、少し説明しましょう。部隊が独立していて、「何月何日にこの町を落とす」と決めて、別れます。家畜を連れているので、全員が同じ場所に固まっていては草が不足するので、別れて進軍するのです。

 決まっているのは集合場所と日時だけ。途中の行動に関しては各部隊にまかされています。町を落としてもいい。その場合、戦利品はその部隊のものです。ただし、集合に遅れたら厳罰です。ですから、途中の町を攻略寸前でも、「集合時間に間に合いそうにない」と思ったら、あきらめます。

 予定集合地には、各部隊が前後左右から取り囲むようにやってきて、包囲作戦を取ります。一方向からは攻めません。獣を仕留めるときの、ぐるりと取り囲んで追い詰める巻狩り方式で、人間を相手とした戦争も行ないます。全部隊で包囲し、都市を落とした暁には、包囲した部隊は全て公平に分け前に与ります。それで、東ヨーロッパ全域を走り回ったわけです。

 ヨーロッパやイスラム圏には「モンゴル軍に勝利した」と歓喜している史料がいくつかあるのですが、それは、ごく小さな部隊が、小手調べ程度に戦って引き上げるときに、それを追いかけて捕縛したなど、たいしたことのない勝利です。モンゴル側としては、気の入らない、どうでもいい戦いでの一コマにすぎません。モンゴル軍が本気で攻めてきた戦いではヨーロッパは全敗です。

 それにしても、モンゴル軍はなぜこんなに強いのでしょうか。

 まず、機動力です。全員が騎馬隊で、しかも、替え馬を何頭も用意していて、迅速に移動することができます。また、豊かな財政状況から、火薬や投石機など、当時の世界最先端の武器を使うことができました。

 そして、何より規律をしっかり守ります。上位者の命令は絶対で、命令に違反した場合の罰則も死罪など、厳しいものでした。規律正しい軍隊だからこそ集団戦にも強い。あっという間に取り囲み、矢を射掛け、町を落とす。不利と見ればサッと引き上げる。それまでの戦争とまったく異なっていました。様式化された一騎打ちなどとは無縁の世界です。それで連戦連勝だったのです。

 そのまま行けば世界征服できたかもしれませんが、内部分裂を起こしてモンゴル帝国自体が割れてしまいました。(宮脇淳子)