目次
前回のお話は、ユーラシア全域に広がってしまいました。ここからは主にフビライ(1215~1294)と元朝にしぼります。
中国史の系図では、元の太祖(初代皇帝)はチンギス・ハーンとされ、以下、太祖チンギス、太宗オゴデイ、定宗グユク、憲宗モンケ、世祖フビライとなっているものが、よく見られます。それでモンゴル帝国=元と思っている日本人や中国人が多いのですが、元の建国は1271年で、フビライの時代です。それ以前に元はありません。モンゴル帝国の建国は1206年ですから、65年もの差があります。
元朝というのは、モンゴル帝国のほぼ3分の1を占め、帝国の宗主国です。それにモンゴル人の故郷でもあります。しかし、モンゴル帝国と元朝は違います。チンギス・ハーンが亡くなったのは1227年ですから、まさか自分が元の太祖と呼ばれるとは夢にも思わなかったでしょう
どうして、「太祖」のような称号があるかというと、元朝を建てたフビライが、初代~第4代のモンゴル帝国君主にシナ式の皇帝の諡(=おくりな/廟号・死後に贈る称号)を贈ったのです。元ができたのは祖父チンギス・ハーンのおかげであるということで「太祖」としました。以前の回で述べたように、太祖は王朝を起こした人に贈る称号です。
元朝の正史である『元史』には、冒頭に「元の太祖チンギス・ハーン(成吉思汗)」と書いてあります。それで、現代中国人は、「中国の英雄チンギス・ハーン」と言うわけです。モンゴル帝国も中国にしてしまう。史実では乗っ取られましたが、歴史戦で乗っ取り返そうとしています。
モンゴル帝国は元ではないし、まして中国ではないのですが、中国人いわく「ここに元の太祖と書いてあるでしょ」と。確かに書いてありますが、上記のような経緯であることを理解しておいてください。
モンゴル帝国の5代目君主(ハーン)フビライ(在位1260~1294)は、初代元朝皇帝・世祖(在位1271~1294)となります。チンギスは「太祖」ですが、フビライは元朝を創始したので、もう一度「祖」がついて「世祖」です。
フビライは大都(北京)を首都にします。遊牧民にとって町は、定住民とは異なった意味あいを持ちます。私たちは首都というと、政治・経済の中心と思いがちですが、遊牧民にとっては商業センターおよび補給基地のようなものです。遊牧民は移動します。しかし、商いの場所は決めておかないと、売り買いができません。
世界中の商人が集まる市場、商品を保管する倉庫が必要です。そのための本拠地として「首都」を定めました。しかし、町はあくまでも経済の中心であって、政治の中心ではありません。政治は君主のテントと共に移動します。もちろん家族や家来、家畜も一緒です。
遊牧民は基本的に町に住むことを嫌います。人が大勢いると汚くなるので、都会に魅力を感じません。カラコルムに宮殿がありましたが、迎賓館のようなものでした。皇帝は年に2回カラコルムで外国の使節などをもてなし、大盤振る舞いする。そのためだけの都市でした。
通常は草原を移動し、行った先々でサーカス小屋かパビリオンのような大きなテントを張ります。1000人も入るような大きなテントです。草原が汚れてきたら、「清潔な」場所に移動します。家畜は、テントから離れたところで遊牧させていますから、家畜が汚すのではありません。人間がトイレに行くなどして「汚す」のです。
フビライは大都(北京)を首都と定めましたが、皇帝とその取り巻きは冬の3カ月しか暮らしていません。他の季節は草原を移動していました。
夏の離宮は「上都」といいます。大都から離宮までルートがいくつかあり、どこを通るかは年によって異なります。草原の状態によって決めるのです。ところどころでキャンプを張り、途中で鷹狩りしながら、政府が一斉に移動しました。ですから、皇帝は基本的に草原で暮らしています。上都は「都」の字がついていますから城壁の中にありますが、草があり、動物が動き回り、いわばサファリパークの中に泊まり込むようなものです。
一方、大都の中心は南側にあり、北3分の1は建物跡は何も発見されていません。現在、故宮博物院などの観光スポットが集まっているのも、高級幹部の住宅街「中南海」も南側です。
今の北京には北海・中海・南海という湖があり、文字通り、北・中央・南に連なっています。「中南海」とは中海と南海をくっつけた言葉です。北海周辺がレストラン街や歓楽街になっていて、北京市民の憩いの場です。金の時代にはこの辺りに離宮がありました。フビライは南西の旧都(中都)が荒れ果ててしまっているので放棄して、その東北の離宮があった近辺に新しい都、大都を築きました。そして、漢人の臣下は大都に住み、皇帝率いる遊牧政府は移動しているというわけです。
皇帝が移動しているというのが一般の日本人にはイメージしにくいようですが、遊牧国家では普通ですし、中世ヨーロッパの宮廷も移動していました。
皇帝がいつどこにいるかは、しかるべき人に伝えてあるので、必要なら家来のほうが来ればいいというわけです。外国使節も同様です。草原駐屯と言ったほうがイメージしやすいでしょうか。
そんなフットワークの軽い彼ら遊牧民は、巨大な大帝国を縦横無尽に駆け巡るジャムチという駅伝制度を構築しました。帝国全土に道が張り巡らされ、三十キロごとに駅を設け、パイザを持った使者が、駆け回っていました。パイザは現代でいうところのパスポートのようなものです。これによって、ハーンはどこにいても情報を得ることができました。
現在のシナの姿を決めたとも言えるフビライの大改革は行政単位の変更です。
それまでのシナは、「県」という城壁に囲まれた都市とその周辺の農村部が収税単位で、何百とありました。モンゴル人の考え方としては「現地の政治はそのまま現地人に行なわせ、税金だけを取ればいい。そのためには細かい単位では面倒だ」ということで、大きい単位にまとめ、徴税官を各省に置きました。
中書省という役所があります。チンギス・ハーンの時代には官僚機構が整っておらず、チンギス・ハーンの命令を様々な言葉に翻訳し、書類にして、全土に命令する役目を担った翻訳官・秘書官たちの役所でした。
帝国が広がると、中書省の権限が強くなり税金も扱うようになりました。中書省は大都にあります。しかし、地方にも出張所を置き、それを「行中書省(行省)」と言いました。「出張した省」という意味です。中書省は10の行省(嶺北・遼陽・陝西・甘粛・河南・四川・雲南・江浙・江西・湖広)を置きました。これが今日の中国の省の起源です。各省がヨーロッパの1国ぐらいある大きな区分です。ここから税金が上がってきます。行省ははじめ10でしたが、やがて11になります。どういうことかというと、日本への蒙古襲来のために置いた征東行省が、日本征討はなくなりましたが1287年に常設機関となり、高麗と済州島とアムール河下流域を管轄することになるのです。
一方、モンゴル帝国では、税金を払いさえすれば、あとの細かいことは各地に任されていました。完全請負制です。ロシア方面では、徴税官が出世してモスクワ大公になりました。
宗教も自由です。モンゴル帝国では宗教団体は、日本と同じように税金が免除されました。ロシア正教もモンゴル統治下の免税措置のおかげで、それまでになく発展しました。フビライはチベット仏教を気に入ったようですが、他の宗教の信者に仏教を強制したりしません。「チンギス一族の幸せを祈ればいい」と寛容なのです。
分裂したとはいえ、モンゴル帝国はゆるやかな連合体としてユーラシア大陸の東西を結んでいました。これにより、東西貿易が発展し、パックス・モンゴリカ(モンゴル帝国の覇権による平和)とも言われました。モンゴル帝国内の人々、そのしくみや機構から利益を享受した人びとは、豊かになりました。大都にはさまざまな国が商館や公使館に相当する施設を置いていました。
1271年、フビライは自らの所領の名称として「大元」を採用しました。「大元」とは「天」を意味します。それまでのシナ王朝は故郷にちなんだ名前がついていました。「遼」は契丹人の故郷が遼河の上流だったからです。「金」は女真人の故郷がアンチュフ河沿いにあり、アンチュンが女真語で「黄金」という意味だったのです。例外は、王莽のたてた「新」で、これは文字通り「新しい王朝」という意味です。これらに対して「元」は壮大なスケールの王朝名です。ある意味で世界観が変わったのです。
フビライの所領である元は、漢字圏のシナを「含み」ますが、シナ世界だけではありません。それに、元はユーラシア全域を征服したモンゴル帝国の宗主国でもあります。元朝の官僚や軍人にも様々な種族がいます。唐も「国際的」とされる王朝ですが、元はその比ではなく遠方からやってきた人々が行き交います。コーカサス出身者も、色の黒い人もいる。そのため、漢字だけが国の言葉・文字というわけでもないのです。漢字圏のシナ地域は植民地のひとつにすぎません。
『元史』によると、「漢人」は、先に降伏した金の人々、つまり、淮河以北に住んでいた人々のことですから、契丹人・女直人(女真人)・渤海人・高麗人を含みます。
元は1276年に南宋を滅ぼしますが、南宋の人びとは「蛮子(まんじ)」です。つまり、「南蛮人」と呼んだのです。元朝は、華北と差をつけて格下に扱いました。蒙古襲来については後述しますが、2回目に日本に攻めて来た軍隊は「蛮子軍」といいました。つまり、旧南宋軍だったのです。すでに、何度も「漢人」は入れ替わっているのですが、ここでもまた「漢人」の意味がズレました。
元では、モンゴル人を第一とし、ついで「色目人」のカテゴリーがありました。「様々な種類の人」という意味で、主にイラン系や中央アジア系の人を指しました。その下に、「漢人」、さらに下に「南人」または「蛮子」と呼ばれる人がいました。つまり、漢字を使わない人たちが支配層だったのです。シナ人からすると屈辱の時代と言えます。
もっとも、そういう世界帝国だから、大元=天という名前に意味があるのです。漢字圏だけでない、多くの種族を含む世界に1つの王朝、という意味がこの国号にはあります。ある意味で、今の中華人民共和国の考え方の起源もここにあります。
現代中国が「チベットもモンゴルも中国だ」と言っているのは、元朝や清朝を回復するつもりなのです。さらに、その延長線上に、モンゴル帝国=元朝と言い出す始末です。モンゴル帝国=元朝だとすると、ロシアも元朝です。もっとも、中国人の中には、本当にそう思っている人もいるかもしれません。そして、ロシアが弱くなれば「ロシアも中国だ」と言い出すでしょう。壮大な王朝名およびコンセプトは、その後の明、清にも引き継がれ、現代中国もまた、実質はともかく、領土的誇大妄想だけは受け継いでいるようです。
モンゴル帝国は部族連合であって、上述のように皇帝は各国、各部族に大幅な自治を許し、細々とした指図はしませんでした。自治や自由を認める皇帝像がピンとこないという人が意外と多いようです。現代人には「帝国」というと、ドラマや映画、アニメに出て来る「悪の帝国」的な悪いイメージしかない。しかし「強圧的にすべてを収奪していく無慈悲な悪魔のようなやつら」、これはどちらかというと絶対主義的な中央集権国家の王様です。「皇帝とは何か」を説明し出すと、東洋と西洋では異なりますし、またややこしいのですが、簡単に言うと諸王、諸侯に現地の政治をまかせて、その上に君臨しているケースがほとんどです。強権的に奪ってばかりいたら、大帝国は保てません。
どこから、そういう「悪」のイメージが出てきたのでしょうか。私はスター・ウォーズの影響が大きいと思っています。
しかし、それよりもはるか昔に、「帝国」という言葉を地に落としたのはレーニンです。「資本主義」=「帝国主義」とし、「帝国主義」が諸悪の根源であるかのように主張しました。そして、共産主義者たちが、それを世界に広めたのです。「帝国」といえば悪者になってしまったのは、共産主義者たちが言論を握って以降です。しかし、共産主義が生まれたのは近代ですから、レーニンの言う「帝国」と十三世紀のモンゴル帝国とは全然別のものです。
いずれにしても、自発的な営みを大事にしなければ、統治は続きません。まして広大な領域の統治は、被支配者を押さえつけるだけでは長持ちしません。あえて行なうと、ソ連や中国のような強権国家になるのです。
歴史の講義をするときに一番難しいのは単語の定義です。いちおう最初に定義するのですが、それでも聞き手の中に特定のイメージがあると、どうしても正確なニュアンスが伝わらず、聞き手の理解が進まないということがあります。
「皇帝」や「帝国」も定義が難しい単語のひとつです。もともとの訳し方が悪かったということもあるのですが、いまさら新語を作っても、余計に理解してもらえず、説明に著しく支障をきたすので、しかたなく使っています。
モンゴル軍というと「モンゴル人は極めて残忍で、敵は皆殺し。通ったあとは、草1本生えない」式に描写され、モンゴル人が大量殺人集団だったような印象を持たれています。
こういった記録が残っているのは西方のイスラム・キリスト教世界です。漢文による皆殺しの記録はありません。実際にモンゴルの部隊は、人を殺していますが、当初、シナ式の普通の戦争をしただけだったのでしょう。だから漢文では同じことをしても記録にも残らなかったと考えられます。
ところが中央アジアを西に移動し、キリスト教やイスラム教の国や地域を攻めたときに、現地の人は大ショックを受けました。それまでのイスラム世界の戦争では、人間は捕えて取引材料に使うものでした。王侯貴族や金持ちであれば人質にして、高い身代金と交換する。そうでなければ奴隷として売る。「……しないと殺すぞ!」と脅すものの、それは交渉・駆け引きであって、皆殺しのようなもったいないことはしなかったのです。
ところがモンゴルは、「降伏すれば助ける。抵抗したら殺すぞ」という原則を貫き、「逆らうものは死」を地で行ったのです。イスラム教徒は交渉のつもりでグダグダしていたら、「問答無用!」と殺戮の嵐が吹き荒れ、見せしめに殺されてしまったのでした。これを見た(知った)イスラム教徒は「本当に殺した。なんと野蛮な!」と驚愕しました。それでモンゴルの殺戮に関して表現過剰な文章が残るわけです。
例えばヘラートで160万人が殺されたと伝えられていますが、モンゴル人が総勢で10万人程度しかいないのに、その10倍以上もの人を殺せるでしょうか。しかも、ヘラートほか中央アジアの町を「全滅させた」はずなのに、その数年後に町を訪ねた人が「大繁栄していた」などと書いているので、本当に大虐殺があったかどうかも疑問です。
モンゴルは言い訳を書き残しませんでした。正当化の必要がないぐらい強かった。負けた側は、そのときは強者に頭を下げます。そして、モンゴルが去った後で「本当は嫌々従ったのだ」とか「モンゴルは残虐だった」などと主張して、自分たちを正当化しました。自ら進んでモンゴルとつながって利権を貪った人にしても、あるいは、そういう人こそ言い訳をするのです。
もう1つ、モンゴル人自身が虐殺を吹聴したという説もあります。恐怖感を煽って次の町を落としやすくするためです。うわさを聞いた人々が怖がって、すぐに頭を下げてくる。モンゴル側は「よし、よし。税金を払えば許してやる」と簡単に領域を広げることができ、わざわざ戦争をする手間が省けます。
ですから歴史史料は、書いてあるからといって、そのまま信じてはいけません。誰が、いつ、何のためにこれを書いたのか。それを踏まえた上で読まないと、真実はつかめません。やたらと殺していたら、東西貿易が発展するわけがないのです。諸事実を突き合わせて考えれば、モンゴルに対する記述には、かなりの嘘が入っていることがわかります。
それにしても、真実がゆがめられたり、言い訳プロパガンダが広まって定着したり、どこかで聞いた話だと思いませんか。モンゴル帝国と大日本帝国、この2つの帝国は、人類の歴史に大きな役割を果たしたにもかかわらず、今の世界史では正当に評価されていません。これについては『どの教科書にも書かれていない日本人のための世界史』(KADOKAWA、二〇一七年)で詳述しておりますので、興味のある方は読んでみてください。
モンゴル帝国といえば、日本人にとっては「蒙古襲来」が大事件でした。
宮内庁所蔵の『蒙古襲来絵詞』には、モンゴル軍の様々な顔つきの人が描かれています。黒い人もいます。漕ぎ手はすべて高麗人です。高麗人は髪型が違うのではっきりわかります。船をつくったのも高麗人です。
「蒙古襲来」と言いならわされていますが、私は、遊牧民は絶対に来ていないと思います。彼らは平原を騎馬で進むのは得意ですが、海上は勝手が違います。泳げないので、海の上になど浮かびたくありません。
しかも、モンゴル人は人数が少ないので、船上で被支配者から反乱を起こされる心配もあります。中央アジア方面には好んで行きますが、日本に攻めて来たのは、圧倒的に契丹人・女真人・高麗人、そして、高麗二世三世です。「二世三世」とは、オゴデイの時代に高麗人を鴨緑江の北に拉致して入植させているので、モンゴル領内にも高麗系の人びとがいるのです。農民として働かせ、穀物税を取っていました。その中から出世し、軍隊に入ったり官僚になったりする人もまた出て来ました。
そして、司令官はヒンドゥ、つまり「インド」という名前の人です。実際にインド人だったのかどうか確認できませんが、絵画を見ると黒い人も交じっているので、雑多な人種構成だったことがうかがえます。インド人がいたとしても不思議はありません。もしモンゴル人の部隊なら、大将もモンゴル人のはずです。そして、モンゴル人の名だたる武将であれば『元史』列伝に記録が残っているはずですが、それらしいものはないのです。そのような事実からも、日本に攻めてきた人々の大半は遊牧民ではなかったと考えられます。
1280年、フビライは「征東行省」という日本攻略のための役所を創設しました。前述のようにモンゴル帝国は請負制なので、各省は財政基盤を自力で賄わなければなりません。そして、この征東行省は、おそらく日本海岸沿いに住む契丹人、女真人、高麗人が主な担い手であったと考えます。したがって、日本攻めは彼らの使命であると同時に、金づるだったのです。
元寇に先立つこと約40年前、1231年にモンゴル軍が高麗に侵入します。以来、1259年に高麗が降伏するまで、約30年にわたってモンゴル軍は侵入を繰り返し、高麗全土を荒らし回りました。この過程でモンゴルに早々と寝返った高麗人が、最後まで高麗を守った高麗人より、最終的には「偉く」なります。モンゴル直轄領の高麗人には拉致された人もいますが、まだモンゴルと戦っているときに裏切ってモンゴル側についた人や、高麗よりも待遇がマシだからと自ら北に渡った人もいます。
日本攻めにあたっては、裏切り高麗人が、居残り高麗人をアゴで使います。それが面白くないので、居残り高麗人が「こっちに全権をくれ」と言ったりする。そんな権力争いも加わって、行なわれたのが元寇でした。「蒙古襲来」した兵士たちは、実は高麗人が圧倒的多数だったのです。そして、最も半島に近かった壱岐と対馬の人びとは、彼らによって惨殺されました。
蒙古襲来が2回とも失敗したのは、モンゴル式の戦争ができなかったからです。前回、モンゴル軍が強かったのは、前後左右から集まって巻き狩り方式で包囲作戦を行なったからだと述べました。しかし、日本では、海からまず上陸しなければならず、1方向からしか攻められません。それに、おそらくモンゴル人は来ていない。
1回目(文永の役)は準備不足だったようです。短期決戦のつもりでやってきて、物資、特に「矢」が尽きてしまいました。日本側は自分の国土ですから、いくらでも補給ができます。それで元はあきらめて引き上げました。
2回目(弘安の役)は、旧南宋から来る船が、1カ月遅れました。それで高麗軍は対馬と壱岐を占領し、人びとを虐殺し、味方の到着を待っていました。なかなか来ないので、高麗軍だけで攻めようとしたら、博多湾の土塁と石塁に妨害されて上陸できません。仕方がないので、やはり待つ。
しかし、旧南宋からの部隊(蛮子軍)は、人数は多いものの、寄せ集めで、船も粗末なものでした。モンゴルは、南宋を降伏させ占領したのですから、南宋軍など邪魔者です。「行け」と追い出された人びとによる軍隊で、いわば棄兵です。農民たちが農具を持っていたので、九州を占領して九州に入植するつもりだったようです。
遅ればせながら蛮子軍が到着すると、高麗軍は「やっと来たか」と包囲作戦に入ろうとしますが、そこに台風がやってきました。しかも、船が多すぎて、船同士がぶつかって沈みました。でも司令官はよい船に乗って帰ったことがわかっていますので、全滅ではありません。
その後も日本は、敵は「また来る」と考え、異国警護を怠りませんでした。しかし、大陸の東北方面や中央アジア、ベトナムなど各地で反乱が起こり、フビライはその都度、日本攻めを中止せざるをえませんでした。近いところの反乱鎮圧が優先です。そのうち1294年、フビライが亡くなり、元寇も沙汰止みとなりました。
以上、ざっくりまとめましたが「蒙古襲来」について、より詳しくは『世界史のなかの蒙古襲来』(扶桑社、2019年)を参照してください。
フビライは80歳まで長生きし、皇太子とされていた息子のほうが先に死んでしまいました。強いリーダーシップを持った指導者の後は、必ずといっていいほど後継者問題が起こります。
フビライの死後、有力だったのは孫たちでした。その母であるココジンは賢い人で、後継者の決定にあたっては逸話が残っています。あるとき息子たちに言いました。「みなの前でチンギス・ハーンの遺訓を暗唱してみせなさい」。それを一番上手に暗唱したのはテムルでした。こうして元朝の2代目皇帝は成宗テムル(1265~1307、在位:1294~1307)が就任しました。衆人の前ではっきりと目立つようにして、後継者を決めたのです。
テムルは10年以上位にありました。しかし、後の皇帝の在位期間が短くなっています。混乱の理由は、外戚のフンギラト家による介入のためです。
フンギラトはモンゴル帝国の臣下の中で最も有力な部族です。日本の平安時代の藤原氏が娘を宮中に入れ、その皇子を天皇にしていったように、有力ハーンの母や皇后はフンギラト家の出が多いのです。フンギラト族は、自分たちの一族出身者を母としない皇子を皇帝にしたくなかったのです。
フビライの皇后チャブイ・ハトンも、先のココジン夫人もフンギラトでした。フンギラトの夫人は、息子たちにも、なるべくフンギラトの娘と結婚させ、その子を皇帝に立てたかったのですが、そううまくいきませんでした。それでも、フンギラトが往生際悪く、皇位にしがみついたので争いが起こりました。
なぜ、そこまでしがみつくか。藤原氏との違いは何か。それは前回述べた妻の財産権と関係してきます。妻は、実家から婚資を持って嫁いできます。それは夫のものにならない。妻の財産であり続けます。家来を戦争に出せば儲かる。金を商人に貸し付けたら儲かる。そうやって増やした財産があります。工場経営もする。中央アジアのマドラサ(学校)経営もする。女性が自立して経済活動を営んでいます。
皇后には皇后府のような組織があり、いわば女の財産管理会社です。自分が亡くなった後は、同じ部族の娘に継承させたいのです。別の部族の女には継がせたくない。
しかし圧倒的に強かったフンギラト族の栄光にも陰りが見えます。とうとうフンギラトなどいらないという皇帝が出てきます。それまでの体制に逆らって、なかばクーデタのようなものです。
もちろん皇帝側には、フンギラトに代わる後ろ盾が必要です。今度は、キプチャク軍団など、コーカサスや中央アジア西部から連れてきた近衛兵を使って、フンギラトをたたきました。
こうして、内紛が起こります。皇帝としては、どのレベルでも血縁でつながっている親戚だらけの部族集団より、皇帝個人に忠誠を誓い、他とは関係の薄いキプチャク軍団の将軍たちなら使いやすいと思ったのです。しかし、功績を上げれば、将軍たちが強くなる。あまり強くなりすぎてもいけない。それで、別の将軍を使って、キプチャク軍団の力を削ぐ。そんなことをしているうちに、当然のことですが、元朝皇帝の支配力が弱くなっていきました。(宮脇淳子)
- モンゴル=元朝ではない~なぜチンギス・ハーンが「太祖」なのか?
- 世祖フビライ、大都を築く~ところが、ほとんど住まない
- パックス・モンゴリカ~省の起源は元にあり。
- シナ王朝の名前の付け方が変わった~「大元=天」の意味
- 「帝国」とは何か~悪のイメージはスター・ウォーズとレーニンが決めた?!
- 本当にモンゴル人は残忍だったか?~プロパガンダに騙されないために
- 蒙古襲来~しかし、モンゴル人は襲来していない!?
- なぜ「日本攻め」は失敗したのか~台風以外の、こんな要因
- 後継者争いで弱くなったモンゴル~外戚の介入で大混乱
◆モンゴル=元朝ではない~なぜチンギス・ハーンが「太祖」なのか?
前回のお話は、ユーラシア全域に広がってしまいました。ここからは主にフビライ(1215~1294)と元朝にしぼります。
中国史の系図では、元の太祖(初代皇帝)はチンギス・ハーンとされ、以下、太祖チンギス、太宗オゴデイ、定宗グユク、憲宗モンケ、世祖フビライとなっているものが、よく見られます。それでモンゴル帝国=元と思っている日本人や中国人が多いのですが、元の建国は1271年で、フビライの時代です。それ以前に元はありません。モンゴル帝国の建国は1206年ですから、65年もの差があります。
元朝というのは、モンゴル帝国のほぼ3分の1を占め、帝国の宗主国です。それにモンゴル人の故郷でもあります。しかし、モンゴル帝国と元朝は違います。チンギス・ハーンが亡くなったのは1227年ですから、まさか自分が元の太祖と呼ばれるとは夢にも思わなかったでしょう
どうして、「太祖」のような称号があるかというと、元朝を建てたフビライが、初代~第4代のモンゴル帝国君主にシナ式の皇帝の諡(=おくりな/廟号・死後に贈る称号)を贈ったのです。元ができたのは祖父チンギス・ハーンのおかげであるということで「太祖」としました。以前の回で述べたように、太祖は王朝を起こした人に贈る称号です。
元朝の正史である『元史』には、冒頭に「元の太祖チンギス・ハーン(成吉思汗)」と書いてあります。それで、現代中国人は、「中国の英雄チンギス・ハーン」と言うわけです。モンゴル帝国も中国にしてしまう。史実では乗っ取られましたが、歴史戦で乗っ取り返そうとしています。
モンゴル帝国は元ではないし、まして中国ではないのですが、中国人いわく「ここに元の太祖と書いてあるでしょ」と。確かに書いてありますが、上記のような経緯であることを理解しておいてください。
◆世祖フビライ、大都を築く~ところが、ほとんど住まない
モンゴル帝国の5代目君主(ハーン)フビライ(在位1260~1294)は、初代元朝皇帝・世祖(在位1271~1294)となります。チンギスは「太祖」ですが、フビライは元朝を創始したので、もう一度「祖」がついて「世祖」です。
フビライは大都(北京)を首都にします。遊牧民にとって町は、定住民とは異なった意味あいを持ちます。私たちは首都というと、政治・経済の中心と思いがちですが、遊牧民にとっては商業センターおよび補給基地のようなものです。遊牧民は移動します。しかし、商いの場所は決めておかないと、売り買いができません。
世界中の商人が集まる市場、商品を保管する倉庫が必要です。そのための本拠地として「首都」を定めました。しかし、町はあくまでも経済の中心であって、政治の中心ではありません。政治は君主のテントと共に移動します。もちろん家族や家来、家畜も一緒です。
遊牧民は基本的に町に住むことを嫌います。人が大勢いると汚くなるので、都会に魅力を感じません。カラコルムに宮殿がありましたが、迎賓館のようなものでした。皇帝は年に2回カラコルムで外国の使節などをもてなし、大盤振る舞いする。そのためだけの都市でした。
通常は草原を移動し、行った先々でサーカス小屋かパビリオンのような大きなテントを張ります。1000人も入るような大きなテントです。草原が汚れてきたら、「清潔な」場所に移動します。家畜は、テントから離れたところで遊牧させていますから、家畜が汚すのではありません。人間がトイレに行くなどして「汚す」のです。
フビライは大都(北京)を首都と定めましたが、皇帝とその取り巻きは冬の3カ月しか暮らしていません。他の季節は草原を移動していました。
夏の離宮は「上都」といいます。大都から離宮までルートがいくつかあり、どこを通るかは年によって異なります。草原の状態によって決めるのです。ところどころでキャンプを張り、途中で鷹狩りしながら、政府が一斉に移動しました。ですから、皇帝は基本的に草原で暮らしています。上都は「都」の字がついていますから城壁の中にありますが、草があり、動物が動き回り、いわばサファリパークの中に泊まり込むようなものです。
一方、大都の中心は南側にあり、北3分の1は建物跡は何も発見されていません。現在、故宮博物院などの観光スポットが集まっているのも、高級幹部の住宅街「中南海」も南側です。
今の北京には北海・中海・南海という湖があり、文字通り、北・中央・南に連なっています。「中南海」とは中海と南海をくっつけた言葉です。北海周辺がレストラン街や歓楽街になっていて、北京市民の憩いの場です。金の時代にはこの辺りに離宮がありました。フビライは南西の旧都(中都)が荒れ果ててしまっているので放棄して、その東北の離宮があった近辺に新しい都、大都を築きました。そして、漢人の臣下は大都に住み、皇帝率いる遊牧政府は移動しているというわけです。
皇帝が移動しているというのが一般の日本人にはイメージしにくいようですが、遊牧国家では普通ですし、中世ヨーロッパの宮廷も移動していました。
皇帝がいつどこにいるかは、しかるべき人に伝えてあるので、必要なら家来のほうが来ればいいというわけです。外国使節も同様です。草原駐屯と言ったほうがイメージしやすいでしょうか。
そんなフットワークの軽い彼ら遊牧民は、巨大な大帝国を縦横無尽に駆け巡るジャムチという駅伝制度を構築しました。帝国全土に道が張り巡らされ、三十キロごとに駅を設け、パイザを持った使者が、駆け回っていました。パイザは現代でいうところのパスポートのようなものです。これによって、ハーンはどこにいても情報を得ることができました。
◆パックス・モンゴリカ~省の起源は元にあり。
現在のシナの姿を決めたとも言えるフビライの大改革は行政単位の変更です。
それまでのシナは、「県」という城壁に囲まれた都市とその周辺の農村部が収税単位で、何百とありました。モンゴル人の考え方としては「現地の政治はそのまま現地人に行なわせ、税金だけを取ればいい。そのためには細かい単位では面倒だ」ということで、大きい単位にまとめ、徴税官を各省に置きました。
中書省という役所があります。チンギス・ハーンの時代には官僚機構が整っておらず、チンギス・ハーンの命令を様々な言葉に翻訳し、書類にして、全土に命令する役目を担った翻訳官・秘書官たちの役所でした。
帝国が広がると、中書省の権限が強くなり税金も扱うようになりました。中書省は大都にあります。しかし、地方にも出張所を置き、それを「行中書省(行省)」と言いました。「出張した省」という意味です。中書省は10の行省(嶺北・遼陽・陝西・甘粛・河南・四川・雲南・江浙・江西・湖広)を置きました。これが今日の中国の省の起源です。各省がヨーロッパの1国ぐらいある大きな区分です。ここから税金が上がってきます。行省ははじめ10でしたが、やがて11になります。どういうことかというと、日本への蒙古襲来のために置いた征東行省が、日本征討はなくなりましたが1287年に常設機関となり、高麗と済州島とアムール河下流域を管轄することになるのです。
一方、モンゴル帝国では、税金を払いさえすれば、あとの細かいことは各地に任されていました。完全請負制です。ロシア方面では、徴税官が出世してモスクワ大公になりました。
宗教も自由です。モンゴル帝国では宗教団体は、日本と同じように税金が免除されました。ロシア正教もモンゴル統治下の免税措置のおかげで、それまでになく発展しました。フビライはチベット仏教を気に入ったようですが、他の宗教の信者に仏教を強制したりしません。「チンギス一族の幸せを祈ればいい」と寛容なのです。
分裂したとはいえ、モンゴル帝国はゆるやかな連合体としてユーラシア大陸の東西を結んでいました。これにより、東西貿易が発展し、パックス・モンゴリカ(モンゴル帝国の覇権による平和)とも言われました。モンゴル帝国内の人々、そのしくみや機構から利益を享受した人びとは、豊かになりました。大都にはさまざまな国が商館や公使館に相当する施設を置いていました。
◆シナ王朝の名前の付け方が変わった~「大元=天」の意味
1271年、フビライは自らの所領の名称として「大元」を採用しました。「大元」とは「天」を意味します。それまでのシナ王朝は故郷にちなんだ名前がついていました。「遼」は契丹人の故郷が遼河の上流だったからです。「金」は女真人の故郷がアンチュフ河沿いにあり、アンチュンが女真語で「黄金」という意味だったのです。例外は、王莽のたてた「新」で、これは文字通り「新しい王朝」という意味です。これらに対して「元」は壮大なスケールの王朝名です。ある意味で世界観が変わったのです。
フビライの所領である元は、漢字圏のシナを「含み」ますが、シナ世界だけではありません。それに、元はユーラシア全域を征服したモンゴル帝国の宗主国でもあります。元朝の官僚や軍人にも様々な種族がいます。唐も「国際的」とされる王朝ですが、元はその比ではなく遠方からやってきた人々が行き交います。コーカサス出身者も、色の黒い人もいる。そのため、漢字だけが国の言葉・文字というわけでもないのです。漢字圏のシナ地域は植民地のひとつにすぎません。
『元史』によると、「漢人」は、先に降伏した金の人々、つまり、淮河以北に住んでいた人々のことですから、契丹人・女直人(女真人)・渤海人・高麗人を含みます。
元は1276年に南宋を滅ぼしますが、南宋の人びとは「蛮子(まんじ)」です。つまり、「南蛮人」と呼んだのです。元朝は、華北と差をつけて格下に扱いました。蒙古襲来については後述しますが、2回目に日本に攻めて来た軍隊は「蛮子軍」といいました。つまり、旧南宋軍だったのです。すでに、何度も「漢人」は入れ替わっているのですが、ここでもまた「漢人」の意味がズレました。
元では、モンゴル人を第一とし、ついで「色目人」のカテゴリーがありました。「様々な種類の人」という意味で、主にイラン系や中央アジア系の人を指しました。その下に、「漢人」、さらに下に「南人」または「蛮子」と呼ばれる人がいました。つまり、漢字を使わない人たちが支配層だったのです。シナ人からすると屈辱の時代と言えます。
もっとも、そういう世界帝国だから、大元=天という名前に意味があるのです。漢字圏だけでない、多くの種族を含む世界に1つの王朝、という意味がこの国号にはあります。ある意味で、今の中華人民共和国の考え方の起源もここにあります。
現代中国が「チベットもモンゴルも中国だ」と言っているのは、元朝や清朝を回復するつもりなのです。さらに、その延長線上に、モンゴル帝国=元朝と言い出す始末です。モンゴル帝国=元朝だとすると、ロシアも元朝です。もっとも、中国人の中には、本当にそう思っている人もいるかもしれません。そして、ロシアが弱くなれば「ロシアも中国だ」と言い出すでしょう。壮大な王朝名およびコンセプトは、その後の明、清にも引き継がれ、現代中国もまた、実質はともかく、領土的誇大妄想だけは受け継いでいるようです。
◆「帝国」とは何か~悪のイメージはスター・ウォーズとレーニンが決めた?!
モンゴル帝国は部族連合であって、上述のように皇帝は各国、各部族に大幅な自治を許し、細々とした指図はしませんでした。自治や自由を認める皇帝像がピンとこないという人が意外と多いようです。現代人には「帝国」というと、ドラマや映画、アニメに出て来る「悪の帝国」的な悪いイメージしかない。しかし「強圧的にすべてを収奪していく無慈悲な悪魔のようなやつら」、これはどちらかというと絶対主義的な中央集権国家の王様です。「皇帝とは何か」を説明し出すと、東洋と西洋では異なりますし、またややこしいのですが、簡単に言うと諸王、諸侯に現地の政治をまかせて、その上に君臨しているケースがほとんどです。強権的に奪ってばかりいたら、大帝国は保てません。
どこから、そういう「悪」のイメージが出てきたのでしょうか。私はスター・ウォーズの影響が大きいと思っています。
しかし、それよりもはるか昔に、「帝国」という言葉を地に落としたのはレーニンです。「資本主義」=「帝国主義」とし、「帝国主義」が諸悪の根源であるかのように主張しました。そして、共産主義者たちが、それを世界に広めたのです。「帝国」といえば悪者になってしまったのは、共産主義者たちが言論を握って以降です。しかし、共産主義が生まれたのは近代ですから、レーニンの言う「帝国」と十三世紀のモンゴル帝国とは全然別のものです。
いずれにしても、自発的な営みを大事にしなければ、統治は続きません。まして広大な領域の統治は、被支配者を押さえつけるだけでは長持ちしません。あえて行なうと、ソ連や中国のような強権国家になるのです。
歴史の講義をするときに一番難しいのは単語の定義です。いちおう最初に定義するのですが、それでも聞き手の中に特定のイメージがあると、どうしても正確なニュアンスが伝わらず、聞き手の理解が進まないということがあります。
「皇帝」や「帝国」も定義が難しい単語のひとつです。もともとの訳し方が悪かったということもあるのですが、いまさら新語を作っても、余計に理解してもらえず、説明に著しく支障をきたすので、しかたなく使っています。
◆本当にモンゴル人は残忍だったか?~プロパガンダに騙されないために
モンゴル軍というと「モンゴル人は極めて残忍で、敵は皆殺し。通ったあとは、草1本生えない」式に描写され、モンゴル人が大量殺人集団だったような印象を持たれています。
こういった記録が残っているのは西方のイスラム・キリスト教世界です。漢文による皆殺しの記録はありません。実際にモンゴルの部隊は、人を殺していますが、当初、シナ式の普通の戦争をしただけだったのでしょう。だから漢文では同じことをしても記録にも残らなかったと考えられます。
ところが中央アジアを西に移動し、キリスト教やイスラム教の国や地域を攻めたときに、現地の人は大ショックを受けました。それまでのイスラム世界の戦争では、人間は捕えて取引材料に使うものでした。王侯貴族や金持ちであれば人質にして、高い身代金と交換する。そうでなければ奴隷として売る。「……しないと殺すぞ!」と脅すものの、それは交渉・駆け引きであって、皆殺しのようなもったいないことはしなかったのです。
ところがモンゴルは、「降伏すれば助ける。抵抗したら殺すぞ」という原則を貫き、「逆らうものは死」を地で行ったのです。イスラム教徒は交渉のつもりでグダグダしていたら、「問答無用!」と殺戮の嵐が吹き荒れ、見せしめに殺されてしまったのでした。これを見た(知った)イスラム教徒は「本当に殺した。なんと野蛮な!」と驚愕しました。それでモンゴルの殺戮に関して表現過剰な文章が残るわけです。
例えばヘラートで160万人が殺されたと伝えられていますが、モンゴル人が総勢で10万人程度しかいないのに、その10倍以上もの人を殺せるでしょうか。しかも、ヘラートほか中央アジアの町を「全滅させた」はずなのに、その数年後に町を訪ねた人が「大繁栄していた」などと書いているので、本当に大虐殺があったかどうかも疑問です。
モンゴルは言い訳を書き残しませんでした。正当化の必要がないぐらい強かった。負けた側は、そのときは強者に頭を下げます。そして、モンゴルが去った後で「本当は嫌々従ったのだ」とか「モンゴルは残虐だった」などと主張して、自分たちを正当化しました。自ら進んでモンゴルとつながって利権を貪った人にしても、あるいは、そういう人こそ言い訳をするのです。
もう1つ、モンゴル人自身が虐殺を吹聴したという説もあります。恐怖感を煽って次の町を落としやすくするためです。うわさを聞いた人々が怖がって、すぐに頭を下げてくる。モンゴル側は「よし、よし。税金を払えば許してやる」と簡単に領域を広げることができ、わざわざ戦争をする手間が省けます。
ですから歴史史料は、書いてあるからといって、そのまま信じてはいけません。誰が、いつ、何のためにこれを書いたのか。それを踏まえた上で読まないと、真実はつかめません。やたらと殺していたら、東西貿易が発展するわけがないのです。諸事実を突き合わせて考えれば、モンゴルに対する記述には、かなりの嘘が入っていることがわかります。
それにしても、真実がゆがめられたり、言い訳プロパガンダが広まって定着したり、どこかで聞いた話だと思いませんか。モンゴル帝国と大日本帝国、この2つの帝国は、人類の歴史に大きな役割を果たしたにもかかわらず、今の世界史では正当に評価されていません。これについては『どの教科書にも書かれていない日本人のための世界史』(KADOKAWA、二〇一七年)で詳述しておりますので、興味のある方は読んでみてください。
◆蒙古襲来~しかし、モンゴル人は襲来していない!?
モンゴル帝国といえば、日本人にとっては「蒙古襲来」が大事件でした。
宮内庁所蔵の『蒙古襲来絵詞』には、モンゴル軍の様々な顔つきの人が描かれています。黒い人もいます。漕ぎ手はすべて高麗人です。高麗人は髪型が違うのではっきりわかります。船をつくったのも高麗人です。
「蒙古襲来」と言いならわされていますが、私は、遊牧民は絶対に来ていないと思います。彼らは平原を騎馬で進むのは得意ですが、海上は勝手が違います。泳げないので、海の上になど浮かびたくありません。
しかも、モンゴル人は人数が少ないので、船上で被支配者から反乱を起こされる心配もあります。中央アジア方面には好んで行きますが、日本に攻めて来たのは、圧倒的に契丹人・女真人・高麗人、そして、高麗二世三世です。「二世三世」とは、オゴデイの時代に高麗人を鴨緑江の北に拉致して入植させているので、モンゴル領内にも高麗系の人びとがいるのです。農民として働かせ、穀物税を取っていました。その中から出世し、軍隊に入ったり官僚になったりする人もまた出て来ました。
そして、司令官はヒンドゥ、つまり「インド」という名前の人です。実際にインド人だったのかどうか確認できませんが、絵画を見ると黒い人も交じっているので、雑多な人種構成だったことがうかがえます。インド人がいたとしても不思議はありません。もしモンゴル人の部隊なら、大将もモンゴル人のはずです。そして、モンゴル人の名だたる武将であれば『元史』列伝に記録が残っているはずですが、それらしいものはないのです。そのような事実からも、日本に攻めてきた人々の大半は遊牧民ではなかったと考えられます。
1280年、フビライは「征東行省」という日本攻略のための役所を創設しました。前述のようにモンゴル帝国は請負制なので、各省は財政基盤を自力で賄わなければなりません。そして、この征東行省は、おそらく日本海岸沿いに住む契丹人、女真人、高麗人が主な担い手であったと考えます。したがって、日本攻めは彼らの使命であると同時に、金づるだったのです。
元寇に先立つこと約40年前、1231年にモンゴル軍が高麗に侵入します。以来、1259年に高麗が降伏するまで、約30年にわたってモンゴル軍は侵入を繰り返し、高麗全土を荒らし回りました。この過程でモンゴルに早々と寝返った高麗人が、最後まで高麗を守った高麗人より、最終的には「偉く」なります。モンゴル直轄領の高麗人には拉致された人もいますが、まだモンゴルと戦っているときに裏切ってモンゴル側についた人や、高麗よりも待遇がマシだからと自ら北に渡った人もいます。
日本攻めにあたっては、裏切り高麗人が、居残り高麗人をアゴで使います。それが面白くないので、居残り高麗人が「こっちに全権をくれ」と言ったりする。そんな権力争いも加わって、行なわれたのが元寇でした。「蒙古襲来」した兵士たちは、実は高麗人が圧倒的多数だったのです。そして、最も半島に近かった壱岐と対馬の人びとは、彼らによって惨殺されました。
◆なぜ「日本攻め」は失敗したのか~台風以外の、こんな要因
蒙古襲来が2回とも失敗したのは、モンゴル式の戦争ができなかったからです。前回、モンゴル軍が強かったのは、前後左右から集まって巻き狩り方式で包囲作戦を行なったからだと述べました。しかし、日本では、海からまず上陸しなければならず、1方向からしか攻められません。それに、おそらくモンゴル人は来ていない。
1回目(文永の役)は準備不足だったようです。短期決戦のつもりでやってきて、物資、特に「矢」が尽きてしまいました。日本側は自分の国土ですから、いくらでも補給ができます。それで元はあきらめて引き上げました。
2回目(弘安の役)は、旧南宋から来る船が、1カ月遅れました。それで高麗軍は対馬と壱岐を占領し、人びとを虐殺し、味方の到着を待っていました。なかなか来ないので、高麗軍だけで攻めようとしたら、博多湾の土塁と石塁に妨害されて上陸できません。仕方がないので、やはり待つ。
しかし、旧南宋からの部隊(蛮子軍)は、人数は多いものの、寄せ集めで、船も粗末なものでした。モンゴルは、南宋を降伏させ占領したのですから、南宋軍など邪魔者です。「行け」と追い出された人びとによる軍隊で、いわば棄兵です。農民たちが農具を持っていたので、九州を占領して九州に入植するつもりだったようです。
遅ればせながら蛮子軍が到着すると、高麗軍は「やっと来たか」と包囲作戦に入ろうとしますが、そこに台風がやってきました。しかも、船が多すぎて、船同士がぶつかって沈みました。でも司令官はよい船に乗って帰ったことがわかっていますので、全滅ではありません。
その後も日本は、敵は「また来る」と考え、異国警護を怠りませんでした。しかし、大陸の東北方面や中央アジア、ベトナムなど各地で反乱が起こり、フビライはその都度、日本攻めを中止せざるをえませんでした。近いところの反乱鎮圧が優先です。そのうち1294年、フビライが亡くなり、元寇も沙汰止みとなりました。
以上、ざっくりまとめましたが「蒙古襲来」について、より詳しくは『世界史のなかの蒙古襲来』(扶桑社、2019年)を参照してください。
◆後継者争いで弱くなったモンゴル~外戚の介入で大混乱
フビライは80歳まで長生きし、皇太子とされていた息子のほうが先に死んでしまいました。強いリーダーシップを持った指導者の後は、必ずといっていいほど後継者問題が起こります。
フビライの死後、有力だったのは孫たちでした。その母であるココジンは賢い人で、後継者の決定にあたっては逸話が残っています。あるとき息子たちに言いました。「みなの前でチンギス・ハーンの遺訓を暗唱してみせなさい」。それを一番上手に暗唱したのはテムルでした。こうして元朝の2代目皇帝は成宗テムル(1265~1307、在位:1294~1307)が就任しました。衆人の前ではっきりと目立つようにして、後継者を決めたのです。
テムルは10年以上位にありました。しかし、後の皇帝の在位期間が短くなっています。混乱の理由は、外戚のフンギラト家による介入のためです。
フンギラトはモンゴル帝国の臣下の中で最も有力な部族です。日本の平安時代の藤原氏が娘を宮中に入れ、その皇子を天皇にしていったように、有力ハーンの母や皇后はフンギラト家の出が多いのです。フンギラト族は、自分たちの一族出身者を母としない皇子を皇帝にしたくなかったのです。
フビライの皇后チャブイ・ハトンも、先のココジン夫人もフンギラトでした。フンギラトの夫人は、息子たちにも、なるべくフンギラトの娘と結婚させ、その子を皇帝に立てたかったのですが、そううまくいきませんでした。それでも、フンギラトが往生際悪く、皇位にしがみついたので争いが起こりました。
なぜ、そこまでしがみつくか。藤原氏との違いは何か。それは前回述べた妻の財産権と関係してきます。妻は、実家から婚資を持って嫁いできます。それは夫のものにならない。妻の財産であり続けます。家来を戦争に出せば儲かる。金を商人に貸し付けたら儲かる。そうやって増やした財産があります。工場経営もする。中央アジアのマドラサ(学校)経営もする。女性が自立して経済活動を営んでいます。
皇后には皇后府のような組織があり、いわば女の財産管理会社です。自分が亡くなった後は、同じ部族の娘に継承させたいのです。別の部族の女には継がせたくない。
しかし圧倒的に強かったフンギラト族の栄光にも陰りが見えます。とうとうフンギラトなどいらないという皇帝が出てきます。それまでの体制に逆らって、なかばクーデタのようなものです。
もちろん皇帝側には、フンギラトに代わる後ろ盾が必要です。今度は、キプチャク軍団など、コーカサスや中央アジア西部から連れてきた近衛兵を使って、フンギラトをたたきました。
こうして、内紛が起こります。皇帝としては、どのレベルでも血縁でつながっている親戚だらけの部族集団より、皇帝個人に忠誠を誓い、他とは関係の薄いキプチャク軍団の将軍たちなら使いやすいと思ったのです。しかし、功績を上げれば、将軍たちが強くなる。あまり強くなりすぎてもいけない。それで、別の将軍を使って、キプチャク軍団の力を削ぐ。そんなことをしているうちに、当然のことですが、元朝皇帝の支配力が弱くなっていきました。(宮脇淳子)