目次
清朝は漢人王朝ではありません。皇帝の出自の4分の3は漢族ではないと述べてきましたが、度重なる侵入を受け、異民族に何度も乗っ取られ、その最後のダメ押しが清朝です。清朝を担ったのは「女真人」(宋と朝鮮の呼び方)あるいは「女直人」(遼、金、元、明の呼び方)で、後に「満洲人」と呼ばれるようになります。明代には、完全に明の領域の外側にいた部族です。
女真人(満洲人)の故郷は黒龍江の南側、後に日本が満洲国を建てる地域です。彼らが南下し、シナを支配するようになってからは、満洲人がすべて「八旗」に所属するようになるので、彼らの土地ということで、後の満洲は「旗地」と呼ばれるようになります。
女真人の話し言葉はアルタイ系で、モンゴル語や日本語のように助詞「てにをは」があり、語順も日本語とほぼ同じです。モンゴル帝国時代にはモンゴル人に臣従していました。モンゴル人との違いは、遊牧民ではなく狩猟民であるということです。
遊牧民と狩猟民の領域の境目は大興安嶺山脈です。山脈の東側では年間400~500ミリメートルの降水量があり、木が生い茂ります。灌木(かんぼく)が生えると羊や馬などは走りにくくなるので、遊牧には不向きです。しかし、徒歩で森林に入っていき、獣を罠にかけたり、弓矢で射るなどして、狩りをするには適しています。
一方、大興安嶺山脈の西側はモンゴルです。高度も違います。山脈の東は裾へと下り低地になりますが、西は高度をある程度、維持したまま高原が広がります。西側は年間降雨量が、200~300ミリメートル以下、つまり、ほとんど雨が降りません。日本なら台風がひとつ来れば数時間でそれくらい降ります。それが1年の降水量ですから大変に乾燥しています。
生物は水がないと生きていけませんが、モンゴル人は川の水を使って生活しています。降水量の少ないところに木は育たないので、草地が広がります。草にしても日本のように勢いよく生えません。
モンゴル高原は遠くを眺めると一面緑に見えますが、真上から見下ろすと、地面のほうが多くてその中にポツポツと草が生えているだけです。そのため、定住していては草がすぐになくなってしまいますから、移動式の住居で、始終、動き回らなければならないのです。そんな土地なので、総面積は広いですが、大勢の人間は生きていけません。人より家畜の頭数のほうが多く、今でも日本の4倍の国土に人口300万人という国がモンゴルです。
一方、大興安嶺の東、のちの満洲は、雨量が多いので、狩猟のほか粗放農業ができます。寒冷地なので米作はできませんが、アワやヒエ、コーリャンがとれます。
このように狩猟民と遊牧民は生活形態が違います。その狩猟民の中から女真人(女直人、のちの満洲人)が台頭し、頭角を現わしたヌルハチ(1559~1626、在位:1616~1626)が1616年にハーン位(満洲語ではハンと言うのですが)につき、後金国を建てました。
後金は1621年、明と戦って遼河デルタを占領し、1625年には瀋陽に都を移します。ヌルハチは翌年亡くなりますが、2代目ホンタイジが1636年、瀋陽で皇帝となり、新しい国号を清としました。
このとき明はまだ健在です。再び南北朝状態になってしまいました。このような成り立ちを見ても、清朝は漢人王朝ではなく、清帝国は中華帝国ではないことがはっきりわかります。
明朝が倒れ、清朝の時代になるのですが、清が強くて明を下したというよりは、明が勝手に自滅したのです。
1628年、陝西省で大飢饉が起こり、流民が発生し、農民反乱が起こります。反乱は各地に広がり、明はこれらを鎮圧することができませんでした。反乱軍の指導者と言えば聞こえがいい(?)ですが、盗賊の親玉のような李自成が1643年には新順王を称し、西安を占領。翌年には北京に迫り、明朝の崇禎帝(すうていてい)は皇女たちを自分の手で斬り殺して、自害します。
反乱が起こって王朝が倒れたここまでの話は、まだ理解できます。しかし、そこからの展開が日本人にはついていけません。明の将軍・呉三桂(ごさんけい)は、渤海湾に面する万里の長城の東端にある山海関で清と対峙していたのですが、李自成の乱で明朝が滅ぶと、「こんなヤクザなやつの家来になりたくない。まだ清朝の皇帝のほうがマシ」と関所を開きます。今の今まで戦っていた敵軍を引き入れ、しかも、自ら北京進軍の先導を務めました。
自国の農民より、異民族のほうがマシ。シナとは何か、漢人とは何か、を考えるうえで非常に象徴的な出来事です。
北京を占領していた李自成は、20万の兵を率いて山海関に押し寄せましたが、呉三桂軍と清軍の連合軍に大敗しました。李自成は北京に逃げ帰り、紫禁城の宮殿で即位して皇帝を名乗っておいてから、宮殿に火を放ち、掠奪した金銀を荷車に満載して北京を脱出し、西安に向かいました(岡田英弘『誰も知らなかった皇帝たちの中国』)。
こうして明朝は自滅し、清朝は棚からぼたもち式にシナを手に入れました。
さすがに、このときの呉三桂の裏切りには、それらしい説明がないと漢人も納得できなかったようで、その動機に関して有名なお話があります。
呉三桂が北京駐在だったとき江南出身の美貌の妓女・陳円円を見初めて、もらいうけました。しかし、呉三桂は山海関の守りを命じられ、陳円円を北京に残し、出陣します。その後、李自成の乱が起こり、反乱軍が北京を制圧すると、陳円円は李自成軍の武将・劉宗敏のものとなってしまいました。それに激怒した呉三桂は清と同盟を結び、乱の征伐に向かったというのです。
「女のために国を売った猛将」というわけです。ストーリーとしては面白いのですが、それだけで呉三桂が寝返ったわけではないでしょう。やはり李自成と清朝のどちらについたほうが得かを熟慮したうえでの判断だったに違いありません。
清朝支配の下、漢人は高度なレベルの行政文書からは排除されていました。彼らは植民地人ですから、帝国支配には関与できないのです。支配者の言語である満洲語が行政における第1公用語ですが、科挙にトップで受かった官僚3人だけが、この文字を勉強する権利がありました。そして、その人たちだけは皇帝の詔勅や地方から皇帝に届けられた満洲文の文書に直接アクセスすることができました。つまり、それ以外の漢人は満洲文字を学んではいけなかったのです。
清朝が漢人王朝ではないというのが一番わかりやすいのが、この文書管理状況です。満洲語・満洲文字がわかる漢人など、ほとんどおらず、特別優れた人だけが、読む(読めるようになる)権利がある。中央行政への関与は、漢人にとっては狭き門などというものではなく、ほとんど閉じた門でした。
元朝のモンゴル人は、書記には漢人やペルシア人を使いました。しかし、清朝では満洲人自身が文書を取り扱いました。皇帝自身が筆まめで、手紙も書くし、詩もつくる。各地に派遣した駐在大臣や行政長官には、漢人に理解できないように満洲語で書き、現地の担当者も満洲語で皇帝に報告書を送ります。
清朝の最大版図のうち、シナに覆いかぶさるように囲む4つの地域、チベット、回部、モンゴル、満洲は漢字圏ではありません。帝国全体では満洲語が第1行政公用語。モンゴルでは満洲語とモンゴル語、チベットでは満洲語とチベット語(文字)。回部はイスラム教徒の地域で満洲語とペルシア文字(アラビア文字と言っても同じです)が用いられました。
最上層の大臣は、現地の言葉と満洲語ができなければなりません。そして、現地から中央に送られる文書は満洲語で書かれています。これらの地域に漢人が入ることは禁じられていて、そこで起こっていることは漢人には何も知らされません。
現在の中華人民共和国はチベット、モンゴル、新疆(しんきょう)ウイグルにおいて「ここは中国なのだから、漢字だけで十分だ。変な文字を使うな!」と現地の言語を抑圧し、場合によっては「漢字を覚えなかったら、殺す」という勢いなので摩擦が起こっています。しかし、そこは20世紀まで漢字など使っていなかった異民族の土地なのです。
清朝は一般の漢人の言語や文字を奪うようなことはしませんでした。
明の万里の長城の東端は、裏切り将軍・呉三桂の守っていた山海関、つまり渤海湾までです。遼東半島はそれより北東なので長城の外なのですが、そこにも明の領域があり、返牆(へんしょう)という柵を設けて囲っていました。万里の長城ほどしっかりした土盛りではなく、木の柵で、瀋陽や遼陽、撫順をぐるりと囲み、ここまでは明であると表示していました。
ところが、ヌルハチが当地の明軍を全滅させ、1625年に瀋陽に都を築きます。当時はまだ後金国でした。しかし、第2代ホンタイジが、この瀋陽で1636年に国号を清とします。すでにモンゴルを従え、モンゴル人の推戴を受けての皇帝(ハーン)就任です。領域内に満洲人、モンゴル人、漢人がいたので、3言語を公用語としました。それで始祖説話が3言語並立で書かれました。
ところで、清朝の皇帝の姓はアイシンギョロ(愛新覚羅)と言います。アイシン(愛新)は満洲語で金のことです。ギョロ(覚羅)は姓です。つまり、アイシンギョロとは「金という姓」という意味なのです。
そのアイシンギョロの祖先は、長白山の山頂付近のブルフリ湖で水浴びをしていた仙女だそうです。
湖で仙女が3人水浴びをしていました。すると鵲(かささぎ)が下りてきて赤い実を置いていきました。末娘が実を食べると、お腹が大きくなり、体が重くなって、天に帰れなくなってしまいました。2人の姉は「軽くなったら帰っていらっしゃいね」と天に戻ってしまいます。残された末娘は、男の子を産みました。少し大きくなってから、母は「天が乱れた国を治めさせようとして、あなたが生まれたのです。この小舟に乗って川を下って行きなさい」と言い、天に帰っていきました。男の子は、言われたとおり川を下り、下流の人間に拾われます。それが愛新覚羅(アイシンギョロ)の祖先である、要するに、尋常の人間ではございませんという神話です。また、狩猟民や遊牧民の間では末子が一番偉くなったり、幸運をつかんだりする話が多く残っていますが、この仙女も末子です。
ちなみに、「長白山」は朝鮮名を「白頭山」と言い、金日成がそこで抗日ゲリラ活動の指導者をしていて、そこで金正日が生まれたことになっていて、北朝鮮の聖地です。あの山は、実は、清朝にとっても聖地なのです。
清朝も時代が経つにつれ漢人の科挙官僚が増えてくるので、宮廷文書の漢字訳も多く出てきます。しかし、必ず満洲語と漢文の2言語で同内容の文書を作成します。そして、モンゴル関係文書の場合は、さらにモンゴル語が加わり、3言語で配布します。
清朝の版図にチベットと回部が入るのは康煕帝より後の時代なのですが、彼らはそれぞれ別の言語を用いているので、同様に、チベット語とウイグル語が加わって「五体」になりました。
清朝の満洲人皇帝は五族を統治する君主ですが、それぞれの地域は別々の組織を持ち、統治機構上は交わらないのです。特に漢人は、モンゴル・回部・チベットには入ることすらできませんでした。この3つは帝国の垣根となってくれる「藩屏(はんぺい=垣根)」という意味で、藩部と呼ばれます。漢人が入ると、摩擦が起こるに決まっているので、もちろん満洲にも入植させませんでした。
満洲は軍政を敷き、満洲人の旗人に統治させます。その他の各藩部も、統治は現地人にまかせていました。チベットは仏教的権威でありながら経済的には貧しいので、清朝としては財政援助をします。しかし、政治はチベット人にまかせ、少数の大臣が赴任しました。満洲人の大臣がラサに赴任するときは、供回りのお付きの者と軍人数名を連れて行く程度で、大使館のような規模です。モンゴルにも現在のウランバートルに清朝から役人が赴任してきますが、やはり同様に小規模です。
満洲人の皇帝は帝国に君臨するけれども、各地域は現地人が統治していました。中央とのやりとりが必要な行政は、皇帝と満洲人の現地赴任大臣が満洲語で連絡しあって行ないました。そのため、現ウランバートルの文書館には膨大な満洲語の史料が保存されています。遊牧民や狩猟民は文書管理は不得意なのではという疑念をもたれがちですが、文書の山を見ていると、そんな偏見が払拭されます。
北京に送った文書の写しを作成し、返信があると、それにつなげて貼る。さらなる連絡が必要な場合は、また複写を貼っているなど、丁寧に記録を残し、まじめに文書行政を行なっています。すべて満洲文字です。
中華人民共和国は清が中華王朝だと主張しますが大嘘です。「中華」とは何でしょう? 彼らは「中華は多民族なのだ」と逃げます。「満洲人も、モンゴル人も、チベット人も、ウイグル人も中国人だ」「中国人なのだから漢字だけ使え」です。
満洲やモンゴル、チベット、ウイグルは清帝国を構成していました。現代中国が各部族を支配していた清朝を継承したと主張するのなら、現地の言語や文化を尊重していた清朝のあり方こそ継承すべきです。チベット人もウイグル人もモンゴル人も、あきらめたように、こう言っています。「中国人は、われわれなんかいらないんだ。土地がほしいだけだ」と。
現代中国は、ご都合主義で領土だけを奪い取り、そこに住む人びとの言語や文化は抑圧して、「中国化すれば生かしておいてやってもいい」という姿勢です。清朝はそういう王朝ではありませんでした。支配民族である満洲人の数が少ないからという面もありますが、康煕帝をはじめ、基本的に勤勉な皇帝を輩出し、善政を心がけていました。
ヌルハチは女真を統一して後金国を建国しました。チンギス・ハーンの時代にモンゴルに降伏した女真族の国に金という王朝があり、その継承者であるという意味を込めて後金と号したのです。
先にも述べたとおり、息子のホンタイジが2代目の後金国ハンになり、そののち国号を清に変更します。そのため、ヌルハチ時代は、まだ清ではありません。しかし、父ヌルハチの死後、ホンタイジは「清朝があるのは父上のおかげ」と廟を建て「清の太祖」と諡(おくりな)します。厳密には「清」は太宗ホンタイジから始まるのですが、事実上、父ヌルハチがすべての基礎を築いたので、ヌルハチが「太祖」です。
清朝は建国時に、満洲人を「八旗」という8つの旗の下に組織化しました。8つの部族に分け、旗を決め、部族連合にしたのです。
ヌルハチ時代初期には、4部族連合でした。女真族の一部でしかない「建州女直」という小集団出身で、まわりの女真を組み込んでいった頃には、黄色・白色・紅色・藍色という4色の旗しかありませんでした。その後、統一が進み、後金国になる頃には臣下が増え、四旗が八旗になっていました。しかし、明瞭に8色の色分けをするのは染色技術上、難しかったのだと思います。それで、黄色・白色・紅色・藍色(4色)✕縁取りの有無=八旗となりました。これを正黄旗・正白旗・正紅旗・正藍旗・ジョウ黄旗・ジョウ白旗・ジョウ紅旗・ジョウ藍旗(※ジョウ=金へんに讓の右)と言います。清朝の支配階級にある満洲人は全員が八旗のいずれかに所属しています。
八旗のうち、正黄、ジョウ黄、正白の三旗は皇帝直属で、残りは別の皇族が長になります。上三旗は皇帝の直接の家来ですが、残りの五旗は、それぞれの責任者と交渉しながら動かす必要があります。いわば、三旗は皇帝の私的な領民、五旗はそれぞれの皇族の領民ということになります。
日本の江戸幕府は徳川御三家など親戚筋を親藩、関ケ原以前に徳川家に仕えていた大名を譜代、それ以後に従った大名を外様などと区別しました。さらに大名ではないけれど徳川直属の家臣団が旗本です。「旗」という字が「八旗」と共通していて面白いですね。発想は同じです。旗本にも徳川家に仕えるようになった時期によって区別があるように、八旗にもランクがあり、皇帝に近いものと遠いものがあるのです。
旗の長には、ヌルハチの兄弟やその子孫がつき、それぞれに家来がいます。家奴・包衣(ボーイ)という「執事」は特に忠実です。「奴」の字を見ると「家の奴隷」のように見えますが、先祖代々、忠誠を誓ってきた忠臣です。日本の鎌倉時代にあった家子郎党(いえのころうとう)のような運命共同体で、大変に密な人間関係の集団です。しかも、互いに網のように婚姻関係で結びついているので、「旗は一家、同旗人はみな兄弟」の感覚です。
八旗は軍人や官僚のプールでもあります。八旗所属の若者は未来の幹部候補生です。そして、有能であれば、実際に出世していくのですが、そういう人間関係のベースがあるために、ズルをしません。兵隊に行っても、官僚になっても、仲間や親族内での信用に関わるような下手なことはできないのです。国から給付されるもの以外に私的に蓄えるのがシナ高級幹部の常ですが、清王朝では、国が機能している間は節度があり、セーブが効いていました。そのため、例外はあるものの非常に誠実な行政が行なわれました。
良くも悪くも主従の結びつきが強く、しかも、その関係は固定しています。主家が零落し、臣下の子孫のほうが出世して羽振りのいい高官職についていても、両者が会えば、もと家来筋の高官が主家筋の貧乏人に頭を下げるのです。満洲人の、この人間関係は清朝の最後まで残ります。こういう義理堅いところは、日本人に似ています。
文字・言語の話をしたときに満洲語・モンゴル語・漢文の「三体」があると言いましたが、実は八旗にも3体あります。満洲八旗、蒙古八旗、漢軍八旗です。3✕8=24で、24旗あるかというと、そうではありません。八旗は八旗のままで、その中にモンゴル人も漢人もいるのです。行政上は満洲人扱いで、モンゴル系満洲人、漢人系満洲人ということになりました。
このようにするメリットとして、例えば、蒙古八旗出身の大臣をモンゴルに赴任させるというようなことが挙げられます。満洲語とモンゴル語の両方ができるので、現地でモンゴル人とコミュニケーションを取りやすく、摩擦を起こしません。そして、中央の皇帝とは満洲語で連絡を取り合います。
また、チベットに赴任した大臣も蒙古八旗出身者が多いのです。モンゴル人はチベット仏教徒なので、ダライ・ラマを尊崇し、僧侶にも丁寧に接します。チベット文化を尊重してくれる大臣に対して、チベット人も悪い感情を持ちません。つまり、モンゴル人を大臣にしておくと、もめごとが起こりにくいのです。また、チベットのラサで勉強しているモンゴル人が大勢いました。彼らを統治したり、その協力を得たりするにあたっても、蒙古八旗出身の大臣は好都合です。
満洲語だけが全国全土に通用する第1公用語ではありますが、その満洲語を使える人の中に、モンゴル系や、実は朝鮮系など満洲人以外の人もいて、彼らを大使のように現地に赴任させ、うまく統治していたのです。
明が滅び、呉三桂が先導して清軍を北京に呼び込み、清朝がシナを支配するに至ったのですが、このとき、北京に住んでいた漢人を全員、外城に追い出し、満洲人が内城に入ります。このとき北京に入城した旗人を禁旅八旗と言い、首都防衛の任にあたりました。その他、南京、西安、成都、杭州、福州、荊州、広州、寧夏、密雲、青州、綏遠城など、シナ各地の要地に満城がつくられて家族ごと赴任した満洲人を、駐防八旗と言いました。
北京の外城とは、天安門広場の南側で、現在では書画・骨董などを売る店が並ぶ「瑠璃廠(ルリチャン)」や北京駅、永楽帝が建立したとされる祭壇のある「天壇公園」などがある場所です。
そして、地下鉄二号線(環状線)が走っている内側が内城に相当します。そのため二号線の駅名は「〇〇門」が多いです。清朝は、この内城を公務員住宅にしました。これを胡同(フートン)と言います。
八旗のための兵舎ですが、家族と住みます。現代的に言うならば公務員住宅です。江戸の一角に旗本だけが住む区画を設けたようなイメージでしょうか。
ちなみに日本では、関ケ原以後、関東近辺にあった外様大名の領地が遠くへ移封されていますが、江戸における各藩藩邸の配置は清の宮城ほど露骨ではなく、おおむね入り混じっていました。もっとも、会津藩上屋敷は江戸城の真ん前なのに、薩摩藩上屋敷は城からかなり遠いなど、傾向として身内を近くに寄せていますが。(『江戸屋敷三〇〇藩いまむかし 江戸と東京を散歩する』実業之日本社、2008年、188頁)
胡同の外側は塀で囲まれています。道に面したところに小さな入り口が1つしかありません。その入り口を入っても、また入り口があり、中庭があり、その中庭から各部屋に入ることができるようになっています。外敵からの防衛を考えたつくりです。1つひとつの胡同が広く、複数家族が住んでいました。
現在の胡同を見ても立派なお屋敷には見えません。しかし、辛亥革命以前は整然としていて美しかったのです。革命で荒れ、さらに毛沢東が北京入りした後、胡同を無理やり安く買い上げたり借り上げたりして、多くの貧民に分け与えました。1つの胡同に30家族ほど押し込んだり、無計画に中庭を潰したり、二階を増やしたりしたのです。それも適当に行なわれたので、雑然とした貧民街になってしまいました。
それで北京オリンピックのときに、貧民街は見栄えが良くないとして、多くが壊されたのです。幸運にもきれいに残った胡同はレストランやホテルになっています。
1980年代に日本でも流行ったキョンシーを覚えていますか。1985年に公開された香港映画『霊幻道士』に出てくるキャラクターです。死体が妖怪化したもので、基調は黒でありながら胸部に派手な模様の入った長衣を着て黒い帽子をかぶっています。死体なので硬直している(という設定の)ため、手を前に出して、飛びはねるように移動します。あのキョンシーが着ている服は、実は、満洲人官僚の正装です。
普段、漢人は満洲服を着ることができませんでした。死後に着せることは許されていたので、死体妖怪のキョンシーは満洲服を着ているのです。生きている間に着たくても着られなかった服を「せめて死者には」と着せたのですから、よほど憧れの服だったのでしょう。
また、チャイナドレスを中国語で旗袍(チーパオ)と言います。旗(き)の服、つまり、八旗の服です。これも満洲人だけが着ていた服だったのですが、辛亥革命の直後から、なしくずしに誰でも着るようになりました。
本来の旗袍は筒状のズボッとした服で、男女共用です。しかも、長袖で、下にズボンを履くものでした。それを1930年代の上海租界でヨーロッパ人仕立屋が立体裁断を導入し、前身ごろにダーツを入れ、袖を短くし、女性の体の線が露わになるように仕立て直したのです。しかも、サイドのスリットそのままに、ズボンを履かずに着用すれば脚がまる見え。私たちが知るセクシーな服になりました。
襟が立っているところは原型をとどめています。立襟は満洲服の元になったモンゴル服の特徴で、寒いところで風が入らないように襟が立っているのです。
以前、横浜中華街を訪れたとき、売店に「ピッグテールつきの帽子」がありました。ピッグテールとは「豚のしっぽ」、辮髪(べんぱつ)を揶揄(やゆ)した英語で、帽子に長い三つ編みの毛がついていて、シナ人に仮装するためのコスプレ用グッズでした。日清戦争の頃まで、シナ人はみな辮髪だったので、辮髪はシナ人のヘアスタイルと考えられていますが、実は、もともとは満洲人の風習でした。
時代によっても異なるようですが、日清戦争の頃には頭頂部から前の髪の毛は剃り、側頭部・後頭部の毛を長く伸ばし三つ編みにし、背中のほうに垂らしていました。
髪の毛の一部を剃り、残りの髪を長く三編みにする風習はモンゴルにもあります。北方の風習なのです。
清朝に服属した当初は、敵味方の区別を鮮明にするために辮髪が強制されましたが、清朝末期には漢人も辮髪を誇りとし、失うことを悲しむようになっていました。中国人は野蛮人が漢化したことばかりを強調しますが、シナ人も強者、富者、貴人に憧れ、異文化に染められてきたのです。どこでもハイソサエティは憧れの的です。(宮脇淳子)
- モンゴルと満洲の大きな違い~草原の民と森林の民
- 自国の農民より異民族のほうがマシ~勝手に自滅した明朝
- 公用語は満洲語~漢人は満洲文字を学ぶことさえできなかった
- 愛新覚羅の祖は仙女の子~多言語並立で書かれた始祖説話
- 藩部各地の統治は現地人にまかせる~各地の言語や文化を尊重
- 「旗」は運命共同体~江戸時代の旗本にも似ている八旗
- 清朝の公務員住宅「胡同(フートン)」~昔は整然として美しかったが
- チャイナドレスを着ることができなかった漢人~由来は旗袍
- 満州人のヘアスタイル・辮髪を強制~だが漢人も誇りを持つように
◆モンゴルと満洲の大きな違い~草原の民と森林の民
清朝は漢人王朝ではありません。皇帝の出自の4分の3は漢族ではないと述べてきましたが、度重なる侵入を受け、異民族に何度も乗っ取られ、その最後のダメ押しが清朝です。清朝を担ったのは「女真人」(宋と朝鮮の呼び方)あるいは「女直人」(遼、金、元、明の呼び方)で、後に「満洲人」と呼ばれるようになります。明代には、完全に明の領域の外側にいた部族です。
女真人(満洲人)の故郷は黒龍江の南側、後に日本が満洲国を建てる地域です。彼らが南下し、シナを支配するようになってからは、満洲人がすべて「八旗」に所属するようになるので、彼らの土地ということで、後の満洲は「旗地」と呼ばれるようになります。
女真人の話し言葉はアルタイ系で、モンゴル語や日本語のように助詞「てにをは」があり、語順も日本語とほぼ同じです。モンゴル帝国時代にはモンゴル人に臣従していました。モンゴル人との違いは、遊牧民ではなく狩猟民であるということです。
遊牧民と狩猟民の領域の境目は大興安嶺山脈です。山脈の東側では年間400~500ミリメートルの降水量があり、木が生い茂ります。灌木(かんぼく)が生えると羊や馬などは走りにくくなるので、遊牧には不向きです。しかし、徒歩で森林に入っていき、獣を罠にかけたり、弓矢で射るなどして、狩りをするには適しています。
一方、大興安嶺山脈の西側はモンゴルです。高度も違います。山脈の東は裾へと下り低地になりますが、西は高度をある程度、維持したまま高原が広がります。西側は年間降雨量が、200~300ミリメートル以下、つまり、ほとんど雨が降りません。日本なら台風がひとつ来れば数時間でそれくらい降ります。それが1年の降水量ですから大変に乾燥しています。
生物は水がないと生きていけませんが、モンゴル人は川の水を使って生活しています。降水量の少ないところに木は育たないので、草地が広がります。草にしても日本のように勢いよく生えません。
モンゴル高原は遠くを眺めると一面緑に見えますが、真上から見下ろすと、地面のほうが多くてその中にポツポツと草が生えているだけです。そのため、定住していては草がすぐになくなってしまいますから、移動式の住居で、始終、動き回らなければならないのです。そんな土地なので、総面積は広いですが、大勢の人間は生きていけません。人より家畜の頭数のほうが多く、今でも日本の4倍の国土に人口300万人という国がモンゴルです。
一方、大興安嶺の東、のちの満洲は、雨量が多いので、狩猟のほか粗放農業ができます。寒冷地なので米作はできませんが、アワやヒエ、コーリャンがとれます。
このように狩猟民と遊牧民は生活形態が違います。その狩猟民の中から女真人(女直人、のちの満洲人)が台頭し、頭角を現わしたヌルハチ(1559~1626、在位:1616~1626)が1616年にハーン位(満洲語ではハンと言うのですが)につき、後金国を建てました。
後金は1621年、明と戦って遼河デルタを占領し、1625年には瀋陽に都を移します。ヌルハチは翌年亡くなりますが、2代目ホンタイジが1636年、瀋陽で皇帝となり、新しい国号を清としました。
このとき明はまだ健在です。再び南北朝状態になってしまいました。このような成り立ちを見ても、清朝は漢人王朝ではなく、清帝国は中華帝国ではないことがはっきりわかります。
◆自国の農民より異民族のほうがマシ~勝手に自滅した明朝
明朝が倒れ、清朝の時代になるのですが、清が強くて明を下したというよりは、明が勝手に自滅したのです。
1628年、陝西省で大飢饉が起こり、流民が発生し、農民反乱が起こります。反乱は各地に広がり、明はこれらを鎮圧することができませんでした。反乱軍の指導者と言えば聞こえがいい(?)ですが、盗賊の親玉のような李自成が1643年には新順王を称し、西安を占領。翌年には北京に迫り、明朝の崇禎帝(すうていてい)は皇女たちを自分の手で斬り殺して、自害します。
反乱が起こって王朝が倒れたここまでの話は、まだ理解できます。しかし、そこからの展開が日本人にはついていけません。明の将軍・呉三桂(ごさんけい)は、渤海湾に面する万里の長城の東端にある山海関で清と対峙していたのですが、李自成の乱で明朝が滅ぶと、「こんなヤクザなやつの家来になりたくない。まだ清朝の皇帝のほうがマシ」と関所を開きます。今の今まで戦っていた敵軍を引き入れ、しかも、自ら北京進軍の先導を務めました。
自国の農民より、異民族のほうがマシ。シナとは何か、漢人とは何か、を考えるうえで非常に象徴的な出来事です。
北京を占領していた李自成は、20万の兵を率いて山海関に押し寄せましたが、呉三桂軍と清軍の連合軍に大敗しました。李自成は北京に逃げ帰り、紫禁城の宮殿で即位して皇帝を名乗っておいてから、宮殿に火を放ち、掠奪した金銀を荷車に満載して北京を脱出し、西安に向かいました(岡田英弘『誰も知らなかった皇帝たちの中国』)。
こうして明朝は自滅し、清朝は棚からぼたもち式にシナを手に入れました。
さすがに、このときの呉三桂の裏切りには、それらしい説明がないと漢人も納得できなかったようで、その動機に関して有名なお話があります。
呉三桂が北京駐在だったとき江南出身の美貌の妓女・陳円円を見初めて、もらいうけました。しかし、呉三桂は山海関の守りを命じられ、陳円円を北京に残し、出陣します。その後、李自成の乱が起こり、反乱軍が北京を制圧すると、陳円円は李自成軍の武将・劉宗敏のものとなってしまいました。それに激怒した呉三桂は清と同盟を結び、乱の征伐に向かったというのです。
「女のために国を売った猛将」というわけです。ストーリーとしては面白いのですが、それだけで呉三桂が寝返ったわけではないでしょう。やはり李自成と清朝のどちらについたほうが得かを熟慮したうえでの判断だったに違いありません。
◆公用語は満洲語~漢人は満洲文字を学ぶことさえできなかった
清朝支配の下、漢人は高度なレベルの行政文書からは排除されていました。彼らは植民地人ですから、帝国支配には関与できないのです。支配者の言語である満洲語が行政における第1公用語ですが、科挙にトップで受かった官僚3人だけが、この文字を勉強する権利がありました。そして、その人たちだけは皇帝の詔勅や地方から皇帝に届けられた満洲文の文書に直接アクセスすることができました。つまり、それ以外の漢人は満洲文字を学んではいけなかったのです。
清朝が漢人王朝ではないというのが一番わかりやすいのが、この文書管理状況です。満洲語・満洲文字がわかる漢人など、ほとんどおらず、特別優れた人だけが、読む(読めるようになる)権利がある。中央行政への関与は、漢人にとっては狭き門などというものではなく、ほとんど閉じた門でした。
元朝のモンゴル人は、書記には漢人やペルシア人を使いました。しかし、清朝では満洲人自身が文書を取り扱いました。皇帝自身が筆まめで、手紙も書くし、詩もつくる。各地に派遣した駐在大臣や行政長官には、漢人に理解できないように満洲語で書き、現地の担当者も満洲語で皇帝に報告書を送ります。
清朝の最大版図のうち、シナに覆いかぶさるように囲む4つの地域、チベット、回部、モンゴル、満洲は漢字圏ではありません。帝国全体では満洲語が第1行政公用語。モンゴルでは満洲語とモンゴル語、チベットでは満洲語とチベット語(文字)。回部はイスラム教徒の地域で満洲語とペルシア文字(アラビア文字と言っても同じです)が用いられました。
最上層の大臣は、現地の言葉と満洲語ができなければなりません。そして、現地から中央に送られる文書は満洲語で書かれています。これらの地域に漢人が入ることは禁じられていて、そこで起こっていることは漢人には何も知らされません。
現在の中華人民共和国はチベット、モンゴル、新疆(しんきょう)ウイグルにおいて「ここは中国なのだから、漢字だけで十分だ。変な文字を使うな!」と現地の言語を抑圧し、場合によっては「漢字を覚えなかったら、殺す」という勢いなので摩擦が起こっています。しかし、そこは20世紀まで漢字など使っていなかった異民族の土地なのです。
清朝は一般の漢人の言語や文字を奪うようなことはしませんでした。
◆愛新覚羅の祖は仙女の子~多言語並立で書かれた始祖説話
明の万里の長城の東端は、裏切り将軍・呉三桂の守っていた山海関、つまり渤海湾までです。遼東半島はそれより北東なので長城の外なのですが、そこにも明の領域があり、返牆(へんしょう)という柵を設けて囲っていました。万里の長城ほどしっかりした土盛りではなく、木の柵で、瀋陽や遼陽、撫順をぐるりと囲み、ここまでは明であると表示していました。
ところが、ヌルハチが当地の明軍を全滅させ、1625年に瀋陽に都を築きます。当時はまだ後金国でした。しかし、第2代ホンタイジが、この瀋陽で1636年に国号を清とします。すでにモンゴルを従え、モンゴル人の推戴を受けての皇帝(ハーン)就任です。領域内に満洲人、モンゴル人、漢人がいたので、3言語を公用語としました。それで始祖説話が3言語並立で書かれました。
ところで、清朝の皇帝の姓はアイシンギョロ(愛新覚羅)と言います。アイシン(愛新)は満洲語で金のことです。ギョロ(覚羅)は姓です。つまり、アイシンギョロとは「金という姓」という意味なのです。
そのアイシンギョロの祖先は、長白山の山頂付近のブルフリ湖で水浴びをしていた仙女だそうです。
湖で仙女が3人水浴びをしていました。すると鵲(かささぎ)が下りてきて赤い実を置いていきました。末娘が実を食べると、お腹が大きくなり、体が重くなって、天に帰れなくなってしまいました。2人の姉は「軽くなったら帰っていらっしゃいね」と天に戻ってしまいます。残された末娘は、男の子を産みました。少し大きくなってから、母は「天が乱れた国を治めさせようとして、あなたが生まれたのです。この小舟に乗って川を下って行きなさい」と言い、天に帰っていきました。男の子は、言われたとおり川を下り、下流の人間に拾われます。それが愛新覚羅(アイシンギョロ)の祖先である、要するに、尋常の人間ではございませんという神話です。また、狩猟民や遊牧民の間では末子が一番偉くなったり、幸運をつかんだりする話が多く残っていますが、この仙女も末子です。
ちなみに、「長白山」は朝鮮名を「白頭山」と言い、金日成がそこで抗日ゲリラ活動の指導者をしていて、そこで金正日が生まれたことになっていて、北朝鮮の聖地です。あの山は、実は、清朝にとっても聖地なのです。
清朝も時代が経つにつれ漢人の科挙官僚が増えてくるので、宮廷文書の漢字訳も多く出てきます。しかし、必ず満洲語と漢文の2言語で同内容の文書を作成します。そして、モンゴル関係文書の場合は、さらにモンゴル語が加わり、3言語で配布します。
清朝の版図にチベットと回部が入るのは康煕帝より後の時代なのですが、彼らはそれぞれ別の言語を用いているので、同様に、チベット語とウイグル語が加わって「五体」になりました。
◆藩部各地の統治は現地人にまかせる~各地の言語や文化を尊重
清朝の満洲人皇帝は五族を統治する君主ですが、それぞれの地域は別々の組織を持ち、統治機構上は交わらないのです。特に漢人は、モンゴル・回部・チベットには入ることすらできませんでした。この3つは帝国の垣根となってくれる「藩屏(はんぺい=垣根)」という意味で、藩部と呼ばれます。漢人が入ると、摩擦が起こるに決まっているので、もちろん満洲にも入植させませんでした。
満洲は軍政を敷き、満洲人の旗人に統治させます。その他の各藩部も、統治は現地人にまかせていました。チベットは仏教的権威でありながら経済的には貧しいので、清朝としては財政援助をします。しかし、政治はチベット人にまかせ、少数の大臣が赴任しました。満洲人の大臣がラサに赴任するときは、供回りのお付きの者と軍人数名を連れて行く程度で、大使館のような規模です。モンゴルにも現在のウランバートルに清朝から役人が赴任してきますが、やはり同様に小規模です。
満洲人の皇帝は帝国に君臨するけれども、各地域は現地人が統治していました。中央とのやりとりが必要な行政は、皇帝と満洲人の現地赴任大臣が満洲語で連絡しあって行ないました。そのため、現ウランバートルの文書館には膨大な満洲語の史料が保存されています。遊牧民や狩猟民は文書管理は不得意なのではという疑念をもたれがちですが、文書の山を見ていると、そんな偏見が払拭されます。
北京に送った文書の写しを作成し、返信があると、それにつなげて貼る。さらなる連絡が必要な場合は、また複写を貼っているなど、丁寧に記録を残し、まじめに文書行政を行なっています。すべて満洲文字です。
中華人民共和国は清が中華王朝だと主張しますが大嘘です。「中華」とは何でしょう? 彼らは「中華は多民族なのだ」と逃げます。「満洲人も、モンゴル人も、チベット人も、ウイグル人も中国人だ」「中国人なのだから漢字だけ使え」です。
満洲やモンゴル、チベット、ウイグルは清帝国を構成していました。現代中国が各部族を支配していた清朝を継承したと主張するのなら、現地の言語や文化を尊重していた清朝のあり方こそ継承すべきです。チベット人もウイグル人もモンゴル人も、あきらめたように、こう言っています。「中国人は、われわれなんかいらないんだ。土地がほしいだけだ」と。
現代中国は、ご都合主義で領土だけを奪い取り、そこに住む人びとの言語や文化は抑圧して、「中国化すれば生かしておいてやってもいい」という姿勢です。清朝はそういう王朝ではありませんでした。支配民族である満洲人の数が少ないからという面もありますが、康煕帝をはじめ、基本的に勤勉な皇帝を輩出し、善政を心がけていました。
◆「旗」は運命共同体~江戸時代の旗本にも似ている八旗
ヌルハチは女真を統一して後金国を建国しました。チンギス・ハーンの時代にモンゴルに降伏した女真族の国に金という王朝があり、その継承者であるという意味を込めて後金と号したのです。
先にも述べたとおり、息子のホンタイジが2代目の後金国ハンになり、そののち国号を清に変更します。そのため、ヌルハチ時代は、まだ清ではありません。しかし、父ヌルハチの死後、ホンタイジは「清朝があるのは父上のおかげ」と廟を建て「清の太祖」と諡(おくりな)します。厳密には「清」は太宗ホンタイジから始まるのですが、事実上、父ヌルハチがすべての基礎を築いたので、ヌルハチが「太祖」です。
清朝は建国時に、満洲人を「八旗」という8つの旗の下に組織化しました。8つの部族に分け、旗を決め、部族連合にしたのです。
ヌルハチ時代初期には、4部族連合でした。女真族の一部でしかない「建州女直」という小集団出身で、まわりの女真を組み込んでいった頃には、黄色・白色・紅色・藍色という4色の旗しかありませんでした。その後、統一が進み、後金国になる頃には臣下が増え、四旗が八旗になっていました。しかし、明瞭に8色の色分けをするのは染色技術上、難しかったのだと思います。それで、黄色・白色・紅色・藍色(4色)✕縁取りの有無=八旗となりました。これを正黄旗・正白旗・正紅旗・正藍旗・ジョウ黄旗・ジョウ白旗・ジョウ紅旗・ジョウ藍旗(※ジョウ=金へんに讓の右)と言います。清朝の支配階級にある満洲人は全員が八旗のいずれかに所属しています。
八旗のうち、正黄、ジョウ黄、正白の三旗は皇帝直属で、残りは別の皇族が長になります。上三旗は皇帝の直接の家来ですが、残りの五旗は、それぞれの責任者と交渉しながら動かす必要があります。いわば、三旗は皇帝の私的な領民、五旗はそれぞれの皇族の領民ということになります。
日本の江戸幕府は徳川御三家など親戚筋を親藩、関ケ原以前に徳川家に仕えていた大名を譜代、それ以後に従った大名を外様などと区別しました。さらに大名ではないけれど徳川直属の家臣団が旗本です。「旗」という字が「八旗」と共通していて面白いですね。発想は同じです。旗本にも徳川家に仕えるようになった時期によって区別があるように、八旗にもランクがあり、皇帝に近いものと遠いものがあるのです。
旗の長には、ヌルハチの兄弟やその子孫がつき、それぞれに家来がいます。家奴・包衣(ボーイ)という「執事」は特に忠実です。「奴」の字を見ると「家の奴隷」のように見えますが、先祖代々、忠誠を誓ってきた忠臣です。日本の鎌倉時代にあった家子郎党(いえのころうとう)のような運命共同体で、大変に密な人間関係の集団です。しかも、互いに網のように婚姻関係で結びついているので、「旗は一家、同旗人はみな兄弟」の感覚です。
八旗は軍人や官僚のプールでもあります。八旗所属の若者は未来の幹部候補生です。そして、有能であれば、実際に出世していくのですが、そういう人間関係のベースがあるために、ズルをしません。兵隊に行っても、官僚になっても、仲間や親族内での信用に関わるような下手なことはできないのです。国から給付されるもの以外に私的に蓄えるのがシナ高級幹部の常ですが、清王朝では、国が機能している間は節度があり、セーブが効いていました。そのため、例外はあるものの非常に誠実な行政が行なわれました。
良くも悪くも主従の結びつきが強く、しかも、その関係は固定しています。主家が零落し、臣下の子孫のほうが出世して羽振りのいい高官職についていても、両者が会えば、もと家来筋の高官が主家筋の貧乏人に頭を下げるのです。満洲人の、この人間関係は清朝の最後まで残ります。こういう義理堅いところは、日本人に似ています。
文字・言語の話をしたときに満洲語・モンゴル語・漢文の「三体」があると言いましたが、実は八旗にも3体あります。満洲八旗、蒙古八旗、漢軍八旗です。3✕8=24で、24旗あるかというと、そうではありません。八旗は八旗のままで、その中にモンゴル人も漢人もいるのです。行政上は満洲人扱いで、モンゴル系満洲人、漢人系満洲人ということになりました。
このようにするメリットとして、例えば、蒙古八旗出身の大臣をモンゴルに赴任させるというようなことが挙げられます。満洲語とモンゴル語の両方ができるので、現地でモンゴル人とコミュニケーションを取りやすく、摩擦を起こしません。そして、中央の皇帝とは満洲語で連絡を取り合います。
また、チベットに赴任した大臣も蒙古八旗出身者が多いのです。モンゴル人はチベット仏教徒なので、ダライ・ラマを尊崇し、僧侶にも丁寧に接します。チベット文化を尊重してくれる大臣に対して、チベット人も悪い感情を持ちません。つまり、モンゴル人を大臣にしておくと、もめごとが起こりにくいのです。また、チベットのラサで勉強しているモンゴル人が大勢いました。彼らを統治したり、その協力を得たりするにあたっても、蒙古八旗出身の大臣は好都合です。
満洲語だけが全国全土に通用する第1公用語ではありますが、その満洲語を使える人の中に、モンゴル系や、実は朝鮮系など満洲人以外の人もいて、彼らを大使のように現地に赴任させ、うまく統治していたのです。
◆清朝の公務員住宅「胡同(フートン)」~昔は整然として美しかったが
明が滅び、呉三桂が先導して清軍を北京に呼び込み、清朝がシナを支配するに至ったのですが、このとき、北京に住んでいた漢人を全員、外城に追い出し、満洲人が内城に入ります。このとき北京に入城した旗人を禁旅八旗と言い、首都防衛の任にあたりました。その他、南京、西安、成都、杭州、福州、荊州、広州、寧夏、密雲、青州、綏遠城など、シナ各地の要地に満城がつくられて家族ごと赴任した満洲人を、駐防八旗と言いました。
北京の外城とは、天安門広場の南側で、現在では書画・骨董などを売る店が並ぶ「瑠璃廠(ルリチャン)」や北京駅、永楽帝が建立したとされる祭壇のある「天壇公園」などがある場所です。
そして、地下鉄二号線(環状線)が走っている内側が内城に相当します。そのため二号線の駅名は「〇〇門」が多いです。清朝は、この内城を公務員住宅にしました。これを胡同(フートン)と言います。
八旗のための兵舎ですが、家族と住みます。現代的に言うならば公務員住宅です。江戸の一角に旗本だけが住む区画を設けたようなイメージでしょうか。
ちなみに日本では、関ケ原以後、関東近辺にあった外様大名の領地が遠くへ移封されていますが、江戸における各藩藩邸の配置は清の宮城ほど露骨ではなく、おおむね入り混じっていました。もっとも、会津藩上屋敷は江戸城の真ん前なのに、薩摩藩上屋敷は城からかなり遠いなど、傾向として身内を近くに寄せていますが。(『江戸屋敷三〇〇藩いまむかし 江戸と東京を散歩する』実業之日本社、2008年、188頁)
胡同の外側は塀で囲まれています。道に面したところに小さな入り口が1つしかありません。その入り口を入っても、また入り口があり、中庭があり、その中庭から各部屋に入ることができるようになっています。外敵からの防衛を考えたつくりです。1つひとつの胡同が広く、複数家族が住んでいました。
現在の胡同を見ても立派なお屋敷には見えません。しかし、辛亥革命以前は整然としていて美しかったのです。革命で荒れ、さらに毛沢東が北京入りした後、胡同を無理やり安く買い上げたり借り上げたりして、多くの貧民に分け与えました。1つの胡同に30家族ほど押し込んだり、無計画に中庭を潰したり、二階を増やしたりしたのです。それも適当に行なわれたので、雑然とした貧民街になってしまいました。
それで北京オリンピックのときに、貧民街は見栄えが良くないとして、多くが壊されたのです。幸運にもきれいに残った胡同はレストランやホテルになっています。
◆チャイナドレスを着ることができなかった漢人~由来は旗袍
1980年代に日本でも流行ったキョンシーを覚えていますか。1985年に公開された香港映画『霊幻道士』に出てくるキャラクターです。死体が妖怪化したもので、基調は黒でありながら胸部に派手な模様の入った長衣を着て黒い帽子をかぶっています。死体なので硬直している(という設定の)ため、手を前に出して、飛びはねるように移動します。あのキョンシーが着ている服は、実は、満洲人官僚の正装です。
普段、漢人は満洲服を着ることができませんでした。死後に着せることは許されていたので、死体妖怪のキョンシーは満洲服を着ているのです。生きている間に着たくても着られなかった服を「せめて死者には」と着せたのですから、よほど憧れの服だったのでしょう。
また、チャイナドレスを中国語で旗袍(チーパオ)と言います。旗(き)の服、つまり、八旗の服です。これも満洲人だけが着ていた服だったのですが、辛亥革命の直後から、なしくずしに誰でも着るようになりました。
本来の旗袍は筒状のズボッとした服で、男女共用です。しかも、長袖で、下にズボンを履くものでした。それを1930年代の上海租界でヨーロッパ人仕立屋が立体裁断を導入し、前身ごろにダーツを入れ、袖を短くし、女性の体の線が露わになるように仕立て直したのです。しかも、サイドのスリットそのままに、ズボンを履かずに着用すれば脚がまる見え。私たちが知るセクシーな服になりました。
襟が立っているところは原型をとどめています。立襟は満洲服の元になったモンゴル服の特徴で、寒いところで風が入らないように襟が立っているのです。
◆満州人のヘアスタイル・辮髪を強制~だが漢人も誇りを持つように
以前、横浜中華街を訪れたとき、売店に「ピッグテールつきの帽子」がありました。ピッグテールとは「豚のしっぽ」、辮髪(べんぱつ)を揶揄(やゆ)した英語で、帽子に長い三つ編みの毛がついていて、シナ人に仮装するためのコスプレ用グッズでした。日清戦争の頃まで、シナ人はみな辮髪だったので、辮髪はシナ人のヘアスタイルと考えられていますが、実は、もともとは満洲人の風習でした。
時代によっても異なるようですが、日清戦争の頃には頭頂部から前の髪の毛は剃り、側頭部・後頭部の毛を長く伸ばし三つ編みにし、背中のほうに垂らしていました。
髪の毛の一部を剃り、残りの髪を長く三編みにする風習はモンゴルにもあります。北方の風習なのです。
清朝に服属した当初は、敵味方の区別を鮮明にするために辮髪が強制されましたが、清朝末期には漢人も辮髪を誇りとし、失うことを悲しむようになっていました。中国人は野蛮人が漢化したことばかりを強調しますが、シナ人も強者、富者、貴人に憧れ、異文化に染められてきたのです。どこでもハイソサエティは憧れの的です。(宮脇淳子)