目次
1368年、朱元璋は南京で皇帝に即位しました。家来は白蓮教徒反乱軍の親玉ばかりです。皇帝に就任した時点では、シナ全土を支配下に収めていませんでした。
同年、元の皇帝トゴン・テムル・ハーンは押し寄せてきた明の軍隊に敗退し、北京から逃げ出します。
もともと大都は冬の3カ月しか住まない都でした。そこを去るのは惜しくない。しかし、夏の都・上都もすでに焼かれていて、もうありませんから、南モンゴルの応昌府に逃げます。急なことなので、モンゴル人全員を連れて行くわけにはいきません。皇族と供回りのものたちが北方のモンゴル高原に退却しました。
モンゴル年代記には「順帝悲歌」あるいは「恵宗悲歌」、「元朝悲歌」などと呼ばれるモンゴル語の長い韻文が残っています。「せっかくフビライが立派な都、大都や上都を建ててくれたのに、私が無力なせいで、美しい都を失うことになった」と嘆き悲しんでいます。原文は長いモンゴル語の叙事詩で、岡田英弘が日本語訳しています(岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年)。
50行にわたる長い詩は大都、上都の賛辞から始まり、大都から去る様子を述べ、モンゴル人が大都を失った無念さを詠っています。ただし、「内容的に仏教的要素が入っていることから、16世紀後半にチベット仏教がモンゴルに再流入した以降につくられたものであろう」とする研究者もいます(森川哲雄『モンゴル年代記』白帝社、2007年、174~176頁)。
大都を放棄した時点で元朝が滅亡したかのように思っている人がいますが、実は「北元」として続いています。モンゴル族としては、植民地であるシナを失いましたが、モンゴル人の国がなくなったわけではありません。自分たちの中では元朝は続いているつもりなので、また南北朝になってしまったのです。その後、150年にわたって万里の長城が築かれ、それを境に対立は続きました。逃げたトゴン・テムルは、まもなく1370年、応昌府で病死します。
その後継者アーユシュリーダラの母、奇皇后は朝鮮出身です。これについては後述しましょう。
ですから、洪武帝・朱元璋は結局、「漢伝国璽」(国のはんこ)を手に入れていません。漢の時代からある「伝国の璽」は正統の皇帝である証です。皇帝制度を創始したのは秦の始皇帝です。秦の後は漢ですが、漢の皇族は始皇帝の子孫ではなかったので、国璽が重要になりました。「秦の始皇帝の印を継承したのだから、正統だ」というわけです。
武力で支配しただけでは正統性が認められないのです。日本は万世一系ですが、シナは支配者一族が変わるので、「国璽継承」が正統の証になりました。ほとんど「禅譲」の形式をとりますが、実質は脅し取っています。やり方はともかく継承の事実が大事で、継承の証を失ってはいけないのです。
明朝はこれを手にすることができませんでした。そして、この国璽はモンゴルでも行方不明になるのですが、清朝になる直前になって別の玉璽が現れます。多分に伝説的で、本当かどうかわかりませんが、放牧されていたヤギが見つけて掘り出したことになっています。それが巡り巡ってモンゴルのリンダン・ハーンの手に渡り、その死後、息子が満洲族のホンタイジに献上するという後日譚(ごじつたん)がつくのです。
つまり、明朝は約3世紀の間、伝国璽なし。そのため、明は「蒙古(モンゴル)」という名をタブーにし「韃靼(だったん)」と言い始めました。「モンゴル人は死んでしまって全部いなくなった。今、北にいる遊牧民は昔からそこに住んでいた野蛮なやつらだ」と。
シナにおいて伝国璽は重要なのです。とはいえ結局、伝国璽なしで明は国を治めたわけですから、強固な支配体制にあれば、実質的にはいらないものとも言えます。しかし、現に北方にはモンゴルがいて「禅譲」すら行なわれていないとなると、イザというときに足元が危うくなります。彼らが「モンゴル」なら、明はただの簒奪者(さんだつしゃ)、ニセ者です。というわけで、中身は同じモンゴルなのに、北に帰った遊牧民は「韃靼」と呼ばれるようになりました。
また、フビライ・ハーン以来、中国の皇帝の資格要件が変わり、伝国璽のみならず、モンゴル高原ほか北アジアも支配下に収めていることが必須条件となりました。それで、永楽帝は、クーデタで甥を倒して明の皇帝になった後も、モンゴルには5回も侵攻しています。また、イスラム教徒の宦官(かんがん)の鄭和(ていわ)にはるか西方まで南海大遠征をさせています。フビライ・ハーンの帝国がイメージにあるからです。
明の軍隊はモンゴル高原中央部にまで侵入しています。しかも、「永楽帝の軍隊がここまで来た」と石碑を建て、証拠を残しています。それにしても、こんなに北のほうまで進軍できるということは、軍隊が騎馬兵から成っていたということだと思います。
トゴン・テムル・ハーンが逃亡したとき、遊牧民が全部去ったわけではありませんから、逃げ帰らなかった元朝の軍隊を明が吸収して、北伐に使ったということでしょう。残った官僚や家来たちも、「逃げてしまった皇帝より、新しい皇帝のほうがいい」と、ちゃっかり乗り換えたのです。
事実、明は元朝時代に築かれたシステムをほぼそのまま使います。軍戸と民戸を分け、軍戸に指定された家からは代々職業軍人を出し、民戸つまり農民からは穀物税を取りました。
元と大きく違うのは著しく皇帝の権力を強化したことです。
洪武帝は、元朝時代には皇帝の秘書官として最高権力を持っていた中書省を廃止し、6つの下部組織、吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部を皇帝直轄にしました。皇帝が総理大臣を兼ねたようなものです。
また、参謀本部に相当する大都督府も廃止し、5つの方面軍司令部に分割し、それを皇帝直属としました。つまり、皇帝が参謀総長を兼ねました。
このように権力を集中しなければならなかったのは、朱元璋が最下層からの叩き上げだったからです。それまで協力してくれたのはすべて白蓮教徒の紅巾軍でした。朱元璋は皇帝になりましたが、先輩はいるわ、同輩はいるわ、皇帝に対して「おい、お前」という感じで接してくる仲間が多いわけです。古い友だちなど、皇帝となった今では厄介者。やりにくくて仕方がありません。
そのため、中書左丞相の胡惟庸(こいよう)を謀反の罪で逮捕し、1380年に処刑します。皇太子の指揮する皇帝軍は、南京城内の紅巾系の軍隊を襲撃して15000人を虐殺しました。これを「胡惟庸の獄」と言います。その後も2度ほど数万人が粛清される事件を経て、建国に功のあったかつての同僚たちは、ほとんどいなくなってしまいました。
毛沢東の行なった文化大革命にそっくりです。罪状はでっち上げで、すべては権力闘争。毛沢東が紅衛兵を使って劉少奇らの中国共産党組織に打ち勝ったように、朱元璋は皇子たち率いる皇帝直属の軍隊で、かつての仲間であった紅巾軍を弾圧したのです。
中書省や都督府を廃止したのは、胡惟庸の獄の後のことです。朱元璋だけが1人、皇帝として抜きん出た存在となるために、皇帝と同等か、あるいは、それ以上を自任するような者どもは全員粛清してしまわなければならなかったのです。皇帝が役所、軍隊を掌握し、すべてを従えるシステムに変えました。朱元璋は残酷にその辣腕(らつわん)を振るい、やりきりました。
このときようやく完全に権力を掌握するわけですが、ここにいたるまでには時間がかかっています。まず、皇子たちを地方の王に奉じていきました。そのうちの1人、燕王(えんおう)に奉じられたのが後の永楽帝です。古い戦国時代に現在の北京周辺には燕国があったので、以来その土地は雅号では「燕」と呼ばれています。
朱元璋は太原や西安など枢要の地に皇子を王として派遣し、自前の軍隊ができるのを待ちました。そして、機が熟したときに、皇子たちと共に、ある種のクーデタを起こし、元の仲間を粛清したのです。謀反の罪で建国の功労者たちを粛清し、親族の率いる直属軍隊に替え、国を完全に乗っ取りました。
シナ大陸のような広いところを中央集権的に統治しようと思ったら、それくらいのことをしなければならないということでしょうか。そして、そうやって権力を集中させればさせるほど、その後の継承者争いが激化します。
朱元璋には26人の皇子がありました。長子の朱標が皇太子でしたが、父の朱元璋より先に没してしまい、朱標の子が皇太子となります。そして、1398年、朱元璋が亡くなると、16歳で建文帝(在位:1398~1402)として帝位につきました。
ところが、野心家の燕王(後の永楽帝)は黙っていません。建文帝が側近の進言により、叔父たち諸王の勢力を削ぐ政策を取ろうとしたので、1399年、燕王は「君側の難を靖んじる」のスローガンを掲げて挙兵、クーデタを起こします。南京を攻略し、建文帝は宮殿に火を放って自害したとされますが、遺体は見つかりませんでした。この4年に及ぶ大戦乱を「靖難の役」と言います。
燕王は1402年に皇帝の座につきます。永楽帝(1360~1424、在位:1402~1424)の誕生です。年号を永楽と定め、北京への遷都を決定します。このとき初めてこの町が北京(ペキン)と呼ばれるようになりました。明は先に南京を首都としていたので、北の都という意味で北京です。だから、南方方言で「ペキン」と発音したのです。北京への正式な遷都は1421年ですが、永楽帝はそれ以前にもしばしば北京で政務を執ります。前述のように、北京は「燕王」であった永楽帝の本拠地でした。
初代洪武帝・朱元璋は一世一元の制を導入し、1人の君主につき1元号と定めましたが、永楽帝は甥にあたる建文帝の存在そのものをなかったことにしようと建文の年号を取り消し洪武に組み入れました。そのため、約200年後に建文帝の名誉が復活するまで、永楽帝が初代洪武帝につぐ第2代の皇帝とされていました。
洪武帝朱元璋は、紅巾軍の仲間は信用できないが、息子たちなら信用できると思って各地の王にしたのに、結局、血縁同士で権力争いが起こってしまい、最も実力のあった息子、燕王が次の皇帝になりました。このときも、15000人ぐらい死んでいます。
洪武帝・朱元璋から永楽帝の時代にかけて紅巾軍出身の家来、大官小吏兵士に至るまでほとんど殺されてしまいました。また、永楽帝のクーデタ以後、白蓮教は違法とされます。明の初代皇帝朱元璋自らが白蓮教徒だったのに、信徒たちは国を建てた功績がすべてなくなるどころか、今や犯罪者扱いです。
その後の白蓮教徒は、今度は万里の長城を越えてモンゴル高原に逃げました。自分たちが倒したモンゴルの王朝の庇護を求めたのですから、節操がありません。明に留まった白蓮教徒は地下にもぐりました。
こういう歴史を知っていると、中国共産党の権力闘争にも、あまり驚かなくなります。かの国で起こっている裏切りや粛清は今に始まった話ではないのです。
ところで、明は元朝を継承できませんでした。前述のように形式的にきちんと継承できていませんし、領域的にもはるかに及びません。朱元璋が南京で即位していることからわかるように、南方発の王朝で、支配した領域は南方だけです。
のちに永楽帝が北京に遷都しますが、その先は進軍しても領土として確保することはできませんでした。1372年にはモンゴルに進撃しますが、カラコルムの手前で1万人以上の死者を出して敗退します。雲南省や青海省にも元朝の勢力が残っていました。そして、高麗王国は元朝の縁戚です。青海省は1378年に、雲南省は1381年に征服し、明は徐々に領域を広げていきますが、北への拡大はできませんでした。
日本の時代区分は簡単で、鎌倉時代、室町時代、江戸時代ときて、明治維新が起こって明治時代に入ります。一部が江戸時代で、一部が明治時代ということはないわけです。徳川将軍家にしても薩長にしても日本を割るつもりはない。勝つか負けるかが問題で、勝った薩長が新政府を樹立しました。勝てば官軍です。
しかし、大陸国家は「元が明になりました」と単純にはいかないのです。元朝はなくなっていません。モンゴル高原に戻っただけで、それ以降の元朝を北元と呼びます。内紛が絶えないのは相変わらずですが、ハーンは代々続いていきます。直系で継承しませんが、みんなチンギス・ハーンの子孫たちです。
日本の教科書では北元は1388年に「再三にわたる明の迫撃を受けて滅亡した」となって、あたかも全部が明になったかのように誤解を招く表現になっていますが、フビライ朝が絶えただけです。モンゴル高原を中心とする北アジアは、ついに明にはなりませんでした。
その証拠は今でもはっきり見ることができます。現存する万里の長城は明の時代につくられたものです。万里の長城のうちでも有名で、よく整備されている観光地に八達嶺がありますが、北京の中心から車で1時間ぐらいの距離にあります。そこから先は明ではなかったということです。北京から日帰りで遊びに行けるような近いところがモンゴルですから、永楽帝はモンゴルに対する最前線の都市北京に遷都したのでした。
なぜ、永楽帝はこんな最前線を首都にしたのでしょうか。
元時代に大都と呼ばれた都市が北京です。大都(北京)に首都を置くことには、モンゴルと漢人の両方を支配するという意味があります。元が漢人支配のためにカラコルムから大都へ首都を南下させたのとは逆の理屈で、明はモンゴルを支配するために、首都を南京から北京へと北上させたのです。
結局、明朝は領土を北方に拡大することはできませんでしたが、永楽帝は北まで支配したいという志を持っていました。「元朝領域を、そっくりそのまま継承する」その意思を示すために、北京に遷都したのです。
ですから、本格的に長城の建設が進んだのは永楽帝の死後です。「何が何でもモンゴルを支配下に」の永楽帝が亡くなってから、ようやく北方支配は無理とあきらめ、境界線としての万里の長城を築いていくのです。そうして、結果的に北京が最北端の危険な町になってしまいました。しかし、夢だけは掲げておきたかったのか、遷都しなおすことはありませんでした。
ついでに朝鮮半島にも触れておきましょう。
元朝から明朝にシナの王朝が交代したどさくさにまぎれて、朝鮮半島も高麗から李氏朝鮮に交代します。この2つは関連しあった動きです。
高麗国王がフビライに屈し、息子がモンゴルの皇女と結婚して以来、代々の高麗王は世子(王の跡継ぎの息子のこと、皇帝の息子ではないので「皇太子」とは呼べないのです)のうちに元朝皇女の婿(むこ)となり、ハーンの側近としてモンゴル風の宮廷生活を送っていました。つまり、代々フビライ家の皇女を王妃に迎え、その子が高麗王になるので、高麗王の母は常にモンゴル人ですから、代が下るほどにモンゴル色が強くなっていきます。モンゴルは高麗王を一族にしてしまったのです。
例えば、モンゴル支配以前の朝鮮半島では肉食はあまり普及しておらず、モンゴル支配下で、肉食が始まったのです。また、マッコリという醸造酒は、アイラグという、蒸留していないモンゴルの馬乳酒にそっくりですから、マッコリもその頃から飲まれるようになったものだと思います。
それ以前の朝鮮半島は、日本のお寺の精進料理のようなものを食すなど、日本との文化的共通点が多かったようです。今の朝鮮文化は、モンゴルの影響を非常に大きく受けているのです。
元朝時代の朝鮮半島情勢を見てみましょう。実は、今の北朝鮮のほとんどが元の直轄領の遼陽行省です。現在の北朝鮮と韓国の境界線は北緯38度線ですが、このときは約39度線が境目です。
現在の北朝鮮と沿海州、満洲あたりは陸続きで、高句麗の時代から、狩猟民の住む地域として1つの政治形態になっていることが多かったのです。39度より南は農耕民が住んでいました。新羅と百済に相当する地域で、日本とも通じる文化を持っていたところです。そこが狩猟民と農耕民の分かれるラインであり、人種も違っていたようです。
ですからコリアンというのは、日韓併合後にできた民族とも言えるのです。それまでは、身分格差や地域間の対抗意識が激しく、朝鮮半島内で互いにいがみあっていました。併合後に日本に対抗する概念として「(日本人ではない)我々はコリアンだ」と1民族であるかのようにスローガンを掲げますが、本来、1つのものではないのです。
強調しておきたいのは、自然な境界線は39度にあるということです。それに、39度が国境であれば、ソウルが国境線からずいぶん離れ、わずか1日で制圧されてしまうという事態にはなりません。
李氏朝鮮時代の行政区分もちょうど39度線を境に南が黄海道・江原道、北が平安道・咸鏡道となっています。現在の国境線は、本来は「南」の黄海道が北朝鮮になり、江原道は南北に分断されているのです。
1945年の第2次世界大戦の終戦間際、アメリカは日本の占領政策は決めていたけれど、朝鮮のことは何も考えていなかったので、歴史も地理も何もわからないまま、真ん中だからと38度線を境にソ連との勢力範囲を定めました。39度にしておけば、もう少しソウルは安全だったのに。
高麗王はわずかな例外をのぞき母がモンゴル人なので、基本的に元朝寄りです。
また、大都(北京)で政務を執った最後の元朝皇帝トゴン・テムル・ハーンは北に逃げてから、まもなく病死し、皇太子アーユシュリーダラ(在位:1370~1378)が即位しますが、その母は前述のように、朝鮮人の奇皇后でした。
2013~2014年に韓国でドラマ『奇皇后』が制作されましたが、例によって嘘だらけの韓流時代劇です。日本では、2014年にNHKがこれを放映することになったとき、私のところに監修してほしいという要請が来ました。けれども、「そんな真実のかけらもないドラマの監修などできません」とお断りしました。そうしたら、NHKがつくった『奇皇后』の番組正式ホームページの一番上に「このドラマは史実ではありません」と断り書きがありました。モノは言ってみるものです。
奇皇后という人がいたのは事実です。朝鮮からは美しい女性が朝貢の貢物としてシナ皇帝に献上されていました。そのうちの1人として後宮に入り、トゴン・テムルに気に入られ、皇后にまで上り詰め、しかも皇子が皇太子に、ついには北元のハーンとなります。
もともと高麗国ではたいした家柄ではなかった奇氏ですが、一族から宗主国モンゴルの皇后が出たので高麗国内で権勢を振るい出します。奇皇后の兄が、高麗国王よりも自分のほうが上であるかのようにふるまったので、高麗の恭愍王は奇氏一族を誅殺しました。それで、元朝の皇后と高麗王の仲が険悪になりました。
しかし親元派の宦官に恭愍王は殺され、息子の王禑が高麗王となります。モンゴル人の母から生まれていませんが、この王は親元政策を取ります。そして、大都を追われて北に逃げた北元を助けるために送った将軍の1人が、後に李氏朝鮮を建国する李成桂です。
この李成桂ですが、実は、咸鏡道の出身の女直人(女真人)です。咸鏡道は現在の北朝鮮の最北部、沿海州に近いところです。はじめは、元朝直轄の遼陽行省に属していましたが、元末になって紅巾軍が侵入し荒らし回ったどさくさにまぎれて、高麗が領土とします。そのときに李成桂の父、李ウルス・ブハが高麗に臣従しました。ウルス・ブハは女真人の名前です。その子、李成桂もまた高麗の臣下となります。部下には女真人の騎馬兵を従えていました。李成桂の功績は彼らの活躍に多くを負っています。元末に高麗にも侵入してきた紅巾軍に打ち勝ち、倭寇退治でも成果を上げました。
将軍李成桂は、高麗王の命令で北元を助力しに行きますが、途中で「もうモンゴルの時代ではない。明に寝返ろう」と高麗王に対してクーデタを起こしました。それが「威化島回軍」です。威化島とは鴨緑江の中洲で、ここから軍を引き返して首都開城を攻めました。全159話にわたる長い韓流歴史ドラマ『龍の涙』(http://www.bsfuji.tv/ryunonamida/)の冒頭場面がこの「威化島回軍」でした。これまた創作だらけの史実からはほど遠いドラマですが、李氏朝鮮のはじまりの権力闘争だけは熱心に描いていました。
李成桂は高麗王を殺して、1392年に王位に就きます。そして、就任早々、明に使節を送り、承認を求めます。まだ国号は「高麗」のままで、李成桂は「権知高麗国事」という国王より低い肩書でした。ところが、洪武帝・朱元璋から「先の国王とは違う一族なのに、なぜ高麗を名乗るのか。王朝の名前を変えたほうがいいのではないか」と言われました。
「それもそうですね」と、あわてて考えた2つの名前が「朝鮮」と「和寧」でした。「和寧」は李成桂の故郷の別名でしたが、カラコルムの別名でもあったので、明としては面白くありません。「朝鮮」は紀元前4世紀頃からシナで用いられたもので、戦国時代の燕の外側にある勢力をさしていました。明が「朝鮮」を選び、1393年に「李氏朝鮮」となりました。
翌年には、旧勢力の干渉を嫌って漢城(ソウル)に遷都します。なお、李氏が「明」から正式に朝鮮国王に「任命された」のは1401年で、第3代太宗李芳遠の時代になってからのことでした。(武田幸男『朝鮮史』山川出版社、2000年、26頁、167~168頁)
ところで、李成桂の父が女真人だというのは、韓国人としては許せないらしく、そのことを書いた岡田宮脇研究室のホームページに対して怒りの投稿がネット上にガンガン出ました。すると、私が反論するまでもなく、読者が言い返してくれました。今は落ち着いていますが、一時期は、激しい舌戦となりました。
李氏朝鮮には『朝鮮王朝実録』という、1967巻948冊もある漢文の正史があります。その冒頭には新羅時代の全羅道出身の李という大臣が、船で沿海州に行き、その子孫が李成桂であると書いてあります。沿海州の咸鏡道出身であることは誤魔化せないので、もっと古い時代に朝鮮から沿海州に移住したことにして、朝鮮半島出身の血筋だと主張しています。
しかし、李ウルス・ブハの姉が女真人に嫁いでいること、李成桂のいとこが女真人であることは確実で、背景を調べれば調べるほど、女真人であることは明らかなのです。ホームページに掲載した論説で、私や岡田英弘が細部にわたって詰めていたので、批判者側は「その当時は、高麗人でも女真名やモンゴル名を持っていたのだから、それは証拠にならない」などと苦しい反論をしていました。何が何でも否定したいようです。李成桂が女真人だということは、朝鮮半島ではタブーなのです。
いずれにしても、李成桂が咸鏡道出身で、軍役で功績を上げて出世し、高麗軍の将軍となりながら寝返って、高麗王を倒し、新しい王朝を開いたことは間違いありません。そのため、李氏朝鮮の支配階級は北部出身者でした。彼らが儒教を取り入れ、高麗時代に尊崇されてきたモンゴル式の仏教を弾圧したのです。僧侶は殺され、寺は焼かれ、仏像も破壊されました。
2012年に対馬の神社から重要文化財級の仏像が韓国人窃盗団に盗まれるという事件がありました。この仏像は、李氏朝鮮下での法難を逃れて日本に渡ってきて救われた仏像でした。
元から明への交代とともに、属国の半島でも、高麗から李氏朝鮮に政権が交代しました。以後、朝鮮は明に朝貢し続けます。
李氏朝鮮時代の500年間、両班、中人、常民、奴婢、白丁と5階級が固定します。両班が支配階級で、中人は読み書きのできる専門職や下級役人の階層です。常民は人口の大多数を占め、農業や商工業に従事し、税負担を主に担う層です。奴婢は公の機関や個人に従属し売買される場合もありました。白丁は屠殺業や皮革業などに従事し、職業的に蔑まれた人びとです。
人口の1割にも満たない両班(ヤンバン)が支配階級として君臨しました。これは、種族の違う人が入ってきて、上層階級を構成したからではないかと私は思っています。
シナの抗争は激しいですが、流動性があります。上下、貧富の差は激しくても、下剋上は常にあり得ます。これに対して、朝鮮は国が小さいからか、逃げ場がありません。上下の差が激しい上に、完全に固定化されて夢も希望もありません。また、パイが小さすぎて、ライバルはすべて潰していかないと自分の取り分が少なくなるので、王の一族や儒者集団などの権力者同士の闘争は20世紀まで続きます(今も続いています)。(宮脇淳子)
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1368年、朱元璋は南京で皇帝に即位しました。家来は白蓮教徒反乱軍の親玉ばかりです。皇帝に就任した時点では、シナ全土を支配下に収めていませんでした。
同年、元の皇帝トゴン・テムル・ハーンは押し寄せてきた明の軍隊に敗退し、北京から逃げ出します。
もともと大都は冬の3カ月しか住まない都でした。そこを去るのは惜しくない。しかし、夏の都・上都もすでに焼かれていて、もうありませんから、南モンゴルの応昌府に逃げます。急なことなので、モンゴル人全員を連れて行くわけにはいきません。皇族と供回りのものたちが北方のモンゴル高原に退却しました。
モンゴル年代記には「順帝悲歌」あるいは「恵宗悲歌」、「元朝悲歌」などと呼ばれるモンゴル語の長い韻文が残っています。「せっかくフビライが立派な都、大都や上都を建ててくれたのに、私が無力なせいで、美しい都を失うことになった」と嘆き悲しんでいます。原文は長いモンゴル語の叙事詩で、岡田英弘が日本語訳しています(岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年)。
50行にわたる長い詩は大都、上都の賛辞から始まり、大都から去る様子を述べ、モンゴル人が大都を失った無念さを詠っています。ただし、「内容的に仏教的要素が入っていることから、16世紀後半にチベット仏教がモンゴルに再流入した以降につくられたものであろう」とする研究者もいます(森川哲雄『モンゴル年代記』白帝社、2007年、174~176頁)。
大都を放棄した時点で元朝が滅亡したかのように思っている人がいますが、実は「北元」として続いています。モンゴル族としては、植民地であるシナを失いましたが、モンゴル人の国がなくなったわけではありません。自分たちの中では元朝は続いているつもりなので、また南北朝になってしまったのです。その後、150年にわたって万里の長城が築かれ、それを境に対立は続きました。逃げたトゴン・テムルは、まもなく1370年、応昌府で病死します。
その後継者アーユシュリーダラの母、奇皇后は朝鮮出身です。これについては後述しましょう。
ですから、洪武帝・朱元璋は結局、「漢伝国璽」(国のはんこ)を手に入れていません。漢の時代からある「伝国の璽」は正統の皇帝である証です。皇帝制度を創始したのは秦の始皇帝です。秦の後は漢ですが、漢の皇族は始皇帝の子孫ではなかったので、国璽が重要になりました。「秦の始皇帝の印を継承したのだから、正統だ」というわけです。
武力で支配しただけでは正統性が認められないのです。日本は万世一系ですが、シナは支配者一族が変わるので、「国璽継承」が正統の証になりました。ほとんど「禅譲」の形式をとりますが、実質は脅し取っています。やり方はともかく継承の事実が大事で、継承の証を失ってはいけないのです。
明朝はこれを手にすることができませんでした。そして、この国璽はモンゴルでも行方不明になるのですが、清朝になる直前になって別の玉璽が現れます。多分に伝説的で、本当かどうかわかりませんが、放牧されていたヤギが見つけて掘り出したことになっています。それが巡り巡ってモンゴルのリンダン・ハーンの手に渡り、その死後、息子が満洲族のホンタイジに献上するという後日譚(ごじつたん)がつくのです。
つまり、明朝は約3世紀の間、伝国璽なし。そのため、明は「蒙古(モンゴル)」という名をタブーにし「韃靼(だったん)」と言い始めました。「モンゴル人は死んでしまって全部いなくなった。今、北にいる遊牧民は昔からそこに住んでいた野蛮なやつらだ」と。
シナにおいて伝国璽は重要なのです。とはいえ結局、伝国璽なしで明は国を治めたわけですから、強固な支配体制にあれば、実質的にはいらないものとも言えます。しかし、現に北方にはモンゴルがいて「禅譲」すら行なわれていないとなると、イザというときに足元が危うくなります。彼らが「モンゴル」なら、明はただの簒奪者(さんだつしゃ)、ニセ者です。というわけで、中身は同じモンゴルなのに、北に帰った遊牧民は「韃靼」と呼ばれるようになりました。
◆元朝時代の政府組織を皇帝直轄に~システムは活用しつつ権力集中
また、フビライ・ハーン以来、中国の皇帝の資格要件が変わり、伝国璽のみならず、モンゴル高原ほか北アジアも支配下に収めていることが必須条件となりました。それで、永楽帝は、クーデタで甥を倒して明の皇帝になった後も、モンゴルには5回も侵攻しています。また、イスラム教徒の宦官(かんがん)の鄭和(ていわ)にはるか西方まで南海大遠征をさせています。フビライ・ハーンの帝国がイメージにあるからです。
明の軍隊はモンゴル高原中央部にまで侵入しています。しかも、「永楽帝の軍隊がここまで来た」と石碑を建て、証拠を残しています。それにしても、こんなに北のほうまで進軍できるということは、軍隊が騎馬兵から成っていたということだと思います。
トゴン・テムル・ハーンが逃亡したとき、遊牧民が全部去ったわけではありませんから、逃げ帰らなかった元朝の軍隊を明が吸収して、北伐に使ったということでしょう。残った官僚や家来たちも、「逃げてしまった皇帝より、新しい皇帝のほうがいい」と、ちゃっかり乗り換えたのです。
事実、明は元朝時代に築かれたシステムをほぼそのまま使います。軍戸と民戸を分け、軍戸に指定された家からは代々職業軍人を出し、民戸つまり農民からは穀物税を取りました。
元と大きく違うのは著しく皇帝の権力を強化したことです。
洪武帝は、元朝時代には皇帝の秘書官として最高権力を持っていた中書省を廃止し、6つの下部組織、吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部を皇帝直轄にしました。皇帝が総理大臣を兼ねたようなものです。
また、参謀本部に相当する大都督府も廃止し、5つの方面軍司令部に分割し、それを皇帝直属としました。つまり、皇帝が参謀総長を兼ねました。
◆かつての仲間を大粛清~まるで「文化大革命」のような権力闘争
このように権力を集中しなければならなかったのは、朱元璋が最下層からの叩き上げだったからです。それまで協力してくれたのはすべて白蓮教徒の紅巾軍でした。朱元璋は皇帝になりましたが、先輩はいるわ、同輩はいるわ、皇帝に対して「おい、お前」という感じで接してくる仲間が多いわけです。古い友だちなど、皇帝となった今では厄介者。やりにくくて仕方がありません。
そのため、中書左丞相の胡惟庸(こいよう)を謀反の罪で逮捕し、1380年に処刑します。皇太子の指揮する皇帝軍は、南京城内の紅巾系の軍隊を襲撃して15000人を虐殺しました。これを「胡惟庸の獄」と言います。その後も2度ほど数万人が粛清される事件を経て、建国に功のあったかつての同僚たちは、ほとんどいなくなってしまいました。
毛沢東の行なった文化大革命にそっくりです。罪状はでっち上げで、すべては権力闘争。毛沢東が紅衛兵を使って劉少奇らの中国共産党組織に打ち勝ったように、朱元璋は皇子たち率いる皇帝直属の軍隊で、かつての仲間であった紅巾軍を弾圧したのです。
中書省や都督府を廃止したのは、胡惟庸の獄の後のことです。朱元璋だけが1人、皇帝として抜きん出た存在となるために、皇帝と同等か、あるいは、それ以上を自任するような者どもは全員粛清してしまわなければならなかったのです。皇帝が役所、軍隊を掌握し、すべてを従えるシステムに変えました。朱元璋は残酷にその辣腕(らつわん)を振るい、やりきりました。
このときようやく完全に権力を掌握するわけですが、ここにいたるまでには時間がかかっています。まず、皇子たちを地方の王に奉じていきました。そのうちの1人、燕王(えんおう)に奉じられたのが後の永楽帝です。古い戦国時代に現在の北京周辺には燕国があったので、以来その土地は雅号では「燕」と呼ばれています。
朱元璋は太原や西安など枢要の地に皇子を王として派遣し、自前の軍隊ができるのを待ちました。そして、機が熟したときに、皇子たちと共に、ある種のクーデタを起こし、元の仲間を粛清したのです。謀反の罪で建国の功労者たちを粛清し、親族の率いる直属軍隊に替え、国を完全に乗っ取りました。
◆白蓮教を弾圧したのに血縁で大戦乱~苛烈で残虐な継承者争い
シナ大陸のような広いところを中央集権的に統治しようと思ったら、それくらいのことをしなければならないということでしょうか。そして、そうやって権力を集中させればさせるほど、その後の継承者争いが激化します。
朱元璋には26人の皇子がありました。長子の朱標が皇太子でしたが、父の朱元璋より先に没してしまい、朱標の子が皇太子となります。そして、1398年、朱元璋が亡くなると、16歳で建文帝(在位:1398~1402)として帝位につきました。
ところが、野心家の燕王(後の永楽帝)は黙っていません。建文帝が側近の進言により、叔父たち諸王の勢力を削ぐ政策を取ろうとしたので、1399年、燕王は「君側の難を靖んじる」のスローガンを掲げて挙兵、クーデタを起こします。南京を攻略し、建文帝は宮殿に火を放って自害したとされますが、遺体は見つかりませんでした。この4年に及ぶ大戦乱を「靖難の役」と言います。
燕王は1402年に皇帝の座につきます。永楽帝(1360~1424、在位:1402~1424)の誕生です。年号を永楽と定め、北京への遷都を決定します。このとき初めてこの町が北京(ペキン)と呼ばれるようになりました。明は先に南京を首都としていたので、北の都という意味で北京です。だから、南方方言で「ペキン」と発音したのです。北京への正式な遷都は1421年ですが、永楽帝はそれ以前にもしばしば北京で政務を執ります。前述のように、北京は「燕王」であった永楽帝の本拠地でした。
初代洪武帝・朱元璋は一世一元の制を導入し、1人の君主につき1元号と定めましたが、永楽帝は甥にあたる建文帝の存在そのものをなかったことにしようと建文の年号を取り消し洪武に組み入れました。そのため、約200年後に建文帝の名誉が復活するまで、永楽帝が初代洪武帝につぐ第2代の皇帝とされていました。
洪武帝朱元璋は、紅巾軍の仲間は信用できないが、息子たちなら信用できると思って各地の王にしたのに、結局、血縁同士で権力争いが起こってしまい、最も実力のあった息子、燕王が次の皇帝になりました。このときも、15000人ぐらい死んでいます。
洪武帝・朱元璋から永楽帝の時代にかけて紅巾軍出身の家来、大官小吏兵士に至るまでほとんど殺されてしまいました。また、永楽帝のクーデタ以後、白蓮教は違法とされます。明の初代皇帝朱元璋自らが白蓮教徒だったのに、信徒たちは国を建てた功績がすべてなくなるどころか、今や犯罪者扱いです。
その後の白蓮教徒は、今度は万里の長城を越えてモンゴル高原に逃げました。自分たちが倒したモンゴルの王朝の庇護を求めたのですから、節操がありません。明に留まった白蓮教徒は地下にもぐりました。
こういう歴史を知っていると、中国共産党の権力闘争にも、あまり驚かなくなります。かの国で起こっている裏切りや粛清は今に始まった話ではないのです。
◆明は元を継承できなかった~北京遷都の裏事情
ところで、明は元朝を継承できませんでした。前述のように形式的にきちんと継承できていませんし、領域的にもはるかに及びません。朱元璋が南京で即位していることからわかるように、南方発の王朝で、支配した領域は南方だけです。
のちに永楽帝が北京に遷都しますが、その先は進軍しても領土として確保することはできませんでした。1372年にはモンゴルに進撃しますが、カラコルムの手前で1万人以上の死者を出して敗退します。雲南省や青海省にも元朝の勢力が残っていました。そして、高麗王国は元朝の縁戚です。青海省は1378年に、雲南省は1381年に征服し、明は徐々に領域を広げていきますが、北への拡大はできませんでした。
日本の時代区分は簡単で、鎌倉時代、室町時代、江戸時代ときて、明治維新が起こって明治時代に入ります。一部が江戸時代で、一部が明治時代ということはないわけです。徳川将軍家にしても薩長にしても日本を割るつもりはない。勝つか負けるかが問題で、勝った薩長が新政府を樹立しました。勝てば官軍です。
しかし、大陸国家は「元が明になりました」と単純にはいかないのです。元朝はなくなっていません。モンゴル高原に戻っただけで、それ以降の元朝を北元と呼びます。内紛が絶えないのは相変わらずですが、ハーンは代々続いていきます。直系で継承しませんが、みんなチンギス・ハーンの子孫たちです。
日本の教科書では北元は1388年に「再三にわたる明の迫撃を受けて滅亡した」となって、あたかも全部が明になったかのように誤解を招く表現になっていますが、フビライ朝が絶えただけです。モンゴル高原を中心とする北アジアは、ついに明にはなりませんでした。
その証拠は今でもはっきり見ることができます。現存する万里の長城は明の時代につくられたものです。万里の長城のうちでも有名で、よく整備されている観光地に八達嶺がありますが、北京の中心から車で1時間ぐらいの距離にあります。そこから先は明ではなかったということです。北京から日帰りで遊びに行けるような近いところがモンゴルですから、永楽帝はモンゴルに対する最前線の都市北京に遷都したのでした。
なぜ、永楽帝はこんな最前線を首都にしたのでしょうか。
元時代に大都と呼ばれた都市が北京です。大都(北京)に首都を置くことには、モンゴルと漢人の両方を支配するという意味があります。元が漢人支配のためにカラコルムから大都へ首都を南下させたのとは逆の理屈で、明はモンゴルを支配するために、首都を南京から北京へと北上させたのです。
結局、明朝は領土を北方に拡大することはできませんでしたが、永楽帝は北まで支配したいという志を持っていました。「元朝領域を、そっくりそのまま継承する」その意思を示すために、北京に遷都したのです。
ですから、本格的に長城の建設が進んだのは永楽帝の死後です。「何が何でもモンゴルを支配下に」の永楽帝が亡くなってから、ようやく北方支配は無理とあきらめ、境界線としての万里の長城を築いていくのです。そうして、結果的に北京が最北端の危険な町になってしまいました。しかし、夢だけは掲げておきたかったのか、遷都しなおすことはありませんでした。
◆半島の本当の境界線は39度線だった?~朝鮮文化はモンゴルの影響下
ついでに朝鮮半島にも触れておきましょう。
元朝から明朝にシナの王朝が交代したどさくさにまぎれて、朝鮮半島も高麗から李氏朝鮮に交代します。この2つは関連しあった動きです。
高麗国王がフビライに屈し、息子がモンゴルの皇女と結婚して以来、代々の高麗王は世子(王の跡継ぎの息子のこと、皇帝の息子ではないので「皇太子」とは呼べないのです)のうちに元朝皇女の婿(むこ)となり、ハーンの側近としてモンゴル風の宮廷生活を送っていました。つまり、代々フビライ家の皇女を王妃に迎え、その子が高麗王になるので、高麗王の母は常にモンゴル人ですから、代が下るほどにモンゴル色が強くなっていきます。モンゴルは高麗王を一族にしてしまったのです。
例えば、モンゴル支配以前の朝鮮半島では肉食はあまり普及しておらず、モンゴル支配下で、肉食が始まったのです。また、マッコリという醸造酒は、アイラグという、蒸留していないモンゴルの馬乳酒にそっくりですから、マッコリもその頃から飲まれるようになったものだと思います。
それ以前の朝鮮半島は、日本のお寺の精進料理のようなものを食すなど、日本との文化的共通点が多かったようです。今の朝鮮文化は、モンゴルの影響を非常に大きく受けているのです。
元朝時代の朝鮮半島情勢を見てみましょう。実は、今の北朝鮮のほとんどが元の直轄領の遼陽行省です。現在の北朝鮮と韓国の境界線は北緯38度線ですが、このときは約39度線が境目です。
現在の北朝鮮と沿海州、満洲あたりは陸続きで、高句麗の時代から、狩猟民の住む地域として1つの政治形態になっていることが多かったのです。39度より南は農耕民が住んでいました。新羅と百済に相当する地域で、日本とも通じる文化を持っていたところです。そこが狩猟民と農耕民の分かれるラインであり、人種も違っていたようです。
ですからコリアンというのは、日韓併合後にできた民族とも言えるのです。それまでは、身分格差や地域間の対抗意識が激しく、朝鮮半島内で互いにいがみあっていました。併合後に日本に対抗する概念として「(日本人ではない)我々はコリアンだ」と1民族であるかのようにスローガンを掲げますが、本来、1つのものではないのです。
強調しておきたいのは、自然な境界線は39度にあるということです。それに、39度が国境であれば、ソウルが国境線からずいぶん離れ、わずか1日で制圧されてしまうという事態にはなりません。
李氏朝鮮時代の行政区分もちょうど39度線を境に南が黄海道・江原道、北が平安道・咸鏡道となっています。現在の国境線は、本来は「南」の黄海道が北朝鮮になり、江原道は南北に分断されているのです。
1945年の第2次世界大戦の終戦間際、アメリカは日本の占領政策は決めていたけれど、朝鮮のことは何も考えていなかったので、歴史も地理も何もわからないまま、真ん中だからと38度線を境にソ連との勢力範囲を定めました。39度にしておけば、もう少しソウルは安全だったのに。
◆明に選んでもらった国号「朝鮮」~元から明に寝返った建国史
高麗王はわずかな例外をのぞき母がモンゴル人なので、基本的に元朝寄りです。
また、大都(北京)で政務を執った最後の元朝皇帝トゴン・テムル・ハーンは北に逃げてから、まもなく病死し、皇太子アーユシュリーダラ(在位:1370~1378)が即位しますが、その母は前述のように、朝鮮人の奇皇后でした。
2013~2014年に韓国でドラマ『奇皇后』が制作されましたが、例によって嘘だらけの韓流時代劇です。日本では、2014年にNHKがこれを放映することになったとき、私のところに監修してほしいという要請が来ました。けれども、「そんな真実のかけらもないドラマの監修などできません」とお断りしました。そうしたら、NHKがつくった『奇皇后』の番組正式ホームページの一番上に「このドラマは史実ではありません」と断り書きがありました。モノは言ってみるものです。
奇皇后という人がいたのは事実です。朝鮮からは美しい女性が朝貢の貢物としてシナ皇帝に献上されていました。そのうちの1人として後宮に入り、トゴン・テムルに気に入られ、皇后にまで上り詰め、しかも皇子が皇太子に、ついには北元のハーンとなります。
もともと高麗国ではたいした家柄ではなかった奇氏ですが、一族から宗主国モンゴルの皇后が出たので高麗国内で権勢を振るい出します。奇皇后の兄が、高麗国王よりも自分のほうが上であるかのようにふるまったので、高麗の恭愍王は奇氏一族を誅殺しました。それで、元朝の皇后と高麗王の仲が険悪になりました。
しかし親元派の宦官に恭愍王は殺され、息子の王禑が高麗王となります。モンゴル人の母から生まれていませんが、この王は親元政策を取ります。そして、大都を追われて北に逃げた北元を助けるために送った将軍の1人が、後に李氏朝鮮を建国する李成桂です。
この李成桂ですが、実は、咸鏡道の出身の女直人(女真人)です。咸鏡道は現在の北朝鮮の最北部、沿海州に近いところです。はじめは、元朝直轄の遼陽行省に属していましたが、元末になって紅巾軍が侵入し荒らし回ったどさくさにまぎれて、高麗が領土とします。そのときに李成桂の父、李ウルス・ブハが高麗に臣従しました。ウルス・ブハは女真人の名前です。その子、李成桂もまた高麗の臣下となります。部下には女真人の騎馬兵を従えていました。李成桂の功績は彼らの活躍に多くを負っています。元末に高麗にも侵入してきた紅巾軍に打ち勝ち、倭寇退治でも成果を上げました。
将軍李成桂は、高麗王の命令で北元を助力しに行きますが、途中で「もうモンゴルの時代ではない。明に寝返ろう」と高麗王に対してクーデタを起こしました。それが「威化島回軍」です。威化島とは鴨緑江の中洲で、ここから軍を引き返して首都開城を攻めました。全159話にわたる長い韓流歴史ドラマ『龍の涙』(http://www.bsfuji.tv/ryunonamida/)の冒頭場面がこの「威化島回軍」でした。これまた創作だらけの史実からはほど遠いドラマですが、李氏朝鮮のはじまりの権力闘争だけは熱心に描いていました。
李成桂は高麗王を殺して、1392年に王位に就きます。そして、就任早々、明に使節を送り、承認を求めます。まだ国号は「高麗」のままで、李成桂は「権知高麗国事」という国王より低い肩書でした。ところが、洪武帝・朱元璋から「先の国王とは違う一族なのに、なぜ高麗を名乗るのか。王朝の名前を変えたほうがいいのではないか」と言われました。
「それもそうですね」と、あわてて考えた2つの名前が「朝鮮」と「和寧」でした。「和寧」は李成桂の故郷の別名でしたが、カラコルムの別名でもあったので、明としては面白くありません。「朝鮮」は紀元前4世紀頃からシナで用いられたもので、戦国時代の燕の外側にある勢力をさしていました。明が「朝鮮」を選び、1393年に「李氏朝鮮」となりました。
翌年には、旧勢力の干渉を嫌って漢城(ソウル)に遷都します。なお、李氏が「明」から正式に朝鮮国王に「任命された」のは1401年で、第3代太宗李芳遠の時代になってからのことでした。(武田幸男『朝鮮史』山川出版社、2000年、26頁、167~168頁)
◆李氏朝鮮の祖が「女真人」はタブー?~調べれば調べるほど明白だけど
ところで、李成桂の父が女真人だというのは、韓国人としては許せないらしく、そのことを書いた岡田宮脇研究室のホームページに対して怒りの投稿がネット上にガンガン出ました。すると、私が反論するまでもなく、読者が言い返してくれました。今は落ち着いていますが、一時期は、激しい舌戦となりました。
李氏朝鮮には『朝鮮王朝実録』という、1967巻948冊もある漢文の正史があります。その冒頭には新羅時代の全羅道出身の李という大臣が、船で沿海州に行き、その子孫が李成桂であると書いてあります。沿海州の咸鏡道出身であることは誤魔化せないので、もっと古い時代に朝鮮から沿海州に移住したことにして、朝鮮半島出身の血筋だと主張しています。
しかし、李ウルス・ブハの姉が女真人に嫁いでいること、李成桂のいとこが女真人であることは確実で、背景を調べれば調べるほど、女真人であることは明らかなのです。ホームページに掲載した論説で、私や岡田英弘が細部にわたって詰めていたので、批判者側は「その当時は、高麗人でも女真名やモンゴル名を持っていたのだから、それは証拠にならない」などと苦しい反論をしていました。何が何でも否定したいようです。李成桂が女真人だということは、朝鮮半島ではタブーなのです。
いずれにしても、李成桂が咸鏡道出身で、軍役で功績を上げて出世し、高麗軍の将軍となりながら寝返って、高麗王を倒し、新しい王朝を開いたことは間違いありません。そのため、李氏朝鮮の支配階級は北部出身者でした。彼らが儒教を取り入れ、高麗時代に尊崇されてきたモンゴル式の仏教を弾圧したのです。僧侶は殺され、寺は焼かれ、仏像も破壊されました。
2012年に対馬の神社から重要文化財級の仏像が韓国人窃盗団に盗まれるという事件がありました。この仏像は、李氏朝鮮下での法難を逃れて日本に渡ってきて救われた仏像でした。
元から明への交代とともに、属国の半島でも、高麗から李氏朝鮮に政権が交代しました。以後、朝鮮は明に朝貢し続けます。
李氏朝鮮時代の500年間、両班、中人、常民、奴婢、白丁と5階級が固定します。両班が支配階級で、中人は読み書きのできる専門職や下級役人の階層です。常民は人口の大多数を占め、農業や商工業に従事し、税負担を主に担う層です。奴婢は公の機関や個人に従属し売買される場合もありました。白丁は屠殺業や皮革業などに従事し、職業的に蔑まれた人びとです。
人口の1割にも満たない両班(ヤンバン)が支配階級として君臨しました。これは、種族の違う人が入ってきて、上層階級を構成したからではないかと私は思っています。
シナの抗争は激しいですが、流動性があります。上下、貧富の差は激しくても、下剋上は常にあり得ます。これに対して、朝鮮は国が小さいからか、逃げ場がありません。上下の差が激しい上に、完全に固定化されて夢も希望もありません。また、パイが小さすぎて、ライバルはすべて潰していかないと自分の取り分が少なくなるので、王の一族や儒者集団などの権力者同士の闘争は20世紀まで続きます(今も続いています)。(宮脇淳子)