2019.4.11 天皇
天皇の「即位」のあり方は、長い歴史のなかで確立されてきたものです。しかし、第二次世界大戦後、使われなくなった言葉があります。「践祚(せんそ)」という言葉は、その代表的なものでしょう。
現在、政治の場やメディアなどでもっぱら使われているのが「即位」です。
しかし、「践祚」と「即位」では辞書的な言葉の意味としても、また、歴史的な意味としても、実は大きく異なっていたのです。
では、両者はどのように異なるのか。歴史的な意味の違いを見ていくことにしましょう。
第二次世界大戦まで、皇位の継承にあたっては、「践祚(せんそ)」と「即位」という言葉が用いられていました。
「践祚」は、中国の古典に由来する言葉です。天子が位についたときに、祖先を祀(まつ)る宗廟(そびょう)に、「阼(そ)」と呼ばれる階段を「践(ふ)んで」上(のぼ)るという、連続性のある具体的な動作を表していました。「阼」は「祚(そ)」とも書かれるようになります。そこから「祚」は天子の位を表し、「践祚(せんそ)」は皇位の「連続性」を含み、「先帝から皇位を継承し、皇位につく」ことを意味するようになりました。
それに対して、「即位」とは「位に即(つ)く」ことを意味しますが、皇位の「連続性」という意味は含まれていません。
『日本国語大辞典』では、「践祚」を「天子の位につくこと。皇嗣(こうし)が皇位を継承すること」と説明し、「即位」を「①皇位継承者が天皇の地位につくこと。②天皇が践祚(せんそ)ののち、帝位についたことを天下万民に告げる儀式」と意味の違いを説明しています。
即位を説明する①の説明が、践祚の説明と似ているのは、以下に記す歴史的経緯が反映されていると考えられます。歴史的に、「践祚」と「即位」の区別がなかった時代も確かにあったからです。しかし、両者は古代のうちにはすでに区別されています。
690年に第41代・持統天皇が皇位についたときには「践祚」と「即位」の区別は明確に分けられていなかったようです。『日本書紀』が伝える、持統天皇即位の様子を見てみましょう。
持統天皇は先の第40代・天武天皇の皇后です。持統天皇は夫である天武天皇から皇位を受け継ぎます。
持統天皇に臣下からのお祝いの言葉である「天神壽詞(あまつかみのよごと)」が述べられます。述べたのは、この時代、奏上(そうじょう)の役目を担っていた高官の中臣(なかとみ)氏でした。そして、皇位のしるしとなる「神璽(しんじ)、鏡剣」を受け継ぎます。これを奉るのは忌部(いんべ)氏でした。
「神璽」は八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、「鏡」は八咫鏡(やたのかがみ)、「剣」は草薙の剣(くさなぎのつるぎ)で、現在では「三種の神器」と呼ばれています(「神璽の鏡剣」と解釈し、「神器である鏡と剣」の二種の神器とする説もあります)。一連の儀は群臣の前で行われました。
「践祚」と「即位」の区別がなされた最初の例は、697年に持統天皇から受禅した第42代・文武(もんむ)天皇のときだといわれています。受禅とは、譲位という行為を、位を譲られる皇太子側から表現した言葉です。
文武天皇が祖母である持統天皇から受禅し、その10日後に即位の詔(みことのり)が発せられました。つまり、皇位を継承する「践祚」と、それを知らせる「即位」が別々に行われたわけです。
そして、践祚と即位の区別が慣例になったのは、第50代・桓武天皇のときです。
天応元年(781)、桓武天皇が践祚したときから12日後に即位の詔が発せられ、即位は皇位継承を知らしめる儀式として慣例となりました。さらに、弘仁14年(823)に、第52代・嵯峨(さが)天皇が譲位したときに至って、実質的にも、践祚と即位の区別が確立されました。
ここまで見てきたように、践祚は「皇位を継承すること」をいい、即位は「皇位についたことを内外に広く知らせること」をいう実態に即した言葉として歴史のなかで定着し、使われ続けてきたわけです。
そうした皇位継承や皇室儀礼を、明治22年(1889)に法規として明文化したのが「皇室典範」です。この皇室典範は、日本が第二次世界大戦で敗北して、アメリカをはじめとした連合軍の占領下にあった昭和22年(1947)に改正されたので、それと区別して、「旧皇室典範」と呼ばれることがあります。
「旧皇室典範」の第2章第10条では、「天皇崩スルトキハ皇嗣(こうし)即(すなわ)チ践祚(せんそ)シ祖宗(そそう)ノ神器ヲ承(う)ク」となっています。祖宗とは歴代の君主を指します。
昭和22年の改正後、「皇室典範」の第1章「皇位継承」の第4条に「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とされました。
つまり、「即チ践祚シ」が「直ちに即位する」と改正され、「践祚」という言葉が消えたのです。
践祚と即位が区別される慣習が確立していたときには、「先帝退位」→「新帝践祚」→「新帝即位」という手順を踏んでいました。
一方、「改正」されてからは「先帝退位」→「新帝即位」と、「退位と即位」だけで考えられるようになり、文字通り「践祚」が消えました。
ちなみに、従来、「天皇が践祚ののち、帝位についたことを天下万民に告げる儀式」という意味で用いられていた「即位」は、「即位の礼」と呼ばれるようになりました。
しかし、このように「退位と即位」だけになってしまうと、「先帝から皇位を継承し、皇位につく」という「皇位の連続性」が、明確に語られなくなってしまいます。
なぜ、長い歴史を通して使われてきた「践祚」という言葉が「消された」のでしょうか? 難解な文語的な表現なので、より現代の日常語に近い「即位」と改めたのでしょうか。それとも、そのような単純な理由からではなく、天皇の連続性を表す言葉を不都合だと思う人たちがいたのでしょうか。なにしろ占領下に「改正」されたものですから、ついつい勘ぐりたくもなります。
いずれにしても、日本の歴史のなかで、皇位の継承がどのように考えられてきたのか、正しい伝統を、ぜひ知っておきたいものです。(雨宮美佐)
参考文献:
倉山満『国民が知らない上皇の日本史』(祥伝社新書、2018年)
現在、政治の場やメディアなどでもっぱら使われているのが「即位」です。
しかし、「践祚」と「即位」では辞書的な言葉の意味としても、また、歴史的な意味としても、実は大きく異なっていたのです。
では、両者はどのように異なるのか。歴史的な意味の違いを見ていくことにしましょう。
◆「継承すること」と「広く知らせること」
第二次世界大戦まで、皇位の継承にあたっては、「践祚(せんそ)」と「即位」という言葉が用いられていました。
「践祚」は、中国の古典に由来する言葉です。天子が位についたときに、祖先を祀(まつ)る宗廟(そびょう)に、「阼(そ)」と呼ばれる階段を「践(ふ)んで」上(のぼ)るという、連続性のある具体的な動作を表していました。「阼」は「祚(そ)」とも書かれるようになります。そこから「祚」は天子の位を表し、「践祚(せんそ)」は皇位の「連続性」を含み、「先帝から皇位を継承し、皇位につく」ことを意味するようになりました。
それに対して、「即位」とは「位に即(つ)く」ことを意味しますが、皇位の「連続性」という意味は含まれていません。
『日本国語大辞典』では、「践祚」を「天子の位につくこと。皇嗣(こうし)が皇位を継承すること」と説明し、「即位」を「①皇位継承者が天皇の地位につくこと。②天皇が践祚(せんそ)ののち、帝位についたことを天下万民に告げる儀式」と意味の違いを説明しています。
即位を説明する①の説明が、践祚の説明と似ているのは、以下に記す歴史的経緯が反映されていると考えられます。歴史的に、「践祚」と「即位」の区別がなかった時代も確かにあったからです。しかし、両者は古代のうちにはすでに区別されています。
690年に第41代・持統天皇が皇位についたときには「践祚」と「即位」の区別は明確に分けられていなかったようです。『日本書紀』が伝える、持統天皇即位の様子を見てみましょう。
持統天皇は先の第40代・天武天皇の皇后です。持統天皇は夫である天武天皇から皇位を受け継ぎます。
持統天皇に臣下からのお祝いの言葉である「天神壽詞(あまつかみのよごと)」が述べられます。述べたのは、この時代、奏上(そうじょう)の役目を担っていた高官の中臣(なかとみ)氏でした。そして、皇位のしるしとなる「神璽(しんじ)、鏡剣」を受け継ぎます。これを奉るのは忌部(いんべ)氏でした。
「神璽」は八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、「鏡」は八咫鏡(やたのかがみ)、「剣」は草薙の剣(くさなぎのつるぎ)で、現在では「三種の神器」と呼ばれています(「神璽の鏡剣」と解釈し、「神器である鏡と剣」の二種の神器とする説もあります)。一連の儀は群臣の前で行われました。
「践祚」と「即位」の区別がなされた最初の例は、697年に持統天皇から受禅した第42代・文武(もんむ)天皇のときだといわれています。受禅とは、譲位という行為を、位を譲られる皇太子側から表現した言葉です。
文武天皇が祖母である持統天皇から受禅し、その10日後に即位の詔(みことのり)が発せられました。つまり、皇位を継承する「践祚」と、それを知らせる「即位」が別々に行われたわけです。
そして、践祚と即位の区別が慣例になったのは、第50代・桓武天皇のときです。
天応元年(781)、桓武天皇が践祚したときから12日後に即位の詔が発せられ、即位は皇位継承を知らしめる儀式として慣例となりました。さらに、弘仁14年(823)に、第52代・嵯峨(さが)天皇が譲位したときに至って、実質的にも、践祚と即位の区別が確立されました。
ここまで見てきたように、践祚は「皇位を継承すること」をいい、即位は「皇位についたことを内外に広く知らせること」をいう実態に即した言葉として歴史のなかで定着し、使われ続けてきたわけです。
◆天皇の連続性を「不都合」と思う人の仕業?
そうした皇位継承や皇室儀礼を、明治22年(1889)に法規として明文化したのが「皇室典範」です。この皇室典範は、日本が第二次世界大戦で敗北して、アメリカをはじめとした連合軍の占領下にあった昭和22年(1947)に改正されたので、それと区別して、「旧皇室典範」と呼ばれることがあります。
「旧皇室典範」の第2章第10条では、「天皇崩スルトキハ皇嗣(こうし)即(すなわ)チ践祚(せんそ)シ祖宗(そそう)ノ神器ヲ承(う)ク」となっています。祖宗とは歴代の君主を指します。
昭和22年の改正後、「皇室典範」の第1章「皇位継承」の第4条に「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」とされました。
つまり、「即チ践祚シ」が「直ちに即位する」と改正され、「践祚」という言葉が消えたのです。
践祚と即位が区別される慣習が確立していたときには、「先帝退位」→「新帝践祚」→「新帝即位」という手順を踏んでいました。
一方、「改正」されてからは「先帝退位」→「新帝即位」と、「退位と即位」だけで考えられるようになり、文字通り「践祚」が消えました。
ちなみに、従来、「天皇が践祚ののち、帝位についたことを天下万民に告げる儀式」という意味で用いられていた「即位」は、「即位の礼」と呼ばれるようになりました。
しかし、このように「退位と即位」だけになってしまうと、「先帝から皇位を継承し、皇位につく」という「皇位の連続性」が、明確に語られなくなってしまいます。
なぜ、長い歴史を通して使われてきた「践祚」という言葉が「消された」のでしょうか? 難解な文語的な表現なので、より現代の日常語に近い「即位」と改めたのでしょうか。それとも、そのような単純な理由からではなく、天皇の連続性を表す言葉を不都合だと思う人たちがいたのでしょうか。なにしろ占領下に「改正」されたものですから、ついつい勘ぐりたくもなります。
いずれにしても、日本の歴史のなかで、皇位の継承がどのように考えられてきたのか、正しい伝統を、ぜひ知っておきたいものです。(雨宮美佐)
参考文献:
倉山満『国民が知らない上皇の日本史』(祥伝社新書、2018年)