知っておきたい「皇位継承」儀式の歴史

 「平成」から「令和」への御代がわりは、200年ぶりの譲位と皇位継承になったこともあって、国民全体の祝賀ムードのなかでの「御代がわり」となりました。

 ところで、御代がわりに伴う「儀式」とは、どのようなものなのでしょうか? 宮内庁のホームページには、神武天皇を第1代として、現代までの天皇陛下の系図が掲載されていますが、代々、皇位継承は様々な儀式を介して行われてきました。

 皇位継承の儀礼には、一言で表せば「皇位の正統性を表す」という意味があります。長い歴史のなかで、どのような儀式が行われ、現代に引き継がれてきたのかを見てみましょう。

◆どのような皇位継承儀式が行われるのか


 政府は平成30年(2018)4月に、平成から次代への御代がわりにあたって、平成2年(1990)に行われた皇位継承儀式を引き継ぎ、次のような儀式を行うと発表しました。「退位礼正殿(たいいれいせいでん)の儀」「剣璽(けんじ)等承継の儀」「即位後朝見(ちょうけん)の儀」「即位礼正殿の儀」「祝賀御列(おんれつ)の儀」「立皇嗣(りっこうし)の礼」です。

 「退位礼正殿の儀」で天皇陛下が天皇位を譲られ、「剣璽等承継の儀」で皇太子殿下が天皇位を受けられます。そして、御位を継がれて、新たに位につかれた天皇陛下が「即位後朝見(ちょうけん)の儀」に臨まれるのです。

 10月には「即位礼正殿の儀」で御即位が国内外に宣言され、パレードが行われ、「饗宴の儀」でお祝いの宴となります。

 さらに、秋篠宮殿下が皇太弟となられる「立皇嗣の礼」と続きます。皇太弟は、天皇陛下の弟にあたる方が皇位継承者となった時の古い言い方です。

 このほかに、重要な儀式として「大嘗祭」が行われ、そのほか皇室行事として宮内庁が予定している関連行事や祭祀が数十にのぼります。

 古くから、皇位継承の儀礼は「践祚儀(せんそのぎ)」「即位式」「大嘗祭」の三つで構成されています。これは現代の儀式でも同様です。呼び名や行い方が変わってしまったものもありますが、皇位を継承する「践祚儀」、皇位が継承されたことを内外に知らせる「即位式」、即位された天皇が初めて行う収穫の祭祀である「大嘗祭」です。

◆儀礼はいかに整えられていったか


 古代の儀礼がどのようなものだったのかは『日本書紀』のような歴史書や、8世紀頃に編まれた律令の「神祇令」の規定から研究が進められています。

 「退位の礼」「剣璽等承継の儀」にあたる「践祚儀」では、三種の神器が伝えられます。三種の神器は「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「八咫鏡(やたのかがみ)」「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」として、現代でもよく知られています。

 日本のみならず、世界中で王位にまつわる宝物が「レガリア」と呼ばれます。よく知られているのが、中世から近世にかけてヨーロッパ王室で作られた、宝石を飾った王冠や笏(しゃく)でしょう。王位の正統性を表徴する宝物のことですが、日本でレガリアにあたるのが三種の神器です。

 儀式で神器が献上された文献上の記録は、690年の持統天皇即位が初出とされます。『日本書紀』によれば、持統天皇は群臣の前で忌部氏による「神璽、鏡剣」の献上と、中臣氏による「天神壽詞(あまつかみのよごと)」の奏上を受け、皇位を継承したと伝わります。この頃は「践祚儀」と「即位式」が同時に行われていたのです。

 また、「大嘗祭」は持統天皇の前代、天武天皇の頃が記録の初出とされていて、これらの儀礼は8世紀に「神祇令」として成文化されました。

 「大嘗祭」は、古代の収穫祭が宮中祭祀に発展した「新嘗祭」が即位儀礼としても行われるようになったもので、即位した天皇が最初に執り行う新嘗祭を特に「大嘗祭」と呼びます。新嘗祭と大嘗祭は、期間や祭場が異なるほか、お供えする作物の準備を新嘗祭なら中央が、大嘗祭なら地方が負担するという違いもあります。

 平安時代初期になると儀式次第も整備され、天応元年(781)に践祚した桓武天皇から「践祚儀」と「即位礼」が分かれるようになりました。「践祚儀」で鏡剣が継承され、「即位式」は後日に執り行われます。持統天皇当時には即位式に奏上されていた天神壽詞も「大嘗祭」で奏されるようになりました(大津透『天皇の歴史1 神話から歴史へ』講談社学術文庫、2017年)。統治の仕組みが安定するに従って継承される宝器の記録も増え、天皇御璽もこの頃から見られるようになります。

◆積み重ねられた努力の賜物(たまもの)


 こうした儀式は、いつの時代も安定して行われたのではなく、長い歴史の間には途絶や簡略化を経験しています。

 三種の神器のうち、草薙剣が源平合戦で壇ノ浦に沈んだのは、有名な話です(このときに沈んだのは「形代(かたしろ=レプリカ)」で、本物は熱田神宮に祀りつづけられているともいわれます)。

 中世の南北朝の争いでは、後醍醐天皇が神器を持って吉野に逃れ、亡命政権(南朝)を樹立します。残された朝廷では、神器がないまま「譲国儀」が行われますが、治天の君(皇室の家長)の存在が正統性の象徴となります(倉山満『国民が知らない 上皇の日本史』祥伝社新書、2018年)。

 応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで続いた応仁の乱以降、朝廷は深刻な財政難に陥ります。明応9年(1500)に践祚した後柏原天皇は、即位式を挙行したのが21年後の大永元年(1521)となりました。大嘗祭も220年にわたり途絶します。復興されたのは江戸時代になってからです。

 江戸時代後期には、有職故実の研究と祭祀や儀式の復興が盛んに行われます。皇位継承に関係する儀式では、皇太子を定める立太子礼も途絶を経て天和3年(1683)に霊元天皇によって300年ぶりに再興されました。

 明治時代になると、明治22年(1889)年に公布された大日本帝国憲法と同時に皇室典範が成立します。この細則として皇室令が整備され、明治42年(1909)には皇位継承儀礼が「登極令」として公布されました。「践祚儀」「即位式」「大嘗祭」それぞれの儀式次第を引き継ぎつつ、唐風から日本風へと設えを変えたり、儀式後に賜る大御饗(饗宴)に洋風を取り入れたり、時代に応じた変更も加えられます。参列者の服装が洋装とされたのもこの時です。

 現代、私たちが目にすることのできる皇室の儀式は、長い歴史のなかで苦労しながら受け継がれたものなのですね。(細野千春)