現代の私たちにとって、天皇一代につき一つの元号という「一世一元」の制度は、なじみ深いものです。明治も、大正も、昭和も、平成も、みんなそうなっています。
ところが、この一世一元の制度が定着したのは明治以降と最近のことで、江戸時代までは、一代の天皇の在位中に、何度も改元されることが普通のことでした。現代からいちばん近い例では、幕末の孝明天皇の御代は、20年余のご在位期間に、元号が7つあります。実に6回もの改元が行われたということです。
では、どうして「一世一元」になったのでしょうか。また、「一世一元」になる前は、なぜ何度も改元されていたのでしょうか。「元号」の歴史秘話を見ていきましょう。
元号は、西暦紀元前140年、古代中国の前漢で武帝により建てられて始まったとされています。古代中国でも改元は珍しいことではなく、漢の武帝はおよそ6年に1回、元号を改めたといいます。(所功、久禮旦雄、吉野健一『元号 年号から読み解く日本史』文春新書、2018年)。
元号が日本で公式に使われたのは、645年の「大化」が初例とされています。皇極天皇から弟の孝徳天皇に御位が譲られた、史上初めての譲位の時です。それから50年ほど後の文武天皇の御代、大宝元年(701)年には、大宝律令で公文書の年の表記を元号とすることが定められました。
日本でこれまで行われた改元の理由は、天皇の御代がわりの代始、おめでたい徴(しるし)とされる自然現象の祥瑞(しょうずい)、災害や疫病などの不吉な事柄をいう災異、干支(えと)による慣習と、おおまかに4つに区分できます。大宝律令に定められて以降、文武天皇から光仁天皇までのおよそ80年間は、主に「祥瑞」と「代始」により元号が改められました。
実は、この後は4代にわたり、一世一元となります。光仁天皇の病を受けて天応元年(781)に践祚(せんそ)した桓武天皇から、弘仁14年(823)に践祚した淳和天皇までは、代始改元のみ行われました。
桓武天皇の御代は不吉な事例に事欠きませんが、改元ではなく遷都により不吉を祓(はら)おうとしました。また、平城天皇の御在位はわずか3年で、改元の機会はありません。
注目は平城天皇に続く嵯峨天皇の御代です。嵯峨天皇は、平城宮を拠点とした平城上皇との争いを収め、桓武天皇が開いた平安京を「万代の宮」として、宮都をひと所に定めました。
嵯峨上皇の御在世中は、古代のうちでもっとも安定し、繁栄した時代です(倉山満『国民が知らない 上皇の日本史』祥伝社新書、2018年)。安定と繁栄のなかで、何度も元号を改める必要がなかったのでしょう。
その後も一世一元となる天皇はありますが、嵯峨上皇の時代とは意味が異なります。
淳和天皇の譲位により践祚した仁明天皇以降は、後の摂関政治につながる権臣の争いが起こり、政治の実権が天皇の手を離れていく時代を迎えます。藤原氏全盛期から鎌倉時代にかけて、改元が頻繁に行われるようになり、改元への天皇の関与も形式化していきます。
制度としての一世一元は、嵯峨上皇の時代から500年ほど下った中世の中国で確立したといわれています。これは皇帝の死後に贈られる諡(おくりな)と関係があります。諡は皇帝や天皇の御事績を称える美称のことです。
14世紀中頃、中国大陸を治めていたモンゴル人王朝の元が倒れ、明が建国されます。元を追い出したのは、モンゴル王朝下で貧民層として育った漢人の朱元璋です。朱元璋は皇帝位に就き、元号を洪武と定めます。
朱元璋が在位中に改元しなかったことから、元号を冠して「洪武帝」と呼ばれました。正式な諡号は別にあったのですが、二十一文字と長かったため、便利な「洪武帝」という呼び名が後々までも使われるようになります。以後、明朝と清朝の歴代皇帝は「一世一元」を踏襲(とうしゅう)していくことになります。
桓武天皇から淳和天皇まで、日本の一世一元時代の天皇も、元号を冠して呼ばれることがありました。しかし、頻繁な改元が一般化したため、洪武帝のようには慣習として定着しなかったのです。
また、諡号も変化します。「〇〇天皇」という呼び方を天皇号といいますが、10世紀半ばの村上天皇を最後に、およそ950年にわたって天皇号も途絶しました。その間の呼称は、「〇〇院」という院号だったのです。
時代が下って江戸時代後期、儒学者の中井竹山が「一代一号」を提唱します。中国の洪武帝や康熙帝の例を引き、元号での称号を仮称ではなく正式な諡号としてはどうかという意見です。元号が過去と重複しないように選ばれることも理由の一つです。同時に、天皇号の復活も提言しました(『草茅危言 第1(宮)』懐徳堂記念館、1942年)。
この当時は光格天皇の御代です。文化的にも政治的にも大きな御事績があり、崩御後はその御事績を称えて、諡と天皇号が復活しました。長らく「〇〇院」と呼ばれていた天皇が「〇〇天皇」と呼ばれるようになったのです(前掲『国民が知らない 上皇の日本史』)。
日本で一世一元が「制度」となったのは、明治維新を経て、慶応から明治に改元された時です。改元詔書で「旧制を改め、これからは一世一元とする」と宣言され、一世一元の制が定まりました。それ以後の天皇は、元号を諡として冠して、「明治天皇」「大正天皇」「昭和天皇」と呼ばれるようになりました。
「一世一元」が日本で確立するにあたっても、このような歴史の積み重ねがあったのです。(細野千春)
ところが、この一世一元の制度が定着したのは明治以降と最近のことで、江戸時代までは、一代の天皇の在位中に、何度も改元されることが普通のことでした。現代からいちばん近い例では、幕末の孝明天皇の御代は、20年余のご在位期間に、元号が7つあります。実に6回もの改元が行われたということです。
では、どうして「一世一元」になったのでしょうか。また、「一世一元」になる前は、なぜ何度も改元されていたのでしょうか。「元号」の歴史秘話を見ていきましょう。
◆代始、祥瑞、災異、干支で改元がなされてきた歴史
元号は、西暦紀元前140年、古代中国の前漢で武帝により建てられて始まったとされています。古代中国でも改元は珍しいことではなく、漢の武帝はおよそ6年に1回、元号を改めたといいます。(所功、久禮旦雄、吉野健一『元号 年号から読み解く日本史』文春新書、2018年)。
元号が日本で公式に使われたのは、645年の「大化」が初例とされています。皇極天皇から弟の孝徳天皇に御位が譲られた、史上初めての譲位の時です。それから50年ほど後の文武天皇の御代、大宝元年(701)年には、大宝律令で公文書の年の表記を元号とすることが定められました。
日本でこれまで行われた改元の理由は、天皇の御代がわりの代始、おめでたい徴(しるし)とされる自然現象の祥瑞(しょうずい)、災害や疫病などの不吉な事柄をいう災異、干支(えと)による慣習と、おおまかに4つに区分できます。大宝律令に定められて以降、文武天皇から光仁天皇までのおよそ80年間は、主に「祥瑞」と「代始」により元号が改められました。
実は、この後は4代にわたり、一世一元となります。光仁天皇の病を受けて天応元年(781)に践祚(せんそ)した桓武天皇から、弘仁14年(823)に践祚した淳和天皇までは、代始改元のみ行われました。
桓武天皇の御代は不吉な事例に事欠きませんが、改元ではなく遷都により不吉を祓(はら)おうとしました。また、平城天皇の御在位はわずか3年で、改元の機会はありません。
注目は平城天皇に続く嵯峨天皇の御代です。嵯峨天皇は、平城宮を拠点とした平城上皇との争いを収め、桓武天皇が開いた平安京を「万代の宮」として、宮都をひと所に定めました。
嵯峨上皇の御在世中は、古代のうちでもっとも安定し、繁栄した時代です(倉山満『国民が知らない 上皇の日本史』祥伝社新書、2018年)。安定と繁栄のなかで、何度も元号を改める必要がなかったのでしょう。
その後も一世一元となる天皇はありますが、嵯峨上皇の時代とは意味が異なります。
淳和天皇の譲位により践祚した仁明天皇以降は、後の摂関政治につながる権臣の争いが起こり、政治の実権が天皇の手を離れていく時代を迎えます。藤原氏全盛期から鎌倉時代にかけて、改元が頻繁に行われるようになり、改元への天皇の関与も形式化していきます。
◆制度としての一世一元は明の太祖・洪武帝から
制度としての一世一元は、嵯峨上皇の時代から500年ほど下った中世の中国で確立したといわれています。これは皇帝の死後に贈られる諡(おくりな)と関係があります。諡は皇帝や天皇の御事績を称える美称のことです。
14世紀中頃、中国大陸を治めていたモンゴル人王朝の元が倒れ、明が建国されます。元を追い出したのは、モンゴル王朝下で貧民層として育った漢人の朱元璋です。朱元璋は皇帝位に就き、元号を洪武と定めます。
朱元璋が在位中に改元しなかったことから、元号を冠して「洪武帝」と呼ばれました。正式な諡号は別にあったのですが、二十一文字と長かったため、便利な「洪武帝」という呼び名が後々までも使われるようになります。以後、明朝と清朝の歴代皇帝は「一世一元」を踏襲(とうしゅう)していくことになります。
桓武天皇から淳和天皇まで、日本の一世一元時代の天皇も、元号を冠して呼ばれることがありました。しかし、頻繁な改元が一般化したため、洪武帝のようには慣習として定着しなかったのです。
また、諡号も変化します。「〇〇天皇」という呼び方を天皇号といいますが、10世紀半ばの村上天皇を最後に、およそ950年にわたって天皇号も途絶しました。その間の呼称は、「〇〇院」という院号だったのです。
◆江戸時代後期の光格天皇から変わりはじめて……
時代が下って江戸時代後期、儒学者の中井竹山が「一代一号」を提唱します。中国の洪武帝や康熙帝の例を引き、元号での称号を仮称ではなく正式な諡号としてはどうかという意見です。元号が過去と重複しないように選ばれることも理由の一つです。同時に、天皇号の復活も提言しました(『草茅危言 第1(宮)』懐徳堂記念館、1942年)。
この当時は光格天皇の御代です。文化的にも政治的にも大きな御事績があり、崩御後はその御事績を称えて、諡と天皇号が復活しました。長らく「〇〇院」と呼ばれていた天皇が「〇〇天皇」と呼ばれるようになったのです(前掲『国民が知らない 上皇の日本史』)。
日本で一世一元が「制度」となったのは、明治維新を経て、慶応から明治に改元された時です。改元詔書で「旧制を改め、これからは一世一元とする」と宣言され、一世一元の制が定まりました。それ以後の天皇は、元号を諡として冠して、「明治天皇」「大正天皇」「昭和天皇」と呼ばれるようになりました。
「一世一元」が日本で確立するにあたっても、このような歴史の積み重ねがあったのです。(細野千春)