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明を建国した朱元璋(太祖・洪武帝。1328~1398、在位:1368~1398)をインターネットで検索すると、いくつか画像がヒットしますが、2通りの顔があることに気がつきます。ふくよかで堂々とした皇帝らしい肖像画と、アバタだらけの貧相な悪役顔。まるで別人です。
どちらが本当の朱元璋でしょうか。おそらく悪相のほうが本当の顔だったのではないでしょうか。シナ史上、これほど下層から出た皇帝はいません。貧しかったらブサイクと決まっているわけではありませんが、おとなの顔には、その人の生き方がにじみ出てくるものです。
「庶民」から皇帝になったのは、漢の劉邦と明の朱元璋の2人だけです。しかし、劉邦の出自は、地方豪族に準じた、そこそこ裕福な家です。ちなみに毛沢東も豪農の息子です。しかし、朱元璋は、非常に困窮した生活を送っていました。親が死んでしまい、貧しさのために寺に入るのですが、寺も貧しく、17歳から20歳まで托鉢(たくはつ)の旅に出て乞食同然の生活を送ります。その後、宗教秘密結社の紅巾軍(こうきんぐん)に入ってから、頭角を現しました。郭子興という白蓮教徒の地域有力者に認められて娘婿(むすめむこ)になり、舅(しゅうと)の死後は、その跡を継ぎます。郭子興の部下を麾下(きか)に収め、ライバルにうち勝ち、最後には国家規模の領域を治めることとなりました。
そんな出自ですから、もともとは「無筆(字が書けない)」だった可能性は大いにありますが、努力家だったようです。皇帝は書類を決裁する際に、朱で「見た」「これでいい」などと書き加えるのですが、その筆跡は悪筆ではありません。ひとつの国、王朝を建てた人なのですから、頭は悪くなかったのでしょう。教育も受けられない極貧状態から、のし上がった立志伝中の人です。
朱元璋が皇帝にまで上りつめるきっかけとなったのは紅巾の乱です。
前回で見たように、元朝末期には内紛による中央政府の混乱が続いていました。さらに、14世紀はユーラシア各地が天候不順に襲われ、シナ地域は異常気象や地震などの自然災害が重なります。毎年のように黄河は氾濫し、水害と飢えに苦しむ農民たちは治水工事に駆り出され、不満が高まっていました。
そして、ついに1351年、農民反乱が起こります。白蓮教などの宗教結社が中心となって乱を主導していました。反乱者たちが紅い頭巾をかぶっていたために紅巾の乱と呼ばれ、1366年まで続きます。
白蓮教というのは、ゾロアスター教の流れをくむ一派です。善悪二元論に立ち、最終的には善神が勝利し、善良な人の魂は救われるという思想です。世界の終わりがやってくるという終末論を説くのですが、スローガンがなんと「天下大乱、弥勒下生」。救世主が「弥勒」ですから、仏教の影響も受けています。
今回は「紅巾の乱」ですが、2世紀にも似たような農民反乱「黄巾の乱」がありました。
『三国志演義』の冒頭部もここから始まっています。シナ史上、時代の変わり目にはいつも出てくる宗教秘密結社ですが、歴史上、その始まりは黄巾の乱でした。
ところで、宗教秘密結社とは何でしょうか。184年の黄巾の乱まで宗教秘密結社はありません。理由は紙がなかったからです。紙以前の記録媒体は竹簡や木簡、絹です。絹は高価で、庶民の手には届きません。木簡や竹簡は大変にかさばるもので、持ち運びしにくい。それで、書物は宮廷にしかありませんでした。
それに、当時は読み書き能力が特殊技能で、ほんの一握りの人が独占していました。そのため、後漢末までは、手紙で連絡を取り合い、勉強会を通じて思想を深めたり、一斉蜂起の日付を知らせたりすることができなかったのです。
漢末の黄巾の乱の母体は、徴兵された農家の息子で、故郷に戻れない人びとでした。徴兵されて軍隊に入りますが、一生軍隊にいるわけではありません。兵役を終えると、追い出されます。徴兵年限についてはよくわかっていませんが、中年に至ってからでは、もう故郷に帰れません。故郷の家や田畑は兄弟の誰かが継いでいますから、自分の土地はなく、農民に戻れないのです。
政府は何もしてくれません。誰からも守ってもらえず、年金もありません。そこで、困った者同士が集まって、互助組織をつくるようになりました。都市に出て、軍隊で武器の使い方を覚え、言葉を覚え、漢字も若干は読めるようになっている。このような人たちが、それぞれ各地で事業を起こし、互いに助け合うところから発展したものが宗教秘密結社でした。
シナには、表の歴史と裏の歴史があり、表では、「四書五経」を尊び儒教を重んじる科挙官僚が活躍しますが、裏ではこのような秘密結社が力を持っているのです。
地方ごとに話し言葉が違うので、ある程度の地域を越えて大きな事業を起こそうとすれば、なんらかのネットワークが必要です。漢字を巧みに操ることができれば、中央官庁に入り、高級官吏となって各地へ移動できますが、漢字ができない層の人びとはどうするか。小さい共同体をつくるだけなら、義兄弟になるという方法があります。もっと大きな組織をつくる(に入る)なら、宗教団体です。各地に信者・構成員がいて、ちょっとした符号合わせで仲間と認識され、どこに行っても助けてもらえます。
シナには、助け合うレベルが複数あります。
現在でも機能しているのが同郷会館です。各都市に出身地ごとの同郷会館があります。そこに行けば言葉の通じる人がいて、何かと助言を得ることができます。基本的に日本の県人会に似ていますが、あれより、ずっと強固で、切実な問題を扱う組織です。他のネットワークを持たない人びとにとっては同郷会館だけが頼れる場所です。
つまり、一口に中国人と言ってもさまざまなのです。現在もサンフランシスコやロサンゼルスにあるのは同郷会館であって、「中国会館」ではありません。国家としての「中国」が滞在者や移住者の面倒を見てくれることはなく、話し言葉が同じ地元の出身で、当地で成功した人が雇ってくれたり、助けてくれたりするわけです。
もうひとつ、異なるレベルでの互助組織があります。「宗族」という血族集団です。結局、いちばん頼りになるのは身内です。祖先を同じくする同姓の人びとが共同で祖先を祀ったり、教育や経済活動などで助けあったりします。宗族の構成員は長老が仕切ります。
例えば、金策に困ったときには融資やビジネス上のアドバイスを受けられ、「お前は、〇〇へ行け」などと出張や移住の指示が出たりします。行った先にも同族がいて、サポートしてくれる。海外に出るときも、そうやって同族を頼って、住む所や仕事を見つけます。同じ姓の人同士が助け合う、保険組合のようなものとも言えます。
シナは、昔も今も一族が基本である社会で、事実上「国」はないのです。国が頼りにならないから宗族を基本にするのか、宗族社会だから国としてまとまらないのか、どちらが卵か鶏かはよくわかりませんが。
このようにシナの中には、さまざまな組織やネットワークがあります。血でつながった宗族、話し言葉が同じ同郷集団、そして、疑似的に血縁関係を結ぶ義兄弟があります。義兄弟の誓いが大規模に行なわれると宗教秘密結社です。前2者のようなネットワークを持たない庶民が宗教を絆にして、まとまり、助け合うのです。
そのため、中華人民共和国の共産党は、宗教運動を大変に警戒しています。もともと共産党自体が宗教秘密結社のようなもので、貧民の互助組織のように生まれ、ネットワークをつなぎ、発展しました。だからこそ、法輪功などの宗教団体を敵視するのです。あのしくみこそが、シナで巨大なネットワークをつくる唯一の方法だからです。共産党以外に、似たような組織ができることは危険だと恐れています。
日本の宗教団体も、団体の中で仕事を融通し合うなど、助け合いの機能があります。指令を出せば、一瞬にして伝達され、動員できます。雑兵にこと欠かない。ただ、日本は他に救いがないという国ではないので、国を転覆するような巨大な組織にはならないのが普通です。
シナの宗教秘密結社というのは、基本的に任侠(にんきょう)団体です。清末に太平天国の乱を起こす宗教結社も、近現代の共産党も、その発端や発展の仕方は似たような過程をたどります。そうではないしくみによってシナ人をまとめる方法はありません。上層は科挙官僚と結託し、庶民は宗教秘密結社に助けてもらう。どちらも互助組織です。「宗教」を名乗っていても、本気で宗教の教義を信じている人など、あまりいないのではないでしょうか。
184年に黄巾の乱が起きた頃から、パターンは同じです。ある種の神をかかげ、誓いを立て、兄弟の盃をかわし、密かに武術などの訓練を行ない、共に行動する。「神」をのぞけば、任侠団体そのものです。
ただ、宗教の経典があると、特定のフレーズや話を知っているかどうかで仲間かどうかがすぐにわかるという利点があります。また、教主を頭に、働きに応じて格付けするなど、モチベーションアップにつながり、結果的に、疑似軍事組織ができあがります。
信者は、命令があれば、どこへでも行き、何でもする。宗教の強みは、この一言:「死んだら天国に行けます」。ISIS(イスラム国)と同じです。危険を伴う活動に動員をかけるときに、「天国に行ける」というのは大きいと思います。特に、他に失うものは何もないという極貧生活を送っている人びとにとっては。
もうひとつ、宗族、同郷集団、宗教秘密結社のいずれとも異なるレベルにあり、現代の華人ネットワークを考える上で欠かせない存在が客家(はっか)です。
客家が多いのは江西省、福建省、広東省ですが、彼らの先祖は黄河流域、長安(西安)近郊の中原に住んでいました。これまでもお話ししてきたように中原は何度も戦禍に見舞われ、その都度、戦争難民を出しています。客家のルーツもこのような戦争難民のうち、南に逃れた人びとであったと考えられています。
移住の波は、西晋末に始まって何度かありましたが、モンゴルの侵攻によって大規模な移動が起こり、自らが客家である林浩(リン・コウ)氏は、この時期を客家の成立期としています。(『アジアの世紀の鍵を握る客家の原像』中公新書、1996年、82頁)
客家とは文字通り「外から来た人」、お「客」さんという意味です。「よそ者」でありながら、客家の人びとは「我々こそがもともとの漢人だ」との自負心を持ち、自らの出自を誇っています。諸説あるものの、中原と呼ばれる黄河中流域、長安(西安)など古い中心地を故地とし、また事実、客家方言は数ある中国語の方言のなかで最も古い発音を残していると言われています。
福建などの沿岸地域に逃げてきたものの、すでに原住民である越人が平地で農業を営んでいます。後から入った客家の入る隙間はありません。それで、まだ開発されていない山岳地域に入りました。
客家の特徴はいくつかありますが、女が纏足(てんそく)をしません。纏足とは、小さな女の子の足を布で縛って大きくならないようにすることです。著しい苦痛を伴いますし、骨が変形し、正直言ってグロテスクですが、昔のシナでは足が小さいことが美人の要件でした。
その起源は諸説ありますが、北宋以降に普及し、元朝時代にはかなり広い範囲で纏足が行なわれていました。そのうち、纏足をしないと結婚できないという社会的圧力から、シナ全土で行なわれるようになりました。かわいそうだからと娘に纏足をさせなかったら、もっとかわいそうなことになるので、しないわけにはいかないという悪習でした。それでも客家だけは纏足をしなかったので、「大足」と呼ばれ蔑まれました。
纏足をしなかった背景には、生活がそれだけ厳しかったということがあります。山岳地帯ですから、急な坂道を登ったり、川を渡ったりしなければなりません。男女ともに山野を開拓し、田植えや稲刈りなどの農作業もしなければならなかったので、纏足している余裕はありませんでした。林氏によると「現在も客家の女性たちは、素足で田畑に下りて働く。小さい頃から鍛えているので、彼女たちの足は普通の女性よりも大きく厚く、足の指は開き、足の裏の皮は厚く粗くてたこができている。素足の仕事だからといって砂利をも恐れない」そうです(林、前掲書、239頁)。
条件の厳しい山中での貧乏暮らしだったので、経済活動には限界がありました。それで、教育を重視しました。優秀な子どもを援助し、科挙の試験に合格させます。
そして、新参者である「客家」は、逆境に負けないために互いに助け合わなければならなかったので、絆が深まり、強いネットワークを形成しました。
そのため、「漢人」という自負心は強いのですが、一種、少数民族のような異質な集団となってしまい、東洋のユダヤ人などと言われることもあります。いずれにしても、助け合いの精神、および、進取の気性に富んだ人びとです。
19世紀、アヘン戦争の後に太平天国の乱が起こりますが、実は、洪秀全をはじめ、その主力は客家でした。他にも、孫文、鄧小平、台湾の李登輝、シンガポールのリー・クアンユーなど、そうそうたる顔ぶれが客家です。孫文本人が客家であるばかりでなく、それを支えた広東の革命運動家たちの中にも、客家が多くいました。
世界中に華僑が散らばっていて、「華僑ネットワーク」などと言われますが、これは総称で、その中にサブ組織があります。ロサンゼルスやサンフランシスコの中国人社会で、よく中国人同士で抗争をしていますが、あれは異なるネットワーク間の勢力争いなのです。先に同郷会館の話をしましたが、この手のネットワークが最も強いのが客家です。
現在でも客家ネットワークは大きな意味を持っていて、客家コネクションなどと陰謀論と結びついた形でもささやかれるのですが、陰謀かどうかはともかく、外国に移住した客家が、現地で根を張っても客家同士の関係は維持し、客家だというだけで、お互いに便宜を図ったりするのは事実です。
秘密結社も北と南で違います。白蓮教は、元は南京発の運動でしたが、その後は、北方のシナ人が担い手となります。のちの義和団もこの系統です。
南のほうの秘密結社で代表的なものは福建省起源の天地会です。入会のときに天地を拝して父母とするので、この名前があります。イギリス人はこれを三合会と呼びました。また、会員は同族という建前をとり、共通の姓が「洪」であるため洪門とも呼ばれます。
天地会の組織は客家にも伝わって、客家の1人、洪秀全が「上帝会」を組織します。この上帝会の起こした反乱が1851年に始まる太平天国の乱です。
また、孫文も天地会の助けで革命運動を組織します。孫文は貧乏だったのですが、兄がハワイで成功していたので、呼び寄せられて、ハワイや香港で勉強することができ、医師になることができました。ハワイで興中会という後の国民党の前身となる組織をつくったり、洪門の組織に加入したりしています。つまり、中国国民党は客家の秘密結社からできた組織なのです。そして国民党から分かれた共産党もまた同じと言えます。
つまり、客家も天地会とかぶったりするので、「同郷会館」「宗族」「秘密結社」「客家ネットワーク」がそれぞれまったく別個に存在するものではなく、重なり合うところもあるのです。
ネットワークを使わなかったら、政治も経済も広がっていきません。ただ、組織も一枚岩ではなく、同じ天地会が陸の「紅幇(ホンパン)」と海の「青幇(チンパン)」に分かれたりします。「紅(ホン)」は「洪(ホン)」に通じるので洪門そのもの。「青(チン)」はもともと安徽省の安慶に本部を置いたため「安慶(アンチン)」の略。長江の水運労働者の組織です。ちなみに、蒋介石は青幇です。そのほか、都市の幇と農村の幇などもあります。それも天地会の下部組織です。
ヤクザ組織のようなものが、実は、裏で中国史を動かしているのです。それを使わないと出世できないし、できたとしても守ってくれる味方が少ないので生命の危険が増します。国単位の政治・経済を動かそうと思ったら、出身地を越えた人の助けが必要です。そのためには、特定のネットワークを使うことが必須なのです。
「秘密結社」は名前の通り秘密なので、全貌が明らかになることはないでしょう。教科書にはまったく触れられていませんし、雑誌や本にしても、これを発表したら命の危険があります。
学問研究は、近現代史になればなるほど難しい。昔のことは結果が出ていて、資料さえあれば真実を追求することができます。しかし、現在のことは簡単には言えません。せいぜい類推です。私にも時折、秘密結社をテーマにした本の執筆依頼がありますが、これはジャーナリストの仕事です。実際に、日本のジャーナリストで危険を顧みず、秘密結社の深部にまで迫ろうとしている人もいるようです。ジャーナリストと学者の線引きも難しいものがありますけれども。
岡田英弘は『中国意外史』(新書館、1997年、『やはり奇妙な中国の常識』と改題して文庫化、ワック出版、2003年)で秘密結社について3章を割いています。その中で、アラブ系マレー人のアブドゥッラーの自伝を使って秘密結社潜入ルポを紹介しています。アブドゥッラーは近代マレー文学の先駆とされているような人で、シンガポールの創設者トマス・スタンフォード・ラッフルズのマレー語・マレー文化の教師でもありました。好奇心の強い質だったらしく、知り合いに頼んで天地会の本拠地に連れて行ってもらったのです。
アブドゥッラーは、そこで落とし穴やアヘンを吸う男たちを見ています。入会式が行なわれ、彼は壁の穴からその様子をのぞいて見ました。この晩、宣誓して入会したのは4人。5人目は嫌がって、何度も打ち据えられ、それでも入会を承諾せず、結局殺されました。本拠地までの道や、現地の描写などが、詳しくその雰囲気を伝えています。
これも古い情報なので、今も同じかどうかはわかりません。ともあれ、研究者にできるのはここまでです。現在の人とつながらない「過去のこと」になったら、ある程度のことは表に出て来るかもしれませんけどね。
ちなみに、この自伝の邦訳に、中原道子訳『アブドゥッラー物語』(平凡社、1980年)がありますが、該当部分の「シンガポールにおける天地会」は省略されています。タイトルと、1ページほどの肝心の面白いところが抜けた要約が掲載されているだけでした。
明朝誕生の歴史に話を戻します。
元朝の中央政府が継承争いでもめている間に、紅巾の乱に先立ち、南部で塩商人が反乱を起こしました。王朝末期、政治が乱れてくると、塩の密売商人が暗躍するようになります。それは政府が塩に高い税金をかけているからです。税率は時代によって異なるので、一概に言えませんが、数十倍から、時には百倍にも吊り上げて販売していました。塩の専売制は元朝に限りませんが、元朝は特に国家財政が塩税に依存する程度が大きい王朝で、世祖フビライの時代、すでに国家財政の8割を塩税が賄っていて、塩価もまた歴朝中最も高価でした(佐伯富『中国塩政史の研究』法律文化社、1987年、179、358頁)。
塩は生きていくのに絶対に必要なものですから、全ての人が使います。塩税は、全国から平たく得られる税収なのです。ただし、高関税をかければ、国家の収入が増えるのは、国が機能している間の話です。中央の政治が乱れ、支配体制が緩んでくると、塩の密売が横行します。官塩が高いので塩商人は闇で半額で売っても大金が手に入ります。もともとの塩は岩塩か海塩ですが、原価は安いものですから、密売塩商人は暴利を貪ることができます。
シナでは、何千年も前から人が住んでいる内陸の塩湖や塩池、岩塩産地などからは塩を取り尽くしてしまい、内陸で塩の収穫できる場所が減ってしまいました。そして、海塩は東南の海岸でしか取れず、国土面積のわりに沿岸が少ない。そのため、人口に比較して塩が貴重だったのです
なお、シナ史の春秋戦国時代に長安(西安)を取り合ったのは、近くに岩塩が産出したからです。陝西省と山西省の境を南に流れる黄河が東に急カーブする地点にある華山で塩が採取できました。しかし、明代には、すでに取り尽くしていました。現在の中華人民共和国はチベットと青海省で取れる塩に頼っています。
日本でも、内陸の武田信玄に上杉謙信が「塩を送った」話は有名ですが、四方を海に囲まれているので、基本的に塩は豊富にあります。そのため、悪徳密売塩商人は日本史には登場しません。
塩商人勢力の間を縫って、白蓮教徒の紅巾軍が勢いを増していきます。初期の紅巾軍の指導者である韓山童は明王(救世主)を名乗りますが、本格的な反乱を起こす前に捕らわれ殺されました。その後、息子の韓林児が跡を継ぎ、小明王・大宋皇帝と号するなど、一時は大勢力に発展しますが、元軍に敗退します。
このように最初の紅巾軍はたいしたことはなかったのです。韓林児には政治力がなく、各地の反乱軍が、それぞれ勝手に動きます。同じ白蓮教徒と言っても命令系統、指揮系統がはっきりしておらず、各地方の首領が軍閥化しました。
個人的に大変残念な出来事は、韓林児率いる紅巾軍が北上し、1358年に夏の都である上都を焼いてしまったことです。たくさんあったはずの元朝の資料が、白蓮教徒に焼かれて消失してしまいました。大都は騎馬兵に守られているので、紅巾軍は、人がいない上都に回ったのです。そのために元朝の文献は大都の漢文史料しか残っていません。北方や中央アジアに関するペルシア語やモンゴル語の記録は上都に置いてあったらしいのです。
白蓮教徒は遼東半島にも入り、朝鮮半島の高麗にも侵入するなど、各地で暴れまわっています。ただ、反乱軍が地方レベルで勝利を収めても、なかなか大都は落とせませんでした。1356年に朱元璋は南京を占領し、地方政権として基盤を固めますが、南方一帯を支配下に収めるまでには1360年代後半までかかります。徐々に塩商人や同じ紅巾軍の軍閥を下し、ついに1368年、朱元璋は南京で皇帝に即位しました。
そして、同年、大都を占領し、元の皇室は北方に逃げ去りました。
前回までで少し触れましたが、元朝以来、王朝名のコンセプトが変わりました。地名や出身を表す文字ではなく、遠大な理念を表明するようになりました。元朝が「天」をそのまま継承した王朝だとして「大元」、それに対抗するように明は太陽を意味する「大明」を国号としました。元朝を倒して王朝を開くのですから、「元朝と同等か、さらに上回るものを」というのが、建国者・朱元璋の意図でした。
白蓮教の用語で救世主のことを「明王」と呼びます。そして、朱元璋が名乗った大明皇帝は白蓮教における救世主の意味です。ゾロアスター教やマニ教は光の神アフラ・マズダを最高神としています。「明るい未来」を象徴しているのです。まるで陳腐な政治スローガンのようですが、彼らは真剣です。
また韓林児が「小明王・大宋皇帝」と名乗ったので、「大明皇帝」には、それより上だという意味が、こもっています。
久しぶりの漢人王朝・明ですが、「漢人」はこれまで何度も入れ替わっていますので、遺伝的な連続性はあまりありません。他の話し言葉や文字をまったく持たず、行政や商売を漢文で行なう人を「漢人」と考えるとしても、「漢人」が皇帝だった期間は、秦の始皇帝が皇帝制度を創設して以来、約4分の1しかないのです。
秦・漢・三国時代・晋までは漢人王朝です。隋・唐は北方から南下してきた鮮卑族の王朝です。五代十国時代の華北の5王朝のうち3つはトルコ系でした。五代最後の後周の郭氏、北宋・南宋の趙氏は両方とも少し異民族疑惑がありますが、はっきりと確認できないものは漢人としましょう。遼は契丹族、金は女真族、元朝の皇室はモンゴル族です。そして、明でやっと漢人王朝になりました。しかし、続く清は再び女真族、名前を改め満洲族です。
期間の長さを計算すると、約4分の3が非漢人王朝となります。したがって、漢人王朝は多めに見積もっても4分の1しかないのです。
北方の鮮卑人やトルコ人、モンゴル人は明らかに系統の異なる言語を用いていました。南方の漢人にしても、共通文字として漢字を使っているけれども、文字の使える階層はごく少数なので、話し言葉の通じない人びとの集合体です。「四書五経」を丸暗記している上層階級の人びとが中央官庁で出世し、遠隔地貿易を営みますが、残りの人は国家とは関係のない暮らしを送ります。
皇帝は替わります。その多くは漢人ではない。逆に、人びとにとって皇帝は何人(なにじん)でもいいのです。国家の上層で何が起ころうが、そんなことは自分たちの生活とは関係がない。直接関係があるのは、せいぜい中央から降ってくる役人どまりなので、皇帝に対しては、ほとんど関心がなかったと言えます。
ただ、事績を冷静に分析すると、漢人でない皇帝のほうが、良い政治を行なっています。特に明は暗君が続出した王朝です。(宮脇淳子)
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◆2つの顔を持つ男!?~困窮生活から身を立てた朱元璋
明を建国した朱元璋(太祖・洪武帝。1328~1398、在位:1368~1398)をインターネットで検索すると、いくつか画像がヒットしますが、2通りの顔があることに気がつきます。ふくよかで堂々とした皇帝らしい肖像画と、アバタだらけの貧相な悪役顔。まるで別人です。
どちらが本当の朱元璋でしょうか。おそらく悪相のほうが本当の顔だったのではないでしょうか。シナ史上、これほど下層から出た皇帝はいません。貧しかったらブサイクと決まっているわけではありませんが、おとなの顔には、その人の生き方がにじみ出てくるものです。
「庶民」から皇帝になったのは、漢の劉邦と明の朱元璋の2人だけです。しかし、劉邦の出自は、地方豪族に準じた、そこそこ裕福な家です。ちなみに毛沢東も豪農の息子です。しかし、朱元璋は、非常に困窮した生活を送っていました。親が死んでしまい、貧しさのために寺に入るのですが、寺も貧しく、17歳から20歳まで托鉢(たくはつ)の旅に出て乞食同然の生活を送ります。その後、宗教秘密結社の紅巾軍(こうきんぐん)に入ってから、頭角を現しました。郭子興という白蓮教徒の地域有力者に認められて娘婿(むすめむこ)になり、舅(しゅうと)の死後は、その跡を継ぎます。郭子興の部下を麾下(きか)に収め、ライバルにうち勝ち、最後には国家規模の領域を治めることとなりました。
そんな出自ですから、もともとは「無筆(字が書けない)」だった可能性は大いにありますが、努力家だったようです。皇帝は書類を決裁する際に、朱で「見た」「これでいい」などと書き加えるのですが、その筆跡は悪筆ではありません。ひとつの国、王朝を建てた人なのですから、頭は悪くなかったのでしょう。教育も受けられない極貧状態から、のし上がった立志伝中の人です。
◆元朝末期の混迷と農民反乱~宗教秘密結社・白蓮教が乱を主導
朱元璋が皇帝にまで上りつめるきっかけとなったのは紅巾の乱です。
前回で見たように、元朝末期には内紛による中央政府の混乱が続いていました。さらに、14世紀はユーラシア各地が天候不順に襲われ、シナ地域は異常気象や地震などの自然災害が重なります。毎年のように黄河は氾濫し、水害と飢えに苦しむ農民たちは治水工事に駆り出され、不満が高まっていました。
そして、ついに1351年、農民反乱が起こります。白蓮教などの宗教結社が中心となって乱を主導していました。反乱者たちが紅い頭巾をかぶっていたために紅巾の乱と呼ばれ、1366年まで続きます。
白蓮教というのは、ゾロアスター教の流れをくむ一派です。善悪二元論に立ち、最終的には善神が勝利し、善良な人の魂は救われるという思想です。世界の終わりがやってくるという終末論を説くのですが、スローガンがなんと「天下大乱、弥勒下生」。救世主が「弥勒」ですから、仏教の影響も受けています。
今回は「紅巾の乱」ですが、2世紀にも似たような農民反乱「黄巾の乱」がありました。
『三国志演義』の冒頭部もここから始まっています。シナ史上、時代の変わり目にはいつも出てくる宗教秘密結社ですが、歴史上、その始まりは黄巾の乱でした。
ところで、宗教秘密結社とは何でしょうか。184年の黄巾の乱まで宗教秘密結社はありません。理由は紙がなかったからです。紙以前の記録媒体は竹簡や木簡、絹です。絹は高価で、庶民の手には届きません。木簡や竹簡は大変にかさばるもので、持ち運びしにくい。それで、書物は宮廷にしかありませんでした。
それに、当時は読み書き能力が特殊技能で、ほんの一握りの人が独占していました。そのため、後漢末までは、手紙で連絡を取り合い、勉強会を通じて思想を深めたり、一斉蜂起の日付を知らせたりすることができなかったのです。
漢末の黄巾の乱の母体は、徴兵された農家の息子で、故郷に戻れない人びとでした。徴兵されて軍隊に入りますが、一生軍隊にいるわけではありません。兵役を終えると、追い出されます。徴兵年限についてはよくわかっていませんが、中年に至ってからでは、もう故郷に帰れません。故郷の家や田畑は兄弟の誰かが継いでいますから、自分の土地はなく、農民に戻れないのです。
政府は何もしてくれません。誰からも守ってもらえず、年金もありません。そこで、困った者同士が集まって、互助組織をつくるようになりました。都市に出て、軍隊で武器の使い方を覚え、言葉を覚え、漢字も若干は読めるようになっている。このような人たちが、それぞれ各地で事業を起こし、互いに助け合うところから発展したものが宗教秘密結社でした。
シナには、表の歴史と裏の歴史があり、表では、「四書五経」を尊び儒教を重んじる科挙官僚が活躍しますが、裏ではこのような秘密結社が力を持っているのです。
地方ごとに話し言葉が違うので、ある程度の地域を越えて大きな事業を起こそうとすれば、なんらかのネットワークが必要です。漢字を巧みに操ることができれば、中央官庁に入り、高級官吏となって各地へ移動できますが、漢字ができない層の人びとはどうするか。小さい共同体をつくるだけなら、義兄弟になるという方法があります。もっと大きな組織をつくる(に入る)なら、宗教団体です。各地に信者・構成員がいて、ちょっとした符号合わせで仲間と認識され、どこに行っても助けてもらえます。
◆シナ民衆の知恵は互助組織~同郷会館、宗族、宗教秘密結社
シナには、助け合うレベルが複数あります。
現在でも機能しているのが同郷会館です。各都市に出身地ごとの同郷会館があります。そこに行けば言葉の通じる人がいて、何かと助言を得ることができます。基本的に日本の県人会に似ていますが、あれより、ずっと強固で、切実な問題を扱う組織です。他のネットワークを持たない人びとにとっては同郷会館だけが頼れる場所です。
つまり、一口に中国人と言ってもさまざまなのです。現在もサンフランシスコやロサンゼルスにあるのは同郷会館であって、「中国会館」ではありません。国家としての「中国」が滞在者や移住者の面倒を見てくれることはなく、話し言葉が同じ地元の出身で、当地で成功した人が雇ってくれたり、助けてくれたりするわけです。
もうひとつ、異なるレベルでの互助組織があります。「宗族」という血族集団です。結局、いちばん頼りになるのは身内です。祖先を同じくする同姓の人びとが共同で祖先を祀ったり、教育や経済活動などで助けあったりします。宗族の構成員は長老が仕切ります。
例えば、金策に困ったときには融資やビジネス上のアドバイスを受けられ、「お前は、〇〇へ行け」などと出張や移住の指示が出たりします。行った先にも同族がいて、サポートしてくれる。海外に出るときも、そうやって同族を頼って、住む所や仕事を見つけます。同じ姓の人同士が助け合う、保険組合のようなものとも言えます。
シナは、昔も今も一族が基本である社会で、事実上「国」はないのです。国が頼りにならないから宗族を基本にするのか、宗族社会だから国としてまとまらないのか、どちらが卵か鶏かはよくわかりませんが。
◆シナの宗教秘密結社は「任侠団体」~「死んだら天国に行けます」の強み
このようにシナの中には、さまざまな組織やネットワークがあります。血でつながった宗族、話し言葉が同じ同郷集団、そして、疑似的に血縁関係を結ぶ義兄弟があります。義兄弟の誓いが大規模に行なわれると宗教秘密結社です。前2者のようなネットワークを持たない庶民が宗教を絆にして、まとまり、助け合うのです。
そのため、中華人民共和国の共産党は、宗教運動を大変に警戒しています。もともと共産党自体が宗教秘密結社のようなもので、貧民の互助組織のように生まれ、ネットワークをつなぎ、発展しました。だからこそ、法輪功などの宗教団体を敵視するのです。あのしくみこそが、シナで巨大なネットワークをつくる唯一の方法だからです。共産党以外に、似たような組織ができることは危険だと恐れています。
日本の宗教団体も、団体の中で仕事を融通し合うなど、助け合いの機能があります。指令を出せば、一瞬にして伝達され、動員できます。雑兵にこと欠かない。ただ、日本は他に救いがないという国ではないので、国を転覆するような巨大な組織にはならないのが普通です。
シナの宗教秘密結社というのは、基本的に任侠(にんきょう)団体です。清末に太平天国の乱を起こす宗教結社も、近現代の共産党も、その発端や発展の仕方は似たような過程をたどります。そうではないしくみによってシナ人をまとめる方法はありません。上層は科挙官僚と結託し、庶民は宗教秘密結社に助けてもらう。どちらも互助組織です。「宗教」を名乗っていても、本気で宗教の教義を信じている人など、あまりいないのではないでしょうか。
184年に黄巾の乱が起きた頃から、パターンは同じです。ある種の神をかかげ、誓いを立て、兄弟の盃をかわし、密かに武術などの訓練を行ない、共に行動する。「神」をのぞけば、任侠団体そのものです。
ただ、宗教の経典があると、特定のフレーズや話を知っているかどうかで仲間かどうかがすぐにわかるという利点があります。また、教主を頭に、働きに応じて格付けするなど、モチベーションアップにつながり、結果的に、疑似軍事組織ができあがります。
信者は、命令があれば、どこへでも行き、何でもする。宗教の強みは、この一言:「死んだら天国に行けます」。ISIS(イスラム国)と同じです。危険を伴う活動に動員をかけるときに、「天国に行ける」というのは大きいと思います。特に、他に失うものは何もないという極貧生活を送っている人びとにとっては。
◆シナ史を動かしてきた秘密集団、客家~東洋のユダヤ人?
もうひとつ、宗族、同郷集団、宗教秘密結社のいずれとも異なるレベルにあり、現代の華人ネットワークを考える上で欠かせない存在が客家(はっか)です。
客家が多いのは江西省、福建省、広東省ですが、彼らの先祖は黄河流域、長安(西安)近郊の中原に住んでいました。これまでもお話ししてきたように中原は何度も戦禍に見舞われ、その都度、戦争難民を出しています。客家のルーツもこのような戦争難民のうち、南に逃れた人びとであったと考えられています。
移住の波は、西晋末に始まって何度かありましたが、モンゴルの侵攻によって大規模な移動が起こり、自らが客家である林浩(リン・コウ)氏は、この時期を客家の成立期としています。(『アジアの世紀の鍵を握る客家の原像』中公新書、1996年、82頁)
客家とは文字通り「外から来た人」、お「客」さんという意味です。「よそ者」でありながら、客家の人びとは「我々こそがもともとの漢人だ」との自負心を持ち、自らの出自を誇っています。諸説あるものの、中原と呼ばれる黄河中流域、長安(西安)など古い中心地を故地とし、また事実、客家方言は数ある中国語の方言のなかで最も古い発音を残していると言われています。
福建などの沿岸地域に逃げてきたものの、すでに原住民である越人が平地で農業を営んでいます。後から入った客家の入る隙間はありません。それで、まだ開発されていない山岳地域に入りました。
客家の特徴はいくつかありますが、女が纏足(てんそく)をしません。纏足とは、小さな女の子の足を布で縛って大きくならないようにすることです。著しい苦痛を伴いますし、骨が変形し、正直言ってグロテスクですが、昔のシナでは足が小さいことが美人の要件でした。
その起源は諸説ありますが、北宋以降に普及し、元朝時代にはかなり広い範囲で纏足が行なわれていました。そのうち、纏足をしないと結婚できないという社会的圧力から、シナ全土で行なわれるようになりました。かわいそうだからと娘に纏足をさせなかったら、もっとかわいそうなことになるので、しないわけにはいかないという悪習でした。それでも客家だけは纏足をしなかったので、「大足」と呼ばれ蔑まれました。
纏足をしなかった背景には、生活がそれだけ厳しかったということがあります。山岳地帯ですから、急な坂道を登ったり、川を渡ったりしなければなりません。男女ともに山野を開拓し、田植えや稲刈りなどの農作業もしなければならなかったので、纏足している余裕はありませんでした。林氏によると「現在も客家の女性たちは、素足で田畑に下りて働く。小さい頃から鍛えているので、彼女たちの足は普通の女性よりも大きく厚く、足の指は開き、足の裏の皮は厚く粗くてたこができている。素足の仕事だからといって砂利をも恐れない」そうです(林、前掲書、239頁)。
条件の厳しい山中での貧乏暮らしだったので、経済活動には限界がありました。それで、教育を重視しました。優秀な子どもを援助し、科挙の試験に合格させます。
そして、新参者である「客家」は、逆境に負けないために互いに助け合わなければならなかったので、絆が深まり、強いネットワークを形成しました。
そのため、「漢人」という自負心は強いのですが、一種、少数民族のような異質な集団となってしまい、東洋のユダヤ人などと言われることもあります。いずれにしても、助け合いの精神、および、進取の気性に富んだ人びとです。
◆秘密結社の「秘密」は今も~「秘密」なのは理由がある
19世紀、アヘン戦争の後に太平天国の乱が起こりますが、実は、洪秀全をはじめ、その主力は客家でした。他にも、孫文、鄧小平、台湾の李登輝、シンガポールのリー・クアンユーなど、そうそうたる顔ぶれが客家です。孫文本人が客家であるばかりでなく、それを支えた広東の革命運動家たちの中にも、客家が多くいました。
世界中に華僑が散らばっていて、「華僑ネットワーク」などと言われますが、これは総称で、その中にサブ組織があります。ロサンゼルスやサンフランシスコの中国人社会で、よく中国人同士で抗争をしていますが、あれは異なるネットワーク間の勢力争いなのです。先に同郷会館の話をしましたが、この手のネットワークが最も強いのが客家です。
現在でも客家ネットワークは大きな意味を持っていて、客家コネクションなどと陰謀論と結びついた形でもささやかれるのですが、陰謀かどうかはともかく、外国に移住した客家が、現地で根を張っても客家同士の関係は維持し、客家だというだけで、お互いに便宜を図ったりするのは事実です。
秘密結社も北と南で違います。白蓮教は、元は南京発の運動でしたが、その後は、北方のシナ人が担い手となります。のちの義和団もこの系統です。
南のほうの秘密結社で代表的なものは福建省起源の天地会です。入会のときに天地を拝して父母とするので、この名前があります。イギリス人はこれを三合会と呼びました。また、会員は同族という建前をとり、共通の姓が「洪」であるため洪門とも呼ばれます。
天地会の組織は客家にも伝わって、客家の1人、洪秀全が「上帝会」を組織します。この上帝会の起こした反乱が1851年に始まる太平天国の乱です。
また、孫文も天地会の助けで革命運動を組織します。孫文は貧乏だったのですが、兄がハワイで成功していたので、呼び寄せられて、ハワイや香港で勉強することができ、医師になることができました。ハワイで興中会という後の国民党の前身となる組織をつくったり、洪門の組織に加入したりしています。つまり、中国国民党は客家の秘密結社からできた組織なのです。そして国民党から分かれた共産党もまた同じと言えます。
つまり、客家も天地会とかぶったりするので、「同郷会館」「宗族」「秘密結社」「客家ネットワーク」がそれぞれまったく別個に存在するものではなく、重なり合うところもあるのです。
ネットワークを使わなかったら、政治も経済も広がっていきません。ただ、組織も一枚岩ではなく、同じ天地会が陸の「紅幇(ホンパン)」と海の「青幇(チンパン)」に分かれたりします。「紅(ホン)」は「洪(ホン)」に通じるので洪門そのもの。「青(チン)」はもともと安徽省の安慶に本部を置いたため「安慶(アンチン)」の略。長江の水運労働者の組織です。ちなみに、蒋介石は青幇です。そのほか、都市の幇と農村の幇などもあります。それも天地会の下部組織です。
ヤクザ組織のようなものが、実は、裏で中国史を動かしているのです。それを使わないと出世できないし、できたとしても守ってくれる味方が少ないので生命の危険が増します。国単位の政治・経済を動かそうと思ったら、出身地を越えた人の助けが必要です。そのためには、特定のネットワークを使うことが必須なのです。
「秘密結社」は名前の通り秘密なので、全貌が明らかになることはないでしょう。教科書にはまったく触れられていませんし、雑誌や本にしても、これを発表したら命の危険があります。
学問研究は、近現代史になればなるほど難しい。昔のことは結果が出ていて、資料さえあれば真実を追求することができます。しかし、現在のことは簡単には言えません。せいぜい類推です。私にも時折、秘密結社をテーマにした本の執筆依頼がありますが、これはジャーナリストの仕事です。実際に、日本のジャーナリストで危険を顧みず、秘密結社の深部にまで迫ろうとしている人もいるようです。ジャーナリストと学者の線引きも難しいものがありますけれども。
岡田英弘は『中国意外史』(新書館、1997年、『やはり奇妙な中国の常識』と改題して文庫化、ワック出版、2003年)で秘密結社について3章を割いています。その中で、アラブ系マレー人のアブドゥッラーの自伝を使って秘密結社潜入ルポを紹介しています。アブドゥッラーは近代マレー文学の先駆とされているような人で、シンガポールの創設者トマス・スタンフォード・ラッフルズのマレー語・マレー文化の教師でもありました。好奇心の強い質だったらしく、知り合いに頼んで天地会の本拠地に連れて行ってもらったのです。
アブドゥッラーは、そこで落とし穴やアヘンを吸う男たちを見ています。入会式が行なわれ、彼は壁の穴からその様子をのぞいて見ました。この晩、宣誓して入会したのは4人。5人目は嫌がって、何度も打ち据えられ、それでも入会を承諾せず、結局殺されました。本拠地までの道や、現地の描写などが、詳しくその雰囲気を伝えています。
これも古い情報なので、今も同じかどうかはわかりません。ともあれ、研究者にできるのはここまでです。現在の人とつながらない「過去のこと」になったら、ある程度のことは表に出て来るかもしれませんけどね。
ちなみに、この自伝の邦訳に、中原道子訳『アブドゥッラー物語』(平凡社、1980年)がありますが、該当部分の「シンガポールにおける天地会」は省略されています。タイトルと、1ページほどの肝心の面白いところが抜けた要約が掲載されているだけでした。
◆塩商人の暗躍から紅巾の乱へ~朱元璋の皇帝即位
明朝誕生の歴史に話を戻します。
元朝の中央政府が継承争いでもめている間に、紅巾の乱に先立ち、南部で塩商人が反乱を起こしました。王朝末期、政治が乱れてくると、塩の密売商人が暗躍するようになります。それは政府が塩に高い税金をかけているからです。税率は時代によって異なるので、一概に言えませんが、数十倍から、時には百倍にも吊り上げて販売していました。塩の専売制は元朝に限りませんが、元朝は特に国家財政が塩税に依存する程度が大きい王朝で、世祖フビライの時代、すでに国家財政の8割を塩税が賄っていて、塩価もまた歴朝中最も高価でした(佐伯富『中国塩政史の研究』法律文化社、1987年、179、358頁)。
塩は生きていくのに絶対に必要なものですから、全ての人が使います。塩税は、全国から平たく得られる税収なのです。ただし、高関税をかければ、国家の収入が増えるのは、国が機能している間の話です。中央の政治が乱れ、支配体制が緩んでくると、塩の密売が横行します。官塩が高いので塩商人は闇で半額で売っても大金が手に入ります。もともとの塩は岩塩か海塩ですが、原価は安いものですから、密売塩商人は暴利を貪ることができます。
シナでは、何千年も前から人が住んでいる内陸の塩湖や塩池、岩塩産地などからは塩を取り尽くしてしまい、内陸で塩の収穫できる場所が減ってしまいました。そして、海塩は東南の海岸でしか取れず、国土面積のわりに沿岸が少ない。そのため、人口に比較して塩が貴重だったのです
なお、シナ史の春秋戦国時代に長安(西安)を取り合ったのは、近くに岩塩が産出したからです。陝西省と山西省の境を南に流れる黄河が東に急カーブする地点にある華山で塩が採取できました。しかし、明代には、すでに取り尽くしていました。現在の中華人民共和国はチベットと青海省で取れる塩に頼っています。
日本でも、内陸の武田信玄に上杉謙信が「塩を送った」話は有名ですが、四方を海に囲まれているので、基本的に塩は豊富にあります。そのため、悪徳密売塩商人は日本史には登場しません。
塩商人勢力の間を縫って、白蓮教徒の紅巾軍が勢いを増していきます。初期の紅巾軍の指導者である韓山童は明王(救世主)を名乗りますが、本格的な反乱を起こす前に捕らわれ殺されました。その後、息子の韓林児が跡を継ぎ、小明王・大宋皇帝と号するなど、一時は大勢力に発展しますが、元軍に敗退します。
このように最初の紅巾軍はたいしたことはなかったのです。韓林児には政治力がなく、各地の反乱軍が、それぞれ勝手に動きます。同じ白蓮教徒と言っても命令系統、指揮系統がはっきりしておらず、各地方の首領が軍閥化しました。
個人的に大変残念な出来事は、韓林児率いる紅巾軍が北上し、1358年に夏の都である上都を焼いてしまったことです。たくさんあったはずの元朝の資料が、白蓮教徒に焼かれて消失してしまいました。大都は騎馬兵に守られているので、紅巾軍は、人がいない上都に回ったのです。そのために元朝の文献は大都の漢文史料しか残っていません。北方や中央アジアに関するペルシア語やモンゴル語の記録は上都に置いてあったらしいのです。
白蓮教徒は遼東半島にも入り、朝鮮半島の高麗にも侵入するなど、各地で暴れまわっています。ただ、反乱軍が地方レベルで勝利を収めても、なかなか大都は落とせませんでした。1356年に朱元璋は南京を占領し、地方政権として基盤を固めますが、南方一帯を支配下に収めるまでには1360年代後半までかかります。徐々に塩商人や同じ紅巾軍の軍閥を下し、ついに1368年、朱元璋は南京で皇帝に即位しました。
そして、同年、大都を占領し、元の皇室は北方に逃げ去りました。
前回までで少し触れましたが、元朝以来、王朝名のコンセプトが変わりました。地名や出身を表す文字ではなく、遠大な理念を表明するようになりました。元朝が「天」をそのまま継承した王朝だとして「大元」、それに対抗するように明は太陽を意味する「大明」を国号としました。元朝を倒して王朝を開くのですから、「元朝と同等か、さらに上回るものを」というのが、建国者・朱元璋の意図でした。
白蓮教の用語で救世主のことを「明王」と呼びます。そして、朱元璋が名乗った大明皇帝は白蓮教における救世主の意味です。ゾロアスター教やマニ教は光の神アフラ・マズダを最高神としています。「明るい未来」を象徴しているのです。まるで陳腐な政治スローガンのようですが、彼らは真剣です。
また韓林児が「小明王・大宋皇帝」と名乗ったので、「大明皇帝」には、それより上だという意味が、こもっています。
◆シナの歴史上、漢人皇帝の割合は?~多めに見積もっても4分の1
久しぶりの漢人王朝・明ですが、「漢人」はこれまで何度も入れ替わっていますので、遺伝的な連続性はあまりありません。他の話し言葉や文字をまったく持たず、行政や商売を漢文で行なう人を「漢人」と考えるとしても、「漢人」が皇帝だった期間は、秦の始皇帝が皇帝制度を創設して以来、約4分の1しかないのです。
秦・漢・三国時代・晋までは漢人王朝です。隋・唐は北方から南下してきた鮮卑族の王朝です。五代十国時代の華北の5王朝のうち3つはトルコ系でした。五代最後の後周の郭氏、北宋・南宋の趙氏は両方とも少し異民族疑惑がありますが、はっきりと確認できないものは漢人としましょう。遼は契丹族、金は女真族、元朝の皇室はモンゴル族です。そして、明でやっと漢人王朝になりました。しかし、続く清は再び女真族、名前を改め満洲族です。
期間の長さを計算すると、約4分の3が非漢人王朝となります。したがって、漢人王朝は多めに見積もっても4分の1しかないのです。
北方の鮮卑人やトルコ人、モンゴル人は明らかに系統の異なる言語を用いていました。南方の漢人にしても、共通文字として漢字を使っているけれども、文字の使える階層はごく少数なので、話し言葉の通じない人びとの集合体です。「四書五経」を丸暗記している上層階級の人びとが中央官庁で出世し、遠隔地貿易を営みますが、残りの人は国家とは関係のない暮らしを送ります。
皇帝は替わります。その多くは漢人ではない。逆に、人びとにとって皇帝は何人(なにじん)でもいいのです。国家の上層で何が起ころうが、そんなことは自分たちの生活とは関係がない。直接関係があるのは、せいぜい中央から降ってくる役人どまりなので、皇帝に対しては、ほとんど関心がなかったと言えます。
ただ、事績を冷静に分析すると、漢人でない皇帝のほうが、良い政治を行なっています。特に明は暗君が続出した王朝です。(宮脇淳子)