【世界の君主列伝3】西太后~亡国の権力妄執

2020.6.13
 清国最末期の約50年。皇帝2代にわたり権力を握ったのが、西太后(せいたいこう)です。西太后は皇帝でもなければ君主でもありません。しかし実質は、時の皇帝以上に権力者でした。「清朝の幕引きをした」ともいわれる西太后は、国が傾くのと引き替えに成り上がり、権力を握っていきます。

◆正妻と結託してクーデタを挙行


 清国約300年の歴史のなかで、前半の150年は名君続きでした。しかし、最後の名君といえる第6代乾隆帝(けんりゅうてい 在位1735~95年)時代が終わるころから、すでに亡国への道が始まっていました。なにしろ、ヘシェンという一官僚が国家予算の15年分を横領していたのを放置していたのですから。西太后が生まれる40年前のことです。

 西太后は1835年、沈みかけていた清国に生まれます。モンゴル人を祖先にもつ満洲人官僚の家に生まれたと伝えられるものの、幼少時の実態は謎とされています。西太后は17歳のとき、清朝特有の后妃選定制度「選秀女(せんしゅうじょ)」の面接に合格し、第9代咸豊帝(かんぽうてい)の側室の1人になります。思えば、これが権力への第1歩でした。

 とはいえ、咸豊帝にはすでに正妻がいました。のちに東太后(とうたいこう)と呼ばれる皇后です。よって、西太后は生涯、いえ、死して陵墓に葬られてのちも形式的には東太后を越えることはできませんでした。

 それでも、西太后は着実に実質的権力を掌握していきます。西太后が生んだ載淳(さいじゅん)が咸豊帝唯一の男子でした。皇子出産は西太后を権力にぐっと近づけました。

 咸豊帝が亡くなるや、載淳がわずか6歳で即位します。同治帝(どうちてい)です。故咸豊帝の有力な側近から、幼い同治帝を守るべく、生母西太后と形式的な母東太后とが協力しクーデタを起こし成功します。

◆垂簾聴政(すいれんちょうせい)で朝廷を牛耳る


 クーデタに成功した2人の母は「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」を始めました。垂簾聴政とは、幼い皇帝の背後に垂らした御簾(みす)の後ろに控えて行う摂政政治のことです。同治帝が即位したときに母2人に「皇太后」が贈られました。「東太后」「西太后」というのは、2人が住んでいた場所にちなんだ呼称です。

 同治帝は19歳の若さで皇子も残さず亡くなります。西太后は自分にとっても、また、亡き咸豊帝にとっても“甥”である子を皇帝に指名します。第11代光緒帝(こうしょてい)です。光緒帝も4歳と幼い皇帝です。西太后は再び垂簾聴政を行います。その間に東太后も亡くなり、西太后の独裁状態です。

 光緒帝が17歳になって親政を始めても、向こう3年間は西太后の指導のもとで行うという条件つきの訓政で、それまでと何も変わりません。

 その一方で、西太后は引退を見据えて、頤和園(いわえん)という隠居先を用意しはじめ、1889年には光緒帝の結婚に伴い、引退し頤和園に移りました。頤和園をめぐる一つのエピソードが、清朝の歴史を見るときの重要な視点を含んでいるという指摘を紹介します。

 西太后は頤和園の造営に海軍の経費を流用します。これは、普段の西太后の派手な生活ぶりから贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の一端として捉えられがちです。そうした面ももちろんあります。しかし、加藤徹氏はそうした表層的な理由だけでなく、漢人の李鴻章(りこうしょう)が権力を握るのを牽制するためであったと指摘します。さらに、倉山満氏は清朝の権力闘争を見るときの重要な視点として「民族対立」を挙げ、日清戦争(1894年)さえも西太后にとっては“李鴻章の領地での内乱”というぐらいの意識だったといいます。「国」を考えてはいない西太后の姿が浮かびます。

◆改革潰しと皇帝暗殺?


 光緒帝の親政が始まり、国を近代化しようと改革に着手するも、西太后にことごとく潰されます。光緒帝の改革は「百日維新」と呼ばれるほどの短命に終わりました。

 挙げ句の果てに、1898年、西太后は光緒帝を逮捕し幽閉してしまいます。個人的に清国を訪れていた伊藤博文が光緒帝に謁見した翌日のことでした。光緒帝が伊藤を軍事顧問にするのではという噂があったからです。このとき以降、西太后は死ぬまで政治の実権を手放すことはありませんでした。

 西太后は1900年の北清事変の際にも軽挙に出ます。北京の列国大使館地区を襲った義和団という農民の秘密結社を取り締まるどころか、列強に宣戦布告してしまったのです。列強連合軍が北京に迫ると、西太后は光緒帝を人質にとり、北京を脱出します。宦官(かんがん)に命じて光緒帝の寵愛する珍妃(ちんぴ)を井戸に投げ入れて殺させたのは、このときでした。

 北京に戻った西太后は、1908年、念願だった自分の74歳の誕生日を盛大に祝ってから、急に体調を崩します。幽閉していた光緒帝の病状悪化を受けて、西太后が皇子に指名したのは、当時3歳の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)でした。清朝のラストエンペラーとなる人です。西太后は3度目の垂簾聴政を考えていたといわれます。

 溥儀が西太后に対面した翌日に光緒帝が亡くなり、さらにその翌日に西太后もこの世を去ります。長いあいだ、西太后は自分が死ぬ前に光緒帝を殺したとの噂が絶えませんでした。2008年、それを裏付けるかのように、光緒帝の死因は大量のヒ素中毒によるものであるとの専門家の最新調査報告が、中国の新聞によって報道されています。(雨宮美佐)

参考文献:
加藤徹『西太后』中公新書、2005年
倉山満『明治天皇の世界史』PHP新書、2018年