【長州人が見た長州人6】入江九一~「松下村塾四天王」随一の師への献身

 高杉晋作、久坂玄瑞(くさか・げんずい)、吉田稔麿(よしだ・としまろ)――。いずれも松下村塾の傑物として知られる人物だが、彼らとともに「松下村塾四天王」とうたわれたのが、入江九一(いりえ・くいち)であった。その生涯を賭けて師・吉田松陰を支え続けた人物であり、その点においては四天王随一であったといえるかもしれない。

◆「天下は大物なり、一朝奮激の能く動かす所に非ず」


 入江が生を享けたのは天保8年(1837)。土佐の坂本龍馬より2年遅く、高杉晋作より2年早いが、ほぼ同世代といって差し支えないだろう。しかし、肝心の松下村塾への入門は、やや遅かった。中間(ちゅうげん、武士の最下級にあたる)の家に生まれた入江は、安政5年(1858)に松下村塾の門を叩く。すでに黒船が来航し、国内は井伊直弼(いい・なおすけ)による安政の大獄で大きく揺れていた時期だ。

 なぜ、入江の入門が遅かったのか。入江は一時期、長州藩の江戸藩邸に勤めていた。国許(くにもと)を離れていたことから松下村塾入りが遅れたなど諸説あるが、一つは家が貧しく、家計を助けるため、幼いころから働きに出ていた入江からすれば、松陰のもとで多くを学ぶ余裕などなかったのかもしれない。

「一目で心が通じた」とは、松陰が初めて会った入江に対して抱いた感想だ(『送高杉暢夫叙』、安政5年)。安政5年7月11日、松陰は入江に宛てて次のように書いている。松陰の「名文」として知られるが、入江への想いにもあふれている。

「杉蔵往け。月白く風清し、飄然(ひょうぜん)として馬に上りて、三百程、十数日、酒も飲むべし、詩も賦す(ふす)べし。今日の事誠に急なり。然れども天下は大物なり、一朝奮激の能く(よく)動かす所に非ず、其れ唯だ積誠(せきせい)之れを動かし、然る後動くあるのみ」

 杉蔵とは入江の通称である。当時、入江は22歳。松陰を訪ねた数日後、江戸に出立する予定であり、上記はそんな入江に松陰が宛てた送叙だ。

 松陰はすでに「吾れの甚だ杉蔵に貴ぶ所のものは、その憂ひの切々なる、策の要なる吾れの及ぶ能はざるものあればなり」と入江を高く評価した。それは、「天下は大物なり」という言葉にも表れている。そして、最後の「動くあるのみ」という言葉は、「知行合一」を何よりも重んじ、たんなる「思想家」に留まらなかった松陰の真骨頂といえる。

 そんな師の信頼に、入江は身をもって応えた。晩年の松陰は強硬な策をたびたび唱え、ときには高杉晋作や久坂玄瑞などの門下生から諫め(いさめ)られたり、距離を置かれたりすることがあった。そのなかで、最後まで松陰に賛同したのが入江であり、その実弟の野村和作(後の野村靖)であった。その後、松陰は江戸に送られたのちに刑死。入江はその意志を継ぎ、奔走するのである。

◆高杉晋作の血盟書に真っ先に署名して決意を表わす


 そんな入江の実直な性格と苛烈さを表わすエピソードがある。松陰がこの世を去ってから4年後の文久3年(1863)、高杉晋作が「血盟書」を作成したときのことだ。

 攘夷決行の準備を急ぐべきと考えていた晋作は、旧態依然の幕府や、煮え切らない同朋藩士に苛立ち(いらだち)を募らせていた。そうして鬱屈(うっくつ)した日々を重ねたのちに血盟書をつくって同志を募ったのだが、周囲はなかなか同意しない。晋作がどこまで「不穏」なことを考えているか、思案しかねていたのだ。下手をすれば、晋作の「暴挙」に連帯責任を負わされる可能性もあり、そう危惧しても不思議はない。

 このとき、真っ先に署名したのが入江であった。入江がどんな想いで自らの名をしたためたのかは、想像するほかない。先んじて署名することで自身の決意を表わしたとも、むしろ攘夷決行に浮かれていた仲間に喝を入れるためだったとも推測されている。しかし、いずれにせよ、入江が晋作が犯すであろう罪の累が及ぶことなどは恐れていなかったことは確かだろう。松陰は入江の「度胸」を買っていたというが、この逸話からはそれもうなずける。

 元治元年(1864年)7月19日、禁門の変が勃発。この戦いで入江は最期を遂げるわけだが、当初は久坂玄瑞らとともに入京に反対していた。しかし、来島又兵衛(きじま・またべえ)など強硬派の意見により、出陣することに。その前夜、入江は久坂と大田市之進(おおた・いちのしん)と無言で水杯を交わしたという。無念と覚悟。そんな想いが、男たちの頭に去来していたのかもしれない。

 当日、入江は久坂の率いる浪人隊の一員として天王山に布陣し、御所攻撃に参加した。しかし情勢が悪化すると、まず久坂が自刃。入江は久坂から藩主世子への伝言を頼まれ、脱出を図るが越前兵の槍を顔面に受けて絶命した。

 死の直前の久坂の髪をとかし、自ら深手を負っても介錯しにきた仲間に「逃げろ」と手で示す。入江の最期には、そんな逸話が伝わっている。(池島友就)