【長州人が見た長州人3】玉木文之進 高潔剛毅の教育者

 幕末の長州を語るうえで欠かせない松下村塾。あらためて説明するまでもなく、吉田松陰が主宰した私塾だ。しかし、松下村塾を開塾したのは松陰ではない。

 松下村塾を開いたのは、叔父の玉木文之進である。玉木文之進は幼少の吉田松陰を厳しく教え導いた人物でもある。

 彼なくして松陰なく、また幕末の長州藩の行動もなかったかもしれない。吉田松陰の人となりを考えるうえでも、また、幕末長州の気風を知るうえでも、欠かすことのできない人物といえるだろう。

●「蚊一匹に気をとられて学問を疎かにするとは何事か」


 玉木文之進は文化7年(1810)9月、吉田松陰の実家である杉家の出身である。吉田松陰の父である杉百合之助が長兄、玉木文之進は三男だった。三男の文之進は玉木家に養子に入ったが、次兄・大助も山鹿流兵学師範の吉田家に養子に入っている。

 当時の長州藩は歴代家老を出す家格を「寄組」、その下を「大組」と呼んでいた。杉家は「無給通」という家格の低い家だったが、文之進が養子に入った玉木家は大組であった。文之進は藩内各地の代官を歴任し、安政6年(1859)には郡奉行になっている。

 そんな文之進が、吉田松陰の「師匠」となったのは、次兄の大助を悲劇が襲ったためであった。山鹿流兵学師範の吉田家に養子に入った次兄の大助であったが、腫物がもとで重症に陥ってしまったのである。緊急事態を受けて、急遽(きゅうきょ)、吉田家の仮養子となったのが長兄・杉百合之助の次男・松陰だった(当時5歳である)。その翌年、吉田大助は29歳の若さでこの世を去っている。

 松陰は吉田家を相続するが、杉家で暮らしていた。文之進は、そんな幼き松陰を一人前の兵学者にしようと厳しく育てる。文之進は自身も山鹿流の兵学者であり、いずれ長州藩の山鹿流兵学師範として活躍すべき松陰に多くを教えた。なお、文之進の家は杉家から300mほど山道を下ったところにあり、松陰は兄・梅太郎とともに玉木邸に通い、ときには泊りがけで勉強に励んだのだった。そんな折に、文之進が開いたのが松下村塾であったというわけだ。

 文之進は、「勤倹」「剛直」を絵に描いたような人物だった。松陰は勉学態度が悪いといっては鞭(むち)で殴られ、庭に放り投げ出されることもあったという。背中に机を縛り付けられ、夜の戸外に立たされる仕置きも受けたとも伝わる。

 こんな逸話も残る。松陰が授業中に蚊にさされ、さされた箇所をかくと、「学問に励み、兵学師範の吉田家の跡を立派に継ぐことは、『公』のためである。しかるに、蚊一匹に気をとられて学問を疎かにするとは何事か」と叱りつけたというのだ。

 しかし、松陰は決して弱音を吐くことなく、文之進の教育に食らい付く。山鹿流兵学の特色の一つに「武士道精神」を非常に重んじる点が挙げられる。つまり松陰は、文之進から「武士」としての在り方を叩き込まれていたのだ。その後の松陰が生涯にわたって、一切の見返りを求めず純粋に日本のために働いたのは、文之進の薫陶が大きかったに違いない。

 文之進の厳しい修行の成果は、やがて結実する。松陰は11歳にして藩主に召し出されて、御前で『武教全書』戦法篇を講じて褒められる栄誉に浴したのだ。このとき、「そなたの師は誰か」と問われた際には「玉木文之進です」と答えている。文之進との日々が、松陰を一人前に育て上げたのは間違いない。

●萩の乱の責任をとって先祖の墓前で自刃


 文之進は、松陰の師であるとともに、その活躍を後ろから支えた人物でもあった。松陰が19歳で明倫館に出仕するまでは後見人を務めている。また、のちに松陰がさまざまな活動で藩から罪を問われたときも最後まで庇護(ひご)した。「松陰の学術が純粋でないというのならば、まず私から処分せよ」と語っていたともいう。

 松陰が安政の大獄で捕縛されると、除名嘆願に奔走。しかし松陰は最終的に処刑され、文之進も連座して代官職を追われた。万治元年(1860)のことである。だが、2年後の文久2年(1862)には郡用方として復帰し、その後も長州藩のために尽くした。公務が多忙になったため、松下村塾は一時、閉鎖せざるをえなかった。文之進の実子の玉木彦助は、松陰の高弟・高杉晋作らとともに長州藩の俗論党(幕府恭順派)との内戦に立ち上がり、元治2年(1865)1月に負傷、自害している(享年25)。

 明治維新が成ると、文之進は隠居して再び松下村塾を開塾。新時代の日本を担う子弟の教育にあたるが、しかし悲劇的な最期が待っていた。明治9年(1876)、松下村塾生の前原一誠が萩の乱を起こすと、そこには教え子や松下村塾生の多くが参加していた。文之進はその責任をとって、先祖の墓前で自刃したのである。終生、剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)を貫いた男だった。

 興味深いのは、文之進が親類の乃木希典の師でもあるという点であろう。文之進は松陰と同じように、やはり幼い乃木も厳しく躾けた(しつけた)。松陰と乃木を育てたわけであり、やはり高い教養と意志力、そして高潔な精神を備えていたことが窺える。

 明治維新の「原動力」になった松陰と、世界を驚愕させた日露戦争勝利の立役者の1人である乃木。文之進はその2人を育てた事実だけでも、後世に語り継がれるべき人物ではないだろうか。(池島友就)