綺羅星(きらぼし)のごとき人材を輩出した松下村塾にあって、とりわけその才覚を賞されることが多いのが、吉田稔麿(よしだ・としまろ)であった。高杉晋作、久坂玄瑞(くさか・げんずい)とともに「三秀」と称されたり、これに入江九一(いりえ・くいち)を含んで「松門四天王」とうたわれたりもしている。
しかし、稔麿の名を知っていても、彼の生涯を詳しく知るという方は少ないのではないだろうか。事実、その人生を辿ると、実に謎が多いことがわかる。
稔麿がこの世に生を享けたのは天保12年(1841)のことであった。生家は長州藩の中間(ちゅうげん)で貧しく、13歳のころには長州藩の江戸藩邸で小者(こもの)として働くが、ちょうどその折、ペリー来航の騒動を江戸で経験している。その後、萩に戻った折に、吉田松陰の門下に加わった。
国許(くにもと)に戻ると、稔麿は吉田松陰の松下村塾に入門する。稔麿の逸話のなかでも、山縣有朋が語り残したとされる次のものはよく知られているだろう。ある日、山縣が塾を訪ねると、そこでは稔麿が絵を描いていたという。山縣の述懐を引用しよう。
「はじめに放れ牛、烏帽子(えぼし)、次いで木剣、そして棒。これはどういう絵か尋ねると、それぞれ高杉、久坂、入江、そして最後は私(山縣)だという」
稔麿からすれば、高杉は制御の利かないために離れ牛、廟堂(びょうどう)に座らせれば堂々たる政治家である久坂は烏帽子、入江はまだ本物の剣ではなく斬ることはできないが人を嚇す(おどす)くらいはできそうなので木刀。そして、まだ何者でもない山縣はたんなる棒、というわけだ。ユーモアとともに、観察眼が優れて頭が切れる稔麿らしい評価だといえよう。
それでは、当の稔麿自身は果たして、激動の幕末長州でどのような働きをしたのか。実は、安政の大獄で松陰が捕まったあたりには、松下村塾と距離を置いている。自身の家族に迷惑をかけないため、とされているが、もちろん師との絆までをなかったものにしたわけではない。松陰が江戸に送られる際には、塀の穴から見送ったとの逸話がある。
松陰の死後には、幾度か脱藩して江戸を訪れて、「松里久輔(のち松里勇)」との名前で幕府目付である旗本・妻木田宮の用人となっている。これだけ聞くと「師匠の死後に幕府方に寝返ったのか」とも捉えられるが、松陰の慰霊祭にも参加している稔麿にかぎって、そんなことがありえるだろうか。
この稔麿の行動に関しては、脱藩そのものが偽装であり、長州藩の密命を受けて幕府方にスパイとして潜り込んだのでは、との見方がされている。事実、のちに脱藩の罪を許されており、久坂などとともに尊王攘夷運動に邁進(まいしん)している。
素性を隠して他家に人物を潜入させることを「入込(いれこみ)」というが、当時の長州藩はこれを京都を中心に展開していた。宮家諸大夫豊島家への川島千太郎(入江九一の偽名ともいわれている)、二条家の近習への奇兵隊の田中平蔵など例を挙げていけば枚挙にいとまがない。彼らは8月18日の政変で失われた毛利家と朝廷との関係性を補填(ほてん)していた。
そんな稔麿であったが、元治元年6月5日の池田屋事件により志半ばで命を落とす。稔麿がどのような最期を遂げたかは諸説ある。一説には、はじめは会合に参加していた稔麿がいったん外出をして、戻ったときにはすでに新選組が池田屋を取り囲んでいたため、戦闘になったという。
異なる説によれば、新選組が襲撃してきたときには稔麿は池田屋にいて、藩邸へ報せるため急行しようとしたところ、門が開かなかったために追っ手の会津藩兵に遭遇して討死、ないしは自刃したともいわれる。
ともあれ、長州藩にとって、またその後の日本にとって稔麿という逸材を失ったことは大きな損失であった。稔麿は長州藩と幕府が安易に武力衝突することを是とはしていなかった。彼は強硬派が多い長州藩士のなかで、最後まで長州藩の京都進発には否定的であったのだ。なぜならば、稔麿が見据えていたのは、あくまでも日本が西洋列強の侵略を防ぐことにあったからだ。
元治元年(1864)5月付の書状を見ると、稔麿は軍事力不足を理由に攘夷決行に踏み切らない幕府を批判し、そうした優柔不断な態度では清国のように侵略されてしまうと懸念を示している。同じく武力は十分ではなかったが、義を説くジョージ・ワシントンを中心に独立を勝ち取ったアメリカの独立戦争の例も挙げている。
当時の幕末において、稔麿は藩という枠組みをこえて、日本の針路を模索していた。そして、そのために己のなすべきことに奔走していた。高杉や久坂にもいえることだが、もし稔麿がこの世にいれば、明治新政府においても柱石を担っていたのではないか。そんなことを夢想せずにはいられない。
事実、品川弥二郎は稔麿が生きていれば「総理大臣になっていたであろう」と述懐し、実際のその職に就いた伊藤博文は「(自分と)どうして比べられようか。まったく天下の奇才であった」と語ったともいわれている。
なお、稔麿は奇兵隊創立の際には、被差別民を取り立てる建議をして、毛利家に認めさせた。これは部落解放史においても画期的な出来事といわれている。あらゆる面で、先が見えていた男だったといえよう。(池島友就)
しかし、稔麿の名を知っていても、彼の生涯を詳しく知るという方は少ないのではないだろうか。事実、その人生を辿ると、実に謎が多いことがわかる。
◆放れ牛、烏帽子、木剣、そして棒
稔麿がこの世に生を享けたのは天保12年(1841)のことであった。生家は長州藩の中間(ちゅうげん)で貧しく、13歳のころには長州藩の江戸藩邸で小者(こもの)として働くが、ちょうどその折、ペリー来航の騒動を江戸で経験している。その後、萩に戻った折に、吉田松陰の門下に加わった。
国許(くにもと)に戻ると、稔麿は吉田松陰の松下村塾に入門する。稔麿の逸話のなかでも、山縣有朋が語り残したとされる次のものはよく知られているだろう。ある日、山縣が塾を訪ねると、そこでは稔麿が絵を描いていたという。山縣の述懐を引用しよう。
「はじめに放れ牛、烏帽子(えぼし)、次いで木剣、そして棒。これはどういう絵か尋ねると、それぞれ高杉、久坂、入江、そして最後は私(山縣)だという」
稔麿からすれば、高杉は制御の利かないために離れ牛、廟堂(びょうどう)に座らせれば堂々たる政治家である久坂は烏帽子、入江はまだ本物の剣ではなく斬ることはできないが人を嚇す(おどす)くらいはできそうなので木刀。そして、まだ何者でもない山縣はたんなる棒、というわけだ。ユーモアとともに、観察眼が優れて頭が切れる稔麿らしい評価だといえよう。
それでは、当の稔麿自身は果たして、激動の幕末長州でどのような働きをしたのか。実は、安政の大獄で松陰が捕まったあたりには、松下村塾と距離を置いている。自身の家族に迷惑をかけないため、とされているが、もちろん師との絆までをなかったものにしたわけではない。松陰が江戸に送られる際には、塀の穴から見送ったとの逸話がある。
松陰の死後には、幾度か脱藩して江戸を訪れて、「松里久輔(のち松里勇)」との名前で幕府目付である旗本・妻木田宮の用人となっている。これだけ聞くと「師匠の死後に幕府方に寝返ったのか」とも捉えられるが、松陰の慰霊祭にも参加している稔麿にかぎって、そんなことがありえるだろうか。
この稔麿の行動に関しては、脱藩そのものが偽装であり、長州藩の密命を受けて幕府方にスパイとして潜り込んだのでは、との見方がされている。事実、のちに脱藩の罪を許されており、久坂などとともに尊王攘夷運動に邁進(まいしん)している。
素性を隠して他家に人物を潜入させることを「入込(いれこみ)」というが、当時の長州藩はこれを京都を中心に展開していた。宮家諸大夫豊島家への川島千太郎(入江九一の偽名ともいわれている)、二条家の近習への奇兵隊の田中平蔵など例を挙げていけば枚挙にいとまがない。彼らは8月18日の政変で失われた毛利家と朝廷との関係性を補填(ほてん)していた。
◆もし池田屋事件で斃れていなかったら……
そんな稔麿であったが、元治元年6月5日の池田屋事件により志半ばで命を落とす。稔麿がどのような最期を遂げたかは諸説ある。一説には、はじめは会合に参加していた稔麿がいったん外出をして、戻ったときにはすでに新選組が池田屋を取り囲んでいたため、戦闘になったという。
異なる説によれば、新選組が襲撃してきたときには稔麿は池田屋にいて、藩邸へ報せるため急行しようとしたところ、門が開かなかったために追っ手の会津藩兵に遭遇して討死、ないしは自刃したともいわれる。
ともあれ、長州藩にとって、またその後の日本にとって稔麿という逸材を失ったことは大きな損失であった。稔麿は長州藩と幕府が安易に武力衝突することを是とはしていなかった。彼は強硬派が多い長州藩士のなかで、最後まで長州藩の京都進発には否定的であったのだ。なぜならば、稔麿が見据えていたのは、あくまでも日本が西洋列強の侵略を防ぐことにあったからだ。
元治元年(1864)5月付の書状を見ると、稔麿は軍事力不足を理由に攘夷決行に踏み切らない幕府を批判し、そうした優柔不断な態度では清国のように侵略されてしまうと懸念を示している。同じく武力は十分ではなかったが、義を説くジョージ・ワシントンを中心に独立を勝ち取ったアメリカの独立戦争の例も挙げている。
当時の幕末において、稔麿は藩という枠組みをこえて、日本の針路を模索していた。そして、そのために己のなすべきことに奔走していた。高杉や久坂にもいえることだが、もし稔麿がこの世にいれば、明治新政府においても柱石を担っていたのではないか。そんなことを夢想せずにはいられない。
事実、品川弥二郎は稔麿が生きていれば「総理大臣になっていたであろう」と述懐し、実際のその職に就いた伊藤博文は「(自分と)どうして比べられようか。まったく天下の奇才であった」と語ったともいわれている。
なお、稔麿は奇兵隊創立の際には、被差別民を取り立てる建議をして、毛利家に認めさせた。これは部落解放史においても画期的な出来事といわれている。あらゆる面で、先が見えていた男だったといえよう。(池島友就)