【長州人が見た長州人2】赤禰武人 傑物はなぜ処刑されたか

 長州藩の奇兵隊と聞けば、歴史好きならば創設者にして総督(総管)を務めた高杉晋作(たかすぎ・しんさく)を思い浮かべるだろう。しかし、実は「奇兵隊総督」は高杉1人ではない。

 高杉は文久3年(1863)の夏に、奇兵隊士と撰鋒隊(せんぽうたい)が衝突した「教法寺事件」の責任を問われて更迭されている。その後、河上弥市(かわかみ・やいち)と滝弥太郎(たき・やたろう)が奇兵隊2代総督に就いた。そして両人ののちに、3代総督を務めたのが赤禰武人(あかね・たけと)であった。

 幕末の長州藩といえば、吉田松陰の松下村塾と月性の清狂草堂(せいきょうそうどう)という2つの私塾が有名だ。そのいずれでも学んでいたのが、赤禰であった。さらにいえば、儒学者・梅田雲浜(うめだ・うんびん)にも師事しており、そうした研鑽(けんさん)を積んだ経験があればこそ、26歳の若さで奇兵隊総督に抜擢(ばってき)されたのだろう。

 だが赤禰は、最後に裏切り者と断じられ、売国奴の如く扱われて処刑される。なぜ彼は、かかる悲劇を一身に引き受けることになったのだろうか?

◆月性、吉田松蔭、梅田雲浜の下で学んで


 赤禰武人(あかね・たけと)は天保1年(1839)、周防柱島(すおうはしらじま)の医者に家に生まれた。柱島は瀬戸内海ではもっとも芸州寄りの島であり、岩国藩の管轄下に置かれていた。15歳で月性に学び始め、安政3年(1856)8月ごろに萩の吉田松陰のもとを訪ねている。松陰の教えを受けたのは2年足らずだが、2人が深く交わったのはその後の交流からうかがえる。

 その後、萩を出て京都の梅田雲浜の下で学び始めた赤禰だが、やがて幕末の動乱に巻き込まれていく。安政5年(1858)9月、井伊直弼(いい・なおすけ)が主導する安政の大獄が勃発。このとき、雲浜が捕まるが、赤禰は各地の志士から雲浜に寄せられた手紙をことごとく燃やした。

 赤禰自身も安政の大獄の余波で入獄したが、ほどなくして長州に帰還。すると赤禰は獄中の松陰を訪ねて、雲浜救出のために京都伏見の獄舎を襲撃する計画を松陰とともに立てている。しかし事を成すには至らず、そのあいだに松陰は獄死。松陰は赤禰に雲浜救出の策を詳細に授けていたというから、赤禰にとっても松陰との約束を果たせなかった無念は大きかったであろう。

 だが、激動の時代に足を止めている暇(いとま)はない。赤禰は松陰の門下生などと通じて引き続き国事に奔走する。

 長州において奇兵隊が結成されたのは、そんな時分だった。文久3年(1863)5月、アメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃した(下関戦争)。これを受けて、藩主・毛利敬親(もうり・たかちか)は高杉晋作を起用して下関を防備する部隊、すなわち奇兵隊を組織させたのだ。

 赤禰は奇兵隊結成にあたり、高杉を献身的に補佐した。奇兵隊本陣は途中から阿弥陀寺に置かれたが、赤禰はその玄関に、「不拒来者、不追去者、犯法者罰為賊者死」という16文字の隊則を提示している。まさしく奇兵隊の屋台骨を支えていたのが赤禰で、なおかつ数カ月後には3代総督に就任している。ちなみに、赤禰総督時代の奇兵隊軍監は山縣有朋(やまがた・ありとも)であった。

 赤禰は奇兵隊総督としての責任を果たすべく奮戦していく。翌元治元年(1864)夏、再び列強の軍艦が長州を襲う。アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国連合艦隊が馬関と彦島の砲台を砲撃のうえ占拠・破壊した。この屈辱的な敗戦のなかで、赤禰は前田砲台を守備していた。隊員の白石正一郎の日記には、次のようにある。

「前田砲台では異人の上陸を六度まで追い返したが、七度目に至り、ついに援兵もなく退き口がたって二三丁引退したが、総督赤禰は踏みとどまり、五六十人の者を指揮して戦った」

◆「真は誠に偽に似、偽は真に似たり」


 しかし、ここから赤禰の命運は暗転してゆく。4カ国連合艦隊の襲撃前の7月、京都では「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)が起きて、長州の志士たちは京都から締め出された。幕府はこの機に長州を叩こうと考えて、長州征伐をもくろむ。長州藩内には恭順ムードが広まり、赤禰も「ここに至っては已む無し」と考えた。

 この恭順の風潮に異を唱えたのが、九州に逃れていた高杉だった。「防長二州が焦土となろうとも、人士ことごとく討ち死にしてしまおうとも、朝廷に対する忠義を第一義とし、あくまでも幕府と戦うべきだ」と喝破する高杉。しかし赤禰は、次のように反対する。

 「激するなかれ、いま四境に天下の大敵を控え、藩内の議論を二分にして争うときではない。挙国一致で外敵に当たるため、恭順派と話し合う気持ちをもて」

 筋を通す高杉と、現実を見る赤禰。互いに己の信念を貫いたのみで、そこに善悪はないだろう。しかし、やがて長州藩内は高杉の意見に同調する向きが多勢を占め、赤禰は「幕府の意見を垂れ流す間者」と目されていく。長州の危機をいかに救うべきか……。赤禰の想いは悲しいほどに空回りしていく。西郷隆盛に幕府へのとりなしを懇願したのち、上阪したものの幕吏(ばくり)に捕らえられてしまう。

 幕府は第2回長州征伐に先立ち、牢(ろう)に入れた赤禰に長州の藩論を恭順に向かわせるように仕向けた。赤禰は新選組の近藤勇(こんどう・いさみ)らに護送されて長州へ戻るが、しかしもはや藩内には幕兵討つべしとの空気が充満していた。結果、赤禰は故郷の柱島に帰るものの、これを察知した藩に捕らえられる。藩は赤禰を「売国的」な裏切り者だと見なしたのである。かくして赤禰は慶応2年(1866)1月に斬首される。享年29であった。

 だが、赤禰は純粋に藩の未来を憂い、長州藩がその存在を確立したうえで尊皇攘夷の中心的役割を果たすことを望んでいた。「真は誠に偽に似、偽は真に似たり」。赤禰の辞世の句である。

 混迷を極めていた最中とはいえ、赤禰の死は長州藩にとって、さらにいえば新時代の日本にとって大きな損失であったことは間違いなかろう。(池島友就)