2019.4.13 元号
「日本で3番目に長い元号」が何か、ご存知でしょうか。ちなみに、一番長いのは「昭和」。二番目は「明治」です――。
正解は「応永」。室町幕府3代将軍の足利義満の時代の元号で、35年間続きました。なぜ、「応永」がそんなに長く続いたのか。そこには、朝廷と権力者の、さまざまな思惑があったのです。
皇室史学者の倉山満氏は、「改元大権は最もないがしろにされた天皇大権の一つである」といいます(『日本一やさしい天皇の講座』扶桑社新書、2017年ほか)。その最も顕著な例の一つとされる、足利義満による元号撰定への干与を見ていきましょう。
元号を定める手続きにおける天皇の役割が形式化したのは、案外早い時期のことです。最初の武家政権といわれる鎌倉幕府が成立する以前から、近臣による勘申(朝廷の儀式などについて、先例・典故・吉凶・日時などを調べて上申すること)を受けての発議、文章博士ら有識者による撰定を受けての承認という手続きにより定められています。
中国由来の辛酉革命(しんゆうかくめい=干支が辛酉〈かのととり〉の年には大きな社会変革が起るとされ、その年に改元されることが多かった)や、穢れ(けがれ)といった思想と結びついた改元は、朝廷にとって重要な行政行為の一つとなりました。天災や戦乱、疫病など色々な理由により改元の頻度が増えていき、また時代ごとの政治的な事情から、時の帝(みかど)による発議と勅裁の形式を維持しながらも、帝の関与が儀礼化していきます。
「政治的な事情」ということで、興味深いのは足利義満の時代でしょう。
足利義満は、いわずとしれた室町幕府3代将軍です。応安元年(1368)、足利義満は10歳で元服し、父・義詮(よしあきら)の跡を継いで征夷大将軍に任ぜられました。
時の帝は後光厳天皇ですが、この3年後には譲位し、後円融天皇が践祚(せんそ:天皇の位につくこと)します。後円融天皇は、義満と同じ歳です。それぞれの母親が姉妹で、後円融天皇と義満は従兄弟同士です(今谷明『室町の王権』中公新書、1990年)。
義満は、応永元(1394)年12月までの26年間、将軍職に在職します。在職末期まで南朝と北朝の争いが続いていますので、南朝は別の元号を使っています。北朝の元号は、義満の在職中に8回変わりました。
今谷明帝京大学教授は『室町の王権』の中で、特に室町幕府や義満の干与のあった元号に「康暦(1379年)」「嘉慶(1387年)」「康応(1389年)」「明徳(1390年)」「応永(1394年)」を挙げます。
康暦の改元は、撰字を行う際に足利尊氏や足利義詮が死去したときの「延文」や「貞治」の文字を使わないようにと申し入れる程度でした。ところが、その後の改元では、回を重ねるごとに義満の主導が露わになります。
康暦元年(1379)は、幕府内でも体制を一新する大きな政変があった年でした。先代の義詮の遺言で長らく義満を補佐し、幕政の実権を握ってきた管領・細川頼之が失脚します。
康暦の政変で追われた細川頼之は、決して弱い武将でも無能な管領(かんれい:室町幕府で将軍を補佐し内外の政務を統轄する、将軍に次ぐ地位)でもありません。12年間にわたる政権時代には、義満の権威を上げることに努めます。将軍の正室も武家ではなく、公家の日野家から娶(めと)りました。朝廷では、摂家の二条良基が若年の義満を後見しました。後に「花の御所」と呼ばれる室町第の造営を始めたのも、細川政権時代です。朝廷での義満の権力掌握は、これらの成果が土台となりました(倉山満『倉山満が読み解く 足利の時代』青林堂、2017年)。
しかし、康暦の政変をきっかけに、当時、21歳になっていた義満への権力集中が進むこととなります。義満は幕政の実権を握るだけでなく、宗教勢力を制圧し、朝廷でも叙任権を押さえて権力の中心となります。日野家を通じ、後宮も味方につけています。改元への干与の深化は、権力掌握を象徴しているのです。
嘉慶の改元(1387)の頃には、朝廷内でもどんどん地位を上げていた義満は左大臣を務めており、自身が改元手続きを統轄する上卿(朝廷の行事を担当奉行する上首の公卿〈くぎょう〉)でした。実務担当者の任命式も室町第で行われています(所功、久禮旦雄、吉野健一『元号 年号から読み解く日本史』文春新書、2018年)。
康応の改元(1389)では、新元号案の決定まで義満が主導します。この頃には、後円融天皇は既に後小松天皇へ譲位し、皇室の家長たる治天の君の地位にありましたが、義満は後円融上皇に新元号案を見せることもなく内定してしまいます。続く明徳の改元(1390)でも同様で、後円融上皇は否応なく義満の決定を呑まされます。義満が後見となっている後小松天皇に是非はありません。新しい元号は天皇の詔書で公布されますが、改元に対する天皇、上皇の撰定権は、完全に形式化していました。
応永の改元(1394)は、義満の将軍在職中最後の改元です。明徳4(1393)年4月、後円融上皇が崩御し、改元が発議されました。改元候補案は真っ先に義満に提出されますが、義満は「洪徳」という案を推します。前出の今谷明教授は、このときに義満が推した元号案「洪徳」が「大明洪武」から出ており、義満が外交政策を反映しようとしたと指摘しています。「洪武」とは、中国の明を建てた朱元璋が定めた元号です。朱元璋は、ちょうど同時代の中国で貧民の出身からのし上がり、皇帝となった人物です。義満が明から冊封を受けようとしたのは、「天皇の権威の下の将軍」という形式への不満からだったとか。
しかしこのとき、新元号の撰定は義満の思惑通りには進まず、公卿たちの猛反対にあって、「応永」と定まります。一説には、それまで永徳、至徳、明徳と「徳」の字がつく元号が続いていたため、同様に同じ字の元号を連続して用いた崇徳天皇や後醍醐天皇の例と引き比べて、不吉であると主張されたからといいます。
すると今度は、「応永」は35年にわたって改元されません。理由としては、自分の案を否定された義満がへそを曲げたから、とか、将軍を継いだ足利義持が「応永」を気に入っていたからなどといわれます。義満は応永元年(1394)12月に、嫡男の義持に将軍職を譲っていますが(義持は当時9歳)、応永15年(1408)に没するまで、権力は握り続けていました。義満の没後も改元は行われず、義持が没する応永35年まで、「応永」は続きます。ともあれ、一つの元号が35年間も続いたのは、前近代ではこのとき限り。現代まで含めて史上3番目に長い元号となりました。
元号を変えるも変えないも、時の権力者次第、手続きの一切に天皇の意思がなく、政権の左右される――中世の出来事ながら、どこか現代と似ていますね。(細野千春)
正解は「応永」。室町幕府3代将軍の足利義満の時代の元号で、35年間続きました。なぜ、「応永」がそんなに長く続いたのか。そこには、朝廷と権力者の、さまざまな思惑があったのです。
皇室史学者の倉山満氏は、「改元大権は最もないがしろにされた天皇大権の一つである」といいます(『日本一やさしい天皇の講座』扶桑社新書、2017年ほか)。その最も顕著な例の一つとされる、足利義満による元号撰定への干与を見ていきましょう。
◆特に義満の干与のあった4つの元号
元号を定める手続きにおける天皇の役割が形式化したのは、案外早い時期のことです。最初の武家政権といわれる鎌倉幕府が成立する以前から、近臣による勘申(朝廷の儀式などについて、先例・典故・吉凶・日時などを調べて上申すること)を受けての発議、文章博士ら有識者による撰定を受けての承認という手続きにより定められています。
中国由来の辛酉革命(しんゆうかくめい=干支が辛酉〈かのととり〉の年には大きな社会変革が起るとされ、その年に改元されることが多かった)や、穢れ(けがれ)といった思想と結びついた改元は、朝廷にとって重要な行政行為の一つとなりました。天災や戦乱、疫病など色々な理由により改元の頻度が増えていき、また時代ごとの政治的な事情から、時の帝(みかど)による発議と勅裁の形式を維持しながらも、帝の関与が儀礼化していきます。
「政治的な事情」ということで、興味深いのは足利義満の時代でしょう。
足利義満は、いわずとしれた室町幕府3代将軍です。応安元年(1368)、足利義満は10歳で元服し、父・義詮(よしあきら)の跡を継いで征夷大将軍に任ぜられました。
時の帝は後光厳天皇ですが、この3年後には譲位し、後円融天皇が践祚(せんそ:天皇の位につくこと)します。後円融天皇は、義満と同じ歳です。それぞれの母親が姉妹で、後円融天皇と義満は従兄弟同士です(今谷明『室町の王権』中公新書、1990年)。
義満は、応永元(1394)年12月までの26年間、将軍職に在職します。在職末期まで南朝と北朝の争いが続いていますので、南朝は別の元号を使っています。北朝の元号は、義満の在職中に8回変わりました。
今谷明帝京大学教授は『室町の王権』の中で、特に室町幕府や義満の干与のあった元号に「康暦(1379年)」「嘉慶(1387年)」「康応(1389年)」「明徳(1390年)」「応永(1394年)」を挙げます。
康暦の改元は、撰字を行う際に足利尊氏や足利義詮が死去したときの「延文」や「貞治」の文字を使わないようにと申し入れる程度でした。ところが、その後の改元では、回を重ねるごとに義満の主導が露わになります。
康暦元年(1379)は、幕府内でも体制を一新する大きな政変があった年でした。先代の義詮の遺言で長らく義満を補佐し、幕政の実権を握ってきた管領・細川頼之が失脚します。
康暦の政変で追われた細川頼之は、決して弱い武将でも無能な管領(かんれい:室町幕府で将軍を補佐し内外の政務を統轄する、将軍に次ぐ地位)でもありません。12年間にわたる政権時代には、義満の権威を上げることに努めます。将軍の正室も武家ではなく、公家の日野家から娶(めと)りました。朝廷では、摂家の二条良基が若年の義満を後見しました。後に「花の御所」と呼ばれる室町第の造営を始めたのも、細川政権時代です。朝廷での義満の権力掌握は、これらの成果が土台となりました(倉山満『倉山満が読み解く 足利の時代』青林堂、2017年)。
しかし、康暦の政変をきっかけに、当時、21歳になっていた義満への権力集中が進むこととなります。義満は幕政の実権を握るだけでなく、宗教勢力を制圧し、朝廷でも叙任権を押さえて権力の中心となります。日野家を通じ、後宮も味方につけています。改元への干与の深化は、権力掌握を象徴しているのです。
嘉慶の改元(1387)の頃には、朝廷内でもどんどん地位を上げていた義満は左大臣を務めており、自身が改元手続きを統轄する上卿(朝廷の行事を担当奉行する上首の公卿〈くぎょう〉)でした。実務担当者の任命式も室町第で行われています(所功、久禮旦雄、吉野健一『元号 年号から読み解く日本史』文春新書、2018年)。
康応の改元(1389)では、新元号案の決定まで義満が主導します。この頃には、後円融天皇は既に後小松天皇へ譲位し、皇室の家長たる治天の君の地位にありましたが、義満は後円融上皇に新元号案を見せることもなく内定してしまいます。続く明徳の改元(1390)でも同様で、後円融上皇は否応なく義満の決定を呑まされます。義満が後見となっている後小松天皇に是非はありません。新しい元号は天皇の詔書で公布されますが、改元に対する天皇、上皇の撰定権は、完全に形式化していました。
◆なぜ「応永」は35年も改元されなかったのか?
応永の改元(1394)は、義満の将軍在職中最後の改元です。明徳4(1393)年4月、後円融上皇が崩御し、改元が発議されました。改元候補案は真っ先に義満に提出されますが、義満は「洪徳」という案を推します。前出の今谷明教授は、このときに義満が推した元号案「洪徳」が「大明洪武」から出ており、義満が外交政策を反映しようとしたと指摘しています。「洪武」とは、中国の明を建てた朱元璋が定めた元号です。朱元璋は、ちょうど同時代の中国で貧民の出身からのし上がり、皇帝となった人物です。義満が明から冊封を受けようとしたのは、「天皇の権威の下の将軍」という形式への不満からだったとか。
しかしこのとき、新元号の撰定は義満の思惑通りには進まず、公卿たちの猛反対にあって、「応永」と定まります。一説には、それまで永徳、至徳、明徳と「徳」の字がつく元号が続いていたため、同様に同じ字の元号を連続して用いた崇徳天皇や後醍醐天皇の例と引き比べて、不吉であると主張されたからといいます。
すると今度は、「応永」は35年にわたって改元されません。理由としては、自分の案を否定された義満がへそを曲げたから、とか、将軍を継いだ足利義持が「応永」を気に入っていたからなどといわれます。義満は応永元年(1394)12月に、嫡男の義持に将軍職を譲っていますが(義持は当時9歳)、応永15年(1408)に没するまで、権力は握り続けていました。義満の没後も改元は行われず、義持が没する応永35年まで、「応永」は続きます。ともあれ、一つの元号が35年間も続いたのは、前近代ではこのとき限り。現代まで含めて史上3番目に長い元号となりました。
元号を変えるも変えないも、時の権力者次第、手続きの一切に天皇の意思がなく、政権の左右される――中世の出来事ながら、どこか現代と似ていますね。(細野千春)