旅順要塞を攻略した「ノギ(乃木希典)」、バルチック艦隊に完勝した「トーゴー(東郷平八郎)」……。明治37年(1904)から翌年にかけて勃発した日露戦争において、大国ロシアを破った日本の名将の名は世界に轟いた(とどろいた)。
しかしその数年前、世界を驚嘆させた日本軍人がいたことはあまり知られていない。「コロネル・シバ」こと柴五郎陸軍中佐である。
柴五郎は万延元年(1860)、会津藩士・柴佐多蔵の五男に生まれた。会津戦争が起きたのは、彼が9歳のときである。圧倒的な戦力を誇る新政府軍の総攻撃を受けて、会津藩は多くの悲劇の果てに降伏・開城。親戚の山荘にいた柴は命を落とさなかったものの、家族は犠牲となった。「今朝のことなり。敵城下に侵入したるも、御身の母はじめ家人一同退去を肯かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、潔く自刃されたり」。この知らせを、柴はいかなる想いで聞いたのだろうか。
会津戦争後、会津藩士たちは斗南(となみ。現・青森県むつ市)への移住を命じられ、極寒の地で辛酸をなめたが、柴五郎もその例外ではなかった。その後、柴は明治6年(1873)、陸軍幼年学校に入校。明治10年(1877)に陸軍士官学校に進み、明治13年(1880)に卒業している。兵科は砲兵であったが、1884年には清国駐在、さらに1894年にはイギリス駐在武官、1898年には米西戦争視察のためアメリカに派遣されるなど、海外での経験も積んでいた。
そんな柴が、一躍、世界の注目を浴びたのが、北清事変の北京籠城である。1894年から翌年にかけての日清戦争に日本が勝利したのち、欧米列強は清国の弱り目につけ込み、清国に圧力を加え、各地の租借などを進めた。すると、これに憤激した清国民のあいだで、「扶清滅洋(清国を扶〈たす〉けて、西洋を滅する)」をスローガンとして、清国内のキリスト教徒や外国人への排外運動が巻き起こる。
この排外運動を主導していたのは義和団という宗教的秘密結社であったが、どんどん勢力を膨張させ、1900年6月には20万人もの義和団が北京に入場。同月20日、ドイツ公使が白昼銃撃されたのを皮切りに、義和団はいよいよ欧米列国公使館への武力攻撃を開始。これに、それまで列強に屈していた西太后の清国政府も便乗して宣戦布告する。かくして始まったのが北清事変(義和団の乱)である。
当時、北京には、英、米、露、独、仏、伊、墺(オーストリア)、白(ベルギー)、そして日本の居留民が暮らしており、彼らは公使館に立て籠らざるを得なくなった。在北京の軍人もいたが、各国合わせても400人程度。しかも、これほどの非常事態は想定されておらず、武器弾薬もわずか。公使館域は広大で、女性・子ども、3,000人にキリスト教民も避難しており、とても守りきれる状況ではなかった。もちろん各国は本国に援軍に出動を要請するが、すでに北京へ走る鉄道は破壊され、早急な対応は不可能であった。
各国は義勇兵を募り、連携して防衛戦にあたる。このとき、総指揮官の英公使マクドナルドを助け、的確な戦況分析と戦術で実質的な現場指揮を執ったのが、当時、清国駐在武官として北京に赴任していた柴五郎だったのである。
もちろん、当時の日本は日清戦争で勝利したとはいえ、列強からすればまだ「極東の新興国」にすぎない。はじめは、誰も柴に特別な期待を寄せてはいなかった。しかし、柴はその胸中に「必ず北京を守り抜く」という断乎(だんこ)たる覚悟を抱いていた。その脳裏には、幕末、会津戦争の折の辛苦が甦っていたかもしれない。あのような悲劇を、再び眼前で繰り返させるわけにはいかない。その決意が、柴を動かしていたのではないか――。
暑さと食糧不足、負傷者の手当て、疲労……。公使館に籠城する人びとは、義和団や清国軍の攻撃だけでなく、それらとも戦わなければならなかった。7月6日には柴の右腕であった安藤大尉が戦死。部下の死傷者も増えていく。
しかし、日本の負傷兵は麻酔なしの手術でも欧米人のように泣き叫ばず、むしろ陽気におどけて他人を笑わせようとしたという。看護にあたった欧米の婦人は、そんな日本の将兵のファンになっていく。当時の日本人には、そんな毅然(きぜん)とした立ち居ふるまいが当然であるという気風があった。「武士のモラル」ともいうべきだろうか、その典型が柴五郎であったのだ。
柴は冷静に状況を判断、少ない戦力と乏しい弾薬のなかで暴徒と清国軍を相手に、各国軍のリーダー的存在となっていく。事前に北京城や周辺の地理を調べていたこともあり、合理的な防衛戦術を立て、独自の情報網も存分に活かした。その姿を、23歳のイギリス義勇兵は次のような言葉で紹介している。
「数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々と続き、それを守るには少なくとも500名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官のリュウトナン・コロネル・シバである。……この小男は、いつの間にか混乱を秩序にまとめていた。彼は部下を組織化し、さらに大勢の教民を召集して、前線を強化していた。……ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる」
いつしか、各国軍の誰もが柴を頼るようになっていた。柴もそれに応えて奮戦する。そうして各国軍は60日に及ぶ籠城戦を耐え抜き、援軍の到着によってようやく解放されるのである。柴率いる日本軍の勇敢さは、欧米に強い印象を与えた。さらにいえば、柴は追われてきたキリスト教民を保護し、北京が開放された後も軍紀を厳しく守り、各国軍が行なった略奪行為に一切関与しなかった。
こうした柴と日本人のふるまいは各国公使館のなかでも際立ち、ともに籠城戦を戦ったイギリス駐日公使・マクドナルドは柴の雄姿に、「日本こそ、大英帝国が頼むに足る国」と感銘を受け、のちに日英同盟を決断する布石となる。「栄光ある孤立」の外交方針を採るイギリスをも動かしたのである。この同盟こそがのちの日露戦争勝利を導いたことは、いうまでもあるまい。
しかし、後年の柴は、自らの功を全く誇らず、責任だけは自分にあるという態度を貫いたという。恥ずべきふるまいのないよう自らを厳しく律し、どんなときにも公正に己の為すべきことを為す。その姿は、まさしく凛烈たる会津武士であった。(池島友就)
しかしその数年前、世界を驚嘆させた日本軍人がいたことはあまり知られていない。「コロネル・シバ」こと柴五郎陸軍中佐である。
◆「数十万人vs.数百人」の籠城戦
柴五郎は万延元年(1860)、会津藩士・柴佐多蔵の五男に生まれた。会津戦争が起きたのは、彼が9歳のときである。圧倒的な戦力を誇る新政府軍の総攻撃を受けて、会津藩は多くの悲劇の果てに降伏・開城。親戚の山荘にいた柴は命を落とさなかったものの、家族は犠牲となった。「今朝のことなり。敵城下に侵入したるも、御身の母はじめ家人一同退去を肯かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人、潔く自刃されたり」。この知らせを、柴はいかなる想いで聞いたのだろうか。
会津戦争後、会津藩士たちは斗南(となみ。現・青森県むつ市)への移住を命じられ、極寒の地で辛酸をなめたが、柴五郎もその例外ではなかった。その後、柴は明治6年(1873)、陸軍幼年学校に入校。明治10年(1877)に陸軍士官学校に進み、明治13年(1880)に卒業している。兵科は砲兵であったが、1884年には清国駐在、さらに1894年にはイギリス駐在武官、1898年には米西戦争視察のためアメリカに派遣されるなど、海外での経験も積んでいた。
そんな柴が、一躍、世界の注目を浴びたのが、北清事変の北京籠城である。1894年から翌年にかけての日清戦争に日本が勝利したのち、欧米列強は清国の弱り目につけ込み、清国に圧力を加え、各地の租借などを進めた。すると、これに憤激した清国民のあいだで、「扶清滅洋(清国を扶〈たす〉けて、西洋を滅する)」をスローガンとして、清国内のキリスト教徒や外国人への排外運動が巻き起こる。
この排外運動を主導していたのは義和団という宗教的秘密結社であったが、どんどん勢力を膨張させ、1900年6月には20万人もの義和団が北京に入場。同月20日、ドイツ公使が白昼銃撃されたのを皮切りに、義和団はいよいよ欧米列国公使館への武力攻撃を開始。これに、それまで列強に屈していた西太后の清国政府も便乗して宣戦布告する。かくして始まったのが北清事変(義和団の乱)である。
当時、北京には、英、米、露、独、仏、伊、墺(オーストリア)、白(ベルギー)、そして日本の居留民が暮らしており、彼らは公使館に立て籠らざるを得なくなった。在北京の軍人もいたが、各国合わせても400人程度。しかも、これほどの非常事態は想定されておらず、武器弾薬もわずか。公使館域は広大で、女性・子ども、3,000人にキリスト教民も避難しており、とても守りきれる状況ではなかった。もちろん各国は本国に援軍に出動を要請するが、すでに北京へ走る鉄道は破壊され、早急な対応は不可能であった。
各国は義勇兵を募り、連携して防衛戦にあたる。このとき、総指揮官の英公使マクドナルドを助け、的確な戦況分析と戦術で実質的な現場指揮を執ったのが、当時、清国駐在武官として北京に赴任していた柴五郎だったのである。
◆「この小男は、いつの間にか混乱を秩序にまとめていた」
もちろん、当時の日本は日清戦争で勝利したとはいえ、列強からすればまだ「極東の新興国」にすぎない。はじめは、誰も柴に特別な期待を寄せてはいなかった。しかし、柴はその胸中に「必ず北京を守り抜く」という断乎(だんこ)たる覚悟を抱いていた。その脳裏には、幕末、会津戦争の折の辛苦が甦っていたかもしれない。あのような悲劇を、再び眼前で繰り返させるわけにはいかない。その決意が、柴を動かしていたのではないか――。
暑さと食糧不足、負傷者の手当て、疲労……。公使館に籠城する人びとは、義和団や清国軍の攻撃だけでなく、それらとも戦わなければならなかった。7月6日には柴の右腕であった安藤大尉が戦死。部下の死傷者も増えていく。
しかし、日本の負傷兵は麻酔なしの手術でも欧米人のように泣き叫ばず、むしろ陽気におどけて他人を笑わせようとしたという。看護にあたった欧米の婦人は、そんな日本の将兵のファンになっていく。当時の日本人には、そんな毅然(きぜん)とした立ち居ふるまいが当然であるという気風があった。「武士のモラル」ともいうべきだろうか、その典型が柴五郎であったのだ。
柴は冷静に状況を判断、少ない戦力と乏しい弾薬のなかで暴徒と清国軍を相手に、各国軍のリーダー的存在となっていく。事前に北京城や周辺の地理を調べていたこともあり、合理的な防衛戦術を立て、独自の情報網も存分に活かした。その姿を、23歳のイギリス義勇兵は次のような言葉で紹介している。
「数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢の日本軍は、王府の高い壁の守備にあたっていた。その壁はどこまでも延々と続き、それを守るには少なくとも500名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官のリュウトナン・コロネル・シバである。……この小男は、いつの間にか混乱を秩序にまとめていた。彼は部下を組織化し、さらに大勢の教民を召集して、前線を強化していた。……ぼくは、自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる」
いつしか、各国軍の誰もが柴を頼るようになっていた。柴もそれに応えて奮戦する。そうして各国軍は60日に及ぶ籠城戦を耐え抜き、援軍の到着によってようやく解放されるのである。柴率いる日本軍の勇敢さは、欧米に強い印象を与えた。さらにいえば、柴は追われてきたキリスト教民を保護し、北京が開放された後も軍紀を厳しく守り、各国軍が行なった略奪行為に一切関与しなかった。
こうした柴と日本人のふるまいは各国公使館のなかでも際立ち、ともに籠城戦を戦ったイギリス駐日公使・マクドナルドは柴の雄姿に、「日本こそ、大英帝国が頼むに足る国」と感銘を受け、のちに日英同盟を決断する布石となる。「栄光ある孤立」の外交方針を採るイギリスをも動かしたのである。この同盟こそがのちの日露戦争勝利を導いたことは、いうまでもあるまい。
しかし、後年の柴は、自らの功を全く誇らず、責任だけは自分にあるという態度を貫いたという。恥ずべきふるまいのないよう自らを厳しく律し、どんなときにも公正に己の為すべきことを為す。その姿は、まさしく凛烈たる会津武士であった。(池島友就)