かつて「軍神」と呼ばれた軍人たちがいた。「軍神」という言葉に、現代の日本人は違和感を抱くかもしれない。しかし、明治時代にそう呼ばれた人たちは、軍から公式に指定されたわけではなく、自然発生的にマスコミなどでそのように尊称されるようになったのだという。いずれも純粋に国を想い、仲間を大切にし、わが身を顧みずに己の任務を遂行しようとして命を落とした人ばかりであった。
そのような「軍神」の第1号と呼ばれるのが、広瀬武夫である。彼は、どうして軍神と呼ばれるようになったのだろうか。
広瀬武夫は、岡藩(藩庁は現在の大分県竹田市)藩士の家柄に生まれた。兄とともに「武士の子」として厳しく躾けられた広瀬は、小学校教師を務めた後に、海軍兵学校に入学。明治22年(1889)に卒業した後、日清戦争(明治27年=1894年)に従軍。さらに明治30年(1897)には、ロシアに留学し、さらにロシア駐在武官を務めるなど、ロシア通の海軍軍人としての道を歩んだ。そして、明治37年(1904)2月に日露戦争が始まると、広瀬は文字通り「すべてを擲(なげう)ち」、己の職務を全うしていった。
開戦劈頭(へきとう)の同年2月9日、連合艦隊は旅順のロシア太平洋艦隊と砲撃戦を繰り広げたが、勝敗はつかなかった。続く11日には、ウラジオストク艦隊の4隻が津軽半島沖で日本の汽船を砲撃し、1隻を撃沈する事件が起きている。
日露戦争当時、ロシア太平洋艦隊は旅順とウラジオストクを拠点としていた。日本の連合艦隊からすれば、両地の艦隊に挟撃されるという最悪の事態だけは避けたい。そこで考えられたのが「旅順口閉塞(へいそく)作戦」であった。
旅順港の出入り口の幅は約270mで、戦艦や巡洋艦が通り抜けられるのは約90m。ここに日本海軍が船を並べて沈めれば、ロシア艦隊は出られなくなり、港内に逼塞(ひっそく)させることができる。
しかし旅順港の周囲にはロシア軍の強力な要塞砲がひしめいていた。閉塞作戦は理に適った作戦ではあるものの、生還を期し難い「決死行」でもあった。
作戦を主導したのは秋山真之参謀である。秋山はアメリカ留学中に米西戦争のキューバ・サンチャゴ海戦を観戦した。この時、アメリカ海軍がサンチャゴ港でとった閉塞作戦を旅順に応用しようと考えたのだ。だが秋山は、逡巡もしていた。これだけ危険な作戦を果たして行なうべきなのか。もっとリスクの低い作戦はないのだろうかと。
旅順口閉塞作戦発令前に、戦艦・三笠内で実施部隊各指揮官を集めて会議が行なわれた。その席で秋山は成功を危ぶみ、敵砲台から猛射を浴びた際、閉塞船は引き返すことを提案する。
それに真っ向から反対したのが指揮官の1人、広瀬武夫であった。「敵の猛射を受けることは最初から分かりきっている。それを押して押しまくる以外、成功はない。秋山、貴様のいうように猛射を受けて反転したら、作戦の成功はない」
広瀬と秋山は一時期同じ部屋に下宿したこともある、兵学校時代以来の親友だった。広瀬は将兵を危険に晒(さら)したくないという秋山の想いは十分に分かっていたはずだ。だからこそ、悩める親友の背中を押すような発言をしたのだろう。
かくして2月18日、東郷平八郎司令長官は旅順口閉塞作戦を発令。全艦隊の下士官、兵から志願者を募ると、即座に2000人ほどが志願した。ここから志操堅固な者、独身者、長男や一人息子でない者といった条件に合う67名が選抜された。指揮官5人、機関長5人を加えると77名になる。
天津丸に総指揮官の有馬良橘先任参謀、そして報国丸を指揮するのが広瀬であった。無論、「快男児」として知られる広瀬からすれば、自らが推した作戦を人に任せるなどという選択肢はなかったはずだ。
果たして第1回閉塞作戦は、結果は失敗に終わった。旅順砲台の猛烈な攻撃にあったのだ。報国丸は砲撃を受けて炎上、港口近くの灯台下に爆沈させた。広瀬は脱出前、デッキの壁に白ペンキで自分の姓名とロシア語のメッセージを大書した。
「余は日本の広瀬武夫なり。今回は第1回目のみ、この後幾回も来たらんとす」
実は、ロシアに留学し、駐在武官も務めていた広瀬は、ロシアに知己が多く、加えてアリアズナという恋人もいた。サンクト・ペテルブルクで知り合った2人は恋に落ちた。ともに文学を好み、詩を交わしあったという。
しかし、広瀬が日本に帰国した後に、アリアズナの祖国・ロシアとの戦争が始まるという運命が立ちはだかった。それでも2人は、広瀬の帰国後も手紙のやり取りを重ねたという。広瀬が沈む船に自らの姓名までを記したのは、武人としての矜持(きょうじ)とともに、もしかしたら「自分の名がアリアズナや親しかった人たちに届くように」との思いがあったからかもしれない。
とはいえ、第1回の作戦失敗を受けて、広瀬が旅順口閉塞作戦を成功させねばとの決意をさらに強固なものとしたことは間違いない。3月18日、東郷司令長官は第2回閉塞作戦に向けて新たな隊員を募った。今度も2000人以上が応募し、56名が選抜された。
3月27日午前2時30分、有馬が率いる千代丸、広瀬率いる福井丸などが旅順港口へ突入した。3時30分、旅順口の手前3700mほどのところで哨戒艇に発見され、探照灯が照射される。艦艇と砲台からの猛射が始まり、閉塞船に次々と命中する。
千代丸が被弾して炎上。しかし、広瀬が指揮する福井丸は果敢に突進した。砲弾や銃弾が飛び交うなか、千代丸と並んで自沈できるように投錨(とうびょう)することに成功、あとは爆薬に点火するだけとなった。しかし、次の瞬間――。敵駆逐艦の魚雷が福井丸の船首に命中し、前部が粉々になった。身動きできない福井丸に集中砲火が浴びせられる。
広瀬は「総員退去」を命じたが、上等兵曹の杉野孫七が船倉から戻ってこない。杉野は広瀬より2つ上の38歳。妻子がいながらも、本人の強い希望で参加していた。広瀬は船内に入り、「杉野、どこにいるんだ、杉野!」と叫びながら探し回った。それでも、返事はない。船内は海水が濁流となって渦巻き、このままでは水死する。
広瀬は胸をかきむしられる思いで甲板にあがると、隊員とともに左舷から降ろしたカッターに乗り移ろうとした。その時――。敵弾が広瀬の頭部を直撃。杉野をギリギリまで探した広瀬の思いが、脱出を遅らせたのだ。
かくして広瀬は、愛着のあるロシアとの戦争で命を落とし、死後に中佐に特進、「軍神」と称されるようになったのだった。
広瀬の死後も閉塞作戦は継続されるが、結局失敗に終わる。だが、日本軍は旅順艦隊撃滅のために、死力を尽くしつづけた。
同年8月10日には、乃木希典率いる第三軍の総攻撃を避けるべくウラジオストクに脱出しようとした旅順艦隊を、連合艦隊が捕捉撃破(黄海海戦)。旅順港に逃げ帰った旅順艦隊は、ほぼ出撃不能の状況に置かれることになる。さらに、第三軍による度重なる総攻撃によって、遂に旅順要塞のロシア軍は翌明治8年(1905)1月1日に降伏。ここに旅順艦隊は完全に無力化されることになったのである。(池島友就)
そのような「軍神」の第1号と呼ばれるのが、広瀬武夫である。彼は、どうして軍神と呼ばれるようになったのだろうか。
◆「危険な作戦」をあえて後押しした真意
広瀬武夫は、岡藩(藩庁は現在の大分県竹田市)藩士の家柄に生まれた。兄とともに「武士の子」として厳しく躾けられた広瀬は、小学校教師を務めた後に、海軍兵学校に入学。明治22年(1889)に卒業した後、日清戦争(明治27年=1894年)に従軍。さらに明治30年(1897)には、ロシアに留学し、さらにロシア駐在武官を務めるなど、ロシア通の海軍軍人としての道を歩んだ。そして、明治37年(1904)2月に日露戦争が始まると、広瀬は文字通り「すべてを擲(なげう)ち」、己の職務を全うしていった。
開戦劈頭(へきとう)の同年2月9日、連合艦隊は旅順のロシア太平洋艦隊と砲撃戦を繰り広げたが、勝敗はつかなかった。続く11日には、ウラジオストク艦隊の4隻が津軽半島沖で日本の汽船を砲撃し、1隻を撃沈する事件が起きている。
日露戦争当時、ロシア太平洋艦隊は旅順とウラジオストクを拠点としていた。日本の連合艦隊からすれば、両地の艦隊に挟撃されるという最悪の事態だけは避けたい。そこで考えられたのが「旅順口閉塞(へいそく)作戦」であった。
旅順港の出入り口の幅は約270mで、戦艦や巡洋艦が通り抜けられるのは約90m。ここに日本海軍が船を並べて沈めれば、ロシア艦隊は出られなくなり、港内に逼塞(ひっそく)させることができる。
しかし旅順港の周囲にはロシア軍の強力な要塞砲がひしめいていた。閉塞作戦は理に適った作戦ではあるものの、生還を期し難い「決死行」でもあった。
作戦を主導したのは秋山真之参謀である。秋山はアメリカ留学中に米西戦争のキューバ・サンチャゴ海戦を観戦した。この時、アメリカ海軍がサンチャゴ港でとった閉塞作戦を旅順に応用しようと考えたのだ。だが秋山は、逡巡もしていた。これだけ危険な作戦を果たして行なうべきなのか。もっとリスクの低い作戦はないのだろうかと。
旅順口閉塞作戦発令前に、戦艦・三笠内で実施部隊各指揮官を集めて会議が行なわれた。その席で秋山は成功を危ぶみ、敵砲台から猛射を浴びた際、閉塞船は引き返すことを提案する。
それに真っ向から反対したのが指揮官の1人、広瀬武夫であった。「敵の猛射を受けることは最初から分かりきっている。それを押して押しまくる以外、成功はない。秋山、貴様のいうように猛射を受けて反転したら、作戦の成功はない」
広瀬と秋山は一時期同じ部屋に下宿したこともある、兵学校時代以来の親友だった。広瀬は将兵を危険に晒(さら)したくないという秋山の想いは十分に分かっていたはずだ。だからこそ、悩める親友の背中を押すような発言をしたのだろう。
◆筆とりて うつすこころを しるや君
かくして2月18日、東郷平八郎司令長官は旅順口閉塞作戦を発令。全艦隊の下士官、兵から志願者を募ると、即座に2000人ほどが志願した。ここから志操堅固な者、独身者、長男や一人息子でない者といった条件に合う67名が選抜された。指揮官5人、機関長5人を加えると77名になる。
天津丸に総指揮官の有馬良橘先任参謀、そして報国丸を指揮するのが広瀬であった。無論、「快男児」として知られる広瀬からすれば、自らが推した作戦を人に任せるなどという選択肢はなかったはずだ。
果たして第1回閉塞作戦は、結果は失敗に終わった。旅順砲台の猛烈な攻撃にあったのだ。報国丸は砲撃を受けて炎上、港口近くの灯台下に爆沈させた。広瀬は脱出前、デッキの壁に白ペンキで自分の姓名とロシア語のメッセージを大書した。
「余は日本の広瀬武夫なり。今回は第1回目のみ、この後幾回も来たらんとす」
実は、ロシアに留学し、駐在武官も務めていた広瀬は、ロシアに知己が多く、加えてアリアズナという恋人もいた。サンクト・ペテルブルクで知り合った2人は恋に落ちた。ともに文学を好み、詩を交わしあったという。
しかし、広瀬が日本に帰国した後に、アリアズナの祖国・ロシアとの戦争が始まるという運命が立ちはだかった。それでも2人は、広瀬の帰国後も手紙のやり取りを重ねたという。広瀬が沈む船に自らの姓名までを記したのは、武人としての矜持(きょうじ)とともに、もしかしたら「自分の名がアリアズナや親しかった人たちに届くように」との思いがあったからかもしれない。
◆「杉野、どこにいるんだ!」
とはいえ、第1回の作戦失敗を受けて、広瀬が旅順口閉塞作戦を成功させねばとの決意をさらに強固なものとしたことは間違いない。3月18日、東郷司令長官は第2回閉塞作戦に向けて新たな隊員を募った。今度も2000人以上が応募し、56名が選抜された。
3月27日午前2時30分、有馬が率いる千代丸、広瀬率いる福井丸などが旅順港口へ突入した。3時30分、旅順口の手前3700mほどのところで哨戒艇に発見され、探照灯が照射される。艦艇と砲台からの猛射が始まり、閉塞船に次々と命中する。
千代丸が被弾して炎上。しかし、広瀬が指揮する福井丸は果敢に突進した。砲弾や銃弾が飛び交うなか、千代丸と並んで自沈できるように投錨(とうびょう)することに成功、あとは爆薬に点火するだけとなった。しかし、次の瞬間――。敵駆逐艦の魚雷が福井丸の船首に命中し、前部が粉々になった。身動きできない福井丸に集中砲火が浴びせられる。
広瀬は「総員退去」を命じたが、上等兵曹の杉野孫七が船倉から戻ってこない。杉野は広瀬より2つ上の38歳。妻子がいながらも、本人の強い希望で参加していた。広瀬は船内に入り、「杉野、どこにいるんだ、杉野!」と叫びながら探し回った。それでも、返事はない。船内は海水が濁流となって渦巻き、このままでは水死する。
広瀬は胸をかきむしられる思いで甲板にあがると、隊員とともに左舷から降ろしたカッターに乗り移ろうとした。その時――。敵弾が広瀬の頭部を直撃。杉野をギリギリまで探した広瀬の思いが、脱出を遅らせたのだ。
かくして広瀬は、愛着のあるロシアとの戦争で命を落とし、死後に中佐に特進、「軍神」と称されるようになったのだった。
広瀬の死後も閉塞作戦は継続されるが、結局失敗に終わる。だが、日本軍は旅順艦隊撃滅のために、死力を尽くしつづけた。
同年8月10日には、乃木希典率いる第三軍の総攻撃を避けるべくウラジオストクに脱出しようとした旅順艦隊を、連合艦隊が捕捉撃破(黄海海戦)。旅順港に逃げ帰った旅順艦隊は、ほぼ出撃不能の状況に置かれることになる。さらに、第三軍による度重なる総攻撃によって、遂に旅順要塞のロシア軍は翌明治8年(1905)1月1日に降伏。ここに旅順艦隊は完全に無力化されることになったのである。(池島友就)