【明治名将列伝4】梅沢道治――戦場の「におい」を知る男

2019.8.19 日露戦争
 日露戦争における日本陸軍の名将といえば、第一軍司令官として実質的に満洲軍の戦勢をリードする戦績を残した黒木為楨(くろき・ためもと)、至難な黒溝台会戦に臨んだ第八師団長・立見尚文(たつみ・なおふみ)、「坂の上の雲」でも知られる秋山好古(あきやま・よしふる)などが挙げられる。

 そのなかでも、驚くべき戦績をあげて「花の梅沢旅団」と謳われた(うたわれた)のが、近衛後備混成旅団長・梅沢道治(うめざわ・みちはる)である。

 「後備旅団」とはその名のとおり、後方に控える予備の旅団で、前線で戦う部隊に欠員が生じたときの補充などが主な任務である。老兵が多く、士気はさして高くない。装備も不十分であり、ゆえに日露戦争においても大きな期待は寄せられていなかった。

 なぜ、その後備旅団の梅沢旅団がめざましい活躍をなしえたのだろうか。その理由を知れば、現場を生き抜いた男の智恵が見えてくる。

◆苦労の末に、人を統率し使いこなすコツをつかむ


 梅沢道治(うめざわ・みちはる)は、陸軍のなかで「王道」を歩んだ人物とは言い難い。むしろ、その逆である。嘉永6年(1853)、梅沢は仙台藩で中級の士分の次男坊に生まれた。戊辰戦争では薩長軍を迎え撃とうとするが敗戦、最終的には五稜郭の榎本武揚(えのもと・たけあき)の軍に投じている。

 「おれは順逆を誤った。時世の大変革に当り賊軍に身を投じてしまった。こうなったら討死あるだけだ」

 梅沢はそう死を覚悟して薩長軍に相対したが、やがて捕虜となり、十勝に送られて牢に入れられた。その2年後、仙台に帰るも賊名を受けたため実家に置いてもらえず、東京に出奔。そして陸軍に入ったという。

 人口に膾炙(かいしゃ)しているとおり、当時は薩長閥が強く、仙台藩出身の梅沢は地味な隊附将校の道を、遅い進級速度で歩んでいった。長州の児玉源太郎が少尉になった同年に中尉、その翌年に早くも大尉に就いているのとは大違いだ(ちなみに児玉は大尉に就いた2年後に、いきなり少佐になっている)。

 しかし――。それでも梅沢は、明治34年(1900)には、近衛歩兵連隊長に任ぜられている。当時、近衛連隊長は厳選された人物に用意されたポストであり、これは並みの将校と比べて、才覚が際立っていた存在だからであろう。当時の梅沢に対して、側近の連隊旗手・林桂少尉は次のように語っている。

 「梅沢さんは五稜郭以来隊附専門だったので、人間の扱いに長じていた。ご自身の心の芯は頗る(すこぶる)頑丈(がんじょう)であったが、人にはつねに温顔で接していた。梅沢さんは異なった特徴のある人びとを統率し、使いこなすコツを心得ていた」

◆敵は「におい」で判断された方向から来た


 明治37年(1904)2月、日露戦争が始まると、3月に出征。そして同年11月に、負傷後送となった近衛後備歩兵第一旅団長の後任となり、組織替えした近衛後備混成旅団長となるのである。当時、すでに52歳を迎えていた。

 そして、「花の梅沢旅団」の名が轟いた(とどろいた)のが、沙河会戦(さかかいせん)であった。このとき、ロシア軍は山岳部に布陣する日本軍右翼を突破し、その後方に回り込んで兵站線(へいたんせん)を遮断しようと考えた。これに対して、日本陸軍は第一軍を軸にして、第二軍・第四軍を北進させて中央突破を図る。

 これは、ともすれば無謀といわれても仕方のない作戦であった。なぜならば、第一軍がロシア軍の猛攻を凌ぐ(しのぐ)ことができなければ、日本軍は総崩れになるからである。

 このとき、鬼神のような活躍をみせたのが、梅沢率いる近衛後備混成旅団と騎兵第二旅団であった。

 梅沢旅団は、3倍以上の兵力を擁するロシア軍の襲来を耐え凌いだという。激闘3時間の末に撃退したのだ。その翌日にもロシア軍は猛攻を仕掛けているが、これも見事に退けている。この梅沢旅団の奮戦を受けて、第一軍司令官の黒木為楨(くろき・ためもと)は援軍を差し向けた。そしてロシア軍を挟撃し、大混乱に陥らせるのである。結局、ロシア軍は1週間ほどの戦いの末、退却を余儀なくされた。

 この奇跡的な奮戦を導いたのが、ほかならぬ梅沢であった。梅沢はリューマチを患っていたが、椅子に座ったまま不眠不休で指揮をとった。そんな姿に梅沢旅団の将兵は一丸となったが、何よりも特筆すべきは「経験」からくる梅沢の勝負勘であろう。

 あるとき、突出しすぎた梅沢旅団に対して、第一軍司令部より後退命令が出た。副官の荒木貞夫(あらき・さだお)は糧食と弾薬を運ぶ準備に鑑みて、1日待って退却することを進言した。しかし梅沢は、今晩に行動を映すように下知した。

 「いまの状況では、退却の『におい』が敵に伝わる」

 戦場に「におい」があるとは、梅沢一流の表現であるが、事実、梅沢は毎日のように伝令1人をつけて司令部そばの高地に登り、敵情を睨み(にらみ)ながら静かに考えていた。だからこそ荒木の具申に対して、首を横に振ったのだ。結果、梅沢旅団は九死に一生を得ている。

 荒木は後年、梅沢の「すごみ」を次のように述懐している。

 「あるとき、自分が状況を分析して、敵の攻撃してくる方向を10本余りも矢を書いて閣下(梅沢)に申し上げたが、閣下はにこやかに黙って聞かれるだけであった。敵はその10本余りの矢の方向からは来ず、閣下が『におい』で判断された方向から来た」

 その後、日露戦争のターニングポイントの1つである奉天会戦において、梅沢旅団は「虎の子」部隊として期待を寄せられることとなる。戊辰戦争以降、不遇をかこっていた男が陸軍という場所で光り輝いた瞬間であった。(池島友就)