2019.6.22 日清戦争
「どうか個人的な感情を捨てて、国家のために力を貸してください」
日清戦争を直前に控えた明治27年(1894)のある日。海軍官房主事・山本権兵衛(のちに海軍大将)がそう語りかけたのが、坪井航三であった。坪井は当時、海軍大学校校長を務めていた。山本はそんな坪井に対して、連合艦隊司令長官・伊東祐亨のもとで、いわば「一司令官」として働いてくれるように頼んだのだ。坪井52歳、山本43歳のことである。
山本のいう「個人的な感情」とは何を指すのか。それは、坪井の出身が長州、すなわち現在の山口県であることと、坪井が「ミスター単縦陣」と呼ばれる男であったことに深く関係していた……。
坪井は天保14年(1843)、周防国三田尻(現在の山口県防府市)に生まれ、やがて医師である坪井信道家の養子となった。医学の道を進んでいた坪井にとって、契機となったのが幕末の馬関戦争である。このとき、医官として軍艦に乗船したことが、坪井を武人への道に導くこととなる。
明治維新を迎えると、長州藩出身の人物たちが新政府の柱石を担ったが、坪井も明治日本のために働いていく。明治4年(1871)に海軍大尉に任ぜられ、「甲鉄艦」副長に就任。同年には海軍修業のために、米国艦隊の旗艦「コロラド」で乗艦実習に臨んでいる。
その後、コロンビアの海軍兵学校で最新の戦術を学んだ坪井は、明治7年(1874)に帰国すると、海軍少佐に昇任。その後は、「日進」「海門」などの艦長、「高千穂」艦長兼常備小艦隊参謀長、佐世保軍港司令、海軍兵学校長官などさまざまな要職を歴任したのちに、明治26年(1893)12月より海軍大学校長を務める。まさしく日清戦争の直前の時期である。
坪井はといえば、「ミスター単縦陣」と渾名(あだな)される「単縦陣」戦法の主唱者であった。単縦陣とは軍艦が縦に長く一列に並ぶ陣形のことであり、砲撃戦火力が高く、雷撃命中にも優れるとされる。いわば「攻撃は最大の防御」を体現する戦術だ。当時の海軍は一般的に「横陣」を重んじていたが、アメリカで学んだ理論家の坪井は、事あるごとに単縦陣の利点、必要性を唱えていた。
そんな坪井と距離を置いていたのが、ほかならぬ連合艦隊司令長官・伊藤祐亨である。沈思黙考を地でいく伊東からすれば、考え方も人間性も坪井とは合わなかったのかもしれない。何よりも、伊東は薩摩藩出身であった。明治の日本海軍は「薩摩の海軍」といわれるほど薩摩人が多かった。一方の坪井は、珍しく長州出身の提督である。いわゆる「藩閥」が2人の距離を隔て、坪井自身、伊東と積極的には交わらなかった。
しかし、いまや、国家存亡の危機である。連合艦隊が相手とする清国の北洋艦隊は、「定遠」「鎮遠」という2隻の定遠級装甲艦を擁していた。ともにドイツのフルカン造船所製であり、30.5cm連装砲2基を搭載していた世界でもトップクラスの装甲艦である。アジアの国が保有する軍艦としては疑いようもなく最強の存在であった。
日本には定遠級の装甲艦をそろえる経済力はなかった。そこで重要になるのが、実際の戦場における戦術である。北洋艦隊は、まず定遠型装甲艦の艦首の強力な砲撃力で連合艦隊を混乱させた後に、全艦で突撃して日本艦隊を一気に殲滅(せんめつ)しようと考えていた。かなり攻撃的な布陣である。これに対抗するためには、「速度」と「手数」に勝機を見いだすほかない。そう考えた連合艦隊において浮上したのが、単縦陣であったのだ。
ここで、「ミスター単縦陣」坪井の登板を働きかけたのが山本権兵衛であり、冒頭の逸話につながる。山本は国難に際して、藩閥や私的な感情にとらわれるべきではないと考え、坪井の説得に赴いた。対する坪井は、1日返事を待たせたものの、山本の申し出を快諾している。おそらくは、山本と同じ想いを抱いていたのだろう。そして伊東連合艦隊司令長官のもと、第一遊撃隊の司令官に就任するのである。
明治27年9月、日清戦争の分水嶺のひとつである黄海海戦が勃発する。北洋艦隊はやはり「定遠」「鎮遠」を中心に、包み込むような「単横陣」で迫ってきた。対する連合艦隊は想定どおり「単縦陣」で挑み、見事に勝利を飾った。
特筆すべきは、やはり坪井が司令官を務めた第一遊撃隊の活躍であった。坪井は単縦陣の艦隊運動に適した快速艦4隻「吉野」「高千穂」「秋津洲」「浪速」を擁して、敵の真正面から突撃。そして彼我の距離1万2000mの位置で左に変進して、北洋艦隊の右翼にいた「揚威」「超勇」の2隻に砲撃を集中させて大きな戦果を挙げたのである。
黄海海戦を制したことも大きく寄与して、日本は「眠れる獅子」と恐れられていた清国相手に勝利する。そのキーパーソンのひとりとして、坪井航三の名前を忘れるわけにはいかない。事実、黄海海戦で観戦武官として北洋艦隊の軍艦に座上して、日本海軍の動きを見ていたアメリカ海軍の少佐は、「日本の海軍は終始、整然と単縦陣を守り、快速によって有利なる形をとって攻撃を反復したのは驚嘆に値する」と連合艦隊の単縦陣を高く評価している。
坪井は戦後に中将に昇進。そして、常備艦隊の司令長官にまで出世している。(池島友就)
日清戦争を直前に控えた明治27年(1894)のある日。海軍官房主事・山本権兵衛(のちに海軍大将)がそう語りかけたのが、坪井航三であった。坪井は当時、海軍大学校校長を務めていた。山本はそんな坪井に対して、連合艦隊司令長官・伊東祐亨のもとで、いわば「一司令官」として働いてくれるように頼んだのだ。坪井52歳、山本43歳のことである。
山本のいう「個人的な感情」とは何を指すのか。それは、坪井の出身が長州、すなわち現在の山口県であることと、坪井が「ミスター単縦陣」と呼ばれる男であったことに深く関係していた……。
◆アジア最強の軍艦「定遠級」に対抗するために
坪井は天保14年(1843)、周防国三田尻(現在の山口県防府市)に生まれ、やがて医師である坪井信道家の養子となった。医学の道を進んでいた坪井にとって、契機となったのが幕末の馬関戦争である。このとき、医官として軍艦に乗船したことが、坪井を武人への道に導くこととなる。
明治維新を迎えると、長州藩出身の人物たちが新政府の柱石を担ったが、坪井も明治日本のために働いていく。明治4年(1871)に海軍大尉に任ぜられ、「甲鉄艦」副長に就任。同年には海軍修業のために、米国艦隊の旗艦「コロラド」で乗艦実習に臨んでいる。
その後、コロンビアの海軍兵学校で最新の戦術を学んだ坪井は、明治7年(1874)に帰国すると、海軍少佐に昇任。その後は、「日進」「海門」などの艦長、「高千穂」艦長兼常備小艦隊参謀長、佐世保軍港司令、海軍兵学校長官などさまざまな要職を歴任したのちに、明治26年(1893)12月より海軍大学校長を務める。まさしく日清戦争の直前の時期である。
坪井はといえば、「ミスター単縦陣」と渾名(あだな)される「単縦陣」戦法の主唱者であった。単縦陣とは軍艦が縦に長く一列に並ぶ陣形のことであり、砲撃戦火力が高く、雷撃命中にも優れるとされる。いわば「攻撃は最大の防御」を体現する戦術だ。当時の海軍は一般的に「横陣」を重んじていたが、アメリカで学んだ理論家の坪井は、事あるごとに単縦陣の利点、必要性を唱えていた。
そんな坪井と距離を置いていたのが、ほかならぬ連合艦隊司令長官・伊藤祐亨である。沈思黙考を地でいく伊東からすれば、考え方も人間性も坪井とは合わなかったのかもしれない。何よりも、伊東は薩摩藩出身であった。明治の日本海軍は「薩摩の海軍」といわれるほど薩摩人が多かった。一方の坪井は、珍しく長州出身の提督である。いわゆる「藩閥」が2人の距離を隔て、坪井自身、伊東と積極的には交わらなかった。
しかし、いまや、国家存亡の危機である。連合艦隊が相手とする清国の北洋艦隊は、「定遠」「鎮遠」という2隻の定遠級装甲艦を擁していた。ともにドイツのフルカン造船所製であり、30.5cm連装砲2基を搭載していた世界でもトップクラスの装甲艦である。アジアの国が保有する軍艦としては疑いようもなく最強の存在であった。
日本には定遠級の装甲艦をそろえる経済力はなかった。そこで重要になるのが、実際の戦場における戦術である。北洋艦隊は、まず定遠型装甲艦の艦首の強力な砲撃力で連合艦隊を混乱させた後に、全艦で突撃して日本艦隊を一気に殲滅(せんめつ)しようと考えていた。かなり攻撃的な布陣である。これに対抗するためには、「速度」と「手数」に勝機を見いだすほかない。そう考えた連合艦隊において浮上したのが、単縦陣であったのだ。
◆「ミスター単縦陣」の面目躍如
ここで、「ミスター単縦陣」坪井の登板を働きかけたのが山本権兵衛であり、冒頭の逸話につながる。山本は国難に際して、藩閥や私的な感情にとらわれるべきではないと考え、坪井の説得に赴いた。対する坪井は、1日返事を待たせたものの、山本の申し出を快諾している。おそらくは、山本と同じ想いを抱いていたのだろう。そして伊東連合艦隊司令長官のもと、第一遊撃隊の司令官に就任するのである。
明治27年9月、日清戦争の分水嶺のひとつである黄海海戦が勃発する。北洋艦隊はやはり「定遠」「鎮遠」を中心に、包み込むような「単横陣」で迫ってきた。対する連合艦隊は想定どおり「単縦陣」で挑み、見事に勝利を飾った。
特筆すべきは、やはり坪井が司令官を務めた第一遊撃隊の活躍であった。坪井は単縦陣の艦隊運動に適した快速艦4隻「吉野」「高千穂」「秋津洲」「浪速」を擁して、敵の真正面から突撃。そして彼我の距離1万2000mの位置で左に変進して、北洋艦隊の右翼にいた「揚威」「超勇」の2隻に砲撃を集中させて大きな戦果を挙げたのである。
黄海海戦を制したことも大きく寄与して、日本は「眠れる獅子」と恐れられていた清国相手に勝利する。そのキーパーソンのひとりとして、坪井航三の名前を忘れるわけにはいかない。事実、黄海海戦で観戦武官として北洋艦隊の軍艦に座上して、日本海軍の動きを見ていたアメリカ海軍の少佐は、「日本の海軍は終始、整然と単縦陣を守り、快速によって有利なる形をとって攻撃を反復したのは驚嘆に値する」と連合艦隊の単縦陣を高く評価している。
坪井は戦後に中将に昇進。そして、常備艦隊の司令長官にまで出世している。(池島友就)