死者25名、負傷者388名にのぼったといわれる、第2回衆議院議員総選挙での「選挙干渉」。実は、この空前絶後の選挙干渉を行なったのは、松下村塾で吉田松陰から愛された品川弥二郎だった。彼は、なぜ、どのように選挙干渉を行なったのだろうか。
だがそもそも、考えてみれば、それまで議院制がなかった社会で、議会をつくっていくのである。前例も慣例も何もない以上、混乱をきたすのは当然のことであろう。選挙干渉に至る経緯を知ると、日本に議院制を導入するに当たっての「産みの苦しみ」が見えてくるのだ。
わが国における初めての選挙は、約130年前の明治23年(1890)に行なわれた第1回衆議院議員総選挙である。前年に大日本帝国憲法が発布されて、選挙法が制定。満25歳以上の男性で、直接国税15円以上を納めている者に選挙権が付与された。
次が2年後の明治25年(1892)2月、松方内閣下で行なわれた第2回衆議院議員総選挙であるが、この選挙は「空前絶後の大干渉」が行なわれたことで有名だ。騒動の中心にいた人物は、当時、内務大臣だった品川弥二郎である。
品川は天保14年(1843)、長州藩に生まれたのち、吉田松陰の松下村塾に入塾。松陰からは、「弥二の才、得易(えやす)からず」と称賛されている。
幕末動乱においては、薩長の調整役を務めた。ハイライトは小御所会議で、その開催のために薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通と連携をしている。明治新政府では要職を歴任したほか、「信用組合の父」として記憶している方もいるかもしれない。
そんな品川は第2回衆議院議員選挙に際して、政府支持者を当選させるために、激しい選挙干渉を行なった。結果は、反政府的立場の民党の優位を覆すには至らなかったが、品川はなぜ選挙干渉という「暴挙」に打って出たのだろうか。
さかのぼると、第1回総選挙後、山縣有朋内閣の政府案は、ことごとく国会で多数を占める民党議員の反対を受けていた。予算委員会を切り抜けるのにも四苦八苦で、水面下で立憲自由党の板垣退助らとの妥結を経て何とか通過させたが、混乱の余波で退陣している。その結果、生まれたのが松方内閣であった。
民党からすれば、自分たちの「国会戦略」が成功したことになる。いっそう政府を攻め立てるために、次の議会においても予算案の大削減を訴えた。結果、ふたたび政府と議会は真っ向から対立し、ついに衆議院が解散されるに至ったのだ。
同じ轍(てつ)を踏むわけにはいかない。そのためには、そもそも民党の議員を議会から締め出せばいい――。そう考えて行動に移すべく奔走したのが、内務大臣の品川と内務次官・白根専一(しらね・せんいち)であった。
そのやり口を見ると、品川がいかに「本気」であったかがうかがえる。品川は選挙前、地方長官に対して「内訓」を下して、府県庁から市町村村役場まであらゆる官吏に自身の考えを伝えて、民党の候補者の選挙運動を妨害し、なおかつ親政府の候補者の選挙運動を後押しした。
このとき、品川が具体的にどのような内訓を行なったかは諸説あるが、ある談話では「品川子爵が内務大臣たりしとき、選挙に際しだした有名な訓示がある」としたうえで、次のように語られている。
「随分ひどい事が言ふてある。国家に忠良なる代議士を挙げよと、換言すれば、破壊的な人間を挙げるなという意味になるので当然選挙に干渉したとて非常に宜しかったのであります」(「品川先生追懐談集」より)
政府が推薦した候補者は、品川や白根が各地域の地方長官と打ち合わせたうえで、有力な人物を立てたという。たとえば、犬養毅の地盤であった岡山県の選挙区においては、三井物産の重役を務めていた馬越恭平を推薦する、といった具合である。
こうした「対抗措置」レベルならば、現在の選挙戦でも規模の大小の差こそあれ、多少はあるだろう。しかし、当時の選挙干渉の深刻さは、武力衝突までも引き起こしている点である。
選挙戦が始まると、品川の内訓を受けた県郡市町村、また警察などの官公吏が、政府推薦の候補者を支持して盛り立てた。すると、民党側も壮士を動員してこれに対抗。これによって、いたるところで流血事件が勃発する事態になってしまったのだ。
選挙戦で、警察が片方に加担しているのだから、当然、もはや事態は容易には収拾しない。トラブルが発生したときには、憲兵が駆けつけるケースまであったという。また、ある地域では投票箱が盗み隠される事件も起きたというから、いまでは考えられないほどの荒れっぷりだ。結果、死者は25名、負傷者は388名にのぼった。
それでは、これだけの大干渉を行なって、選挙結果はどうなったのか。結局は、民党の優勢は変わらず、政府与党は若干勢力を増したに過ぎなかった。選挙後、大干渉は当然ながら問題となり、伊藤博文や陸奥宗光らは猛抗議し、松方首相に対して関係する官吏の処分を要求した。
とはいえ、その要求を容れれば、政府が「暗躍」の非を認めたと同義であり、松方はこれを拒否。しかし品川は、選挙干渉に責任をとるべく辞表を提出。このとき、山縣有朋が慰留に努めたというが、品川の意志は翻らなかった。
内務大臣を辞職したのち、品川は議会開催中に次の和歌を詠んでいる。
事問わむ日比谷の原に鳴く蛙 君がためにかおのがためにか
無論、品川の選挙干渉は許されるものではない。とはいえ、品川の目には、民党が「おのがため」に、ことごとく政府案を否定するように映り、ガマンがならなかったのだろう。「健全」な議会とはいかなるものか、いつの時代にも問われるテーマである。(池島友就)
だがそもそも、考えてみれば、それまで議院制がなかった社会で、議会をつくっていくのである。前例も慣例も何もない以上、混乱をきたすのは当然のことであろう。選挙干渉に至る経緯を知ると、日本に議院制を導入するに当たっての「産みの苦しみ」が見えてくるのだ。
◆「弥二の才、得易(えやす)からず」松陰から愛された品川弥二郎
わが国における初めての選挙は、約130年前の明治23年(1890)に行なわれた第1回衆議院議員総選挙である。前年に大日本帝国憲法が発布されて、選挙法が制定。満25歳以上の男性で、直接国税15円以上を納めている者に選挙権が付与された。
次が2年後の明治25年(1892)2月、松方内閣下で行なわれた第2回衆議院議員総選挙であるが、この選挙は「空前絶後の大干渉」が行なわれたことで有名だ。騒動の中心にいた人物は、当時、内務大臣だった品川弥二郎である。
品川は天保14年(1843)、長州藩に生まれたのち、吉田松陰の松下村塾に入塾。松陰からは、「弥二の才、得易(えやす)からず」と称賛されている。
幕末動乱においては、薩長の調整役を務めた。ハイライトは小御所会議で、その開催のために薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通と連携をしている。明治新政府では要職を歴任したほか、「信用組合の父」として記憶している方もいるかもしれない。
そんな品川は第2回衆議院議員選挙に際して、政府支持者を当選させるために、激しい選挙干渉を行なった。結果は、反政府的立場の民党の優位を覆すには至らなかったが、品川はなぜ選挙干渉という「暴挙」に打って出たのだろうか。
◆警察が加担――どのような選挙干渉が行なわれたか?
さかのぼると、第1回総選挙後、山縣有朋内閣の政府案は、ことごとく国会で多数を占める民党議員の反対を受けていた。予算委員会を切り抜けるのにも四苦八苦で、水面下で立憲自由党の板垣退助らとの妥結を経て何とか通過させたが、混乱の余波で退陣している。その結果、生まれたのが松方内閣であった。
民党からすれば、自分たちの「国会戦略」が成功したことになる。いっそう政府を攻め立てるために、次の議会においても予算案の大削減を訴えた。結果、ふたたび政府と議会は真っ向から対立し、ついに衆議院が解散されるに至ったのだ。
同じ轍(てつ)を踏むわけにはいかない。そのためには、そもそも民党の議員を議会から締め出せばいい――。そう考えて行動に移すべく奔走したのが、内務大臣の品川と内務次官・白根専一(しらね・せんいち)であった。
そのやり口を見ると、品川がいかに「本気」であったかがうかがえる。品川は選挙前、地方長官に対して「内訓」を下して、府県庁から市町村村役場まであらゆる官吏に自身の考えを伝えて、民党の候補者の選挙運動を妨害し、なおかつ親政府の候補者の選挙運動を後押しした。
このとき、品川が具体的にどのような内訓を行なったかは諸説あるが、ある談話では「品川子爵が内務大臣たりしとき、選挙に際しだした有名な訓示がある」としたうえで、次のように語られている。
「随分ひどい事が言ふてある。国家に忠良なる代議士を挙げよと、換言すれば、破壊的な人間を挙げるなという意味になるので当然選挙に干渉したとて非常に宜しかったのであります」(「品川先生追懐談集」より)
政府が推薦した候補者は、品川や白根が各地域の地方長官と打ち合わせたうえで、有力な人物を立てたという。たとえば、犬養毅の地盤であった岡山県の選挙区においては、三井物産の重役を務めていた馬越恭平を推薦する、といった具合である。
こうした「対抗措置」レベルならば、現在の選挙戦でも規模の大小の差こそあれ、多少はあるだろう。しかし、当時の選挙干渉の深刻さは、武力衝突までも引き起こしている点である。
選挙戦が始まると、品川の内訓を受けた県郡市町村、また警察などの官公吏が、政府推薦の候補者を支持して盛り立てた。すると、民党側も壮士を動員してこれに対抗。これによって、いたるところで流血事件が勃発する事態になってしまったのだ。
選挙戦で、警察が片方に加担しているのだから、当然、もはや事態は容易には収拾しない。トラブルが発生したときには、憲兵が駆けつけるケースまであったという。また、ある地域では投票箱が盗み隠される事件も起きたというから、いまでは考えられないほどの荒れっぷりだ。結果、死者は25名、負傷者は388名にのぼった。
◆事問わむ日比谷の原に鳴く蛙 君がためにかおのがためにか
それでは、これだけの大干渉を行なって、選挙結果はどうなったのか。結局は、民党の優勢は変わらず、政府与党は若干勢力を増したに過ぎなかった。選挙後、大干渉は当然ながら問題となり、伊藤博文や陸奥宗光らは猛抗議し、松方首相に対して関係する官吏の処分を要求した。
とはいえ、その要求を容れれば、政府が「暗躍」の非を認めたと同義であり、松方はこれを拒否。しかし品川は、選挙干渉に責任をとるべく辞表を提出。このとき、山縣有朋が慰留に努めたというが、品川の意志は翻らなかった。
内務大臣を辞職したのち、品川は議会開催中に次の和歌を詠んでいる。
事問わむ日比谷の原に鳴く蛙 君がためにかおのがためにか
無論、品川の選挙干渉は許されるものではない。とはいえ、品川の目には、民党が「おのがため」に、ことごとく政府案を否定するように映り、ガマンがならなかったのだろう。「健全」な議会とはいかなるものか、いつの時代にも問われるテーマである。(池島友就)