選挙で死者25名、負傷者388名!?~明治選挙の「血で血を洗う戦い」

 「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人」という大野伴睦(政治家。1890年~1964年)の名言どおり、選挙戦となれば与野党の必死の戦いが繰り広げられます。しかし、明治時代の議会における選挙では文字通りの「血で血を洗う戦い」が行なわれていたのをご存じでしょうか? なんと、明治25年(1892)2月に行なわれた第2回衆議院議員総選挙では、警察官がサーベルで、野党が日本刀で斬りあったり、銃撃戦が行なわれたりするような事態が繰り広げられ、1回の選挙で死者25名、負傷者388名も出ていたとか……。

 どの国でも、最初期の選挙はたいてい混乱するものではありますが、では日本ではそんなハチャメチャな事態が、なぜ起きて、どのように、鎮められていったのでしょうか?

◆「税金下げろ!」「戦争やれ!」――民党に翻弄(ほんろう)される政府


 明治時代の議会は衆議院と貴族院で構成されていました。

 選挙で選ばれた衆議院には、予算を先に審議・議決する権限である「予算先議権」がありました。予算が決まらないということは国家の統治ができなくなることを意味します。

 つまり、戦前の大日本帝国憲法体制では、選挙によって選ばれた衆議院が強い拒否権を持っていました。明治時代、「選挙で選ばれた衆議院が強い権力を持つ」という意味では民主主義は機能していたのです。

 わが国で議会が開設された明治23年(1890)。第1回衆議院議員総選挙の後、議席は「吏党(りとう=政府支持党):129、民党(政府不支持党):171」となり、政府の予算案は通らない状況になってしまいます。

 当時は初めての議会なので、衆議院の多数党が内閣を組織するという慣例がなく、第1回帝国議会中は少数与党で内閣が運営されます。

 このときの民党の中心は大隈重信と板垣退助であり、彼らは人気取りのために「税金下げろ」「戦争やれ」と、同時に実施するのが不可能な主張を展開します。

 帝国憲法では予算が通らない場合、前年度予算を執行することになっていました。しかし、なにしろ第1回の議会です。前例があるわけがなく、のっけから憲法停止のピンチに陥ります。

 このピンチを乗り切るのに、時の総理大臣・山縣有朋が使ったのが、「買収」という方法でした。土佐藩の植木枝盛(うえき・えもり)・竹内綱(たけのうち・つな)・林有造(はやし・ゆうぞう)らを買収し、予算案を通過させたといわれます。しかし山縣内閣は予算を通すことに疲れ果て、総辞職をしてしまいました。

 このように初期議会では民党を中心として衆議院は強い拒否権を持っており、政府はそれに翻弄(ほんろう)されます。

◆文字通り「血で血を洗う戦い」


 第2回の帝国議会では、樺山資紀(かばやま・すけのり)海軍大臣の「現政府があるのは薩長のおかげ」といった、いわゆる『蛮勇(ばんゆう)演説』により、民党側の強い反発を引き起こし、大混乱のなか、衆議院は解散に追い込まれてしまいます。

 明治25年(1892年)、国政選挙も2回目になると、「選挙って何?」から「選挙で日本の政治を決められるんだ」という実感が一般にも芽生え、政府はいっそう危機感を抱きました。

 そこで、品川弥二郎(しながわ・やじろう)内務大臣が中心となって、教科書にも載るような「選挙干渉」を行ないました。品川らは民党の政治家を「国家の破壊者」とみなし、これを撲滅するのが政府の責務だと考えたのです。

 政府は、他人の業務に干渉する者の取り締まりなどを目的に制定された勅令「予戒令」を制定。民党の政治家たちの行動を拘束する立法を行ないました。

 選挙干渉は吏党の候補に資金提供だけでなく民党候補者の誹謗(ひぼう)。それにとどまらず警察の選挙運動妨害・暴行といった実力行使を実施し、なかにはなんと銃撃戦や、斬りあいが行なわれた地域もありました。警察官がサーベルを持つと、民党は日本刀で応酬…。一部では警察署長が民党の有力政治家の殺害を巡査に命令するありさま…。

 その結果、全国で25名が死亡、388名の負傷者が出たとされていますが、『内務省史』によると「実際にはこれよりも多かったと推定してほぼ間違いない」と記されており、すべてが歴史の表に出ているわけではないようです……。

 選挙戦は文字通り「血で血を洗う戦い」が繰り広げられたのです。

◆内廷費を省いて毎年30万円を下賜する


 そんな品川らの努力(?)もむなしく、結局、獲得議席は「吏党(政府支持党):95、民党(政府不支持党):132」となり、吏党の獲得議席は伸びませんでした。大規模な選挙干渉にもかかわらず、吏党は権力を握ることができなかったのです。

 日清戦争の2年前にもかかわらず、軍備の拡張もままならない状況になってしまったのです。品川弥二郎は選挙後、内務大臣を辞職しました。

 この閉塞(へいそく)した状況を解決したのが、明治天皇でした。

 明治天皇のお言葉として、政府と議会の妥協を命ずる「和衷協同の詔」が出されました。内容は内廷費(天皇と内定皇族の日常の費用)を節減し、高級官吏を減俸して、それを国家予算に充てるというものです。国家公務員の初任給が50円ほどの時代に、明治天皇が「これから6年間、毎年30万円の内廷費を省いて下付する」とおっしゃったのですから、民党もこれまでのような無理ばかりをいうわけにはいきません。これによって予算案の賛成を取り付け、混乱は何とか沈静化されていくのです。以後、政府と民党の提携のかたちがつくられていくこととなります。

 時代は流れ、わが国では政党政治が発達し、普通選挙も実施されて、今に至ります。

 政権を取るために吏党も民党も、方法はともかく必死に戦ったことは確かです。最初のうちこそ、選挙戦も流血の事態になりましたが、しかし急速に混乱が鎮まったのは、やはり日本ならではともいえるでしょう。(八尋 滋)