初代総理は「初物喰い」がお好き?――伊藤博文、憲政確立の戦い

2019.8.17 伊藤博文
 伊藤博文といえば、真っ先に初代内閣総理大臣を務めたことが思い浮かぶでしょう。しかし、伊藤博文が「初代」を務めたのは、内閣総理大臣ばかりではありません。初代枢密院議長など明治政府要職の初代を歴任し「初物喰い」ともいわれます。

 本稿では伊藤「初物喰い」っぷりに触れ、政治の「そもそも」を見ていきましょう。

◆当初は英語を武器に大出世


 大政奉還後、伊藤はイギリス留学で培った英語を武器に、新政府の外交問題処理に関与します。その働きが評価され、明治元年(1868)1月外国事務掛、6月初代兵庫県知事と、外交部門の要職に任命されます。兵庫県知事は現在と異なり、神戸港を管轄し、外交上の重要な役回りでした。

 明治2年(1869)より大蔵省に出仕し、現在の次官クラスである少輔(しょうゆう)となります。このころから高杉晋作に名付けられた「博文」を名乗り始めます。

 伊藤の出世は、なおも止まらず、明治4年(1871)の岩倉使節団に伊藤は副使として大抜擢(だいばってき)。調子に乗った伊藤は、旅の船中甲板にて模擬裁判を繰り広げたり、サンフランシスコで大いに遊び回ったりするなど、浮ついた行動が目につくようになります。

 一行がワシントンに入ったところで、伊藤は不平等条約改正交渉の必要性を説き、全権委任状を取りに日本に戻る決断をしました。その間、使節団一行は足止めを食らってしまいます。

 しかし、実は日本と列強間の規定により、アメリカだけと条約改正するだけでは足りず、交渉は元々不可能だったのです。伊藤の見通しの甘さに木戸孝允が激怒。以降の道中が気まずくなってしまいました。

 その後、伊藤は態度を改め、なんとか木戸と和解します。当初、政治家として伊藤は、英語を武器にキャリアを進めていきましたが、どうにも詰めの甘さが目立ちます。

◆憲法制定をめぐる大隈重信との確執から、欧州へ
 明治6年(1873)11月、参議は閣議を開き政体取調担当として伊藤らが選任されます。民間でも議会開設の機運が高まり、民撰議院設立建白書が政府に提出されます。

 政府も明治8年(1875)1月に大阪会議で漸進的に立憲政体を樹立することを合意し、4月には漸次立憲政体樹立の詔(みことのり)、7月には元老院の設置と、立憲政体の確立に向けての歩みが始まります。

 明治14年(1881)1月、大隈重信、伊藤らは熱海で会談。憲法について議論をします。しかし、3月に大隈重信が突如イギリス流議院内閣制を主張する急進的な意見書を提出し、伊藤らとの会談を裏切ってしまいます。

 すると岩倉具視が、大隈に対抗する形で、井上毅に指示し、プロイセン流の憲法意見書を作らせます。

 急な展開により、伊藤は憲法についての議論の蚊帳(かや)の外へ押し出されてしまいます。

 結局、大隈は下野。その翌日、国会開設の勅諭(ちょくゆ)が出され、国会開設に明確な期限が設けられたのです。

 伊藤は後に当時を振り返り、どの案も自己閉鎖的で不寛容であるので、反対意見に寛容な精神を持つべきと語っています。追い詰められた伊藤は、神経症を患ってしまいます。

明治15年(1882)、心身の慰労も兼ねて、欧州における憲法調査を命じられることになりました。

 政府がプロイセン路線となったことが影響し、伊藤らはベルリンへ向かいます。ヴィルヘルム一世から「日本の国会開設が喜ばしくない」という旨の言葉をもらい……ベルリン大学グナイストの講義を受けますが、「日本の歴史に無知な自分が、お役に立てるか甚だ自信がない」と頼りなく……弟子のモッセからよく分からないドイツ語でプロイセン憲法の逐条解釈の講義を受ける……と憲法調査はなんとも先行きが暗い状況でした。

 そんななか、モッセが夏休みに入ったため、伊藤はオーストリアのウィーン大学を訪れ、ローレンツ・フォン・シュタインより国家学を学び、大きな啓示を得ます。

 伊藤はシュタインから、立憲国家の全体像や指針を学ぶことができました。しかも、英語で講義を実施してくれたことにより、「心私に死処を得るの心地」を得ます。

 憲法の議論で蚊帳の外にいた伊藤は欧州の憲法取調によって、自信を取り戻します。

◆憲法は条文だけではない――「constitution」の成熟


 欧州からの帰国後、明治18年(1885)、内閣制度を導入し、行政機構の改革を実施。自身は初代内閣総理大臣となります。

 明治19年(1886)には、帝国大学という新たな高等教育体制を構築し、官僚のリクルートを促進させます。

 「憲法」の語源である「constitution」が、憲法の条文だけではなく国家体制そのものを表すように、伊藤博文は立憲政体の前提となる「仕組み」を作っていきました。

 明治21年(1888)には枢密院が創設され、憲法に関する審議が進み、遂に帝国憲法は明治22年(1889)2月11日に公布されます。

 伊藤は憲法について次の様に語っています。

 「私は欧羅巴(ヨーロッパ)に遣はされ、之を取調べて帰つて来て、其草案を奉り、欽定憲法と相成つて発布致されたものであるから、此憲法と共に生死するの無限の責任を私は負ふて居る」

 伊藤博文は憲法の条文を作るだけでなく、発布後も総理大臣を始め、立憲政友会創設など、わが国の「constitution」の成熟のため、政府の初代の要職を務めることで「無限の責任」を果たそうとしたのです。(八尋 滋)