【世界の君主列伝12】明治天皇~立憲君主のあるべき姿

「世界史の奇跡」と呼ばれる明治維新を成し遂げ、世界史の舞台に登場した近代国家日本。のちに「明治大帝」と呼ばれる明治天皇の存在を抜きにしては語れません。

 明治時代(1868~1912年)の世界を見渡すと、日本のほかに、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシア、清国など、エンペラーが君臨する君主国がありました。しかし、第1次世界大戦後、君主国として残ったのは日本とイギリスだけです。オーストリア、プロイセン、清国は共和国に、そしてロシアは社会主義の人民共和国に変わり、エンペラーがいなくなったどころか、もとの国自体が無くなってしまいました。

 君主国とはいっても、滅びた4国が「専制君主国」であったのに対して、日本とイギリスは「立憲君主国」でした。明治天皇は、いかにして立憲君主のあるべきお姿をお示しになったのでしょうか。そのエピソードをいくつかご紹介します。

◆「和歌の力」で警告し、激励し、相談を受ける


 明治天皇の御製(天皇がお詠みになった和歌)は、5歳で初めてお詠みになってから、その御生涯で約10万首にのぼるそうです。単純計算で、1日平均約5首を57年間といったペースです。

 明治天皇即位の翌年、明治2年(1869)に、日本は初めて世界の大国の王族として、イギリスのヴィクトリア女王の次男アルフレッド王子を迎えました。明治天皇はアルフレッド王子をとおして、ヴィクトリア女王に宸筆(しんぴつ=天皇の直筆)の御製を贈られます。

世を治め 人をめくま(恵)は天地の ともに久しくあるへかりけり

 倉山満氏は「時に、君主として政治との関係において立憲君主の持つとされる3つの権利なども、和歌を詠んで知らせるということさえあるのが明治天皇の御製」であり「イギリス人には到底できないこと」だと指摘します。立憲君主の持つ3つの権利とは、ウォルター・バジョットが『英国憲政論』で説いた「警告」「激励」「被諮問」の権利のことです(倉山満『明治天皇の世界史』PHP新書、2108年)。

 明治37年(1904)、日露開戦のときの有名な御製も、まさにそうした1首でしょう。

よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ

 西洋列強に対抗するために、近代国家としての日本の国づくりが急がれました。国民国家として、日本をまとめあげる原動力となったのが、明治天皇の全国御巡幸です。明治5年(1872)、数えの御年21歳で全国要地への御巡幸が始まりました。在位中の御巡幸は97回を数え、内6回は「六大巡幸」と呼ばれる距離的、日数的にも大がかりなもの。南は九州、北は北海道にまで及ぶものでした。

 おそらく、富士山をご覧になった天皇は明治天皇が初めてだといわれています。初めて、汽車に乗られ、洋服をお召しになり、あんパンを召し上がった天皇も明治天皇でした。

◆憲法会議の会議中に皇子が薨去されても


 明治8年(1875)に漸次(ぜんじ)立憲政体樹立の詔(みことのり)が出され、憲法制定に向かって、日本が動きます。明治15年(1882)、伊藤博文が「立憲政治調査」のため海外へ出かけ、草案作成が開始されたのは明治19年(1886)でした。

 明治21年(1888)4月、皇室典範と憲法の草案が完成します。完成した草案をもとに、同年5月から憲法会議が始まりました。憲法会議は同年、5回開かれています。会期は短いときで3日間、長いときで13日間、計38日間の会議でした。

 明治天皇はそのすべてに出席なさっています。明治天皇がいらっしゃるだけで、会議の場には緊張がみなぎり、伊藤博文をはじめ臣下一同は自ずと引き締まります。倉山満氏は「こうした緊張関係を成立させるのが立憲君主」であるといいます(前掲、『明治天皇の世界史』)。

 会議中、明治天皇の第4皇子、昭宮猷仁親王(あきのみやみちひとしんのう)の薨去(こうきょ)の報がもたらされ、伊藤博文が明治天皇に会議の中止を申し出ます。しかし、明治天皇は「それには及ばぬ」と審議の続行を促され、審議が一段落するまで、それまでと何一つ変わることなく聞いていらっしゃいました。

 明治天皇が退出なさってから、そうした経緯を知った一同は、顔を上げることさえできず恐れ入るばかりだったと伝えられます。

 憲法草案作成にも関わり、憲法会議にも出席していた金子堅太郎は、このときのことを、こう書いています。

「此の重大なる会議の央に於いて仮令(たとい)皇子の薨去ありたりとは云へ、是は皇国の重大政務である故に御親子の情に於いては忍び給はせられざる所であるが、此の会議を中止することは然るべからずとの御思召(おぼしめし)ではなかつたかと恐察し奉つた。其の位に憲法制定に就いては、大御心(おおみこころ)を注がせ給ふたのである」(金子堅太郎『憲法制定と欧米人の評論』日本青年館、1937年)

 かくして、明治22年(1889)年2月11日に、大日本帝国憲法が発布され、皇室典範が制定されました。

 「父なるトルコ人」の称号を持つ、ケマル=パシャは明治天皇を崇敬し、明治維新を理想とし、大正12(1923)年、トルコ共和国を成立させ、初代大統領になりました。ケマル=パシャの執務室には明治天皇の御真影が飾られていたそうです。また、エチオピア最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が昭和6年(1931)に制定したエチオピア帝国初の成文憲法、「エチオピア1931年憲法」は、大日本帝国憲法をお手本に作られたといわれています。(雨宮美佐)

参考文献:
宮内庁編『明治天皇紀』吉川弘文館、1966年~77年
ドナルド・キーン『明治天皇』上巻、新潮社、2001年
倉山満『明治天皇の世界史』PHP新書、2018年
倉山満『帝国憲法物語』PHP研究所、2015年
倉山満『真・戦争論 世界大戦と危険な半島』KKベストセラーズ、2015年
大山真人『銀座木村屋あんパン物語』平凡社新書、2001年
岡倉登志『エチオピアの歴史』明石書店、1999年