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唐を開く高祖・李淵(565~635、在位:618~626)は隋の煬帝(ようだい)の臣下で太原の軍司令官でした。煬帝から人心が離れ、部下に裏切られて殺害されると、さっそく兵を挙げ、長安を落として根拠地とし、唐を建てます。
シナの皇帝の名前(といっても死後に贈られる廟号ですが)はある意味で合理的についています。必ずではありませんが王朝の始祖には「高祖」「太祖」など「祖」をつけ、2番目を「太宗」とします。それ以後は特に決まっていません。もう一度「祖」がつく場合もあります。例えば、モンゴル帝国は1代目が太祖チンギス、2代目が太宗オゴデイですが、5代目の世祖フビライにはもう一度「祖」がつきました。元を創始したからです。
モンゴル帝国は太祖チンギスのほうが、太宗オゴデイよりはるかに有名ですが、唐は高祖李淵より太宗李世民(李淵の次男)のほうが有名です。初代の李淵は「何をしていたの?」といいたくなるぐらい影が薄い。受験では「618年に李淵が唐を建てた」と覚えさせられますが、それだけです。また、李淵についての記述は、全て李世民時代以後に書かれたものなので、李世民に都合よく書かれています。
李淵は皇帝になると、長男の李建成を皇太子とし、次男の李世民を秦王としました。しかし626年、李世民は兄の皇太子・李建成と弟の斉王・李元吉を殺してしまうのです。「玄武門の変」といいます。李淵は退位し、李世民が皇帝になります。李世民はクーデタにより兄を殺し、父を隠居させるという形で政権を奪ったのです。
しかし、残っている歴史書によると、建国時には「李淵は優柔不断だったが、李世民がイニシアティブを取って行動したので唐ができたのだ」、クーデタも「やられそうになったから、やった、正当防衛だ」ということになっています。本当かどうかは、大変に怪しいと思います。
岡田英弘によると、王朝の黎明(れいめい)期は、文書管理者たちが都合の悪いことは処分して消してしまっているのです。「建国者が偉かったので今の王朝が続いている」と美化し、場合によっては神格化し、いかに立派だったか、いかに優れていたかという美談だけが残される。正史は次の王朝、あるいは、もっと後になってから書かれるものですが、悪く書きたくとも記録がなければ書けません。
最後のほうの皇帝は混乱のさなかで整理する間がなく、残っている記録の幅が広いので、後世の人たちが悪く書こうと思えば、材料が豊富にそろっているのです。
とはいえ、李淵・李世民らは、隋の煬帝から部下の心が離れていくときに、数ある将軍の中から頭角を現しました。建国時にも、その後のクーデタにしても、ライバルたちを蹴落として李世民らが生き残ったということは、やはり政治力があったということです。李世民は有能な人ではあったのでしょう。
ところで唐の建国にあたっては、もう一つ重要な要素があります。実は北の突厥(とっけつ)帝国に援軍を要請したのです。隋の中の一地方を治める一将軍に過ぎなかった李淵らが勝てたのは突厥の援軍のおかげです。
突厥について、少し時代をさかのぼってお話しします。
6世紀半ば、モンゴル高原に突厥帝国ができます。領土を広げたのはムカン・カガンの時代で、1代で東は満洲の遼河、北はシベリアのバイカル湖、西はカスピ海にいたるまでを支配下に入れました。ユーラシア大陸の東西に広がる大帝国です。唐より大きい。
その頃、シナの北魏は西魏と東魏に分裂し、それぞれが対立しながら、まもなく西魏→北周、東魏→北斉と王朝が交代していきました。両王朝は突厥帝国に公主(皇帝の娘)を嫁がせ、貢ぎ物を送り、争うように突厥との関係を深めようとします。
突厥のほうは、そんな両者を手玉にとって高みの見物をしていました。ムカン・カガンの後を継いだ弟のタスバル・カガンは「私の南方にいる2人の息子さえ親孝行なら、何で物資の不足を心配する必要があろうか」といったそうです。2人の息子とは北斉と北周の皇帝たちのことです。つまり、分裂した北魏の後継国のライバル同士が突厥帝国に頭を下げて、「こちらの味方になってくれたら、貢ぎ物を差し上げます」と、へいこらしていたのです。
ところが、突厥のほうも国が大きくなりすぎて、583年に東西に分裂してしまいました。東突厥のイシュバラ・カガンの妻は、北周の皇族の娘、千金公主でした。分裂しても強国です。北周にとってかわった隋の文帝は、千金公主を自分の帝室の一員ということにして、名前を大義公主と変え、娘あつかいにしました。
同じ隣国でも高句麗は叩きますが、突厥との同盟は維持したい。それだけ突厥は強大だったのです。高句麗にしても煬帝が3回も遠征して失敗するのですから、なかなかに強いのですが、征服できると思える程度の小国でした。高句麗と突厥は、現代に例えるなら、北朝鮮とロシアの違いでしょうか。突厥のほうは到底つぶせない。つぶせないなら仲良くしておかなければならないということです。
時代は下って、隋は唐に代わります。唐建国にあたって突厥の援助を得た太宗李世民は、突厥帝国に対して友好的に振る舞いながら、様子を見ました。案の定、東突厥のイルリグ・カガン(頡利可汗)が同族をないがしろにし、ソグド人やシナ人などを重用したため、内部対立を起こします。その上、年々大雪が降り、家畜が死に、社会不安がつのりました。機を見た李世民は、突厥とは異なる鉄勒(てつろく)系の薛延陀(せつえんだ)部の族長と同盟し、630年、東突厥(突厥第1帝国)を滅ぼします。イルリグ・カガンは捕らえられて唐に送られました。
唐は、それまで下手に出ていたのに、しかも、建国にあたっては力を貸してもらったのに、すきを見て突厥を倒しました。立場逆転です。さらに、このとき同盟した薛延陀も646年に滅ぼしてしまいます。
それまで大帝国突厥のカガンを君主として仰いでいた北方の遊牧民の族長は、長安にやってきて、太宗にテングリ・カガンの称号を奉戴します。今や唐は突厥を吸収し、その上に立ったので、李世民がシナだけではなく北方全域の君主になりました。ちなみに、このとき史上初めて蒙兀(もうごつ/モンゴル)という部族の名前が記録に残ります。
敗戦後の突厥は唐の支配体制に組み込まれ、家来として俸給をもらって生きていました。しかし、その後、再起をはかり、ついに682年、陰山山脈付近を拠点として独立します(第2突厥帝国)。すると、唐支配に甘んじていたかつての同胞が集まってきました。
ちなみに、突厥は初めて文字を持った遊牧民とされ、ビルゲ・カガン(在位:716~734)の時代には民族主義的な内容の碑文が残されています。「タブガチ(拓跋、突厥は当時の唐を鮮卑族の拓跋氏族の建てた国と理解していました)の甘い言葉に惑わされてはならない。やわらかい絹や美食などに騙されるな。我らは遊牧民なのだ」と。
唐といえば、「国際的」「世界帝国」「中央アジアとのつながりが深かった」などと教科書で教わります。しかし、それまでそうでなかった民族、華北の「漢人」や江南の「タイ人+漢人」がいきなり「国際的」になるでしょうか。実は、唐が「国際的」なのは、中央アジアの人がやってきて長安に住んだからです。代々住み続けている人の意識が「国際的」になったのではなく、住む人の出自が「国際的」になったのです。
漢文で記録を残すので、一見、シナの王朝のようですが、その実、鮮卑族が王朝を建て、突厥人も入ってきました。同じような流れの中で中央アジアの人びともまた、やってきたのです。はっきりいえば、北と西に乗っ取られた状態です。
五胡十六国以来、どんどん外から人が入り続け、北魏を経て、隋・唐になったら、もっと来た。それまでは来なかったサマルカンドやタシュケント(現ウズベキスタン)から、長安だけでなく、今の北京の地にも人が移住してくるようになりました。
彼らの中には唐の政治や経済の中枢を担う者も現れました。日本の阿倍仲麻呂(698頃~770頃)は玄宗時代の唐で出世し、高官になりますが、けっして例外的な存在ではありません。向こうでは別に珍客あつかいされることもなかったでしょう。
唐は、様々な人種・民族の人びとの混在する世界帝国であり、長安は開けた首都でした。そのことに間違いはありませんが、その経緯をふまえると、世界史教科書から受ける印象とは全然違ったものに見えてくるのではないでしょうか。
逆に、それ以前に東夷・西戎・南蛮・北狄がどんなに入ってきても、交じっても「国際的」といわれなかったのは、唐代になって入ってきた中央アジア人ほど異質でなかったということでしょう。シナ人が元来、東夷・西戎・南蛮・北狄の混血であるなら、それも不思議はありません。
それにしても、唐の皇帝は、それら諸民族をまとめていたのですから、なかなか大したものだと思います。漢人をおさえ、北方の遊牧民も従えます。李世民の治世についての記録は大いに美化されてもいるのでしょうが、事実関係を拾っただけでも「貞観(じょうがん)の治」と讃えられるだけのことはあります。
そして、ついには高句麗を降します。644年に行なった李世民の高句麗遠征は失敗するのですが、次代の高宗(628~683、在位:649~683)が668年に高句麗を滅ぼし、唐の支配下に入れます。日本が百済に援軍を出し白村江で大敗したのはこの直前のことです。その後の日本の政治・外交の舵取りに大きな影響を与えた大事件です。
この時代に唐はチベット(吐蕃/とばん)とも関係します。当時のチベットは唐より強く、戦争に負けた唐がチベットに対して和を申し入れたりしています。640年、太宗は養女とした娘を文成公主としてチベットに嫁がせます。突厥が強ければ突厥に皇女(公主)を嫁がせ、チベットが強ければチベットに嫁がせるわけです。
「公主を嫁に」と要求したのはソンツェン・ガンポ王でしたが、王は息子のグンソン・グンツェン王に王位を譲り、文成公主は、この新王と結婚します。ところが、新王は3年後に落馬して死んでしまいました。しかたがないので、父親のソンツェン・ガンポが復位します。「文成公主をそのままチベットに留めて私の妃にします」と唐に使いを送ると、唐の太宗は快く承諾します。息子の嫁と義父が結婚したわけです。
これは儒教国ではありえないことです。唐自身、玄宗皇帝と楊貴妃とのロマンスが有名ですが、楊貴妃はもともと玄宗の息子、寿王李瑁(りぼう)の後宮にいた女性でした。それを父である玄宗が愛姫にしたのです。儒教道徳には反する行為で、いずれも唐の皇室が、いかに漢人(儒教徒)ではないかがわかるエピソードです。
遊牧民・狩猟民には、父の死後、実の母以外の(父の)妻を自分の妻として迎える風習があります。結婚とは同盟なので、君主であれば特に、父の結んだ他部族との同盟関係は後継者である息子も維持しなければなりません。生きた同盟である妻たちに帰られては困るのです。妻は家来をたくさん実家から連れてきています。財産もあります。それらを全部引き継ぐために、もう一度、息子が結婚するのです。もちろん実質的な夫婦関係を持つかどうかは別の話ですが。
唐にはシナ史で唯一皇帝になった女性がいます。高宗の皇后、則天武后(624~705、在位:690~705)です。夫の高宗は気も体も弱い人で、夫の在世中から「もう見ていられないわ」と武后が指図をし、683年に高宗が亡くなると、皇后自らが皇帝になってしまいました。
則天武后は漢を乗っ取った王莽が新を建てたように、短期間ではありますが周王朝を開きます。「皇后なのだし、そのまま唐でいいじゃないか」と思うかもしれませんが、男系ではない、つまり皇帝一族のものではない外戚なので王朝が変わります。則天武后は出身部族(武氏)を背負っているのです。ちなみに前漢・後漢の間に新を建てた王莽も外戚の一族でした。
要するに、李氏の唐が、武氏に乗っ取られ周になりました。
唐というと、奈良時代の日本が律令制度のモデルとした国として習いますから、日本人は、よほど優れた立派な国だったのだろうと思い込んでいます。しかし、この唐には、大きく四つ、初唐・盛唐・中唐・晩唐と時代区分があります。初唐末、則天武后の時代に府県制が崩れます。唐の皇族の多くを殺し、権力を武氏一族に集中させようとしたのですが、その過程で唐の政権基盤が大きく破壊されました。周は690~705年の15年間ですから、日本が奈良時代(710~)に入る直前の出来事です。
その後、則天武后の後継者を武后の実家である武氏から出すのか、李氏に戻すのか、議論があったようですが、結局、則天武后の息子、つまり、高宗の血を引く李朝の男系男子を皇帝とし、国号も唐に戻りました。
それにしても、なぜそんなに女が強いかというと、北方出身だからです。遊牧民・狩猟民は女性が強いのです。なにせ人が少なく、普段から離れて暮らしています。君主が亡くなり、次の君主を選ぶには、散り散りバラバラの一族や各部族の長を集めて集会を開かなければなりません。後継者が決まるまでは、とりあえず妻が政治を行ないます。監国皇后という言葉があり、そういうものとして社会に受け入れられています。たまたま強い性格の女が権力を握るのではないのです。
また、後継者が幼い場合も母(多くは先代の妻)が摂政として政治を行ないます。日本では父子・兄弟など男性親族が摂政になりますが、遊牧民出身の王朝は基本的に女性親族がその役割を担います。また、息子が成長した後も、母が口を出します。女性の発言権はけっこう大きいのです。
則天武后が壊した唐の基盤を、孫の玄宗(685~762、在位:712~756)が持ち直しました。その時代を「盛唐」といいます。日本の奈良時代前期と重なります。しかし、755年、安禄山(あんろくざん)・史思明の乱(安史の乱)が起こります。
国際帝国だから、遠くから異民族がやってくる。しかし、あまり中央に入れたくない。辺境でそのまま駐屯して、自力で防衛しているようにと留めておいたら、その総大将である節度史が反乱を起こしたというのが「安禄山・史思明の乱」です。
乱を主導した安禄山は、母が突厥の巫女(シャマン)で、父がイラン系ソグド人です。「安禄山」はシナ人のような名前ですが、幼名を軋犖山(あつらくざん)といい、Alexandrosの音、またはソグド語で「光」を意味するロクシャンroxanの音をあてたとされます。(竺沙雅章・藤吉真澄『アジアの歴史と文化2 中国史―中世』同朋舎出版、1995年、152頁)
安禄山は現在の北京あたりを本拠地とする節度使でした。もう1人の乱の指導者である史思明も安禄山と同様、突厥とソグド人の混血です。安禄山は玄宗の寵を得て、複数箇所の節度使を兼任し、しかも、平均して2年任期のところを長期間務め、節度使総兵力の約4割を手中に収めていました。
しかし、宰相・楊国忠が安禄山を中傷します。玄宗の寵姫・楊貴妃の従兄弟である楊国忠は玄宗の側近として中央にあり、皇帝の寵を競うには安禄山より有利でした。安禄山は失脚の危機を感じて乱を起こすのです(前掲『アジアの歴史と文化2 中国史―中世』153~155頁)
反乱軍は北京から長安に向けて押し寄せてきます。洛陽が陥落し、さらに西へ、長安の目と鼻の先にやってきます。玄宗皇帝一行は都を逃げ出し蜀(四川省)に向かいました。楊国忠と楊貴妃も当然、同行します。
しかし、そもそも楊国忠の専横によって安禄山と史思明の反乱が引き起こされたのですから、不満を持った警護の兵士たちに楊国忠は殺されてしまいます。楊貴妃もまた縊り(くびり)殺されました。長安から、ほんの少し西に移動したところでの悲劇でした。側近と寵妃を殺され、玄宗は泣きながら成都に向かいます。
ところで、漢文の時間に唐詩を習いますね。実は、杜甫や李白、白楽天など、日本人が大好きな詠み手はみな、出身は鮮卑など、漢人ではない人たちです。唐詩が素敵なのは、「四書五経」などの先例に頼ることなく、つまり、もともとあった語彙を使わず、それでいて漢詩の型は使って、自分の話し言葉による発想を、習い覚えた漢字で表現しているからです。
遊牧民は歌や踊りが大好きです。彼らが自分たちの言葉でいつも歌っていた詩を漢詩にしたので、漢詩に新しい息吹が吹き込まれました。歌い込まれた情景が詩的で美しく、それをまた日本語で詠むから、その気持ちが伝わる。だから日本人は唐詩が好きなのです。漢詩といえば唐詩というぐらい、唐詩以外の詩は、あまり人気がありません。気持ちがこもっておらず、魅力がないのです。
混乱のさなかの756年、皇太子の粛宗が霊武(現・寧夏回族自治区)で即位し、父の玄宗は退位します。安史の乱への反撃は粛宗が中心となって行ないます。このときは突厥のあとでモンゴル高原の派遣を握ったウイグル(回鶻、今のウイグルではありません)に助けを求め、なんとか鎮圧に成功します。またしても他の種族を使いました。
周辺民族に辺境防衛をまかせ、節度使の反乱を招く。しかも助っ人を異民族に頼む。こんな状態で「盛唐」です。「盛り」を過ぎた中唐・晩唐は推して知るべし。乱を鎮定したからといって平安な世の中になるわけがありません。状況はひどくなる一方です。最後の晩唐には、節度使たちが勝手なことばかりするので、もはや唐は中央集権を保つことができなくなり、部族主義に戻ってしまいました。唐という国があることによって利する人たちがいるので、なんとか国が崩壊しないで続いているという状態になります。
日本では、894年に菅原道真の建議で遣唐使が廃止されます。日本人は唐の実情を見て、「遣唐使なんかいらない」と正しい判断を下しました。
隋・唐が、それぞれ偉業を成し遂げた大帝国であったことは間違いありません。ただ、普通の日本人が持っているイメージとはだいぶ違う国だったということです。(宮脇淳子)
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唐を開く高祖・李淵(565~635、在位:618~626)は隋の煬帝(ようだい)の臣下で太原の軍司令官でした。煬帝から人心が離れ、部下に裏切られて殺害されると、さっそく兵を挙げ、長安を落として根拠地とし、唐を建てます。
シナの皇帝の名前(といっても死後に贈られる廟号ですが)はある意味で合理的についています。必ずではありませんが王朝の始祖には「高祖」「太祖」など「祖」をつけ、2番目を「太宗」とします。それ以後は特に決まっていません。もう一度「祖」がつく場合もあります。例えば、モンゴル帝国は1代目が太祖チンギス、2代目が太宗オゴデイですが、5代目の世祖フビライにはもう一度「祖」がつきました。元を創始したからです。
モンゴル帝国は太祖チンギスのほうが、太宗オゴデイよりはるかに有名ですが、唐は高祖李淵より太宗李世民(李淵の次男)のほうが有名です。初代の李淵は「何をしていたの?」といいたくなるぐらい影が薄い。受験では「618年に李淵が唐を建てた」と覚えさせられますが、それだけです。また、李淵についての記述は、全て李世民時代以後に書かれたものなので、李世民に都合よく書かれています。
李淵は皇帝になると、長男の李建成を皇太子とし、次男の李世民を秦王としました。しかし626年、李世民は兄の皇太子・李建成と弟の斉王・李元吉を殺してしまうのです。「玄武門の変」といいます。李淵は退位し、李世民が皇帝になります。李世民はクーデタにより兄を殺し、父を隠居させるという形で政権を奪ったのです。
しかし、残っている歴史書によると、建国時には「李淵は優柔不断だったが、李世民がイニシアティブを取って行動したので唐ができたのだ」、クーデタも「やられそうになったから、やった、正当防衛だ」ということになっています。本当かどうかは、大変に怪しいと思います。
岡田英弘によると、王朝の黎明(れいめい)期は、文書管理者たちが都合の悪いことは処分して消してしまっているのです。「建国者が偉かったので今の王朝が続いている」と美化し、場合によっては神格化し、いかに立派だったか、いかに優れていたかという美談だけが残される。正史は次の王朝、あるいは、もっと後になってから書かれるものですが、悪く書きたくとも記録がなければ書けません。
最後のほうの皇帝は混乱のさなかで整理する間がなく、残っている記録の幅が広いので、後世の人たちが悪く書こうと思えば、材料が豊富にそろっているのです。
とはいえ、李淵・李世民らは、隋の煬帝から部下の心が離れていくときに、数ある将軍の中から頭角を現しました。建国時にも、その後のクーデタにしても、ライバルたちを蹴落として李世民らが生き残ったということは、やはり政治力があったということです。李世民は有能な人ではあったのでしょう。
◆唐の建国は突厥帝国のおかげ~しかし恩を仇で返されて……
ところで唐の建国にあたっては、もう一つ重要な要素があります。実は北の突厥(とっけつ)帝国に援軍を要請したのです。隋の中の一地方を治める一将軍に過ぎなかった李淵らが勝てたのは突厥の援軍のおかげです。
突厥について、少し時代をさかのぼってお話しします。
6世紀半ば、モンゴル高原に突厥帝国ができます。領土を広げたのはムカン・カガンの時代で、1代で東は満洲の遼河、北はシベリアのバイカル湖、西はカスピ海にいたるまでを支配下に入れました。ユーラシア大陸の東西に広がる大帝国です。唐より大きい。
その頃、シナの北魏は西魏と東魏に分裂し、それぞれが対立しながら、まもなく西魏→北周、東魏→北斉と王朝が交代していきました。両王朝は突厥帝国に公主(皇帝の娘)を嫁がせ、貢ぎ物を送り、争うように突厥との関係を深めようとします。
突厥のほうは、そんな両者を手玉にとって高みの見物をしていました。ムカン・カガンの後を継いだ弟のタスバル・カガンは「私の南方にいる2人の息子さえ親孝行なら、何で物資の不足を心配する必要があろうか」といったそうです。2人の息子とは北斉と北周の皇帝たちのことです。つまり、分裂した北魏の後継国のライバル同士が突厥帝国に頭を下げて、「こちらの味方になってくれたら、貢ぎ物を差し上げます」と、へいこらしていたのです。
ところが、突厥のほうも国が大きくなりすぎて、583年に東西に分裂してしまいました。東突厥のイシュバラ・カガンの妻は、北周の皇族の娘、千金公主でした。分裂しても強国です。北周にとってかわった隋の文帝は、千金公主を自分の帝室の一員ということにして、名前を大義公主と変え、娘あつかいにしました。
同じ隣国でも高句麗は叩きますが、突厥との同盟は維持したい。それだけ突厥は強大だったのです。高句麗にしても煬帝が3回も遠征して失敗するのですから、なかなかに強いのですが、征服できると思える程度の小国でした。高句麗と突厥は、現代に例えるなら、北朝鮮とロシアの違いでしょうか。突厥のほうは到底つぶせない。つぶせないなら仲良くしておかなければならないということです。
時代は下って、隋は唐に代わります。唐建国にあたって突厥の援助を得た太宗李世民は、突厥帝国に対して友好的に振る舞いながら、様子を見ました。案の定、東突厥のイルリグ・カガン(頡利可汗)が同族をないがしろにし、ソグド人やシナ人などを重用したため、内部対立を起こします。その上、年々大雪が降り、家畜が死に、社会不安がつのりました。機を見た李世民は、突厥とは異なる鉄勒(てつろく)系の薛延陀(せつえんだ)部の族長と同盟し、630年、東突厥(突厥第1帝国)を滅ぼします。イルリグ・カガンは捕らえられて唐に送られました。
唐は、それまで下手に出ていたのに、しかも、建国にあたっては力を貸してもらったのに、すきを見て突厥を倒しました。立場逆転です。さらに、このとき同盟した薛延陀も646年に滅ぼしてしまいます。
それまで大帝国突厥のカガンを君主として仰いでいた北方の遊牧民の族長は、長安にやってきて、太宗にテングリ・カガンの称号を奉戴します。今や唐は突厥を吸収し、その上に立ったので、李世民がシナだけではなく北方全域の君主になりました。ちなみに、このとき史上初めて蒙兀(もうごつ/モンゴル)という部族の名前が記録に残ります。
敗戦後の突厥は唐の支配体制に組み込まれ、家来として俸給をもらって生きていました。しかし、その後、再起をはかり、ついに682年、陰山山脈付近を拠点として独立します(第2突厥帝国)。すると、唐支配に甘んじていたかつての同胞が集まってきました。
ちなみに、突厥は初めて文字を持った遊牧民とされ、ビルゲ・カガン(在位:716~734)の時代には民族主義的な内容の碑文が残されています。「タブガチ(拓跋、突厥は当時の唐を鮮卑族の拓跋氏族の建てた国と理解していました)の甘い言葉に惑わされてはならない。やわらかい絹や美食などに騙されるな。我らは遊牧民なのだ」と。
◆「世界帝国」唐の実態~中央アジアの遊牧民がつくった国
唐といえば、「国際的」「世界帝国」「中央アジアとのつながりが深かった」などと教科書で教わります。しかし、それまでそうでなかった民族、華北の「漢人」や江南の「タイ人+漢人」がいきなり「国際的」になるでしょうか。実は、唐が「国際的」なのは、中央アジアの人がやってきて長安に住んだからです。代々住み続けている人の意識が「国際的」になったのではなく、住む人の出自が「国際的」になったのです。
漢文で記録を残すので、一見、シナの王朝のようですが、その実、鮮卑族が王朝を建て、突厥人も入ってきました。同じような流れの中で中央アジアの人びともまた、やってきたのです。はっきりいえば、北と西に乗っ取られた状態です。
五胡十六国以来、どんどん外から人が入り続け、北魏を経て、隋・唐になったら、もっと来た。それまでは来なかったサマルカンドやタシュケント(現ウズベキスタン)から、長安だけでなく、今の北京の地にも人が移住してくるようになりました。
彼らの中には唐の政治や経済の中枢を担う者も現れました。日本の阿倍仲麻呂(698頃~770頃)は玄宗時代の唐で出世し、高官になりますが、けっして例外的な存在ではありません。向こうでは別に珍客あつかいされることもなかったでしょう。
唐は、様々な人種・民族の人びとの混在する世界帝国であり、長安は開けた首都でした。そのことに間違いはありませんが、その経緯をふまえると、世界史教科書から受ける印象とは全然違ったものに見えてくるのではないでしょうか。
逆に、それ以前に東夷・西戎・南蛮・北狄がどんなに入ってきても、交じっても「国際的」といわれなかったのは、唐代になって入ってきた中央アジア人ほど異質でなかったということでしょう。シナ人が元来、東夷・西戎・南蛮・北狄の混血であるなら、それも不思議はありません。
それにしても、唐の皇帝は、それら諸民族をまとめていたのですから、なかなか大したものだと思います。漢人をおさえ、北方の遊牧民も従えます。李世民の治世についての記録は大いに美化されてもいるのでしょうが、事実関係を拾っただけでも「貞観(じょうがん)の治」と讃えられるだけのことはあります。
そして、ついには高句麗を降します。644年に行なった李世民の高句麗遠征は失敗するのですが、次代の高宗(628~683、在位:649~683)が668年に高句麗を滅ぼし、唐の支配下に入れます。日本が百済に援軍を出し白村江で大敗したのはこの直前のことです。その後の日本の政治・外交の舵取りに大きな影響を与えた大事件です。
◆息子の嫁と義父が結婚~遊牧民と漢人の道徳感の違い
この時代に唐はチベット(吐蕃/とばん)とも関係します。当時のチベットは唐より強く、戦争に負けた唐がチベットに対して和を申し入れたりしています。640年、太宗は養女とした娘を文成公主としてチベットに嫁がせます。突厥が強ければ突厥に皇女(公主)を嫁がせ、チベットが強ければチベットに嫁がせるわけです。
「公主を嫁に」と要求したのはソンツェン・ガンポ王でしたが、王は息子のグンソン・グンツェン王に王位を譲り、文成公主は、この新王と結婚します。ところが、新王は3年後に落馬して死んでしまいました。しかたがないので、父親のソンツェン・ガンポが復位します。「文成公主をそのままチベットに留めて私の妃にします」と唐に使いを送ると、唐の太宗は快く承諾します。息子の嫁と義父が結婚したわけです。
これは儒教国ではありえないことです。唐自身、玄宗皇帝と楊貴妃とのロマンスが有名ですが、楊貴妃はもともと玄宗の息子、寿王李瑁(りぼう)の後宮にいた女性でした。それを父である玄宗が愛姫にしたのです。儒教道徳には反する行為で、いずれも唐の皇室が、いかに漢人(儒教徒)ではないかがわかるエピソードです。
遊牧民・狩猟民には、父の死後、実の母以外の(父の)妻を自分の妻として迎える風習があります。結婚とは同盟なので、君主であれば特に、父の結んだ他部族との同盟関係は後継者である息子も維持しなければなりません。生きた同盟である妻たちに帰られては困るのです。妻は家来をたくさん実家から連れてきています。財産もあります。それらを全部引き継ぐために、もう一度、息子が結婚するのです。もちろん実質的な夫婦関係を持つかどうかは別の話ですが。
◆シナ史上、最初で最後の女帝・則天武后~北の女は強い!
唐にはシナ史で唯一皇帝になった女性がいます。高宗の皇后、則天武后(624~705、在位:690~705)です。夫の高宗は気も体も弱い人で、夫の在世中から「もう見ていられないわ」と武后が指図をし、683年に高宗が亡くなると、皇后自らが皇帝になってしまいました。
則天武后は漢を乗っ取った王莽が新を建てたように、短期間ではありますが周王朝を開きます。「皇后なのだし、そのまま唐でいいじゃないか」と思うかもしれませんが、男系ではない、つまり皇帝一族のものではない外戚なので王朝が変わります。則天武后は出身部族(武氏)を背負っているのです。ちなみに前漢・後漢の間に新を建てた王莽も外戚の一族でした。
要するに、李氏の唐が、武氏に乗っ取られ周になりました。
唐というと、奈良時代の日本が律令制度のモデルとした国として習いますから、日本人は、よほど優れた立派な国だったのだろうと思い込んでいます。しかし、この唐には、大きく四つ、初唐・盛唐・中唐・晩唐と時代区分があります。初唐末、則天武后の時代に府県制が崩れます。唐の皇族の多くを殺し、権力を武氏一族に集中させようとしたのですが、その過程で唐の政権基盤が大きく破壊されました。周は690~705年の15年間ですから、日本が奈良時代(710~)に入る直前の出来事です。
その後、則天武后の後継者を武后の実家である武氏から出すのか、李氏に戻すのか、議論があったようですが、結局、則天武后の息子、つまり、高宗の血を引く李朝の男系男子を皇帝とし、国号も唐に戻りました。
それにしても、なぜそんなに女が強いかというと、北方出身だからです。遊牧民・狩猟民は女性が強いのです。なにせ人が少なく、普段から離れて暮らしています。君主が亡くなり、次の君主を選ぶには、散り散りバラバラの一族や各部族の長を集めて集会を開かなければなりません。後継者が決まるまでは、とりあえず妻が政治を行ないます。監国皇后という言葉があり、そういうものとして社会に受け入れられています。たまたま強い性格の女が権力を握るのではないのです。
また、後継者が幼い場合も母(多くは先代の妻)が摂政として政治を行ないます。日本では父子・兄弟など男性親族が摂政になりますが、遊牧民出身の王朝は基本的に女性親族がその役割を担います。また、息子が成長した後も、母が口を出します。女性の発言権はけっこう大きいのです。
◆安史の乱とソグド人~楊貴妃一族の専横と節度使の反乱
則天武后が壊した唐の基盤を、孫の玄宗(685~762、在位:712~756)が持ち直しました。その時代を「盛唐」といいます。日本の奈良時代前期と重なります。しかし、755年、安禄山(あんろくざん)・史思明の乱(安史の乱)が起こります。
国際帝国だから、遠くから異民族がやってくる。しかし、あまり中央に入れたくない。辺境でそのまま駐屯して、自力で防衛しているようにと留めておいたら、その総大将である節度史が反乱を起こしたというのが「安禄山・史思明の乱」です。
乱を主導した安禄山は、母が突厥の巫女(シャマン)で、父がイラン系ソグド人です。「安禄山」はシナ人のような名前ですが、幼名を軋犖山(あつらくざん)といい、Alexandrosの音、またはソグド語で「光」を意味するロクシャンroxanの音をあてたとされます。(竺沙雅章・藤吉真澄『アジアの歴史と文化2 中国史―中世』同朋舎出版、1995年、152頁)
安禄山は現在の北京あたりを本拠地とする節度使でした。もう1人の乱の指導者である史思明も安禄山と同様、突厥とソグド人の混血です。安禄山は玄宗の寵を得て、複数箇所の節度使を兼任し、しかも、平均して2年任期のところを長期間務め、節度使総兵力の約4割を手中に収めていました。
しかし、宰相・楊国忠が安禄山を中傷します。玄宗の寵姫・楊貴妃の従兄弟である楊国忠は玄宗の側近として中央にあり、皇帝の寵を競うには安禄山より有利でした。安禄山は失脚の危機を感じて乱を起こすのです(前掲『アジアの歴史と文化2 中国史―中世』153~155頁)
反乱軍は北京から長安に向けて押し寄せてきます。洛陽が陥落し、さらに西へ、長安の目と鼻の先にやってきます。玄宗皇帝一行は都を逃げ出し蜀(四川省)に向かいました。楊国忠と楊貴妃も当然、同行します。
しかし、そもそも楊国忠の専横によって安禄山と史思明の反乱が引き起こされたのですから、不満を持った警護の兵士たちに楊国忠は殺されてしまいます。楊貴妃もまた縊り(くびり)殺されました。長安から、ほんの少し西に移動したところでの悲劇でした。側近と寵妃を殺され、玄宗は泣きながら成都に向かいます。
◆なぜ日本人は「唐詩」が好きなのか~伝統にはまらぬ文化
ところで、漢文の時間に唐詩を習いますね。実は、杜甫や李白、白楽天など、日本人が大好きな詠み手はみな、出身は鮮卑など、漢人ではない人たちです。唐詩が素敵なのは、「四書五経」などの先例に頼ることなく、つまり、もともとあった語彙を使わず、それでいて漢詩の型は使って、自分の話し言葉による発想を、習い覚えた漢字で表現しているからです。
遊牧民は歌や踊りが大好きです。彼らが自分たちの言葉でいつも歌っていた詩を漢詩にしたので、漢詩に新しい息吹が吹き込まれました。歌い込まれた情景が詩的で美しく、それをまた日本語で詠むから、その気持ちが伝わる。だから日本人は唐詩が好きなのです。漢詩といえば唐詩というぐらい、唐詩以外の詩は、あまり人気がありません。気持ちがこもっておらず、魅力がないのです。
混乱のさなかの756年、皇太子の粛宗が霊武(現・寧夏回族自治区)で即位し、父の玄宗は退位します。安史の乱への反撃は粛宗が中心となって行ないます。このときは突厥のあとでモンゴル高原の派遣を握ったウイグル(回鶻、今のウイグルではありません)に助けを求め、なんとか鎮圧に成功します。またしても他の種族を使いました。
周辺民族に辺境防衛をまかせ、節度使の反乱を招く。しかも助っ人を異民族に頼む。こんな状態で「盛唐」です。「盛り」を過ぎた中唐・晩唐は推して知るべし。乱を鎮定したからといって平安な世の中になるわけがありません。状況はひどくなる一方です。最後の晩唐には、節度使たちが勝手なことばかりするので、もはや唐は中央集権を保つことができなくなり、部族主義に戻ってしまいました。唐という国があることによって利する人たちがいるので、なんとか国が崩壊しないで続いているという状態になります。
日本では、894年に菅原道真の建議で遣唐使が廃止されます。日本人は唐の実情を見て、「遣唐使なんかいらない」と正しい判断を下しました。
隋・唐が、それぞれ偉業を成し遂げた大帝国であったことは間違いありません。ただ、普通の日本人が持っているイメージとはだいぶ違う国だったということです。(宮脇淳子)