【長州人が見た長州人1】月性

 幕末に駆け抜けた長州人たち。長州藩や薩摩藩が主導して明治維新が成し遂げられた後は、政府のなかで重きをなしたために、「長州閥」などと、とかく批判的に取り上げられることもありますが、しかし幕末の時期に、生死を顧みずに国事に奔走した人材を多数輩出したことも事実です。実際に、多くの長州人が非命に倒れています。そして後に続く者たちは、その犠牲を乗り越えて維新回天に挑み、さらに多くの者たちが斃れて(たおれて)いったのです。

 彼らの想いはいかなるものであったのか。日本の未来にいかなる希望を抱いていたのか。本稿では、長州出身の筆者が、ほとばしる長州愛に基づいて、長州人を描いていきます。

 第一回は、海防僧と称され、吉田松陰や松下村塾製にも大きな影響を与えた月性です。

◆「松下村塾」と並び称された「清狂草堂」


 幕末も戦国時代も、各地で群雄が割拠し、身分を超えて、誰にでも天下を動かすチャンスがあったという点で、相通ずるものがある。

 しかし、16世紀の戦国時代の人びとが武術や権謀術数でしのぎを削ったのに対して、幕末においては、思想と言論が大きな武器となった。そんな幕末動乱を語るうえで欠かせないのが「私塾」の存在ではないだろうか。

 私塾は江戸末期に急速に数を増やし、多くの若者が争うように入門して学んだ。その名のとおり「私人が開いたプライベートの学校」である。もっとも有名なのは、長州・萩の吉田松陰の松下村塾だろう。高杉晋作、久坂玄瑞(くさか・げんずい)、吉田稔麿(よしだ・としまろ)ら綺羅星(きらぼし)のごとき男たちが松下村塾で学んだ。

 しかし長州の私塾として忘れてはならないのが、月性の「清狂草堂」である。現在の山口県柳井市に開かれた同私塾は、長州において「西の松下村塾、東の草堂」と謳われ、維新の原動力となる人物を育てていった。尊王攘夷や海防の急を説く月性の学徳は評判を呼び、開塾とともに遠近各地から、入塾者たちが続々とつめかけた。そのなかには、後の明治維新で活躍する赤祢武人(あかね・たけと)や世良修蔵(せら・しゅうぞう)、大洲鉄然(おおず・てつねん)、大楽源太郎(だいらく・げんたろう)、入江石泉(いりえ・せきせん)、和真道(やまと・しんどう)、天地哲雄(あまち・てつお)など多くの人物が名を連ねていた。

 月性といえばよく、西郷隆盛とともに入水した僧・月照と混同されるが、言うまでもなくまったくの別人である。それでは、どのような人物であったのだろうか。

◆なぜ一僧侶が海防に目覚めたか


 海防僧――。これが月性の異名である。その言葉のとおり、文化14年(1817)、周防大島の妙円寺に生まれた月性は生涯、尊王攘夷や海防の重要性を訴えつづけた。

 月性は嘉永6年(1853)のペリー来航を待たずして、海防に目覚めていた。よく誤解されがちであるが、幕末の人びとは黒船で初めて異国の脅威を目の当たりにしたわけではない。当時の日本人は、様々な形で西洋列強のアジア侵略の状況をつかんでおり、これに対して強い危機感を抱く者が、対応策を考え始めていたのである。

 月性にとって大きかったのは、九州修学であった。彼は15歳のときに豊前(現在の大分県)で詩文を学び始めて以来、九州の各地で研鑽(けんさん)を積んだのだが、その間、長崎にも訪れている。長崎といえば、江戸時代に開港していたため、最新の海外事情を知ることができる土地だ。そこで月性が目の当たりにしたのが、航行するオランダ船であった。

 月性はなによりも、オランダ船の船体や備砲の巨大さに驚愕(きょうがく)したという。それは、当時の日本ではとても敵わない技術力であった。もしも、このような船が攻めてきたら、果たしてどうなるのか……。その脅威を「肌感覚」で知ればこそ、月性は日本の行く末を大いに憂い、国事に奔走し始めたのである。

 天保14年(1843)、27歳のときに月性は出郷し、大坂へ向かう。儒学者・條崎小竹(しのざき・しょうちく)が開く私塾・梅花塾に入るためだ。このときにつくったのが有名な「男児立志の詩」である。詩の内容は諸説あるが、ここでは地元の柳井市の記述に依拠して紹介しよう。

 男児志を立てて郷関を出づ 学若(も)し成る無くんば復(また)還らず

 埋骨何ぞ期せん墳墓の地 人間(じんかん)至る処 青山(せいざん)有り

 幕末に東奔西走した志士たちは、誰もが「覚悟」や「切迫感」を抱いて行動をしていた。そのなかでも、この月性の詩ほど胸を打たれるものはない。 自分は何をすべきであり、どう身を処すべきか――。そんな月性の強烈な想いが、ひしひしと伝わってくる詩ではないだろうか。

 そうして学をなした月性は、やがて故郷に還る。そして32歳のときに開塾したのが清狂草堂(別名・時習館)であったのだ。

◆維新へと突き進む長州人の礎


 月性を語るうえで欠かせないのが、吉田松陰との交流である。月性の信念に大いに共感した松陰は、ときには自身の松下村塾の授業を休みにしてまで塾生に月性の講義を受講させたという。また、『留魂録』では月性の護国論と吟稿を、松下村塾で出版して天下の同士に寄示(きし)するよう書き遺している。

 月性の主張は「過激」と見なされることもあり、ときに幕政の非議にも及んだために、しばしば幕吏に狙われたこともあったという。それでも彼は怯む(ひるむ)ことなく、海防の必要性を訴えつづけた。その姿はまさしく「やむにやまれぬ大和魂」と詠った松陰と通じるものがあり、長州男児の面目躍如といえるだろう。そして安政5年(1858)、月性は病のため、42歳の若さでその生涯を閉じるのである。

 時は流れて、明治40年(1907)の月性の50回忌に、清狂草堂の北側に記念碑が建てられた。篆額(てんがく)の「贈正四位月性師碑」は毛利元昭、碑文は山県有朋の撰であり、次のように記されている。

「余年甫めて十六、鈴木高鞆に従って月性を長門清光寺に訪う。月性高鞆と談尊攘の事に及ぶ、意気激昂、津々として巳まず。余甚だ之を壮とす」

「独り月性方外(僧)の身を以て憤慨義を唱え、君を愛し国を憂うる己に私より甚し」

 この文からも、月性の想いは受け継がれ、維新へと突き進む長州人の礎となったことが見て取れる。月性もまた、たしかに維新の立役者の一人であった。(池島友就)