2019.5.4 日本書紀
『日本書紀』は、「わが国最古の勅撰(ちょくせん=天皇や上皇の命により編纂〈へんさん〉すること)の正史」とされます。つまり、日本で初めての公式の歴史書です。
もちろん『日本書紀』以前にも記録資料があって、そのような資料をまとめるかたちで『日本書紀』は編纂されたようで、『日本書紀』には、本文の後に注のようなかたちで、「一書に曰く」として、様々な別説が記述されています。たとえば神代に収録されているイザナギ・イザナミにまつわる話などは、最大で11種の書を参考に別説が紹介されているのです。
いずれにしても現存している最古の公式な史書は『日本書紀』です。ということは、『日本書紀』に書かれている歴史記事はすべて、公式という意味で初出です。つまり、「初めてアルアル」の宝庫でもあるのです。
今回は、「かき氷と夏の氷」について見てみましょう。
かき氷(?)が清少納言の『枕草子』(西暦1000年頃に成立)に出てくることはとてもよく知られています。近年、かき氷がいわゆる「スイーツ」の仲間入りをして流行(はや)り、ウンチクのひとつとしてさらに有名になりました。『枕草子』の写本によって四十九段とか四十二段とか段数に違いはありますが、「あてなるもの=上品なもの」を集めた段に、「削り氷(けづりひ)にあまづら入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」という一文が出てきます。
「あまづら」というのはブドウ科のつる草からつくったと考えられている甘味料です。金鋺は金属製のお椀(わん)で、平安当時はだいたいが銀製です。新しい金鋺としてあるのがポイントでしょう。黒ずんでいない、新品の、きらきらの銀のお椀ということです。
さて、これは、かき氷なのでしょうか。「削り氷にあまづら入れて」ということで、削った氷に甘いシロップをかけた感じもありますが、どうして「かけて」ではなくて「入れて」なのでしょう。一部の写本には「削り氷“の”あまづら入れて」としてあるものもあります。こうなるとあまづらの方が主で、甘い汁の中に削った氷を入れて、という「飲み物」の感じになります。
もうひとつ、気になることがあります。夏に氷だなんて珍しい、などということは一切書いてありません。なぜでしょうか。
実は『枕草子』から280年前の養老元年(720)に完成した『日本書紀』に、すでに「夏の氷」についても書かれているのです。
第16代仁徳天皇の巻、62年夏5月にこんな記事があります。額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が猟に出かけて妙な仕掛けを見つけます。土地(奈良県都祁村とされています)の主によれば「氷室」で、「地面に1丈(3m強)の穴を掘って茅(かや)やススキを厚く敷き、冬の内に取っておいた氷を収めて蓋(ふた)をしておく。夏を越えても氷はなくならない。暑い時期に水酒に浸すなどして使う」とのこと。皇子がその氷を御所に奉ったところ、天皇は大いに喜び、以降、必ず氷を蓄え、春分の時期を待って氷を宮中で配る習慣になった、という記事です。これが日本の冷蔵庫および天然氷活用の初出です。
平安時代の宮中には、主水司(もひとりのつかさ)という飲食用の水を司る(つかさどる)役職がありました。氷の調達も仕事のひとつです。
この役職の任務に関する行政指導書「延喜主水式」では、氷の提供は4月1日から9月30日までとされていました。つまり、夏場、平安の宮中に氷があることなど、常識であたりまえのことでした。
仁徳天皇の時代から数えてすでに数百年以上の伝統です。だから、清少納言はわざわざ「夏」などとは、あえて書き立てていないのです。
それに、清少納言が「削り氷にあまづら」うんぬんといっている段は「あてなるもの=上品なもの」がテーマです。涼味ではなく、銀のお椀に氷の様子の美しさが主眼でしょう。
「削り氷」というのも、削った、というのは氷が量的に貴重なものだったからで、かき氷と言うよりは、あまづらの汁に氷を浮かべたか、あるいは氷を浮かべた水にあまづらを加えたか、どちらにしても飲み物といった方が正しいかもしれません。
日本書紀にあるように「浸して」という氷の使い方は、江戸時代まで変わりません。土蔵造りの氷室が江戸市中につくられるようになって氷が庶民の口に入り始めますが、水屋という「棒手振り(ぼてふり)」(天秤棒に商品をぶら下げて、担いで売り歩く)と呼ばれる商人がもっぱら、川から汲んだ水に氷片を浮かべて飲ませていたようです。川水ですから特に高齢者は腹をこわすことが多く、これが「年寄りの冷や水」の由来だともいわれています。
江戸幕府はといえば、6月1日を「賜氷の節句(しひょうのせっく)」と定めていました。加賀藩の金沢城内の氷室から江戸城に氷が届く日です。桐の箱に筵(むしろ)と笹の葉でパッキングし、大名飛脚が4人1組で担ぎ、普通の飛脚なら10日かかるところを5日程で運んだそうです。ただし、これは冬に降った雪を土中に埋めて保存しておいたもので、土や塵(ちり)が混じり、口にするようなものではなかったようです。
ちなみに、アンモニアを使って氷を人工的につくる方法は幕末にはすでに知られていたようですが、製氷の事業化は1883年(明治16年)の東京製氷会社という法人の設立に始まります。今のようなかき氷をつくる、取っ手を回す氷削機は明治中頃の発明品です。(尾崎克之)
参考文献:
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年
『新編日本古典文学全集 枕草子』松尾聡・永井和子・訳注、小学館、1997年
『日本古代食事典』永山久夫・著、東洋書林、1998年
『新訂 東都歳事記』市古夏生・鈴木健一・校訂、筑摩書房、2001年
もちろん『日本書紀』以前にも記録資料があって、そのような資料をまとめるかたちで『日本書紀』は編纂されたようで、『日本書紀』には、本文の後に注のようなかたちで、「一書に曰く」として、様々な別説が記述されています。たとえば神代に収録されているイザナギ・イザナミにまつわる話などは、最大で11種の書を参考に別説が紹介されているのです。
いずれにしても現存している最古の公式な史書は『日本書紀』です。ということは、『日本書紀』に書かれている歴史記事はすべて、公式という意味で初出です。つまり、「初めてアルアル」の宝庫でもあるのです。
今回は、「かき氷と夏の氷」について見てみましょう。
◆『枕草子』に出てくる「かき氷」の正体とは
かき氷(?)が清少納言の『枕草子』(西暦1000年頃に成立)に出てくることはとてもよく知られています。近年、かき氷がいわゆる「スイーツ」の仲間入りをして流行(はや)り、ウンチクのひとつとしてさらに有名になりました。『枕草子』の写本によって四十九段とか四十二段とか段数に違いはありますが、「あてなるもの=上品なもの」を集めた段に、「削り氷(けづりひ)にあまづら入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」という一文が出てきます。
「あまづら」というのはブドウ科のつる草からつくったと考えられている甘味料です。金鋺は金属製のお椀(わん)で、平安当時はだいたいが銀製です。新しい金鋺としてあるのがポイントでしょう。黒ずんでいない、新品の、きらきらの銀のお椀ということです。
さて、これは、かき氷なのでしょうか。「削り氷にあまづら入れて」ということで、削った氷に甘いシロップをかけた感じもありますが、どうして「かけて」ではなくて「入れて」なのでしょう。一部の写本には「削り氷“の”あまづら入れて」としてあるものもあります。こうなるとあまづらの方が主で、甘い汁の中に削った氷を入れて、という「飲み物」の感じになります。
◆仁徳天皇に献上された「氷室の氷」
もうひとつ、気になることがあります。夏に氷だなんて珍しい、などということは一切書いてありません。なぜでしょうか。
実は『枕草子』から280年前の養老元年(720)に完成した『日本書紀』に、すでに「夏の氷」についても書かれているのです。
第16代仁徳天皇の巻、62年夏5月にこんな記事があります。額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が猟に出かけて妙な仕掛けを見つけます。土地(奈良県都祁村とされています)の主によれば「氷室」で、「地面に1丈(3m強)の穴を掘って茅(かや)やススキを厚く敷き、冬の内に取っておいた氷を収めて蓋(ふた)をしておく。夏を越えても氷はなくならない。暑い時期に水酒に浸すなどして使う」とのこと。皇子がその氷を御所に奉ったところ、天皇は大いに喜び、以降、必ず氷を蓄え、春分の時期を待って氷を宮中で配る習慣になった、という記事です。これが日本の冷蔵庫および天然氷活用の初出です。
平安時代の宮中には、主水司(もひとりのつかさ)という飲食用の水を司る(つかさどる)役職がありました。氷の調達も仕事のひとつです。
この役職の任務に関する行政指導書「延喜主水式」では、氷の提供は4月1日から9月30日までとされていました。つまり、夏場、平安の宮中に氷があることなど、常識であたりまえのことでした。
仁徳天皇の時代から数えてすでに数百年以上の伝統です。だから、清少納言はわざわざ「夏」などとは、あえて書き立てていないのです。
◆「年寄りの冷や水」の由来?
それに、清少納言が「削り氷にあまづら」うんぬんといっている段は「あてなるもの=上品なもの」がテーマです。涼味ではなく、銀のお椀に氷の様子の美しさが主眼でしょう。
「削り氷」というのも、削った、というのは氷が量的に貴重なものだったからで、かき氷と言うよりは、あまづらの汁に氷を浮かべたか、あるいは氷を浮かべた水にあまづらを加えたか、どちらにしても飲み物といった方が正しいかもしれません。
日本書紀にあるように「浸して」という氷の使い方は、江戸時代まで変わりません。土蔵造りの氷室が江戸市中につくられるようになって氷が庶民の口に入り始めますが、水屋という「棒手振り(ぼてふり)」(天秤棒に商品をぶら下げて、担いで売り歩く)と呼ばれる商人がもっぱら、川から汲んだ水に氷片を浮かべて飲ませていたようです。川水ですから特に高齢者は腹をこわすことが多く、これが「年寄りの冷や水」の由来だともいわれています。
江戸幕府はといえば、6月1日を「賜氷の節句(しひょうのせっく)」と定めていました。加賀藩の金沢城内の氷室から江戸城に氷が届く日です。桐の箱に筵(むしろ)と笹の葉でパッキングし、大名飛脚が4人1組で担ぎ、普通の飛脚なら10日かかるところを5日程で運んだそうです。ただし、これは冬に降った雪を土中に埋めて保存しておいたもので、土や塵(ちり)が混じり、口にするようなものではなかったようです。
ちなみに、アンモニアを使って氷を人工的につくる方法は幕末にはすでに知られていたようですが、製氷の事業化は1883年(明治16年)の東京製氷会社という法人の設立に始まります。今のようなかき氷をつくる、取っ手を回す氷削機は明治中頃の発明品です。(尾崎克之)
参考文献:
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年
『新編日本古典文学全集 枕草子』松尾聡・永井和子・訳注、小学館、1997年
『日本古代食事典』永山久夫・著、東洋書林、1998年
『新訂 東都歳事記』市古夏生・鈴木健一・校訂、筑摩書房、2001年