『日本書紀』は、「初めてアルアル」の宝庫です。なぜなら、日本最古の国家「公式」の歴史書が『日本書紀』だからです。720年に完成しました。『古事記』はその8年ほど前にすでにできていたことになっていますが、こちらは太安万侶(おおの・やすまろ)という文官が「献上」したという歴史書です。
20世紀フランス屈指の人類学者レヴィ・ストロースは、「『古事記』はより文学的、『日本書紀』はより学者風」といいました。これは十中八九、18世紀江戸の国学者・本居宣長(もとおり・のりなが)の「古事記は古来の言葉を素直に伝えようとしている。日本書紀は漢籍(からぶみ。中国史書)に似せようとしている」という『日本書紀』評のパクリです。同じことをいっていますが、宣長の方は、レヴィ・ストロースがほめる『日本書紀』が大嫌いです。
今回ピックアップするのは、初めての「お弁当」です。「より学者風」に見ていくことにしましょう。古来、お米はどんなふうに食べられてきたか、といった話でもあります。
結論から先にいいますと、『日本書紀』に初めて登場するお弁当つまり携帯食は「糒(ほしひ)」。天日で乾燥させた米です。第19代の允恭(いんぎょう)天皇7年冬12月1日にこんな記事があります。
天皇が皇后の妹・弟姫(おとひめ)を好きになります。弟姫は皇后の心情を気にして近江の坂田の屋敷に引きこもったきり、出てきません。天皇は、舎人(とねり)つまり身の回りお世話役の臣下・中臣烏賊津使主(なかとみの・いかつのおみ)に、姫をここに連れてこい、と命じます。
烏賊津使主は、「糒をきぬの中につつみて」坂田へ向かいます。「きぬの中に」というのは、衣服の懐中に、という意味です。烏賊津使主は携帯食・糒を懐に用意して出発しました。つまりこれが「お弁当」の初出です。実は後でこれが効果を発揮します。
「皇后のお心を傷つけたくないから死んでも参らない」という弟姫に烏賊津使主は、「連れて帰らねば殺される。だからここで私は死ぬ」といって弟姫の屋敷の庭に出ます。
烏賊津使主は7日間、庭で身を伏せたままねばります。弟姫が出す「飲食(みづいひ)」は一切口にせず、餓死するぞ、と脅迫を続けます。ところが烏賊津使主は、隠れてひそかに懐中の糒を食べてしのいでいるわけです。ついに弟姫はねばり負けして、烏賊津使主とともに天皇のもとへ向かいます。
知恵者・烏賊津使主の携帯食たる糒あってこその作戦大成功といったお話なのですが、さて、この「糒」は具体的にどんな食べ物だったのでしょうか。
明治時代中期から大正時代初期にかけて政府が刊行した百科事典『故事類苑』「飲食部」には、「モチ米を蒸して乾燥せしめたるものなり。あるいはアワ、キビにて製したるもあり。古くは兵士の糧食および旅行の用に供したるのみならず、あるいは日常の食用に供したることもあり」とあります。つまり、近代になって書かれた『故事類苑』にしたがえば、糒の素材はモチ米です。
私たちが今、日頃食べているお米はウルチ米です。お餅やお赤飯などに使われているモチ米との違いはおなじみでしょう。植物学的には、モチ米はウルチ米の突然変異です。突然変異を起こしたのは約5千年前のインドシナ半島にて、と研究されていますから、『日本書紀』の時代には当然、ウルチ米とモチ米の2種類がありました。それでは当時、ウルチ米とモチ米の2種類はちゃんと意識して区別されていたのでしょうか。
糒(ほしひ)は平安期以降、乾飯(かれいい)などと呼ばれるようになります。『伊勢物語』に「一同が涙を落とすものだから乾飯がふやけてしまった」という有名な一節があることから、昔の人は乾飯ばかり食べていた、つまりモチ米ばかり食べていた、あるいはウルチ米とモチ米の区別はついていなかったと思われがちですが、それは誤解です。
平安中期の行政細則『延喜式』に「年料舂米(ねんりょうしょうまい)」という、諸国から毎年一定量の米を納めさせる制度の記録が残っています。ウルチ米とモチ米は、はっきりと区別されていました。ある年の記録として、22ヶ国から大炊寮(おおいのつかさ)に白米17,330斛(さか。1斛は約180リットル)とモチ米260斛が納められています。大炊寮とは宮内省管轄の米の管理を司る役所です。
延喜式の記録から推計すると、当時のモチ米の生産量は米全体の1.5パーセント程度です。今の日本はどうかというと、農林水産省発表の2013年度「生産者の米穀在庫等調査」からの推計で、モチ米の生産量は米全体の約3パーセントです。それほど大きく変わりません。『日本書紀』の時代から今日まで、日本人は変わらずウルチ米を好んで食べてきたというわけです。
ただし、その料理方法は今と少し違います。モチ米は今も蒸しますが、ウルチ米は今のように、いわゆる「炊く」ものではなく「煮る」ものでした。
今でいう「めし」にあたるものは、少なくとも平安時代には「粥(かゆ)」です。粥とは言っても、「固粥(かたかゆ)」と「汁粥(しるかゆ)」がありました。固粥が「めし」にあたります。汁粥が「おかゆ」です。
『源氏物語』には、粥と一緒に「強飯(こわいい)」を食べるシーンが出てきます。強飯は今でいう「おこわ」のことで、モチ米を蒸してつくります。これを天日で干したのが「糒=乾飯」ということになりますが、粥と強飯、どちらかを選んで食べたものか、もしくはどちらかをおかずがわりにダブル炭水化物で食べたものかはわかりません。
今のような、ふっくらごはん、になるのは江戸時代の中期、厚くて重い蓋(ふた)をした釜を使う「炊き干し法」が登場してからのことです。炊き干し法とは、いわゆる「はじめチョロチョロなかパッパ」です。現在の高性能炊飯器はこれの完璧再現を目指したAI機器ということになります。(尾崎克之)
参考文献:
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年
『日本古代食事典』永山久夫・著、東洋書林、1998年
『日文研フォーラム講演「世界の中の日本文化」』大橋保夫・訳、1988年
『古事記伝(一)』本居宣長、倉野憲治・校訂、岩波書店、1940年
20世紀フランス屈指の人類学者レヴィ・ストロースは、「『古事記』はより文学的、『日本書紀』はより学者風」といいました。これは十中八九、18世紀江戸の国学者・本居宣長(もとおり・のりなが)の「古事記は古来の言葉を素直に伝えようとしている。日本書紀は漢籍(からぶみ。中国史書)に似せようとしている」という『日本書紀』評のパクリです。同じことをいっていますが、宣長の方は、レヴィ・ストロースがほめる『日本書紀』が大嫌いです。
今回ピックアップするのは、初めての「お弁当」です。「より学者風」に見ていくことにしましょう。古来、お米はどんなふうに食べられてきたか、といった話でもあります。
◆知恵者・烏賊津使主(いかつのおみ)の携帯食
結論から先にいいますと、『日本書紀』に初めて登場するお弁当つまり携帯食は「糒(ほしひ)」。天日で乾燥させた米です。第19代の允恭(いんぎょう)天皇7年冬12月1日にこんな記事があります。
天皇が皇后の妹・弟姫(おとひめ)を好きになります。弟姫は皇后の心情を気にして近江の坂田の屋敷に引きこもったきり、出てきません。天皇は、舎人(とねり)つまり身の回りお世話役の臣下・中臣烏賊津使主(なかとみの・いかつのおみ)に、姫をここに連れてこい、と命じます。
烏賊津使主は、「糒をきぬの中につつみて」坂田へ向かいます。「きぬの中に」というのは、衣服の懐中に、という意味です。烏賊津使主は携帯食・糒を懐に用意して出発しました。つまりこれが「お弁当」の初出です。実は後でこれが効果を発揮します。
「皇后のお心を傷つけたくないから死んでも参らない」という弟姫に烏賊津使主は、「連れて帰らねば殺される。だからここで私は死ぬ」といって弟姫の屋敷の庭に出ます。
烏賊津使主は7日間、庭で身を伏せたままねばります。弟姫が出す「飲食(みづいひ)」は一切口にせず、餓死するぞ、と脅迫を続けます。ところが烏賊津使主は、隠れてひそかに懐中の糒を食べてしのいでいるわけです。ついに弟姫はねばり負けして、烏賊津使主とともに天皇のもとへ向かいます。
知恵者・烏賊津使主の携帯食たる糒あってこその作戦大成功といったお話なのですが、さて、この「糒」は具体的にどんな食べ物だったのでしょうか。
明治時代中期から大正時代初期にかけて政府が刊行した百科事典『故事類苑』「飲食部」には、「モチ米を蒸して乾燥せしめたるものなり。あるいはアワ、キビにて製したるもあり。古くは兵士の糧食および旅行の用に供したるのみならず、あるいは日常の食用に供したることもあり」とあります。つまり、近代になって書かれた『故事類苑』にしたがえば、糒の素材はモチ米です。
私たちが今、日頃食べているお米はウルチ米です。お餅やお赤飯などに使われているモチ米との違いはおなじみでしょう。植物学的には、モチ米はウルチ米の突然変異です。突然変異を起こしたのは約5千年前のインドシナ半島にて、と研究されていますから、『日本書紀』の時代には当然、ウルチ米とモチ米の2種類がありました。それでは当時、ウルチ米とモチ米の2種類はちゃんと意識して区別されていたのでしょうか。
◆「炊く」ものではなく「煮る」ものだった
糒(ほしひ)は平安期以降、乾飯(かれいい)などと呼ばれるようになります。『伊勢物語』に「一同が涙を落とすものだから乾飯がふやけてしまった」という有名な一節があることから、昔の人は乾飯ばかり食べていた、つまりモチ米ばかり食べていた、あるいはウルチ米とモチ米の区別はついていなかったと思われがちですが、それは誤解です。
平安中期の行政細則『延喜式』に「年料舂米(ねんりょうしょうまい)」という、諸国から毎年一定量の米を納めさせる制度の記録が残っています。ウルチ米とモチ米は、はっきりと区別されていました。ある年の記録として、22ヶ国から大炊寮(おおいのつかさ)に白米17,330斛(さか。1斛は約180リットル)とモチ米260斛が納められています。大炊寮とは宮内省管轄の米の管理を司る役所です。
延喜式の記録から推計すると、当時のモチ米の生産量は米全体の1.5パーセント程度です。今の日本はどうかというと、農林水産省発表の2013年度「生産者の米穀在庫等調査」からの推計で、モチ米の生産量は米全体の約3パーセントです。それほど大きく変わりません。『日本書紀』の時代から今日まで、日本人は変わらずウルチ米を好んで食べてきたというわけです。
ただし、その料理方法は今と少し違います。モチ米は今も蒸しますが、ウルチ米は今のように、いわゆる「炊く」ものではなく「煮る」ものでした。
今でいう「めし」にあたるものは、少なくとも平安時代には「粥(かゆ)」です。粥とは言っても、「固粥(かたかゆ)」と「汁粥(しるかゆ)」がありました。固粥が「めし」にあたります。汁粥が「おかゆ」です。
『源氏物語』には、粥と一緒に「強飯(こわいい)」を食べるシーンが出てきます。強飯は今でいう「おこわ」のことで、モチ米を蒸してつくります。これを天日で干したのが「糒=乾飯」ということになりますが、粥と強飯、どちらかを選んで食べたものか、もしくはどちらかをおかずがわりにダブル炭水化物で食べたものかはわかりません。
今のような、ふっくらごはん、になるのは江戸時代の中期、厚くて重い蓋(ふた)をした釜を使う「炊き干し法」が登場してからのことです。炊き干し法とは、いわゆる「はじめチョロチョロなかパッパ」です。現在の高性能炊飯器はこれの完璧再現を目指したAI機器ということになります。(尾崎克之)
参考文献:
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年
『日本古代食事典』永山久夫・著、東洋書林、1998年
『日文研フォーラム講演「世界の中の日本文化」』大橋保夫・訳、1988年
『古事記伝(一)』本居宣長、倉野憲治・校訂、岩波書店、1940年