2020.9.4 日本書紀
『日本書紀』(720年完成)は日本最古の国家公式の歴史書。書かれているすべての物事が「公式に」初出ですから、「初めてアルアル」の宝庫です。
食べ物の話も、もちろんごろごろ出てきます。飲食、飲料、食品業界のパンフレットやウェブサイトを見ると、その歴史の紹介ページにはほとんど必ず『日本書紀』が登場するといっていいでしょう。
飴(アメ)もまた、その代表のひとつ。飴の初出は、神武天皇の巻です。「古くは、神武天皇が水無飴をつくったと日本書紀に書かれている。これは水あめのことだと考えられている」といった具合によく紹介されています。
「水無飴」なのに「水あめ」? 謎です。神武天皇がつくったというこの「水無飴」はいったいどういうものだったのか、というのが今回のお話です。
◆デンプンを麦芽の糖化酵素で甘く変化させる
神武天皇の「飴」のエピソードは、東征のツメの段階で出てきます。ラスボスの長髄彦(ナガスネヒコ)を討って橿原(かしはら)の地を治め、神武天皇(即位前は彦火火出見・ヒコホホデミ)は初代天皇位につくわけですが、長髄彦との決戦をひかえてもうひとつ、試練がありました。八十梟帥(ヤソタケル)、兄磯城(エシキ)・弟磯城(オトシキ)兄弟という地場勢力との連戦です。
この連戦を間近にして、「飴」が登場します。神武天皇はこういいます。
《「私は今、たくさんの平瓦で水なしに飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで、天下を居ながらに平らげるだろう」》
「水なしに飴を造ろう」といっているので、神武天皇がつくった飴は「水無飴」と呼ばれます。「飴」は漢文表記でも「飴」ですが、読みは「たがね」です。平瓦とは、八十平瓮(やそひらか)のことで、神事に使うたくさんの平皿のことです。
「たがね」とは、指と手のひらを使って握り固めることで、まさにアメづくりのイメージです。たくさんの平皿を用意して、お皿の数だけ飴をつくったことになりますが、何を原料に、どんなふうにつくったかは『日本書紀』には書いてありません。
神武天皇の飴がどんなものだったか、それを考えるにあたっては、『日本書紀』が編纂された720年頃当時の食品事情を考えよう、ということになります。正倉院に保管されている諸国の税文書に「糖」という納税品目が見えるのですが、この「糖」は当時「アメ」と発音される甘味料で、これがすなわち「飴」でした。糖=飴です。
さて、この「糖」のつくり方は、「経所食物下帳」という正倉院文書や、平安時代の行政細則書「延喜式」などを参考にすると、次のようになります。
《炊いた米の熱をとり、冷めないうちに麦もやしを混ぜて保温し、沸騰した湯を加えて時間を置いた後に弱火で煮詰めていく》
麦もやしとは、麦芽のことです。これは実は、現代の家庭でもつくられることがある「水あめ」のレシピと同じです。米に含まれるデンプンが麦芽の糖化酵素によって甘く変化するということで、小中学校の理科の実験にも登場することがあります。
◆「うまい」から「あまい」が独立!?
ここで、困ったことがあります。レシピを見れば明らかなように、糖=飴をつくるには、水が必要です。でも、神武天皇は《水なしに飴を造ろう》です。水なしで《飴造りをされると、たやすく飴はできた》とも書かれています。
神武天皇はなぜ、《水なしに飴を造ろう》としたのでしょうか。それに、八十梟帥、兄磯城・弟磯城といった強敵との戦いの前に、なぜ「飴」なのでしょうか。
実は、神武天皇の「飴造り」は、占いの結果でした。神武天皇は、強敵との戦を目前にして、どうしたら勝てるかを占ったのです。
その占いの結果として出た神意が《「私は今、たくさんの平瓦で水なしに飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで、天下を居ながらに平らげるだろう」》でした。逆説的にいえば「飴をつくるには水が絶対に必要だ」です。
絶対に必要な水を使わずに飴をつくることができれば戦に勝利するというお告げが出て、その通り、水を使わずに飴をつくることができたので神武天皇は戦の勝利を確信した、というのが神武天皇の「水無飴」のエピソードでした。そしてこれはまた、神武天皇がつくった「飴」が、今、家庭でもつくれる「水あめ」と同じものである、ということも示しているというわけです。
甘い、という味覚は貴重でした。「うまい」の語源は「あまい」だとよくいわれますが、もともとは、完熟した果物の味を「うまい」と表現していて、それが「あまい」に転じた、というのが本当のようです。ちょっとややこしいのですが、そもそも「うまい=甘い」であって、後、「あまい」が独立し、「うまい」は味覚の複雑な快感を統括する表現になった、ということのようです。
果物と並んで、糖=飴が日本古来の甘味です。砂糖は8世紀中盤の唐からの渡航僧・鑑真(がんじん)が初めて伝えたと考えられている輸入由来の食品。蜂蜜もまた輸入品で、『日本書紀』の皇極天皇の条には、西暦換算642年、人質として来日していた豊璋(ほうしょう)という百済(くだら)の王子が奈良の三輪山で養蜂を試みたが失敗した、という記述があります。(尾崎克之)
【参考・引用文献】
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年
論文・調査研究活動報告『古代における「糖(飴)」の復元』三舟隆之、橋本梓、国立歴史民俗博物館研究報告・第209集(2018年3月)
食べ物の話も、もちろんごろごろ出てきます。飲食、飲料、食品業界のパンフレットやウェブサイトを見ると、その歴史の紹介ページにはほとんど必ず『日本書紀』が登場するといっていいでしょう。
飴(アメ)もまた、その代表のひとつ。飴の初出は、神武天皇の巻です。「古くは、神武天皇が水無飴をつくったと日本書紀に書かれている。これは水あめのことだと考えられている」といった具合によく紹介されています。
「水無飴」なのに「水あめ」? 謎です。神武天皇がつくったというこの「水無飴」はいったいどういうものだったのか、というのが今回のお話です。
◆デンプンを麦芽の糖化酵素で甘く変化させる
神武天皇の「飴」のエピソードは、東征のツメの段階で出てきます。ラスボスの長髄彦(ナガスネヒコ)を討って橿原(かしはら)の地を治め、神武天皇(即位前は彦火火出見・ヒコホホデミ)は初代天皇位につくわけですが、長髄彦との決戦をひかえてもうひとつ、試練がありました。八十梟帥(ヤソタケル)、兄磯城(エシキ)・弟磯城(オトシキ)兄弟という地場勢力との連戦です。
この連戦を間近にして、「飴」が登場します。神武天皇はこういいます。
《「私は今、たくさんの平瓦で水なしに飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで、天下を居ながらに平らげるだろう」》
「水なしに飴を造ろう」といっているので、神武天皇がつくった飴は「水無飴」と呼ばれます。「飴」は漢文表記でも「飴」ですが、読みは「たがね」です。平瓦とは、八十平瓮(やそひらか)のことで、神事に使うたくさんの平皿のことです。
「たがね」とは、指と手のひらを使って握り固めることで、まさにアメづくりのイメージです。たくさんの平皿を用意して、お皿の数だけ飴をつくったことになりますが、何を原料に、どんなふうにつくったかは『日本書紀』には書いてありません。
神武天皇の飴がどんなものだったか、それを考えるにあたっては、『日本書紀』が編纂された720年頃当時の食品事情を考えよう、ということになります。正倉院に保管されている諸国の税文書に「糖」という納税品目が見えるのですが、この「糖」は当時「アメ」と発音される甘味料で、これがすなわち「飴」でした。糖=飴です。
さて、この「糖」のつくり方は、「経所食物下帳」という正倉院文書や、平安時代の行政細則書「延喜式」などを参考にすると、次のようになります。
《炊いた米の熱をとり、冷めないうちに麦もやしを混ぜて保温し、沸騰した湯を加えて時間を置いた後に弱火で煮詰めていく》
麦もやしとは、麦芽のことです。これは実は、現代の家庭でもつくられることがある「水あめ」のレシピと同じです。米に含まれるデンプンが麦芽の糖化酵素によって甘く変化するということで、小中学校の理科の実験にも登場することがあります。
◆「うまい」から「あまい」が独立!?
ここで、困ったことがあります。レシピを見れば明らかなように、糖=飴をつくるには、水が必要です。でも、神武天皇は《水なしに飴を造ろう》です。水なしで《飴造りをされると、たやすく飴はできた》とも書かれています。
神武天皇はなぜ、《水なしに飴を造ろう》としたのでしょうか。それに、八十梟帥、兄磯城・弟磯城といった強敵との戦いの前に、なぜ「飴」なのでしょうか。
実は、神武天皇の「飴造り」は、占いの結果でした。神武天皇は、強敵との戦を目前にして、どうしたら勝てるかを占ったのです。
その占いの結果として出た神意が《「私は今、たくさんの平瓦で水なしに飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで、天下を居ながらに平らげるだろう」》でした。逆説的にいえば「飴をつくるには水が絶対に必要だ」です。
絶対に必要な水を使わずに飴をつくることができれば戦に勝利するというお告げが出て、その通り、水を使わずに飴をつくることができたので神武天皇は戦の勝利を確信した、というのが神武天皇の「水無飴」のエピソードでした。そしてこれはまた、神武天皇がつくった「飴」が、今、家庭でもつくれる「水あめ」と同じものである、ということも示しているというわけです。
甘い、という味覚は貴重でした。「うまい」の語源は「あまい」だとよくいわれますが、もともとは、完熟した果物の味を「うまい」と表現していて、それが「あまい」に転じた、というのが本当のようです。ちょっとややこしいのですが、そもそも「うまい=甘い」であって、後、「あまい」が独立し、「うまい」は味覚の複雑な快感を統括する表現になった、ということのようです。
果物と並んで、糖=飴が日本古来の甘味です。砂糖は8世紀中盤の唐からの渡航僧・鑑真(がんじん)が初めて伝えたと考えられている輸入由来の食品。蜂蜜もまた輸入品で、『日本書紀』の皇極天皇の条には、西暦換算642年、人質として来日していた豊璋(ほうしょう)という百済(くだら)の王子が奈良の三輪山で養蜂を試みたが失敗した、という記述があります。(尾崎克之)
【参考・引用文献】
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年
論文・調査研究活動報告『古代における「糖(飴)」の復元』三舟隆之、橋本梓、国立歴史民俗博物館研究報告・第209集(2018年3月)