2020.6.27 日本書紀
甘酒というと、現代では、米でつくったお粥(おかゆ)に麹(こうじ)を混ぜて一晩寝かせてつくったものと、酒粕を煮て溶いて砂糖を入れて甘くしたものの2種類があるようです。地方によっては、新年初詣の神社などで、後者の、湯気の立つアツアツの甘酒が振る舞われたりするので、甘酒は冬の名物的飲み物と思われている方も多いのではないでしょうか。
甘酒と同じ名前で呼ばれていますが、「米+麹」の甘酒と、「酒粕+砂糖」の甘酒とではずいぶん違います。そして、歴史的に見ると、甘酒は夏にこそ飲むべきスタミナドリンクの代表だった時代のほうが長いようです。
「初めてアルアル」の宝庫『日本書紀』(729年成立)に、甘酒はどのように登場しているでしょうか?
江戸時代後期の大坂に、喜田川守貞(きたがわ・もりさだ)という歴史家がいました。この守貞が幕末に書き上げた大坂・江戸の、いわば風俗百科事典『守貞漫稿(もりさだまんこう)』に、甘酒は、真夏の栄養強壮剤として登場します。俳句の世界では甘酒は夏の季語です。
お粥をつくって麹を入れ、一晩寝かせるだけでできあがって、さっと飲みきることのできる甘酒は、食物の傷みやすい時期にも適当でした。享和元年(1801)に出版された『料理早指南(りょうりはやしなん)』というレシピ集には「甘酒はやつくり」という、今の時間で1時間ほどでできあがる甘酒の作り方が載っています。
古来、多く飲まれる甘酒といえば、「米+麹」の甘酒でした。熱くしたものもあり、冷やしたものもあり、江戸時代の夏場では、熱いのも冷やしたのも棒手振り行商の「甘酒屋」が売りました。
甘酒の主成分はブドウ糖、ビタミン類、アミノ酸で、今でいう点滴の成分そのもの。夏バテに即効性があるのです。甘酒売りは、天秤棒の前に茶碗やお盆をのせ、後ろの箱に甘酒を温める炭火の釜をのせて売り歩きました。
平安時代には、夏場に、もっぱら冷やして飲まれたもののようです。当時定められていた行政細則『延喜式(えんぎしき)』には、日本人の几帳面さというべきかルール好きというべきか、「造酒司式」という条項で甘酒の作り方まできっちり定められています。米4升、麹2升、酒3升の割合で混ぜ合わせて9升の「醴(こざけ)」をつくるべし、とあります。この醴が初出するのが『日本書紀』の応神天皇紀です。応神天皇は第15代の天皇です。
《(応神天皇)十九年冬十月一日、(天皇は)吉野宮においでになった。国樔人(くずびと)が醴酒(こざけ)を天皇に奉り、歌を詠んでいうのに、(原歌省略)「橿の林で横臼を造り、その横臼に醸した大御酒を、おいしく召し上がれ、わが父よ」》
国樔人とは、吉野川上流の住民で、《人となりが純朴であり、常は山の木の実を取って食べている。またかえる(蛙)を煮て上等の食物として》いる人びとです。応神天皇の時代は、こうした人びととの交流が盛んに行われた時代でした。中国・朝鮮系ではなく中央アジアからの渡来人だろうという説もある弓月君(ゆづきのきみ)が「百二十県の人民」を率いて、朝廷に移民許可を申し出るのも応神天皇の時代です。
醴酒は、醸造済みの酒が入っているので本来からすると甘酒ではないという説もあります。一般的に、今の甘酒業界が甘酒のルーツとしているのは、コノハナサクヤヒメがつくった天甜酒(あめのたむさけ)です。『日本書紀』神代下の「第三書にいわく」つまり別注の記録に初出します。コノハナサクヤヒメは、天孫降臨で知られるニニギノミコトの子を生んだ姫様です。
《神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ。コノハナサクヤヒメの別称)は、卜定田(うらへた。占いによって定めた神饌田)を狭名田(さなた)と名づけた。その田の稲をもって、天甜酒を噛んでつくり、お供えした》
甘酒のルーツとされてはいるものの、これは米を使った日本酒の発祥について書いたものというべきでしょう。酒の初出は、映画『シン・ゴジラ』の作戦名に登場した、スサノオノミコトがヤマタノオロチに飲ませた「八塩折之酒(やしおりのさけ)」です。ただし、スサノオノミコトは縄文系勢力の言い換えという説があり、その説にのっとり、採取文化の縄文ということを考えれば、「八塩折之酒」は木の実の発酵酒です。
今までお話ししてきた甘酒は「米+麹」の甘酒でした。酒粕を溶いてつくった甘酒は登場しないのかというと、こちらは『万葉集』に登場します。巻五・八九二、山上憶良の貧窮問答歌です。
《風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅鹽(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて……》(風が吹き雨や雪が降る夜はどうしようもなく寒いので塩をなめ糟湯酒をすすり……)
糟湯酒はまさに甘酒です。塩を加えて甘さを強めているところは、貧窮うんぬんなどというよりは、さすが趣味人の山上憶良というべきでしょう。(尾崎克之)
参考文献:
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年
『近世風俗志―守貞謾稿』喜田川守貞、岩波書店、1996年
『新訓万葉集』佐佐木信綱編、岩波書店、1972年
甘酒と同じ名前で呼ばれていますが、「米+麹」の甘酒と、「酒粕+砂糖」の甘酒とではずいぶん違います。そして、歴史的に見ると、甘酒は夏にこそ飲むべきスタミナドリンクの代表だった時代のほうが長いようです。
「初めてアルアル」の宝庫『日本書紀』(729年成立)に、甘酒はどのように登場しているでしょうか?
◆『延喜式』が定める甘酒(醴=こざけ)づくりのルール
江戸時代後期の大坂に、喜田川守貞(きたがわ・もりさだ)という歴史家がいました。この守貞が幕末に書き上げた大坂・江戸の、いわば風俗百科事典『守貞漫稿(もりさだまんこう)』に、甘酒は、真夏の栄養強壮剤として登場します。俳句の世界では甘酒は夏の季語です。
お粥をつくって麹を入れ、一晩寝かせるだけでできあがって、さっと飲みきることのできる甘酒は、食物の傷みやすい時期にも適当でした。享和元年(1801)に出版された『料理早指南(りょうりはやしなん)』というレシピ集には「甘酒はやつくり」という、今の時間で1時間ほどでできあがる甘酒の作り方が載っています。
古来、多く飲まれる甘酒といえば、「米+麹」の甘酒でした。熱くしたものもあり、冷やしたものもあり、江戸時代の夏場では、熱いのも冷やしたのも棒手振り行商の「甘酒屋」が売りました。
甘酒の主成分はブドウ糖、ビタミン類、アミノ酸で、今でいう点滴の成分そのもの。夏バテに即効性があるのです。甘酒売りは、天秤棒の前に茶碗やお盆をのせ、後ろの箱に甘酒を温める炭火の釜をのせて売り歩きました。
平安時代には、夏場に、もっぱら冷やして飲まれたもののようです。当時定められていた行政細則『延喜式(えんぎしき)』には、日本人の几帳面さというべきかルール好きというべきか、「造酒司式」という条項で甘酒の作り方まできっちり定められています。米4升、麹2升、酒3升の割合で混ぜ合わせて9升の「醴(こざけ)」をつくるべし、とあります。この醴が初出するのが『日本書紀』の応神天皇紀です。応神天皇は第15代の天皇です。
《(応神天皇)十九年冬十月一日、(天皇は)吉野宮においでになった。国樔人(くずびと)が醴酒(こざけ)を天皇に奉り、歌を詠んでいうのに、(原歌省略)「橿の林で横臼を造り、その横臼に醸した大御酒を、おいしく召し上がれ、わが父よ」》
国樔人とは、吉野川上流の住民で、《人となりが純朴であり、常は山の木の実を取って食べている。またかえる(蛙)を煮て上等の食物として》いる人びとです。応神天皇の時代は、こうした人びととの交流が盛んに行われた時代でした。中国・朝鮮系ではなく中央アジアからの渡来人だろうという説もある弓月君(ゆづきのきみ)が「百二十県の人民」を率いて、朝廷に移民許可を申し出るのも応神天皇の時代です。
◆コノハナサクヤヒメが天甜酒を噛んでつくり…
醴酒は、醸造済みの酒が入っているので本来からすると甘酒ではないという説もあります。一般的に、今の甘酒業界が甘酒のルーツとしているのは、コノハナサクヤヒメがつくった天甜酒(あめのたむさけ)です。『日本書紀』神代下の「第三書にいわく」つまり別注の記録に初出します。コノハナサクヤヒメは、天孫降臨で知られるニニギノミコトの子を生んだ姫様です。
《神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ。コノハナサクヤヒメの別称)は、卜定田(うらへた。占いによって定めた神饌田)を狭名田(さなた)と名づけた。その田の稲をもって、天甜酒を噛んでつくり、お供えした》
甘酒のルーツとされてはいるものの、これは米を使った日本酒の発祥について書いたものというべきでしょう。酒の初出は、映画『シン・ゴジラ』の作戦名に登場した、スサノオノミコトがヤマタノオロチに飲ませた「八塩折之酒(やしおりのさけ)」です。ただし、スサノオノミコトは縄文系勢力の言い換えという説があり、その説にのっとり、採取文化の縄文ということを考えれば、「八塩折之酒」は木の実の発酵酒です。
今までお話ししてきた甘酒は「米+麹」の甘酒でした。酒粕を溶いてつくった甘酒は登場しないのかというと、こちらは『万葉集』に登場します。巻五・八九二、山上憶良の貧窮問答歌です。
《風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅鹽(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて……》(風が吹き雨や雪が降る夜はどうしようもなく寒いので塩をなめ糟湯酒をすすり……)
糟湯酒はまさに甘酒です。塩を加えて甘さを強めているところは、貧窮うんぬんなどというよりは、さすが趣味人の山上憶良というべきでしょう。(尾崎克之)
参考文献:
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年
『近世風俗志―守貞謾稿』喜田川守貞、岩波書店、1996年
『新訓万葉集』佐佐木信綱編、岩波書店、1972年