『日本書紀』(720年完成)は、「初めてアルアル」の宝庫。なぜなら、日本書紀は日本最古の国家公式の歴史書で、書かれているすべての物事が「公式に」初出だからです。
1980年代に、直木賞作家・杉森久英さんの『天皇の料理番』(読売新聞社、1979年)という小説がたいへん話題になりました。刊行後すぐにテレビドラマになり、最近では2015年に佐藤健さん主役で3回目のドラマ化。天皇の料理番とは、現在の宮内庁大膳課(だいぜんか)という部署、狭義ではその総料理長のことを指しています。
宮内庁ホームページによれば、大膳課は「宮中行事の際に饗宴、茶会などのほか、天皇陛下、上皇陛下及び内廷にある皇族方等の日常のお食事についての供進及び調理に関することを担当」する課。和食、洋食、和菓子、パンと洋菓子、東宮御所を約50人の職員体制で受け持っているそうです。
そして、この「天皇の料理番」、初出は景行天皇(けいこうてんのう)の御代、ヤマトタケルの時代にさかのぼるのです。
第12代に数えられる景行天皇(けいこうてんのう)の皇子で、熊襲(くまそ)征討・東国征討を遂行したヒーローと語り継がれているのがヤマトタケルノミコト(日本武尊)です。
ヤマトタケルはまず、16歳のとき、九州の熊襲を征討しました。垂らし髪の少女に変装して饗宴接待の女性たちに混じり、熊襲の実力者・川上梟帥(カワカミノタケル)が油断している隙に剣で討ったというエピソードで有名です。ヤマトタケル(日本武尊)というのは、このとき、死に際の梟帥に「贈らせてくれ」と申し出され、受諾した尊号です。それまではヤマトオグナ(日本童男)と名のっていました。
ヤマトタケルは、4カ月弱で熊襲を征討し、近畿に帰還します。そして、その12年後、ヤマトタケルは東国征討に向かうことになります。天皇と群臣の会議で誰を将として遣わすか結論が出せずにいたところを、自ら申し出ました。
景行天皇40年秋7月16日の条に、こんな記事があります。「天皇は吉備武彦(キビノタケヒコ)と大伴武日連(オオトモノタケヒノムラジ)とを、日本武尊に従わせられた。また、七掬脛(ナナツカハギ)を膳夫(かしわで)とされた」。
この「膳夫(かしわで)」こそが料理係です。いわゆる「天皇の料理番」の初出といっていいでしょう。ヤマトタケルは皇位にはありませんでしたが、まさに現・宮内庁大膳課の「皇族方等の日常のお食事についての供進及び調理に関することを担当」する係です。
古く、酒や食物の器にはカシワの葉が使われていました。「膳夫(かしわで)」とは、食器を扱う者、という意味で、つまり料理番、ということになります。
律令制以前には、天皇および朝廷が地方に赴く場合、その食事はそれぞれの国々に置かれた膳部(かしわでべ)という部署で、「膳臣(かしわでのおみ)」が担当しました。律令制以前というのは、中央からの派遣官僚ではなく、現地の豪族が地方行政を行なっていた時代、ということです。
律令制となってからは、朝廷に膳部という部署が置かれました。757年に施行された養老律令では、天皇の食事を担当する内膳司に毒味係2人をはじめ総勢80人、朝廷臣下の食事を担当する大膳職に総勢280人強を置くことが定められています。
さて、ヤマトタケルの遠征ですが、九州・熊襲征討のときにはいなかった料理番が、どうして東国征討のときには随伴したのでしょうか。近畿から西と東、それほど距離は変わりません。どちらに遠征するにも船を使っていますから、旅の手間は同じように思えます。
景行天皇は出征前、東国についてヤマトタケルにこんな話をしています。
「東国の者どもは凶暴である。蝦夷(えみし)は特に手強い。冬は穴に寝て夏は木の上に暮らし、毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑いあう。鳥のように山に登り、獣のように草原を走る。恩は忘れるが恨みは忘れない。束ねた髪の中に弓を隠していて、衣の中に剣を忍ばせている。仲間を集めて国境を侵犯し、強奪を繰り返す。攻めれば草に隠れ、追えば山に入って、かつて一度も朝廷に従ったことがない」
さんざんないわれようですが、つまり、東国はめちゃくちゃに強い、ということです。何が起こるかわからないので、景行天皇はヤマトタケルに、可能な限り現地調達に頼らない万全の遠征態勢をとらせたというわけです。
九州などは天孫降臨(てんそんこうりん)以来のお膝元(おひざもと)ですから、遠征も手慣れたものです。したがって熊襲征討は4カ月弱で済みました。しかしヤマトタケルは東国征討に約2年をかけ、さらには帰還途中、伊勢の地で30歳で病没しています。
ヤマトタケルは最終的に「竹水門(たけのみなと)」という場所まで行き、戦っています。竹水門とはどこか、については現在の宮城県、福島県、茨城県と諸説あります。最北で宮城あたり、可能性として茨城あたりにも、上記のような、いかにも強力な蝦夷がいたということになります。
ヤマトタケルは捕囚した蝦夷を伊勢神宮に献上し、使いをたてて「東国を征討した」と天皇に奏上しました。しかし、東国が公式に朝廷の支配下に入ったのはヤマトタケルの時代から数百年後の803年、桓武天皇の御代、坂上田村麻呂の蝦夷征討によってのことです。
朝廷は、蝦夷に気を遣いつづけていました。たとえば白村江(はくすきのえ)の戦い直前の655年、朝廷は難波で東北の蝦夷99人、北陸の蝦夷95人を饗応し、内の15人に冠位を与えています。
日本書紀には東国の詳細は記述されていません。しかし、端々に東国の軍事的な実力が垣間見えます。蝦夷と呼ばれる集団はとにかく強い。蝦夷と対抗せざるをえなかった周辺も必然的に強い。白村江敗戦の後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)がなぜ防人(さきもり)を東国から招集したのか、その理由もおそらくここにあるでしょう。(尾崎克之)
参考・引用文献:
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年
1980年代に、直木賞作家・杉森久英さんの『天皇の料理番』(読売新聞社、1979年)という小説がたいへん話題になりました。刊行後すぐにテレビドラマになり、最近では2015年に佐藤健さん主役で3回目のドラマ化。天皇の料理番とは、現在の宮内庁大膳課(だいぜんか)という部署、狭義ではその総料理長のことを指しています。
宮内庁ホームページによれば、大膳課は「宮中行事の際に饗宴、茶会などのほか、天皇陛下、上皇陛下及び内廷にある皇族方等の日常のお食事についての供進及び調理に関することを担当」する課。和食、洋食、和菓子、パンと洋菓子、東宮御所を約50人の職員体制で受け持っているそうです。
そして、この「天皇の料理番」、初出は景行天皇(けいこうてんのう)の御代、ヤマトタケルの時代にさかのぼるのです。
●ヤマトタケルの東国遠征に従った「膳夫(かしわで)」
第12代に数えられる景行天皇(けいこうてんのう)の皇子で、熊襲(くまそ)征討・東国征討を遂行したヒーローと語り継がれているのがヤマトタケルノミコト(日本武尊)です。
ヤマトタケルはまず、16歳のとき、九州の熊襲を征討しました。垂らし髪の少女に変装して饗宴接待の女性たちに混じり、熊襲の実力者・川上梟帥(カワカミノタケル)が油断している隙に剣で討ったというエピソードで有名です。ヤマトタケル(日本武尊)というのは、このとき、死に際の梟帥に「贈らせてくれ」と申し出され、受諾した尊号です。それまではヤマトオグナ(日本童男)と名のっていました。
ヤマトタケルは、4カ月弱で熊襲を征討し、近畿に帰還します。そして、その12年後、ヤマトタケルは東国征討に向かうことになります。天皇と群臣の会議で誰を将として遣わすか結論が出せずにいたところを、自ら申し出ました。
景行天皇40年秋7月16日の条に、こんな記事があります。「天皇は吉備武彦(キビノタケヒコ)と大伴武日連(オオトモノタケヒノムラジ)とを、日本武尊に従わせられた。また、七掬脛(ナナツカハギ)を膳夫(かしわで)とされた」。
この「膳夫(かしわで)」こそが料理係です。いわゆる「天皇の料理番」の初出といっていいでしょう。ヤマトタケルは皇位にはありませんでしたが、まさに現・宮内庁大膳課の「皇族方等の日常のお食事についての供進及び調理に関することを担当」する係です。
古く、酒や食物の器にはカシワの葉が使われていました。「膳夫(かしわで)」とは、食器を扱う者、という意味で、つまり料理番、ということになります。
律令制以前には、天皇および朝廷が地方に赴く場合、その食事はそれぞれの国々に置かれた膳部(かしわでべ)という部署で、「膳臣(かしわでのおみ)」が担当しました。律令制以前というのは、中央からの派遣官僚ではなく、現地の豪族が地方行政を行なっていた時代、ということです。
律令制となってからは、朝廷に膳部という部署が置かれました。757年に施行された養老律令では、天皇の食事を担当する内膳司に毒味係2人をはじめ総勢80人、朝廷臣下の食事を担当する大膳職に総勢280人強を置くことが定められています。
●どうして「料理番」が東国征討に随伴していたのか
さて、ヤマトタケルの遠征ですが、九州・熊襲征討のときにはいなかった料理番が、どうして東国征討のときには随伴したのでしょうか。近畿から西と東、それほど距離は変わりません。どちらに遠征するにも船を使っていますから、旅の手間は同じように思えます。
景行天皇は出征前、東国についてヤマトタケルにこんな話をしています。
「東国の者どもは凶暴である。蝦夷(えみし)は特に手強い。冬は穴に寝て夏は木の上に暮らし、毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑いあう。鳥のように山に登り、獣のように草原を走る。恩は忘れるが恨みは忘れない。束ねた髪の中に弓を隠していて、衣の中に剣を忍ばせている。仲間を集めて国境を侵犯し、強奪を繰り返す。攻めれば草に隠れ、追えば山に入って、かつて一度も朝廷に従ったことがない」
さんざんないわれようですが、つまり、東国はめちゃくちゃに強い、ということです。何が起こるかわからないので、景行天皇はヤマトタケルに、可能な限り現地調達に頼らない万全の遠征態勢をとらせたというわけです。
九州などは天孫降臨(てんそんこうりん)以来のお膝元(おひざもと)ですから、遠征も手慣れたものです。したがって熊襲征討は4カ月弱で済みました。しかしヤマトタケルは東国征討に約2年をかけ、さらには帰還途中、伊勢の地で30歳で病没しています。
ヤマトタケルは最終的に「竹水門(たけのみなと)」という場所まで行き、戦っています。竹水門とはどこか、については現在の宮城県、福島県、茨城県と諸説あります。最北で宮城あたり、可能性として茨城あたりにも、上記のような、いかにも強力な蝦夷がいたということになります。
ヤマトタケルは捕囚した蝦夷を伊勢神宮に献上し、使いをたてて「東国を征討した」と天皇に奏上しました。しかし、東国が公式に朝廷の支配下に入ったのはヤマトタケルの時代から数百年後の803年、桓武天皇の御代、坂上田村麻呂の蝦夷征討によってのことです。
朝廷は、蝦夷に気を遣いつづけていました。たとえば白村江(はくすきのえ)の戦い直前の655年、朝廷は難波で東北の蝦夷99人、北陸の蝦夷95人を饗応し、内の15人に冠位を与えています。
日本書紀には東国の詳細は記述されていません。しかし、端々に東国の軍事的な実力が垣間見えます。蝦夷と呼ばれる集団はとにかく強い。蝦夷と対抗せざるをえなかった周辺も必然的に強い。白村江敗戦の後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)がなぜ防人(さきもり)を東国から招集したのか、その理由もおそらくここにあるでしょう。(尾崎克之)
参考・引用文献:
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年