2019.7.18 日本書紀
『日本書紀』(729年成立)は、「初めてアルアル」の宝庫です。なにせ日本最古の国家「公式」の歴史書ですから、『日本書紀』に書かれていることは、とにかく「公式」で初めてのできごとということになります。 日本のいわゆる「古代史」ということになると、いのいちばんの史料としてあげられるものに、中国正史の一つとされている『三国志』のなかの一条「魏志倭人伝」があります。邪馬台国や卑弥呼が出てくることであまりにも有名です。
「魏志倭人伝」は『日本書紀』にも出てきます。神宮皇后紀に注記のかたちで補足として出てくるのですが、そこには邪馬台国の名も卑弥呼の名も出てきません。あえて出していないようにも見えます。中国の史書には出てくるけれど日本の史書にはまったく出てこない邪馬台国や卑弥呼とはいったい何でしょうか。興味のつきないことです。
それはさておき、今回は、「フンドシ」の話。つまるところ、相撲(すもう)の初めてについて見ていきたいと思います。
『日本書紀』に相撲の起源について書かれていることはとても有名です。公益財団法人日本相撲協会は、相撲の起源を二つ、あげています。一つは『古事記』の国譲り神話のなかにある、高天原側のタケミカヅチが出雲側のタケミナカタと力比べをした、というエピソードです。
そしてもう一つが『日本書紀』の垂仁天皇(第11代)紀に書かれている次のようなエピソードです。
「当麻村(たぎまのむら)に、当麻蹶速(たぎまのくえはや)という力持ちがいて、生死を問わず他の者と力比べをしたいといっていた。それを天皇がお聞きになり、誰かいるか尋ねた。臣下のひとりが、出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という勇士がいる、と答える。その日のうちに野見宿禰を呼び、当麻蹶速と角力(すまひ)をとらせた。二人は向かい合って立ち、互いに足を挙げて蹴り合う。野見宿禰は当麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて殺した」
『古事記』も、またこの『日本書紀』垂仁天皇紀もそうなのですが、二人がどんな格好で相対したのかということについては書いてありません。いわゆる相撲(すもう)をとるときにはフンドシをするものらしいということがわかるのは、『日本書紀』雄略天皇(第21代)紀の次のようなエピソードです。
「工匠(くだくみ)の猪名部真根(いなべのまね)という人は腕がよく、石を台にして木を一日中削っても誤って斧の刃を痛めることがない。それを天皇が怪しんで、誤ることは絶対にないのかと問うと、猪名部真根は、誤らないと答えた。天皇は、采女(うねめ。女官)を集めて着物を脱がせ、フンドシをつけさせて相撲をとらせた。猪名部真根はうっかり気を奪われて手を誤り、斧で石を打ってしまう。天皇は、軽々しいことをいう奴だといって猪名部真根を処刑しようとするが、仲間の工匠からかけがえのない技の持ち主ということを聞いて猪名部真根を許す」
フンドシは、漢文表記では「著犢鼻」、読みは「たふさぎ」となっています。犢鼻は仔牛の鼻のことで、つまり、男性のあそこを隠すもの、といった意味だとされています。
ちなみに、フンドシと解釈されるものに、『日本書紀』神代に出てくる黄泉の国神話でのイザナギのエピソードがあります。イザナミが追いかけてくるのを、漢文表記で「褌」を投げて止めた、というものです。この「褌」は、時にサルマタと解釈されることもありますが、いずれにせよこちらはフンドシではなく、腰と脚とを覆う下衣のようです。
実は、漢文表記で「著犢鼻」、読みを「たふさぎ」とするフンドシが、『日本書紀』神代のウミサチ・ヤマサチのエピソードに登場していました。
《兄(ウミサチ)は弟(ヤマサチ)の徳を知り、自ら罪に服しようとした。しかし弟は怒っていて口をきかなかった。そこで兄はフンドシをして、赤土を手のひらに塗り額に塗り、弟にいわれるのに、「私はこの通り身を汚した。永久にあなたのための俳優(わざおぎ。芸能起源を示す語)になろう」と。そこで足をあげて踏みならし、そのときの苦しそうな真似をした。始め潮がさして足を浸してきたときに、爪先立ちをした。膝についたときには、足をあげた。股についたときには走り回った。腰についたときには、腰をなで回した。脇に届いたときには手を胸におき、首に届いたときには、手を上げてひらひらさせた。それから今に至るまで、その子孫の隼人(はやと)たちは、この所作をやめることがない》
「隼人」は南九州に居住する、たいへん武力に長けた一族あるいは民族として『日本書紀』にたびたび登場します。相撲がとても得意で、天武天皇12年には、次のような記事があります。
《秋七月三日、隼人がたくさん来て国の産物をたてまつった。この日、大隅(おおすみ)の隼人と阿多(あた。鹿児島西部)の隼人が、朝廷で相撲をとり、大隅の隼人が勝った》
隼人は、ウミサチがフンドシをつけて行なった所作をやめることがなかった、とあります。ウミサチがフンドシをつけて行なった所作をもういちど見てみましょう。
《足をあげて踏みならし》《爪先立ちをした》《足をあげた》《腰をなで回した》《手を上げてひらひらさせた》。これは、現代の相撲取りのみなさんが行う土俵入り、あるいは、取り組み前の所作そのものです。
現代大相撲の所作や習慣は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の天覧相撲(1791年)の形式が元となっています。家斉展覧相撲の、いわば総合演出にあたった吉田追風(よしだおいかぜ)は、相撲故実の家元でした。横綱の土俵入りを興行の呼び物にしたのも追風で、そのスタイルは、間違いなく『日本書紀』のウミサチから始まる伝統を再構成したものでしょう。(尾崎克之)
参考文献:
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年
「魏志倭人伝」は『日本書紀』にも出てきます。神宮皇后紀に注記のかたちで補足として出てくるのですが、そこには邪馬台国の名も卑弥呼の名も出てきません。あえて出していないようにも見えます。中国の史書には出てくるけれど日本の史書にはまったく出てこない邪馬台国や卑弥呼とはいったい何でしょうか。興味のつきないことです。
それはさておき、今回は、「フンドシ」の話。つまるところ、相撲(すもう)の初めてについて見ていきたいと思います。
◆女官の着物を脱がせ、フンドシで相撲をとらせてみたら
『日本書紀』に相撲の起源について書かれていることはとても有名です。公益財団法人日本相撲協会は、相撲の起源を二つ、あげています。一つは『古事記』の国譲り神話のなかにある、高天原側のタケミカヅチが出雲側のタケミナカタと力比べをした、というエピソードです。
そしてもう一つが『日本書紀』の垂仁天皇(第11代)紀に書かれている次のようなエピソードです。
「当麻村(たぎまのむら)に、当麻蹶速(たぎまのくえはや)という力持ちがいて、生死を問わず他の者と力比べをしたいといっていた。それを天皇がお聞きになり、誰かいるか尋ねた。臣下のひとりが、出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という勇士がいる、と答える。その日のうちに野見宿禰を呼び、当麻蹶速と角力(すまひ)をとらせた。二人は向かい合って立ち、互いに足を挙げて蹴り合う。野見宿禰は当麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて殺した」
『古事記』も、またこの『日本書紀』垂仁天皇紀もそうなのですが、二人がどんな格好で相対したのかということについては書いてありません。いわゆる相撲(すもう)をとるときにはフンドシをするものらしいということがわかるのは、『日本書紀』雄略天皇(第21代)紀の次のようなエピソードです。
「工匠(くだくみ)の猪名部真根(いなべのまね)という人は腕がよく、石を台にして木を一日中削っても誤って斧の刃を痛めることがない。それを天皇が怪しんで、誤ることは絶対にないのかと問うと、猪名部真根は、誤らないと答えた。天皇は、采女(うねめ。女官)を集めて着物を脱がせ、フンドシをつけさせて相撲をとらせた。猪名部真根はうっかり気を奪われて手を誤り、斧で石を打ってしまう。天皇は、軽々しいことをいう奴だといって猪名部真根を処刑しようとするが、仲間の工匠からかけがえのない技の持ち主ということを聞いて猪名部真根を許す」
フンドシは、漢文表記では「著犢鼻」、読みは「たふさぎ」となっています。犢鼻は仔牛の鼻のことで、つまり、男性のあそこを隠すもの、といった意味だとされています。
◆「土俵入り」の原型とは?
ちなみに、フンドシと解釈されるものに、『日本書紀』神代に出てくる黄泉の国神話でのイザナギのエピソードがあります。イザナミが追いかけてくるのを、漢文表記で「褌」を投げて止めた、というものです。この「褌」は、時にサルマタと解釈されることもありますが、いずれにせよこちらはフンドシではなく、腰と脚とを覆う下衣のようです。
実は、漢文表記で「著犢鼻」、読みを「たふさぎ」とするフンドシが、『日本書紀』神代のウミサチ・ヤマサチのエピソードに登場していました。
《兄(ウミサチ)は弟(ヤマサチ)の徳を知り、自ら罪に服しようとした。しかし弟は怒っていて口をきかなかった。そこで兄はフンドシをして、赤土を手のひらに塗り額に塗り、弟にいわれるのに、「私はこの通り身を汚した。永久にあなたのための俳優(わざおぎ。芸能起源を示す語)になろう」と。そこで足をあげて踏みならし、そのときの苦しそうな真似をした。始め潮がさして足を浸してきたときに、爪先立ちをした。膝についたときには、足をあげた。股についたときには走り回った。腰についたときには、腰をなで回した。脇に届いたときには手を胸におき、首に届いたときには、手を上げてひらひらさせた。それから今に至るまで、その子孫の隼人(はやと)たちは、この所作をやめることがない》
「隼人」は南九州に居住する、たいへん武力に長けた一族あるいは民族として『日本書紀』にたびたび登場します。相撲がとても得意で、天武天皇12年には、次のような記事があります。
《秋七月三日、隼人がたくさん来て国の産物をたてまつった。この日、大隅(おおすみ)の隼人と阿多(あた。鹿児島西部)の隼人が、朝廷で相撲をとり、大隅の隼人が勝った》
隼人は、ウミサチがフンドシをつけて行なった所作をやめることがなかった、とあります。ウミサチがフンドシをつけて行なった所作をもういちど見てみましょう。
《足をあげて踏みならし》《爪先立ちをした》《足をあげた》《腰をなで回した》《手を上げてひらひらさせた》。これは、現代の相撲取りのみなさんが行う土俵入り、あるいは、取り組み前の所作そのものです。
現代大相撲の所作や習慣は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の天覧相撲(1791年)の形式が元となっています。家斉展覧相撲の、いわば総合演出にあたった吉田追風(よしだおいかぜ)は、相撲故実の家元でした。横綱の土俵入りを興行の呼び物にしたのも追風で、そのスタイルは、間違いなく『日本書紀』のウミサチから始まる伝統を再構成したものでしょう。(尾崎克之)
参考文献:
『日本古典文学大系 日本書紀』坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋・校注、岩波書店、1967年
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟・訳、講談社、1988年