目次
北京に入城して漢地支配を始めた第3代順治帝は繊細な人だったようです。亡くなった愛妃ドンゴ氏を想い追憶を漢文でつづっていて、漢文では珍しい情のこもった文章です。おそらく満洲語で考えてから漢字にしたので情緒にあふれているのでしょう。
日本人の漢詩も情緒的・感傷的ですが、日本語で考えてつくるからです。「四書五経」などの硬い文章しか学んでいない漢人は、どうも情緒に欠けます。言葉というのは非常に大事なもので、それによって精神の構造が違ってくるのです。
順治帝は愛妃の後を追うように、まもなく1661年に24歳で亡くなってしまいます。そして、その皇子・第4代康熙帝(こうきてい。1654~1722、在位:1661~1722)が8歳で即位するのです。
亡き夫、岡田英弘は、この康熙帝を高く評価していました。岡田の著作は、偉人であっても褒めちぎるようなことはせず、淡々と歴史を語るスタイルなのですが、康熙帝のことだけは『皇帝たちの中国』のなかでも手放しで褒めています。
章の冒頭は、イエズス会士ブーヴェ神父の『康熙帝伝』の長々とした引用から始まります。まとめると「容姿端麗、頭脳明晰、強靭な体力と精神力を持ち、文武両道のスーパーマン。しかも芸術にも通じている。質素で、ぜいたくせず、弁も立つ」です。「……と書かれているが、実は……」と続くのかと思えば、岡田自身が皇帝の超人的な天才性をさらに褒めます。
康熙帝には皇太子である息子に書いた手紙が残っていて、岡田はそれを訳したときに大変に感動したようです。満洲語で書かれた自筆の手紙で、これについては後述します。
確かに康熙帝は立派な人だったと、私自身も思います。康熙帝に関しては、長きにわたってしばしば講義しているので、かなり調べましたが、上司がこんな人だったら、たまらないなと思います。
大変に勤勉で、天体観測から押し花まで、何でもするし、何でもできる人でした。ぜいたくを好まず、行軍などの厳しい状況では家来と一緒に1日1食で済ませるなど、欠乏にも耐えます。美術品に対しても目利きであるし、満洲語もモンゴル語も漢文も完璧に読み書きします。当然のように武芸にも秀でている。
こんな完璧人間が近くにいたら、ミスがすぐにバレてしまいます。康熙帝が他人に対しても厳しかったかどうかはわかりませんが、そうでなくても窮屈です。皇帝の信を得ようと思えば自ずとハイレベルなことを要求されることになるでしょうから、ついていくのが大変です。
こんな万能の皇帝なら幸せな一生を送ったかと言えば、そうでもなく、帝の晩年には悲劇が襲います。頑健な康熙帝は長生きし、その治世は称えられるべきものでしたが、そのことが皇太子を闇に追いやり、愛する息子を廃位、幽閉することとなるのでした。これについて詳しくは後述します。
ホンタイジの皇后で順治帝の母であり、そして、康熙帝の祖母にあたる人はモンゴル人です。康熙帝の母は有力な家柄の娘ではなく、しかも、早くに死んでしまったので、康熙帝の教育は、主にこの祖母によって行なわれました。大変にいつくしまれて育ったので、康熙帝は後々まで祖母に孝行します。それで、康熙帝はモンゴル文化に造詣が深く、モンゴル語もよくできたので、モンゴル人臣下が増え、彼らから慕われました。
遊牧民族は、今でもそうですが、組織ではなく人柄の優れた人についていきます。先に触れたフランス人宣教師ブーヴェの康熙帝に対する褒め言葉は、おそらく嘘偽りでなく、本当に立派な人だったと思われます。生涯を通じて大変に努力して、清朝の基礎を盤石にした皇帝です。ひいては、現在の中国の基礎を築きました。
幼くして大帝国の皇帝となった康熙帝ですが、8歳の子どもに統治はとてもできません。当初は4人の大臣が政治を行ないます。4人とも満洲人ですが、そのうちの1人オボーイが野心家でした。他の大臣の1人が死ぬと、もう1人を処刑し、残りの1人はおとなしく追随するのみ。オボーイが独占的に権力を行使するようになりました。皇帝が若いのをいいことに専横がすぎるので、長じた康熙帝は一計を案じます。相撲に興じるフリをして、周りに腕力のある青年を集めておいて、オボーイが現れると、目配せをし、青年たちが組み伏せ、逮捕しました。そして、オボーイの罪状を挙げつらね、投獄してしまいました。オボーイに追従していた大臣は追放されます。康熙帝16歳のときのことでした。十代にして親政を始めます。
有力大臣には支持者がいます。オボーイらとつながって利権をむさぼっていた漢人の有力者が、「特権を奪われてはならじ」と1673年、反乱を起こします。これを三藩の乱(~1681)と言います。清朝建国時に協力した漢人が任されていた地域が雲南(呉三桂)・広東(尚之信)・福建(耿精忠)の三藩でした。後ろ盾であった大臣が失脚したので、自分たちの地位が危ういと思い、独立しようと反乱を起こしたのです。つまりは権力闘争です。
8年にわたる大反乱で、チベットが三藩側につくなど、清朝にとっても、まかり間違えば王朝がひっくり返っていたかもしれないぐらいの危機的状況でしたが、康熙帝は鎮圧に成功し、シナの支配を固めます。
また、台湾では鄭成功がオランダ勢力を駆逐し、支配を固めていましたが、1662年に病死し、子の鄭経が三藩の乱と連動して清に反抗を続けていました。康熙帝はこれをも降伏させて、1683年に台湾を清に組み入れました。
二十代のほとんどを三藩の乱に費やした康熙帝ですが、乱が片付くと、息つく暇なく、次は北方問題です。
黒龍江近辺にロシアが侵入してきていました。しかし、6年にわたる戦争に勝利し、追い払いました。1689年、康熙帝とピョートル大帝のあいだでネルチンスク条約が結ばれます。
ロシアの東方進出は、16世紀初頭にはウラル山脈以西に留まっていましたが、16世紀末にウラルを越え、17世紀に入るとシベリアへと進出してきました。1647年にヤクーツクに到達しています。南にはモンゴル系の遊牧民がいて、戦ってもかなわないので、まず極寒の北方を東に進みました。原住民がパラパラとしかいないので、鉄砲を使用すれば、楽に勝てます。
それで、ウラル山脈を越えると、50年でオホーツク海まで来てしまいました。そして、ロシア人は、そこから南下してくるのです。
ロシア語の文献には「アムール河(黒龍江)まで来た。夢みたいに暖かい」などという記述があります。読んでいて唖然としました。日本人が満洲事変の後、黒龍江の警備に行かされたときの記録には「寒くて寒くて、おしっこは凍るし、まつげも凍る」などと書いているのに、コサックは、オホーツク海沿いやヤクーツクから来ているので「アムール河には魚がたくさん泳いでいるし、農業もできるし、こんなにいいところはない」と書いているのです。同じ環境についての感想でも、この差ですから、シベリアがいかに過酷かと改めて思います。
このようにコサックが黒龍江まで下りてきました。各地で原住民を脅して掠奪はする、殺す、毛皮を取る、乱暴・狼藉をやりたい放題です。
しかし、清朝側としては、国内が安定していなかったので手を打つことができなかったのです。ホンタイジの時代には「逃げてこい」と住民を南下させています。
そのため、コサックが次にやって来たときには、アムール河中流域には誰もいませんでした。このように、コサックは現地をいいように荒らしまわっていたのです。
康熙帝はシナ南部の反乱を平定したので、すぐにロシア問題に取り掛かりました。ロシアがアムール河のほとりに建てた極東進出の最前線拠点アルバジン要塞を、朝鮮から兵を徴発して遠征し、攻撃したのです。
ロシア側は規模の小さい部隊なので、康熙帝はそれを蹴散らし、砦を破壊します。その後、また再建されるなど攻防がありますが、最終的にネルチンスク条約で、アルグン河、スタノヴォイ山脈(外興安嶺)を国境と定めます。沿海州などアムール河の北側も確保して、露清国境が画定されました。こうして黒龍江流域にロシア人はいなくなりました。のちにロシアは、アロー戦争(1856~1860)のどさくさにまぎれて、アイグン条約(1858)でアムール河左岸、北京条約(1860)で沿海州を奪っていくのですが、それまで200年、清はロシアの南下を食い止めたことになります。
ネルチンスク条約は、清にとって大変に重要な条約のはずですが、19世紀にロシアが新たに南下してきたときに対応した清朝の責任者には、もはや、この条約に関する知識が欠如していました。どの川が国境なのかも知らないのです。康熙帝の時代は、ロシアを追い払い国土を守りましたが、清朝末期には政治が劣化していて、ロシアの言いなりになります。
この露清国境線を新たに明確にしたのは日本人研究者でした。吉田金一先生は『近代露清関係史』(近藤出版社、1974年)で、まず概要を明らかにし、『ロシアの東方進出とネルチンスク条約』(公益財団法人東洋文庫 近代中国研究センター、1984年)で、ロシア語、満洲語、ラテン語史料を使って、ネルチンスク条約の国境線に関する地図を描き、精緻な実証研究をしました。ロシア人も真っ青です。
ネルチンスク条約はロシア語、満洲語、ラテン語で記録されました。ロシア人は当然ロシア語が読めますが、現在の中ソ国境はネルチンスク条約で定められた線よりはるかに南にありますから、この条約の細かいことはわからないほうがロシアにとっては都合がよいので、内容を明らかにしようとしません。現代中国人は満洲語などできません。そして、ロシア語、満洲語、ラテン語ともに、現代的にはメジャー言語とは言えませんから、これらを読んで研究しようという人は世界的にもあまりいないのです。それだけに吉田先生の業績が光ります。
康熙帝が行なった最後の大遠征はジューンガルです。ジューンガルは、ガルダンを長とした西モンゴル族の部族連合で、今の新疆北部からアルタイ山脈に至る地域を本拠地とし、天山南北路も支配して、中央アジアに一大帝国を築いていました。1688年、ガルダンは3万の兵を率いてモンゴル高原北部に侵攻し、清朝領内にまで侵入して清軍と衝突します。これに対して、康熙帝は1696年、3個軍団を編成し、モンゴル高原へと親征します。瀋陽からは東路軍、陝西からは西路軍、各約3万5000名が、そして北京から皇帝自身が率いる3万7000名の中路軍が出陣します。
清軍は満洲人・モンゴル人の騎兵とともに漢人歩兵もいます。進軍は一番足の遅いものにあわせなくてはならないので、時間がかかります。
しかも、予定では、東・西・中路軍、3隊が集合して包囲作戦を実行するはずだったのですが、それがうまくいきませんでした。最も移動距離の少ない中路軍が最も早く敵地に到着するのは当然としても、西路軍が著しく遅れたうえ、東路軍は、全然、間に合いそうにありません。康熙帝も「そこで待っておけ」と指示を出すしまつです。
人のいない草原地帯では食料の現地調達はできません。それで、手持ちの糧食が切れないように、食事を減らしながら行軍します。しかし、康熙帝が指揮する中路軍が目的地に到着したときにはガルダンは逃走した後でした。相手は遊牧民の騎兵集団で、場所は勝手知ったる草原ですから、すばやく移動します。
ただ、康熙帝にとっては幸い、ガルダンにとっては不幸なことに、西路軍がちょうどやってくるところにジューンガル軍は移動してしまったのです。両軍が衝突し、ガルダン軍は大敗します。このとき、ガルダンの妃も戦死しています。鎧を着て馬に乗り、夫と共に戦場で戦ったところ、射貫かれて亡くなったのでした。
ジューンガル討伐に遠征中の康熙帝は、北京に残って留守を守る皇帝代理の皇太子に満洲語でまめに手紙を書き送っていて、愛息を気遣う内容に満ちています。
皇帝は必ず朱墨を用いるので、皇帝の書を朱筆と言います。康熙帝の朱筆は台湾に保管されていました。蒋介石が大陸を去るときに軍艦で台湾に運んだので、北京から台湾に移されていたのです。康熙帝の手紙の現物もそのなかにありました。翻訳もされていない貴重な現物であり、康熙帝研究には欠かせない内容です。
岡田英弘が満洲語から日本語に翻訳し、『康熙帝の手紙』という、そのままのタイトルで、1979年に中公新書から出版されたのですが、マニアックすぎたのか売れ行きは芳しくなかったので絶版になってしまいました。
それが2016年に、藤原書店から「清朝史叢書」の一環として再刊の運びとなりました。リメイクにあたっては、脚注がつき、未刊行の岡田論文、岡田の英語論文の日本語訳、そして、岡田が本のなかで紹介した文献を弟子たちが訳出したものが付加され、より充実した研究書に仕上がりました。最初はこちらも『康熙帝の手紙』というタイトルだったのですが、のちに『大清帝国隆盛期の実像』に変更となりました。
ところで、この『康熙帝の手紙』は、ウランバートルでモンゴル語訳が出版されて、版を重ねています。一冊まるごとではありませんが、手紙文書の部分などが重点的に訳出されました。どのようにモンゴル語や満洲語を読み解けば、こういう学術研究ができる、ということを示す大学の授業のテキストとして、この本が用いられているそうです。そうやってモンゴル人も歴史を取り戻しているところなのです。中国の嘘に反論していくためにも重要なことです。これも、日本の出版物が、モンゴル人が真実を発見するのに役立っている一例です。
康熙帝の事績として、ジューンガルのガルダンとの戦いについてお話ししましたが、ここでジューンガルについて追記しておきたいと思います。
日本の世界史教科書でも「ジューンガル」はわずかに記載があるものの、あまり大きくは扱われません。それで、ジューンガルは一般的にあまり知られていないのですが、康煕・雍正(ようせい)・乾隆(けんりゅう)帝という清朝きっての名君たちが、そろって頭を悩ましたのが、このジューンガル帝国でした。清朝のほうが圧倒的に優勢で、最後には滅ぼされてしまいますが、17世紀には、ロシアや清に勝るとも劣らない大帝国が中央アジアにあったのです。
ジューンガル(オイラト)の勢力範囲は、モンゴル高原を中心に、東は赤峰(せきほう=現在、中華人民共和国内モンゴル自治区の赤峰市)から西はヴォルガ河流域まで、横幅だけならモンゴル帝国にも匹敵する広大な地域を支配下におさめていました。さらに、ジューンガルの同盟部族であるホシュート部がチベット王に推戴(すいたい)された時期もあります。隆盛期には現在のウズベキスタンやタジキスタン、カザフスタン、南シベリアもジューンガルに降っています。
ジューンガルは西モンゴルのオイラトの部族連合です。旧オイラト部は、13世紀にチンギス・ハーンに服属し、オイラト王家はチンギスの子孫と代々姻戚関係を結ぶ名家でした。しかし、時代が下って、フビライと敵対した末弟アリク・ブガやオゴデイの孫ハイドゥ側についたために凋落(ちょうらく)し、歴史の表舞台から姿を消します。
オイラトが再び歴史に登場するのは、元朝がシナを放棄し、北方に逃亡してからのことです。フビライ家のトクズ・テムル・ハーンをアリク・ブガの子孫であるイェスデルが殺害します。イェスデルは、このときオイラトの支持を受けてモンゴルのハーン位につきました。
チンギス・ハーンの子孫でないとハーンになれないという原則は生きていましたから、チンギスの男系子孫がハーンになりますが、もはや実質的には外戚オイラトが政権を担う傀儡(かいらい)です。
しかし、1452年にオイラトの指導者エセンはタイスン・ハーンと対立し、戦って敗れたハーンは逃亡先で死んでしまいます。エセンはオイラト人を母としない北元の皇族を皆殺しにし、自らハーンの位につきました。しかし、エセンは部下に殺され、その死後、オイラトは分裂してしまい、その勢力は西方に後退します。
15世紀後半、再びチンギスおよびフビライ・ハーンの子孫がモンゴル諸部を統一しました。モンゴル中興の祖と呼ばれるダヤン・ハーンです。その後、ダヤン・ハーンの子孫が代々モンゴル諸部族の長となって繁栄します。現代につながる新しいモンゴル民族の誕生です。
ところで、オイラトは、このときにもなくなったわけではなく、フビライの子孫が率いるモンゴルに対抗し、中央アジアから南ロシアに勢力を広げました。17世紀、東部の「モンゴル人」が清朝に服属してしまった後に、「われこそは」と遊牧帝国の本家を名乗って出たのがジューンガル帝国です。
そのジューンガル帝国を最強にしたのがガルダンでしたが、康熙帝の遠征軍に敗退した後は、逃亡を続けるあいだに、甥のツェワンラブタンが反旗を翻し、ジューンガル部族の本拠地を制圧したうえ、東トルキスタンなどガルダンの支配地も手に入れました。1697年、失意のガルダンは逃亡中に病死します。
しかし、清朝で編纂された漢文史料は、ガルダンは毒をあおいで自殺したことになっています。ガルダンはチベット仏教の高僧の転生と認められた活仏なので、自殺は考えにくいのですが、康熙帝は敵ガルダンの聖性を否定したかったのでしょう。
ジューンガル帝国はガルダンの死後も続きますが、強大な清国と東方進出を目論むロシアに挟まれて、微妙な立ち位置にありました。最後は継承争いで、内部分裂し弱体化していきます。「またか」と思いますが、遊牧帝国お決まりの滅びのパターンです。ジューンガルは、ついに1755年、乾隆帝に攻められ滅びてしまいます。
新疆(しんきょう)とチベットは、清朝が、この地域を支配していたジューンガルを降したことによって、清朝に服属することになりました。現代中国の支配領域がなぜあんな奥地にまで及んでいるのかを理解するためには、ジューンガルと清朝の攻防について知っておく必要があるのです。
ジューンガル帝国はさらに西にも領域が広がっていましたが、清朝は西に拡大するつもりはなく、西方は後に中央アジアに侵入してきたロシア帝国の領土となっていきます。したがって、ジューンガル帝国の領域は、最終的に、ロシアと清朝に分割されるような形となりました。その清朝側が今の新疆とチベットなのです。
以後、大規模な遊牧帝国は現れていないので、ジューンガルは「最後の遊牧帝国」と呼ばれます。以上簡単にまとめましたが、興味のある方は、私の『最後の遊牧帝国―ジューンガル部の興亡』(講談社)をご参照ください。
狩猟民・遊牧民は実力の世界。跡継ぎは基本的に有力諸部族の大集会で決められるものでした。しかし、シナ地域を治めるにはシナ式の方法をとったほうがいいという判断だったのでしょう。満洲人としては異例のことですが、康熙帝は皇太子を建てました。
康熙帝はジューンガル遠征中に皇太子に愛情あふれる手紙を送り続けました。それに対して、皇太子がしたためた返書も残っています。父は愛息に帝王教育をほどこし、息子も父に対して敬意を持って接する。非常に良い関係にありました。
しかし、幸か不幸か、康熙帝は長生きし、その統治は60年以上に及びます。康熙帝には皇太子以外にも息子が大勢いました。当初は皇太子の地位を安定させるために、他の息子には爵位や領民を与えないままでした。しかし、ジューンガル戦では、留守を守る皇太子の代わりに、他の息子たちが従軍し、功績を挙げています。そんな息子たちに、何も恩賞を与えないわけにはいかないので、ガルダンの死後、6人の皇子に爵位と領民を与えました。すると、皇子たちが各地で一定の勢力を持つことになります。母違いの兄弟も多いので、外戚(母の出身部族)が、同族の血を引く皇子を跡継ぎにしようと画策します。
元気な康熙帝は子だくさんでした。なかでも領地を持った6人は継承者候補に躍り出ます。皇太子が決まっているにも関わらず、というより追い落とす標的が明らかだからこそ、帝位継承争いが激化しました。
皇太子の母は、産褥(さんじょく)で亡くなっています。それで、母方の叔父である領待衛内大臣ソンゴトが補佐していましたが、この叔父が1703年、突然に逮捕され、監禁中に死亡します。皇太子は政治的に孤立し、精神的に不安定になってしまいました。異常な行動が目立つ皇太子に対し、皇帝は自分に悪意を抱いているのではないかと疑いを持つようになり、ついには、1708年、皇太子を廃位してしまいます。
皇太子は逮捕され、監禁されました。その直後に、他の兄弟が皇太子を嵌めたことが発覚します。軽挙を反省した康熙帝は、1709年に皇太子を復位させました。しかし、皇太子は、くたびれ果てて、精神不安定は一向に改善しなかったため、1712年、再び廃位・幽閉されます。
以後、康熙帝は2度と皇太子を立てませんでした。よほどこたえたのか、大臣が立太子の必要性を説くたびに激怒したそうです。触れたくないテーマだったのです。
康熙帝は後継者を決めずに急に病を得て崩御しました。長生きも良し悪しで、気の毒な晩年でした。
1722年、離宮で康熙帝が身罷った(みまかった)とき、枕元にいたロンコドという大臣1人だけが帝の側近くに呼ばれて、後継者指名の上意を伝えられました。後継者に指名されたのは康熙帝の第4皇子で、これが清の第5代皇帝、雍正帝(1678~1735、在位:1722~1735)です。
父の康熙帝はジューンガル戦に勝利し、領域をチベット・北モンゴルにまで拡大しました。領土は大きければいいというものではなく、それを維持・管理しなければなりません。それを、雍正帝が整理し、秩序づけていきました。康熙帝も勤勉でしたが、雍正帝もそれに勝るとも劣らない働き者でした。文書行政を得意とし、地方から届く書類の全てに目を通し、毎日、朝から晩まで書類決裁します。
満洲語はもちろん、漢文も読めますし、達筆です。全てに許可や了解、必要ならコメントを朱筆で記入しました。満洲語も漢語もあります。「雍正硃批諭旨(ようせいしゅひゆし)」という、雍正帝がコメントした膨大な書類が残っているほど、勤勉な皇帝でした。
康熙帝が跡継ぎ不在のまま崩御してしまい、かなり不透明な経緯で帝位についた雍正帝でしたが、あるいはそれだけに努力して優れた業績を上げ、大帝国の統治者としての責任を果たしました。しかし、雍正帝は、あまりに働きすぎて、13年で過労死してしまいます。もっとも、皇帝に就任したのが45歳と遅く、亡くなったときには五十代後半ですから、当時としては、ことさら早死にしたわけではありません。
次の乾隆帝(1711~1799、在位:1735~1795)は、二十代の若さで帝位に就きます。康熙帝が領土を大きく広げていましたが、乾隆帝はさらに拡大し、清朝最大版図を現出しました。
ジューンガルを壊滅させ、新疆を制圧します。また、ネパールにも進軍し、チベット支配を安定させました。四川省の苗族の反乱も平定しています。その結果、満洲とシナ地域以外に、モンゴル高原全域、新疆、台湾、チベットを領土に含む大帝国となったのです。さらに、東南アジア情勢にも介入し、ビルマ、ベトナム、タイ、ラオスを朝貢国としました。
乾隆帝は、豊かな大帝国に生まれ、度重なる外征によって国庫を浪費します。15回に及ぶ巡行を行ない、特に江南へは6回も行っています。その期間も長く、かかる費用も膨大であったし、滞在する地方にも負担をかけました。
しかし、基本的に満洲人皇帝には暗君は少なかったと思います。清朝末期には決断力に欠けたり幼少だったりという皇帝も出ますが、それまでは、文武両道の名君が続いています。
明から清に交替したばかりの頃は6000万人だった人口が、アヘン戦争直前には4億にまで増えていました。260年間、平和で豊かな社会だったから、人口が増えたのです。GDPも世界のトップクラスでした。農作物の収穫は多く、絹製品や陶磁器などは世界中で珍重されました。
乾隆帝は浪費家でしたが、満洲族の文化を尊び、弓矢の稽古や馬術を奨励するなど、尚武の気風を鼓舞していました。晩年は、巨額の汚職をしたヘシェンを重用するなどの老害もひどくなり、功罪相半ばしますが、優れた武将でありリーダーシップのとれる皇帝で、明代の暗君と比べたら、名君と言ってもいいのではないでしょうか。人の評価はどこに基準を置くかによって、かなり変わってきます。
ところで、習近平は康熙帝・雍正帝・乾隆帝の研究をしているらしいです。清は異民族との共存を図るという意味では公平な大国でした。習近平が清朝最盛期の統治を良しとして認めるなら、王朝政治の中身も学んでほしいですね。現在の中国は、いいとこ取りをしているだけにしか見えません。(宮脇淳子)
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◆何でもできて勤勉な完璧人間~岡田英弘が愛した康熙帝
北京に入城して漢地支配を始めた第3代順治帝は繊細な人だったようです。亡くなった愛妃ドンゴ氏を想い追憶を漢文でつづっていて、漢文では珍しい情のこもった文章です。おそらく満洲語で考えてから漢字にしたので情緒にあふれているのでしょう。
日本人の漢詩も情緒的・感傷的ですが、日本語で考えてつくるからです。「四書五経」などの硬い文章しか学んでいない漢人は、どうも情緒に欠けます。言葉というのは非常に大事なもので、それによって精神の構造が違ってくるのです。
順治帝は愛妃の後を追うように、まもなく1661年に24歳で亡くなってしまいます。そして、その皇子・第4代康熙帝(こうきてい。1654~1722、在位:1661~1722)が8歳で即位するのです。
亡き夫、岡田英弘は、この康熙帝を高く評価していました。岡田の著作は、偉人であっても褒めちぎるようなことはせず、淡々と歴史を語るスタイルなのですが、康熙帝のことだけは『皇帝たちの中国』のなかでも手放しで褒めています。
章の冒頭は、イエズス会士ブーヴェ神父の『康熙帝伝』の長々とした引用から始まります。まとめると「容姿端麗、頭脳明晰、強靭な体力と精神力を持ち、文武両道のスーパーマン。しかも芸術にも通じている。質素で、ぜいたくせず、弁も立つ」です。「……と書かれているが、実は……」と続くのかと思えば、岡田自身が皇帝の超人的な天才性をさらに褒めます。
康熙帝には皇太子である息子に書いた手紙が残っていて、岡田はそれを訳したときに大変に感動したようです。満洲語で書かれた自筆の手紙で、これについては後述します。
確かに康熙帝は立派な人だったと、私自身も思います。康熙帝に関しては、長きにわたってしばしば講義しているので、かなり調べましたが、上司がこんな人だったら、たまらないなと思います。
大変に勤勉で、天体観測から押し花まで、何でもするし、何でもできる人でした。ぜいたくを好まず、行軍などの厳しい状況では家来と一緒に1日1食で済ませるなど、欠乏にも耐えます。美術品に対しても目利きであるし、満洲語もモンゴル語も漢文も完璧に読み書きします。当然のように武芸にも秀でている。
こんな完璧人間が近くにいたら、ミスがすぐにバレてしまいます。康熙帝が他人に対しても厳しかったかどうかはわかりませんが、そうでなくても窮屈です。皇帝の信を得ようと思えば自ずとハイレベルなことを要求されることになるでしょうから、ついていくのが大変です。
こんな万能の皇帝なら幸せな一生を送ったかと言えば、そうでもなく、帝の晩年には悲劇が襲います。頑健な康熙帝は長生きし、その治世は称えられるべきものでしたが、そのことが皇太子を闇に追いやり、愛する息子を廃位、幽閉することとなるのでした。これについて詳しくは後述します。
ホンタイジの皇后で順治帝の母であり、そして、康熙帝の祖母にあたる人はモンゴル人です。康熙帝の母は有力な家柄の娘ではなく、しかも、早くに死んでしまったので、康熙帝の教育は、主にこの祖母によって行なわれました。大変にいつくしまれて育ったので、康熙帝は後々まで祖母に孝行します。それで、康熙帝はモンゴル文化に造詣が深く、モンゴル語もよくできたので、モンゴル人臣下が増え、彼らから慕われました。
遊牧民族は、今でもそうですが、組織ではなく人柄の優れた人についていきます。先に触れたフランス人宣教師ブーヴェの康熙帝に対する褒め言葉は、おそらく嘘偽りでなく、本当に立派な人だったと思われます。生涯を通じて大変に努力して、清朝の基礎を盤石にした皇帝です。ひいては、現在の中国の基礎を築きました。
◆十代にして親政を始める~有力大臣を投獄し、三藩の乱も鎮圧
幼くして大帝国の皇帝となった康熙帝ですが、8歳の子どもに統治はとてもできません。当初は4人の大臣が政治を行ないます。4人とも満洲人ですが、そのうちの1人オボーイが野心家でした。他の大臣の1人が死ぬと、もう1人を処刑し、残りの1人はおとなしく追随するのみ。オボーイが独占的に権力を行使するようになりました。皇帝が若いのをいいことに専横がすぎるので、長じた康熙帝は一計を案じます。相撲に興じるフリをして、周りに腕力のある青年を集めておいて、オボーイが現れると、目配せをし、青年たちが組み伏せ、逮捕しました。そして、オボーイの罪状を挙げつらね、投獄してしまいました。オボーイに追従していた大臣は追放されます。康熙帝16歳のときのことでした。十代にして親政を始めます。
有力大臣には支持者がいます。オボーイらとつながって利権をむさぼっていた漢人の有力者が、「特権を奪われてはならじ」と1673年、反乱を起こします。これを三藩の乱(~1681)と言います。清朝建国時に協力した漢人が任されていた地域が雲南(呉三桂)・広東(尚之信)・福建(耿精忠)の三藩でした。後ろ盾であった大臣が失脚したので、自分たちの地位が危ういと思い、独立しようと反乱を起こしたのです。つまりは権力闘争です。
8年にわたる大反乱で、チベットが三藩側につくなど、清朝にとっても、まかり間違えば王朝がひっくり返っていたかもしれないぐらいの危機的状況でしたが、康熙帝は鎮圧に成功し、シナの支配を固めます。
また、台湾では鄭成功がオランダ勢力を駆逐し、支配を固めていましたが、1662年に病死し、子の鄭経が三藩の乱と連動して清に反抗を続けていました。康熙帝はこれをも降伏させて、1683年に台湾を清に組み入れました。
◆ネルチンスク条約~ロシアの南下を200年間食い止める
二十代のほとんどを三藩の乱に費やした康熙帝ですが、乱が片付くと、息つく暇なく、次は北方問題です。
黒龍江近辺にロシアが侵入してきていました。しかし、6年にわたる戦争に勝利し、追い払いました。1689年、康熙帝とピョートル大帝のあいだでネルチンスク条約が結ばれます。
ロシアの東方進出は、16世紀初頭にはウラル山脈以西に留まっていましたが、16世紀末にウラルを越え、17世紀に入るとシベリアへと進出してきました。1647年にヤクーツクに到達しています。南にはモンゴル系の遊牧民がいて、戦ってもかなわないので、まず極寒の北方を東に進みました。原住民がパラパラとしかいないので、鉄砲を使用すれば、楽に勝てます。
それで、ウラル山脈を越えると、50年でオホーツク海まで来てしまいました。そして、ロシア人は、そこから南下してくるのです。
ロシア語の文献には「アムール河(黒龍江)まで来た。夢みたいに暖かい」などという記述があります。読んでいて唖然としました。日本人が満洲事変の後、黒龍江の警備に行かされたときの記録には「寒くて寒くて、おしっこは凍るし、まつげも凍る」などと書いているのに、コサックは、オホーツク海沿いやヤクーツクから来ているので「アムール河には魚がたくさん泳いでいるし、農業もできるし、こんなにいいところはない」と書いているのです。同じ環境についての感想でも、この差ですから、シベリアがいかに過酷かと改めて思います。
このようにコサックが黒龍江まで下りてきました。各地で原住民を脅して掠奪はする、殺す、毛皮を取る、乱暴・狼藉をやりたい放題です。
しかし、清朝側としては、国内が安定していなかったので手を打つことができなかったのです。ホンタイジの時代には「逃げてこい」と住民を南下させています。
そのため、コサックが次にやって来たときには、アムール河中流域には誰もいませんでした。このように、コサックは現地をいいように荒らしまわっていたのです。
康熙帝はシナ南部の反乱を平定したので、すぐにロシア問題に取り掛かりました。ロシアがアムール河のほとりに建てた極東進出の最前線拠点アルバジン要塞を、朝鮮から兵を徴発して遠征し、攻撃したのです。
ロシア側は規模の小さい部隊なので、康熙帝はそれを蹴散らし、砦を破壊します。その後、また再建されるなど攻防がありますが、最終的にネルチンスク条約で、アルグン河、スタノヴォイ山脈(外興安嶺)を国境と定めます。沿海州などアムール河の北側も確保して、露清国境が画定されました。こうして黒龍江流域にロシア人はいなくなりました。のちにロシアは、アロー戦争(1856~1860)のどさくさにまぎれて、アイグン条約(1858)でアムール河左岸、北京条約(1860)で沿海州を奪っていくのですが、それまで200年、清はロシアの南下を食い止めたことになります。
ネルチンスク条約は、清にとって大変に重要な条約のはずですが、19世紀にロシアが新たに南下してきたときに対応した清朝の責任者には、もはや、この条約に関する知識が欠如していました。どの川が国境なのかも知らないのです。康熙帝の時代は、ロシアを追い払い国土を守りましたが、清朝末期には政治が劣化していて、ロシアの言いなりになります。
この露清国境線を新たに明確にしたのは日本人研究者でした。吉田金一先生は『近代露清関係史』(近藤出版社、1974年)で、まず概要を明らかにし、『ロシアの東方進出とネルチンスク条約』(公益財団法人東洋文庫 近代中国研究センター、1984年)で、ロシア語、満洲語、ラテン語史料を使って、ネルチンスク条約の国境線に関する地図を描き、精緻な実証研究をしました。ロシア人も真っ青です。
ネルチンスク条約はロシア語、満洲語、ラテン語で記録されました。ロシア人は当然ロシア語が読めますが、現在の中ソ国境はネルチンスク条約で定められた線よりはるかに南にありますから、この条約の細かいことはわからないほうがロシアにとっては都合がよいので、内容を明らかにしようとしません。現代中国人は満洲語などできません。そして、ロシア語、満洲語、ラテン語ともに、現代的にはメジャー言語とは言えませんから、これらを読んで研究しようという人は世界的にもあまりいないのです。それだけに吉田先生の業績が光ります。
◆ジューンガル戦役と『康熙帝の手紙』~愛息への気遣いに満ちた朱筆
康熙帝が行なった最後の大遠征はジューンガルです。ジューンガルは、ガルダンを長とした西モンゴル族の部族連合で、今の新疆北部からアルタイ山脈に至る地域を本拠地とし、天山南北路も支配して、中央アジアに一大帝国を築いていました。1688年、ガルダンは3万の兵を率いてモンゴル高原北部に侵攻し、清朝領内にまで侵入して清軍と衝突します。これに対して、康熙帝は1696年、3個軍団を編成し、モンゴル高原へと親征します。瀋陽からは東路軍、陝西からは西路軍、各約3万5000名が、そして北京から皇帝自身が率いる3万7000名の中路軍が出陣します。
清軍は満洲人・モンゴル人の騎兵とともに漢人歩兵もいます。進軍は一番足の遅いものにあわせなくてはならないので、時間がかかります。
しかも、予定では、東・西・中路軍、3隊が集合して包囲作戦を実行するはずだったのですが、それがうまくいきませんでした。最も移動距離の少ない中路軍が最も早く敵地に到着するのは当然としても、西路軍が著しく遅れたうえ、東路軍は、全然、間に合いそうにありません。康熙帝も「そこで待っておけ」と指示を出すしまつです。
人のいない草原地帯では食料の現地調達はできません。それで、手持ちの糧食が切れないように、食事を減らしながら行軍します。しかし、康熙帝が指揮する中路軍が目的地に到着したときにはガルダンは逃走した後でした。相手は遊牧民の騎兵集団で、場所は勝手知ったる草原ですから、すばやく移動します。
ただ、康熙帝にとっては幸い、ガルダンにとっては不幸なことに、西路軍がちょうどやってくるところにジューンガル軍は移動してしまったのです。両軍が衝突し、ガルダン軍は大敗します。このとき、ガルダンの妃も戦死しています。鎧を着て馬に乗り、夫と共に戦場で戦ったところ、射貫かれて亡くなったのでした。
ジューンガル討伐に遠征中の康熙帝は、北京に残って留守を守る皇帝代理の皇太子に満洲語でまめに手紙を書き送っていて、愛息を気遣う内容に満ちています。
皇帝は必ず朱墨を用いるので、皇帝の書を朱筆と言います。康熙帝の朱筆は台湾に保管されていました。蒋介石が大陸を去るときに軍艦で台湾に運んだので、北京から台湾に移されていたのです。康熙帝の手紙の現物もそのなかにありました。翻訳もされていない貴重な現物であり、康熙帝研究には欠かせない内容です。
岡田英弘が満洲語から日本語に翻訳し、『康熙帝の手紙』という、そのままのタイトルで、1979年に中公新書から出版されたのですが、マニアックすぎたのか売れ行きは芳しくなかったので絶版になってしまいました。
それが2016年に、藤原書店から「清朝史叢書」の一環として再刊の運びとなりました。リメイクにあたっては、脚注がつき、未刊行の岡田論文、岡田の英語論文の日本語訳、そして、岡田が本のなかで紹介した文献を弟子たちが訳出したものが付加され、より充実した研究書に仕上がりました。最初はこちらも『康熙帝の手紙』というタイトルだったのですが、のちに『大清帝国隆盛期の実像』に変更となりました。
ところで、この『康熙帝の手紙』は、ウランバートルでモンゴル語訳が出版されて、版を重ねています。一冊まるごとではありませんが、手紙文書の部分などが重点的に訳出されました。どのようにモンゴル語や満洲語を読み解けば、こういう学術研究ができる、ということを示す大学の授業のテキストとして、この本が用いられているそうです。そうやってモンゴル人も歴史を取り戻しているところなのです。中国の嘘に反論していくためにも重要なことです。これも、日本の出版物が、モンゴル人が真実を発見するのに役立っている一例です。
◆最後の遊牧帝国ジューンガル~モンゴルにも匹敵する大帝国
康熙帝の事績として、ジューンガルのガルダンとの戦いについてお話ししましたが、ここでジューンガルについて追記しておきたいと思います。
日本の世界史教科書でも「ジューンガル」はわずかに記載があるものの、あまり大きくは扱われません。それで、ジューンガルは一般的にあまり知られていないのですが、康煕・雍正(ようせい)・乾隆(けんりゅう)帝という清朝きっての名君たちが、そろって頭を悩ましたのが、このジューンガル帝国でした。清朝のほうが圧倒的に優勢で、最後には滅ぼされてしまいますが、17世紀には、ロシアや清に勝るとも劣らない大帝国が中央アジアにあったのです。
ジューンガル(オイラト)の勢力範囲は、モンゴル高原を中心に、東は赤峰(せきほう=現在、中華人民共和国内モンゴル自治区の赤峰市)から西はヴォルガ河流域まで、横幅だけならモンゴル帝国にも匹敵する広大な地域を支配下におさめていました。さらに、ジューンガルの同盟部族であるホシュート部がチベット王に推戴(すいたい)された時期もあります。隆盛期には現在のウズベキスタンやタジキスタン、カザフスタン、南シベリアもジューンガルに降っています。
ジューンガルは西モンゴルのオイラトの部族連合です。旧オイラト部は、13世紀にチンギス・ハーンに服属し、オイラト王家はチンギスの子孫と代々姻戚関係を結ぶ名家でした。しかし、時代が下って、フビライと敵対した末弟アリク・ブガやオゴデイの孫ハイドゥ側についたために凋落(ちょうらく)し、歴史の表舞台から姿を消します。
オイラトが再び歴史に登場するのは、元朝がシナを放棄し、北方に逃亡してからのことです。フビライ家のトクズ・テムル・ハーンをアリク・ブガの子孫であるイェスデルが殺害します。イェスデルは、このときオイラトの支持を受けてモンゴルのハーン位につきました。
チンギス・ハーンの子孫でないとハーンになれないという原則は生きていましたから、チンギスの男系子孫がハーンになりますが、もはや実質的には外戚オイラトが政権を担う傀儡(かいらい)です。
しかし、1452年にオイラトの指導者エセンはタイスン・ハーンと対立し、戦って敗れたハーンは逃亡先で死んでしまいます。エセンはオイラト人を母としない北元の皇族を皆殺しにし、自らハーンの位につきました。しかし、エセンは部下に殺され、その死後、オイラトは分裂してしまい、その勢力は西方に後退します。
15世紀後半、再びチンギスおよびフビライ・ハーンの子孫がモンゴル諸部を統一しました。モンゴル中興の祖と呼ばれるダヤン・ハーンです。その後、ダヤン・ハーンの子孫が代々モンゴル諸部族の長となって繁栄します。現代につながる新しいモンゴル民族の誕生です。
ところで、オイラトは、このときにもなくなったわけではなく、フビライの子孫が率いるモンゴルに対抗し、中央アジアから南ロシアに勢力を広げました。17世紀、東部の「モンゴル人」が清朝に服属してしまった後に、「われこそは」と遊牧帝国の本家を名乗って出たのがジューンガル帝国です。
そのジューンガル帝国を最強にしたのがガルダンでしたが、康熙帝の遠征軍に敗退した後は、逃亡を続けるあいだに、甥のツェワンラブタンが反旗を翻し、ジューンガル部族の本拠地を制圧したうえ、東トルキスタンなどガルダンの支配地も手に入れました。1697年、失意のガルダンは逃亡中に病死します。
しかし、清朝で編纂された漢文史料は、ガルダンは毒をあおいで自殺したことになっています。ガルダンはチベット仏教の高僧の転生と認められた活仏なので、自殺は考えにくいのですが、康熙帝は敵ガルダンの聖性を否定したかったのでしょう。
ジューンガル帝国はガルダンの死後も続きますが、強大な清国と東方進出を目論むロシアに挟まれて、微妙な立ち位置にありました。最後は継承争いで、内部分裂し弱体化していきます。「またか」と思いますが、遊牧帝国お決まりの滅びのパターンです。ジューンガルは、ついに1755年、乾隆帝に攻められ滅びてしまいます。
新疆(しんきょう)とチベットは、清朝が、この地域を支配していたジューンガルを降したことによって、清朝に服属することになりました。現代中国の支配領域がなぜあんな奥地にまで及んでいるのかを理解するためには、ジューンガルと清朝の攻防について知っておく必要があるのです。
ジューンガル帝国はさらに西にも領域が広がっていましたが、清朝は西に拡大するつもりはなく、西方は後に中央アジアに侵入してきたロシア帝国の領土となっていきます。したがって、ジューンガル帝国の領域は、最終的に、ロシアと清朝に分割されるような形となりました。その清朝側が今の新疆とチベットなのです。
以後、大規模な遊牧帝国は現れていないので、ジューンガルは「最後の遊牧帝国」と呼ばれます。以上簡単にまとめましたが、興味のある方は、私の『最後の遊牧帝国―ジューンガル部の興亡』(講談社)をご参照ください。
◆長生きした康熙帝・晩年の悲劇~継承問題で愛息を幽閉
狩猟民・遊牧民は実力の世界。跡継ぎは基本的に有力諸部族の大集会で決められるものでした。しかし、シナ地域を治めるにはシナ式の方法をとったほうがいいという判断だったのでしょう。満洲人としては異例のことですが、康熙帝は皇太子を建てました。
康熙帝はジューンガル遠征中に皇太子に愛情あふれる手紙を送り続けました。それに対して、皇太子がしたためた返書も残っています。父は愛息に帝王教育をほどこし、息子も父に対して敬意を持って接する。非常に良い関係にありました。
しかし、幸か不幸か、康熙帝は長生きし、その統治は60年以上に及びます。康熙帝には皇太子以外にも息子が大勢いました。当初は皇太子の地位を安定させるために、他の息子には爵位や領民を与えないままでした。しかし、ジューンガル戦では、留守を守る皇太子の代わりに、他の息子たちが従軍し、功績を挙げています。そんな息子たちに、何も恩賞を与えないわけにはいかないので、ガルダンの死後、6人の皇子に爵位と領民を与えました。すると、皇子たちが各地で一定の勢力を持つことになります。母違いの兄弟も多いので、外戚(母の出身部族)が、同族の血を引く皇子を跡継ぎにしようと画策します。
元気な康熙帝は子だくさんでした。なかでも領地を持った6人は継承者候補に躍り出ます。皇太子が決まっているにも関わらず、というより追い落とす標的が明らかだからこそ、帝位継承争いが激化しました。
皇太子の母は、産褥(さんじょく)で亡くなっています。それで、母方の叔父である領待衛内大臣ソンゴトが補佐していましたが、この叔父が1703年、突然に逮捕され、監禁中に死亡します。皇太子は政治的に孤立し、精神的に不安定になってしまいました。異常な行動が目立つ皇太子に対し、皇帝は自分に悪意を抱いているのではないかと疑いを持つようになり、ついには、1708年、皇太子を廃位してしまいます。
皇太子は逮捕され、監禁されました。その直後に、他の兄弟が皇太子を嵌めたことが発覚します。軽挙を反省した康熙帝は、1709年に皇太子を復位させました。しかし、皇太子は、くたびれ果てて、精神不安定は一向に改善しなかったため、1712年、再び廃位・幽閉されます。
以後、康熙帝は2度と皇太子を立てませんでした。よほどこたえたのか、大臣が立太子の必要性を説くたびに激怒したそうです。触れたくないテーマだったのです。
康熙帝は後継者を決めずに急に病を得て崩御しました。長生きも良し悪しで、気の毒な晩年でした。
◆そして雍正帝、乾隆帝へ~260年の平和で人口は6000万から4億に
1722年、離宮で康熙帝が身罷った(みまかった)とき、枕元にいたロンコドという大臣1人だけが帝の側近くに呼ばれて、後継者指名の上意を伝えられました。後継者に指名されたのは康熙帝の第4皇子で、これが清の第5代皇帝、雍正帝(1678~1735、在位:1722~1735)です。
父の康熙帝はジューンガル戦に勝利し、領域をチベット・北モンゴルにまで拡大しました。領土は大きければいいというものではなく、それを維持・管理しなければなりません。それを、雍正帝が整理し、秩序づけていきました。康熙帝も勤勉でしたが、雍正帝もそれに勝るとも劣らない働き者でした。文書行政を得意とし、地方から届く書類の全てに目を通し、毎日、朝から晩まで書類決裁します。
満洲語はもちろん、漢文も読めますし、達筆です。全てに許可や了解、必要ならコメントを朱筆で記入しました。満洲語も漢語もあります。「雍正硃批諭旨(ようせいしゅひゆし)」という、雍正帝がコメントした膨大な書類が残っているほど、勤勉な皇帝でした。
康熙帝が跡継ぎ不在のまま崩御してしまい、かなり不透明な経緯で帝位についた雍正帝でしたが、あるいはそれだけに努力して優れた業績を上げ、大帝国の統治者としての責任を果たしました。しかし、雍正帝は、あまりに働きすぎて、13年で過労死してしまいます。もっとも、皇帝に就任したのが45歳と遅く、亡くなったときには五十代後半ですから、当時としては、ことさら早死にしたわけではありません。
次の乾隆帝(1711~1799、在位:1735~1795)は、二十代の若さで帝位に就きます。康熙帝が領土を大きく広げていましたが、乾隆帝はさらに拡大し、清朝最大版図を現出しました。
ジューンガルを壊滅させ、新疆を制圧します。また、ネパールにも進軍し、チベット支配を安定させました。四川省の苗族の反乱も平定しています。その結果、満洲とシナ地域以外に、モンゴル高原全域、新疆、台湾、チベットを領土に含む大帝国となったのです。さらに、東南アジア情勢にも介入し、ビルマ、ベトナム、タイ、ラオスを朝貢国としました。
乾隆帝は、豊かな大帝国に生まれ、度重なる外征によって国庫を浪費します。15回に及ぶ巡行を行ない、特に江南へは6回も行っています。その期間も長く、かかる費用も膨大であったし、滞在する地方にも負担をかけました。
しかし、基本的に満洲人皇帝には暗君は少なかったと思います。清朝末期には決断力に欠けたり幼少だったりという皇帝も出ますが、それまでは、文武両道の名君が続いています。
明から清に交替したばかりの頃は6000万人だった人口が、アヘン戦争直前には4億にまで増えていました。260年間、平和で豊かな社会だったから、人口が増えたのです。GDPも世界のトップクラスでした。農作物の収穫は多く、絹製品や陶磁器などは世界中で珍重されました。
乾隆帝は浪費家でしたが、満洲族の文化を尊び、弓矢の稽古や馬術を奨励するなど、尚武の気風を鼓舞していました。晩年は、巨額の汚職をしたヘシェンを重用するなどの老害もひどくなり、功罪相半ばしますが、優れた武将でありリーダーシップのとれる皇帝で、明代の暗君と比べたら、名君と言ってもいいのではないでしょうか。人の評価はどこに基準を置くかによって、かなり変わってきます。
ところで、習近平は康熙帝・雍正帝・乾隆帝の研究をしているらしいです。清は異民族との共存を図るという意味では公平な大国でした。習近平が清朝最盛期の統治を良しとして認めるなら、王朝政治の中身も学んでほしいですね。現在の中国は、いいとこ取りをしているだけにしか見えません。(宮脇淳子)