【皇帝たちの中国史3】三国志から隋まで~漢人が入れ替わる!?

2019.10.25 皇帝
目次

◆三国志を支えた「人狩り」~なぜ「魏」が強かったのか?


 小説や映画で有名な『三国志』は元末~明初にかけて羅漢中が完成させた小説『三国志演義』が下敷きになっています。それで魏・呉・蜀の興亡にまつわる話は有名で、日本人も大好きです。

 人気の理由は、登場人物がたくさんいて、どの役でも、それぞれに見せ場があり、観客も役者も喜ぶからです。明代に『三国志演義』が流行った理由も同様です。バラエティに富んでいて、俳優も観客も満足度が高いのです。配役多数で、ヒーローも曹操・劉備・孫権だけではありません。他のストーリーでは主人公は1人で、あとはみんな家来・脇役というパターンが多かったのですが、それより、ずっと受けます。最近のドラマは主役・準主役級の役を数多く設定し、場面転換を頻繁におこない、視聴者を飽きさせない作り方をしていますが、その先駆けのような作品です。

 ところで、なぜ「3国」に落ち着いたのでしょうか。人間がいなくて、大戦争ができなくなったからです。それで、配下の人間を、取りあえず町など特定の場所に囲い込みました。3国で争ったのは、確かに事実ですが、戦争そのものは局地戦で大きなものにはならず、3つにわかれて睨み合う時代が続いたというほうがイメージとしては近いものがあります。

 3国とも人が少ないので辺境で「人狩り」をします。戦争に勝つためには兵隊が必要なのです。呉は、台湾まで行って現地人を数千人、連れ帰っています。蜀は、雲南で人間狩りをしました。諸葛孔明が現地の豪族である孟獲を7度捕らえながら、そのたびに解放してやり、ついには孟獲の心を捕らえ帰順させた話は「七縦七擒(しちしょうしちきん)」という、相手を自分の思いどおりにあしらう意味の故事となっています。

 そして、最も大々的に移住政策をとったのは魏の曹操です。多数の遊牧民を辺境から呼び込みました。烏桓(うがん)や鮮卑(せんぴ)は馬ごとやってきて、強力な騎馬軍団となります。そのため、魏の騎馬兵は最強でした。

 しかし、208年、赤壁の戦いが起こります。長江中流の赤壁で魏の曹操が劉備・孫権の連合軍に負け、シナの3分割が決定的になります。魏の強みは騎馬兵にありましたが、川の上では騎馬兵は役に立ちません。

◆五胡十六国の真実~内乱でますます諸民族が強大に


 魏には北方の異民族が大勢、受け入れられました。ほとんど絶滅状態の漢人を補うために迎え入れたのですから、異民族だらけの土地となってしまいます。

 魏はその後、265年に晋に乗っ取られ、その晋も内紛を起こして316年に滅びます。内乱の過程で諸王が諸民族の力を借りましたので、彼らの力が増していき、五胡十六国時代が到来します。五胡とは匈奴・鮮卑・羯・姜・氐という5つの種族のことです。この時代、彼らが中原の黄河流域を中心とする華北に次々と国を興しました。

 華北の王朝交代について「五胡十六国の乱」などともいわれますが、それは南の漢人からの呼び名であって、「五胡」自身はシナ風に国家を建てたというだけです。とりたてて「乱」呼ばわりされるほどの特別な「乱」ではありません。これが乱なら、その前の時代も「三国の乱」と呼ぶべきでしょう。

 もともといた漢人は、10分の1になってしまったので、囲われた町に固まって細々と暮らしていたり、南方の長江方面へと亡命しました。南のほうが作物などが豊かだからです。江南にもともといた現地人は主にタイ系でした。彼らと混ざり合って、こちらも新しい漢人になっていき、南朝政権を担います。

 長安など華北の中心部はすべて遊牧・狩猟民の国が占めます。そして、百年以上にもわたる五胡十六国時代を経て、北魏が439年に華北を統一します。すでに北朝・南朝と書いてしまいましたが、一般的に北魏統一後のことを南北朝時代といいます。

◆鮮卑族の「北魏」が重視される理由~正統とは何か?


 北魏は鮮卑族の王朝ですから、南朝の基準に従えば、「乱」の続きのはずです。ところが、シナ史で北魏が重視されているのは、隋・唐がここから出ているからです。北魏を野蛮人にしてしまうと、隋と唐も野蛮人になってしまって、都合が悪いのです。それで、北魏から「王朝」扱いするという、便宜的な措置でした。

 北魏を建国した鮮卑族は満洲の北方にある大興安嶺山脈のあたりから南下してきた人たちで、狩猟民と遊牧民が交じったようなグループです。

 そのため、北宋の司馬光(1019~1086)が著した歴史書『資治通鑑』(全294巻)は北魏を蔑視し、北魏と同時代の南朝方であった宋が正統の王朝だと記しています。南朝は宋ののち、斉・梁・陳と移りますが、『資治通鑑』では、陳の最後の皇帝までは「皇帝」で、その後、正統が隋に飛び移ります。隋は581年に建国されていますが、それまで、楊堅(文帝)は「隋主」扱いでした。隋はニセだというのです。しかし、589年からは隋を王朝とし、楊堅も「文帝」と皇帝号で記されます。南朝は滅び、シナ世界が統一されたからです。

 シナ史は天命が降りた王朝を正統とし、その正統は1つしかないと考えます。したがって、複数の王朝が林立しているときには、1王朝だけ正統とし、残りはみなニセと書かなければならないのです。そんなコジツケにどういう意味があるのか、理解しがたいところではありますが、儒教的に考えると、そうなるわけです。

 先ほど『三国志』の話をしましたが、3国を対等どころか、むしろ蜀の劉備を善玉、魏の曹操を悪玉として描いている『三国志演義』は小説や戯曲の世界です。それとは別に歴史書の『三国志』があります。西晋の陳寿によって編纂されました。こちらの正史『三国志』では魏が正統で、呉と蜀はニセ扱いになっています。魏の皇帝には武帝(曹操)・文帝(曹丕)・明帝(曹叡)……と「皇帝」号をつけていますが、呉と蜀の君主は「呉主」「蜀主」です。本当は3つ並列しているのに、正統は1つしか認めないのです。

 その正統の認め方も編纂者によって異なり、『資治通鑑』の「魏紀」は2代目の文帝(曹丕)から始まります。初代曹操の時代にはまだ後漢があったからです。また、南朝の王朝をまとめて「六朝」と呼んだりしますが、6つの王朝とは「呉・東晋・宋・斉・梁・陳」で、正史『三国志』も『資治通鑑』も正統とみなしていない三国時代の呉が含まれています。

 変な原則を押し通そうとしながら、通しきることができずに、無茶苦茶なことになっていることがおわかりいただけるでしょう。

◆遊牧民の漢化?~北魏はまるでシンガポール


 北魏前期は平城(現在の山西省大同市)に首都を置いていましたが、494年、孝文帝が洛陽に遷都し、さらに漢化をすすめます。これをもって、シナ人・漢人・中国人は、「野蛮人が中国文化に染まった」というのですが、その時代の洛陽と長安に、どの程度、漢文明が残っていたのでしょうか。人口が10分の1に減るという壊滅的状況です。漢人など死に絶えています。

 では、なぜ北魏がシナ服を着たり、漢字を取り入れたりしたのか。もともと遊牧民の政権は部族連合で、部族長たちが盟主を選挙で選びます。のちにチンギス・ハーンが遊牧帝国を築き上げたときも、その後も、遊牧民の世界では、ずっとそうなのです。バラバラの部族が、一緒になって国を建てるのですが、領民に対する支配権はそれぞれの部族長が持っています。国連のようなもので、領民は自分たちの領民であって、大連合したときに盟主が必要だから「カガン(ハーン)」を選ぶ、いわば各部族が対等の関係にあるのです。

 ところが、北魏の皇帝は、遊牧民部族連合の「盟主」から、シナ型の「皇帝」になろうとしました。皇帝として支配権を行使しようとすれば、部族連合が邪魔です。皇帝を同僚の1人のようにみなし、「俺が、俺が」としゃしゃり出て来る人が大勢いるのでは困ります。

 北魏は部族的な遊牧民的な社会構造を捨て、「国家」の統治に入ろうとしたのです。その意味ではシナ化です。生活形態が変われば、統治方法も変わる。シナの地での生活・社会形態に合わせた必然的な統治機構改革です。

 洛陽に移住した孝文帝は、新たに建設した居城では、同じ部族の出身者同士が固まって住むことを禁じます。バラバラにして、個別に自らの臣下にしようとしました。これは現代のシンガポールの住宅政策に似ています。

 その点について、岡田英弘『皇帝たちの中国』から引用します。

《多民族国家のシンガポールは、個人の住宅を壊して高層集団住宅を新築し、核家族単位での入居を法律で定めた。親族や同民族が隣り合って同じ階を占拠することは禁止されている。そのため、広東人の右隣はインド人、左隣はマレー人、向かいは福建人という具合になっている。これは種族ごとの差別を打ち破り、おたがい同じシンガポール人という国民意識をつくりだすことを目的にしている》

 このように、インド人やマレー人、中華系の華僑が混ぜこぜに暮らすように法律で定めて実行しているのです。みな「シンガポール人」にするために、同種族・同地域・同じ一族を近くに住まわせない。

 シンガポールは、道路にゴミを捨てたら罰金など、細かいことまで厳しく法律で定め、しかもその法律を厳格に運用しています。あまりにも多種多様な民族から構成される社会だったので、「シンガポール人」として1つの国民にまとめるにはやむを得ない措置だったのかもしれません。

 そして、そんなシンガポールでは、英語を共用語(共通語)に採用しています。英語は、どの民族の言語でもない第3言語であり、かつ、世界の通商語だからです。

 北魏が漢文を共通語にしたのも同様の理由です。特定の部族の言語を優遇するのではなく、東アジア地域で通用していた、第3言語を採用したのです。しかも、その時代の北方遊牧民・狩猟民には、まだ文字がなかったので、そこにある漢字を使うのが最も手っ取り早い選択でした。

 漢字はあくまでもコミュニケーション手段としての成り立ちを持っています。どんな読み方をしてもいい。意味さえわかれば筆談できる。しかも国際語として有用とくれば、採用するしかないでしょう。東アジアにおいて漢字・漢文は、その後も有用な国際語でありつづけます。北魏から隋と唐が生まれますが、彼らもまた、漢字・漢文を共通語とし、記録を後世に伝えます。

 このように、北方の遊牧民・狩猟民だった人たちが南下して漢字を使うことができるようになりました。漢字が使える人は「漢人」です。というわけで、ここで「漢人」が入れ替わりました。秦・漢時代の漢人と遺伝的にはまったく違う人たちが、新しい「漢人」になったのです。

 新しい漢人はアルタイ系です。これは言語学上の概念で、アルタイ語族というトルコ語・モンゴル語・ウイグル語・ツングース語などユーラシア大陸のアジア方面に広がる言語グループがあります。この系統の言語では、語頭に「二重子音」や「r音」がありません。かつての漢人は「二重子音」や「r音」で始まる言葉が発音できたのに、新しい漢人にはできませんでした。このことは言語学の研究によって明らかにされています。

◆隋の煬帝~運河は偉業だが、高句麗遠征に失敗


 北魏は6世紀の前半、東西に分裂します。分裂後は長続きせず、東魏は北斉に、西魏は北周へと王朝が移ります。同時代の南朝には陳が立ち、再び3国が鼎立しました。北斉は577年、北周に併合されます。その北周を外戚の楊堅が奪い取り、581年に隋を建国します。

 そして589年、ついに隋が南朝の陳を降し、シナを統一しました。220年に後漢が滅亡してから、約370年ぶりです。その隋は30年しか続かないのですが、統一シナは唐へと引き継がれ、隋・唐帝国と並び称されます。

 隋といえば第2代皇帝の煬帝(569~618、在位:604~618)が有名です。悪名高い皇帝で、最後は臣下に殺されてしまうのですが、大運河をつくったことだけは評価されていいと思います。

 まず、584年、長安と黄河を結びます(広通渠/こうつうきょ)。続いて587年に長江と淮河(山陽瀆/さんようとく、または邗溝/かんこう)、605年に淮河と黄河を結びます(通済渠/つうさいきょ)。さらに、610年には長江から、海港のある杭州まで水路を開き(江南河)、長安から杭州が水路によって結ばれました。また、高句麗遠征の食料輸送用に黄河と北京を結ぶ永済渠を608年に建設しています。杭州~揚州~開封、さらに長安へ、あるいは北京へと主要都市を結びました。煬帝の時代に建設されたこの大運河は現在でも使われています。

 連載の第1回でも触れましたが、黄河中流域の洛陽や長安は、東西南北の交通の十字路、商業の中心地として栄えましたが、農産物が豊かに収穫できる地域ではないのです。しかし、シナ文明の中心ですから、人口は多い。そのため、食料は常に不足しがちでした。いまや大運河ができたおかげで、豊かな江南の物資を直接に運ぶ流通経路が確保され、洛陽盆地がいっそう栄えるようになりました。シナ大陸に大動脈を通した煬帝のこの大土木事業は、統一に寄与したという意味で、秦の始皇帝に継ぐ業績だと思います。そのわりに、この皇帝があまり評価されていないのは、あとが悪かったからです。

 煬帝は612年、113万人の大軍を率いて高句麗(こうくり)に遠征しますが、失敗します。煬帝は翌年も翌々年も遠征するのですが失敗し、ついに断念します。

 隋の次の唐も高句麗遠征に何回も失敗しています。というのも、北京を越えて東へ向かう道は、非常に悪くて、通行が大変なところなのです。隋も唐も100万の大軍を送っておいて、鴨緑江までは行くけれど、「その向こうまでは無理」「冬が来たら凍える」などと書かれた記録が残っています。冬の鴨緑江は凍るのです。

 思うに、シナ文明が朝鮮半島を経由して日本に入ったというのは、正しくないのではないでしょうか。つまり、半島は通りにくいので、誰も好んで通らない。日本の遣隋使・遣唐使にしても、どちらかというと海を渡っています。北路と南路があり、北路は確かに半島に寄ります。しかし、半島を経由というよりは、半島沿いをかすっていく感じです。そして、南路は半島をかすりもせずに直接大陸に渡ります。半島は文明伝播(でんぱ)の主要ルートではなく、大陸と日本をつないだのは主に海ではなかったかと、強く思う次第です。

◆「性格が悪かった」は本当?~立派な業績を残しているのに


 話を戻しますが、隋・唐にとって高句麗は手強い相手でした。高句麗戦に敗れて失望した煬帝は、自らが開削した運河で江南に行きます。揚州の町を気に入り、南方の生活を楽しみます。港町揚州はアラビア人やペルシア人もたくさんやってくる国際都市・貿易の中心でした。気候温暖で文化の香り高い町から煬帝は離れようとしません。しかし、家族が北方の草原などにいる家臣たちは、帰りたがります。618年、少しも帰る気配のない煬帝に対し、家来たちがついに反乱を起こして殺してしまいました。煬帝は50歳でした。

 煬帝は潰れた王朝の最後の皇帝ですから、人格攻撃のような記述が多く残っています。『隋書』には、こう書かれています。

《帝の性格は常軌を佚しているところが多く、行幸するところも人に知られたがらなかった。……この時、国の軍事と内政は案件が繁多で、息つく暇もないほどであったが、帝は驕り且つ怠慢し、政務を耳に入れることを嫌がり、冤罪を見過ごし、奏請された事も滅多に決裁しなかった。また臣下を猜疑の目で見、信任することはなく、朝臣に自分の意にそぐわない者があれば、必ずその人に罪をこじつけて一族までも根絶やしにした》(中林史朗・山口謠司監修『隋書』勉誠出版、2017年、139~140頁)

 天命を失ったら、後世の歴史書に悪く書かれる。お決まりのパターンです。秦の始皇帝も、隋の煬帝も、なぜ天命を失ったのかを説明するためには、とことん悪く書かなければならないという変な決まりに基づいて、性格が悪かったなど、長々と書かれていますが、どこまで本当かはわかりません。

 誰もが知る立派な業績を残しているのに、天命が離れたからマイナス面ばかり強調されるというのは気の毒な限り。為政者は孤独です。中国人は歴史が評価するというけれど、シナ人の筆になる評価は上述のように当てになりません。業績は後世にも残りますので、文献だけでなく、実証的に事績を見ていくことが大事です。(宮脇淳子)